第111話 火事と水も滴る何とやら。俺が「裁きの主」について知ったこと。

 俺の目の前で、台所は鮮やかな炎に包まれていた。


 なぜこうなったのか。訳は短い。俺がかまどに行って魔法陣に手をかざし、じっと集中して目を開けたら、すでにこうなっていた。


「ちょっ、何やってんの!? ミナセさん!?」


 すぐに、ナタリーが真っ青になって駆けつけてきてくれた。


「火力強過ぎだって!! どうしてこんな…………」


 俺は特に弁解はしなかった。どうしてだろう。俺も知りたい。

 ナタリーは火力を制御しようとしてか、自分も魔法陣に手を伸ばした。が、不幸にも宿舎の魔法陣と彼女の家の魔法陣には微妙な違いがあったようだった。


「あっ、これ逆…………? キャアアッ!!!」


 逆?

 よくわからないが、炎は一層猛々しく燃え上がった。俺とナタリーは思わず後じさり、息を飲んだ。

 そうこうしているうちに、竈から溢れた炎の一端が、台所の上に放置されていた便せんに火を点けた。


「あっ、ヤバイッ!!」


 ナタリーが叫んだ時にはもう、便せんから広がった美しい橙色の火柱が狂ったように踊りうねっていた。


「ああっ! 早く、水、水!!」


 ナタリーが近くのかめから水を汲もうとする。しかしその瞬間、ふいに小さな生き物が彼女の足下を横切った。黒い、毛玉の塊のようなその生き物達…………さっきボードから脱走していった俺の二匹のワンダは、喧しく吠えながら彼女の足の周りを跳ね回った。


「キャンキャン!!」

「キャンキャンキャン!!!」

「きゃっ、何これ!?」


 驚いた拍子に、ナタリーがバランスを崩してつんのめる。彼女が倒れていく先には丁度、水のたっぷり入った甕があった。


「キャアアッッッ!!」


 ガシャーン!


 陶器の割れる鋭い音と、騒々しくも爽快な水のぶちまけられる音が部屋に響き渡る。

 俺は急いでナタリーに駆け寄った。


「大丈夫か!? ナタリー!!」


 倒れた彼女に手を差し伸べる。

 しかし上体を起こした彼女の姿を見て、俺は思わず目を剝いた。


「――――――――ッ!!」


 倒れた時に水を浴びて、彼女の胸元から太ももにかけての服がぺったりと彼女の身体に張り付いていた。丸く形の良い胸が谷間を作って大胆に強調されつつ、大腿からお尻のラインがしっとりと艶めかしく描き出され、何ていうか、その、あの…………。


「――――君、下着が透け…………ッ!!」

「最低!!」


 涙目になったナタリーが叫ぶ。直後、彼女の海獣の刺青がパッと宙を舞った。鼻の下を伸ばしていた俺は、頬に強烈なビンタを食らった。


「――――ぶっ!!」


 よろめく俺に追い打ちをかけるように、ワンダ達がけたたましい鳴き声で騒ぐ。ナタリーは一人で立ち上がり、慌てふためいた。


「って、こんなことしてる場合じゃない!! どうしよう…………。ここでレヴィなんか呼んだら、宿舎ごと壊しちゃうし…………早く、早く何とかしないと…………」


 俺は彼女の服の裾からポタポタといじましく垂れる雫を見つめつつ、尋ねた。


「ねぇ、ナタリー。水の魔法陣っていうのは無いの?」

「え!? あ、あるよ。あるにはあるけど…………私が覚えているのは、この火事を収められるようなものじゃないよ。純粋に水が作れるのなんて、せいぜい基本型ぐらいで」

「俺と共力場を編もう。そしたら、基本型だけでも対処できるんじゃないか?」

「きょ、共力場って…………!」


 ナタリーが顔を赤らめ、言った。


「そんな簡単に言わないでくださいッス! サモワールの時は…………意識してなかったから簡単だったけど…………」

「ごちゃごちゃ言っている場合じゃないだろう」


 「でも」と口を開きかける彼女の肩を引き寄せ、俺は真剣に相手の瞳を覗き込んだ。ナタリーは一瞬目を逸らしかけたけれど、結局はためらいがちに、やや上目遣いにこちらを見てくれた。

 俺は、胸に当たる柔らかい感触に理性がどっか行きそうになるのを必死で堪えながら、極めて冷静に話した。


「…………君の魔力を感じる。君にも、俺がわかる?」

「…………うん、わかる」

「共力場、これで編めているよね?」

「…………大丈夫」


 不思議な話、俺はいつもこんな風に、人と共力場を編むのに苦労したことがない。いつかリーザロットが話してくれた「魔力の通う感じ」を掴むのは、俺からすれば、積極性なんてほとんどいらない、むしろ受け身な行為だった。

 こうして何気なく力場を編み、そうして初めて相手の扉に触れられる。共力場っていうのは、本来は編むのに非常に手間の掛かるものだとクラウスは言っていたけれど、本当にそうなのだろうか?

