第101話 祈りの果てに。