 ともあれ、俺は早速ナタリーに促した。


「じゃあ、魔法陣を。俺は君の扉を開くから」

「わかった」


 ナタリーが目を瞑り、わずかに俺に寄りかかる。

 俺はチラッとだけ濡れた谷間に目を落としてから、追って目を閉じた。



 ――――…………身体がひんやりと冷えていく。

 カイロのように優しく伝わってくる体温と、細く可憐な息遣いが集中を乱す。

 俺は己を叱りつけ、自分の足元で騒いでいるワンダ達に意識を集めた。

 水溜りの上を駆けずり回る彼らの足音が、跳ねる雫のイメージを強めてくれる。

 ナタリーの服から滴り落ちる雫のリズムがそれに重なる。

 水溜りの水面に次々と広がっていく波紋。

 幾重にも、音を、波を、重ねて、重ねて、重ねて…………。

 大きな、深い水溜りを思う。

 透き通った湖のような。


 …………扉に触れるまでもない。

 共力場の紡ぐ景色はもう、完全に開けていた。


「すごい…………。本当に、こんなに」


 ナタリーが呟き、ゆっくりと俺の手を取った。

 彼女の指先が俺の掌の上で大きく円を描き、その内側に丁寧に渦巻き模様を描き込む。


「…………これ、水の基本型。アクエリィだよ」


 俺は彼女の掌に、同じ魔法陣を描いた。


 ――――パシャリ、と何かが水溜りから跳ね上がる。


 俺は目を開けた。

 目の前には、ナタリーの翠玉色の瞳がキラキラと輝いていた。

 瑞々しい若葉の香りが、少し苦みを伴って舌に染みる。

 たちまち彼女の魔力が風となって、俺を撫でていく――――…………。


 過ぎ去った風は瞬く間に、強い雨となった。

 雨は炎の上に滝のように降り注ぎ、あっという間に火を鎮めて消えた。

 キャンキャンとはしゃぎ回っていたワンダ達も、つられて儚く透けていく。

 後には濛々とした煙と、色んなものの焦げた香ばしい匂いだけが立ち込めていた。どうやら備蓄してあった食料も少し燃えてしまったようだ。


「ハァ…………」


 俺とナタリーが、同時に溜息を吐く。

 すると、手を取り合ったままの俺達の後ろから軽やかな拍手が聞こえてきた。ギョッとして俺達が振り返ってみると、拍手の主は上品な、だが氷像のごとく冷めきった笑顔を浮かべて和やかに言った。


「コウ様、完璧です。お教えしたことをこんなにも素早く実践して頂けるなんて…………。いやいや、本当に御見それしました」

「…………ク、クラウス…………ご、ごめん…………」


 あまりの彼の声調子の朗らかさに、俺は頬を引き攣らせた。クラウスはそのままツカツカと無言でこちらへ歩み寄ってくると、濡れそぼったナタリーに自分の上着を掛けてやった。


「あの、ごめんなさい…………。私、責任取りますから」


 クラウスは肩を落とすナタリーに、今度は本当に優しい、貴公子の笑みを向けた。


「いいえ、貴女は何も悪くありません。むしろ、消火にご尽力頂き、ありがとうございます。すぐに身体を拭くものを持ってきます。貴女が風邪をひかれては一大事だ」


 俺はもう一度謝罪しようかと思ったが、火に油、否、ドライアイスに冷水をぶちまけるが如き愚行と判断して、神妙に控えた。

 クラウスは擦れ違いざま、小声で俺に囁いた。


「よぉーくわかりました。これが貴方のやり口ですか、勇者様」

「え、ええと…………どこから見ていらっしゃったのでしょうか?」

「「俺と共力場を編もう」からです、勇者様」


 微笑する彼の目は、その実少しも笑っていなかった。



 ナタリーが服を着替えている間(服は、フレイアが普段使っているものを貸してあげたそうだ)、俺はクラウスに淡々と諭された。昔、勝手にコンロを使った時に母親に言われたのと大体同じことを言われた。「どうしてこんなことをしたの?」「危ないって言ったじゃないの!」「何ですぐにお母さんを呼びに来ないの?」

 クラウスは話し終えると、ぐったりと椅子の背に寄りかかり、呟いた。


「…………まぁ、最終的に管理不行き届きで怒られるのは隊長だから、いいんですけどねー…………」


 それはそれで困ったものだなぁと思いつつ、俺はシュンと項垂れた。

 クラウスは机の上に残っていた冷めた紅茶を啜り、続けた。


「それにしても、共力場をあんな瞬間的に編むとは…………こればかりは、本当に感心いたしました。まるで琥珀様か蒼姫様のような手腕でしたね。扉の力と何か関係があるのでしょうか?」

「わからない。俺も不思議なんだ。普通は、違うんだよね?」

「…………ある種の感情的な結びつきが共力場の編成を促進することはよく知られています。ですが、そんなことを言ったら俺はサンライン中の乙女と一瞬で共力場が編めることになってしまいますし…………」


 聞き流しても良かったのだが、俺はあえて突っ込んだ。


「前々から聞きたかったんだけどさ、君は教会の戒律的に…………どうなの? やっぱり、遊び過ぎはダメなんじゃないの? 君は「裁きの主」が怖くないの?」


 クラウスは肩をすくめるでもなく、平然と言ってのけた。


「コウ様。「裁きの主」は、そんな隊長じみた狭量な方ではありませんよ。教会の戒律を少々はみ出したぐらいでいちいち咎めていたら、たちまちサンライン中から人がいなくなってしまうでしょう。それに、清廉潔白な蒼姫様が、忠義の騎士たる俺を喪った悲しみに明け暮れるのを、主がお望みになるはずもないじゃありませんか?」

「…………。じゃあ一体、何を基準に裁いているんだ? 気分?」

「さすがに、そこまで気まぐれな王様ではありませんけれど…………」


 クラウスは腕を組み、それから比較的真面目な眼差しを俺に向けた。


「裁きは…………あえて言うなれば、「不信」に対して下されます」

「不信?」

「「裁きの主」を信じないことです。不信心に則って行われた行為が、罰されます」


 俺は眉をひそめ、尋ね返した。


「信じないって…………そんな人いるの? 例え裁きが下される現場を見たことは無くとも、この国の人なら聞いたことぐらいはあるだろうに」

「その辺りはなかなか難しい問題なのですよ、コウ様。「「主」なんていないんじゃないか」、一度そう思ってしまうと、その考えを補強する材料はゴロゴロ転がっています。

 …………この話はとても危険です。俺は、こう見えて案外信心深いものでして。コウ様やこの国の無事を、本気で祈っているのです。ですから口に出せるだけで、本来ならば、この行為だけでも相当な綱渡りです」

「いや、俺だって疑っている訳じゃ全然無いんだけどさ…………。嫌って言うほど身に染みてるし…………」

「「いるかもしれない」。それだけで十分なのですよ、コウ様。優れて素直でいらっしゃる貴方なら、おわかりでしょう」

「でも、誰だって思ってるものじゃないのか? 「いるかも」ぐらいなら…………」

「…………」


 クラウスは口を噤み、静かに首を振った。潮時ということだろう。

 確かに彼の言う通りならば、これ以上はもう危ない領域だ。クラウスはすでに、だいぶ踏み込んで話してくれた。

 俺はお茶を飲み切り、着替えたナタリーが奥から戻って来るのを待った。



 華奢なフレイアの服は、大柄なナタリーには少しキツそうだった。胸元やお尻の辺りが特に窮屈そうで、何ていうか…………これもいいなと思いました。


「すみません、勝手に借りちゃって。後で洗って返しに来ますね」


 ナタリーが言うと、クラウスは柔らかな調子で答えた。


「事情は俺から話しておきますので、どうかお気になさらず」


 次いでクラウスは書き上げてきた書類をナタリーに手渡し、それとなく言い足した。


「できれば、次もぜひお休みの日にいらっしゃってください。次こそは、ゆっくりとお時間を取ってお話しましょう。…………もっと、貴女のことが知りたいんです」

「その時は俺も誘ってね」


 クラウスが眉を顰めてこちらを振り向く。しかし俺には「裁きの主」に誓って他意はない。ナタリーが軽口ナンパ野郎に引っかかって傷つくのを見たくないだけだ。

 ナタリーは照れて笑った。


「えへへ、ありがとうございます。でも、今度は私がおごりますよ! 美味しい屋台を知っているんです。紅茶もいいけれど、皆で一緒に食べ歩くのも良いと思いませんか?」

「ああ、それは素敵ですね。…………うん。考えたら急にエールが飲みたくなってきたなぁ…………」


 クラウスから零れた本音に、俺とナタリーは顔を見合わせて笑う。彼女ははたと俺を見るなり、ふいに恥じらうような、やっぱり怒ったような表情になって戒めてきた。


「あっ、でも、ミナセさんは飲み過ぎ禁止ッスからね! あと…………ちょっと視線が露骨過ぎッス! それ、他の人にやったら絶対ダメだからね!」


 俺は平に謝り、許しを乞うた。彼女はさらに続けて、声を潜めて言った。


「共力場を編んでいる間って、そういう感情…………みたいなの、ぼんやりと伝わってきちゃうんだから。…………すごく、恥ずかしかったんスから」


 俺はもう一度、深々と謝罪を繰り返した。それは男の本能だから仕方が無いんだとかいう言い訳が喉まで出かけたが、何とか耐え抜いた。


 ともあれ、台所があの有様ではもうお茶も出せないし、まさか後始末まで彼女に手伝わせるわけにはいかない。俺達は仕方なく、名残惜しいながらもナタリーを送り出すことにした。

 ナタリーが宿舎の坂を軽い足取りで降りていくのを眺めつつ、俺達は溜息を吐いた。


 呑気な俺は、その時にはすでに第二の悲劇が始まっていることに思いも寄っていなかった。

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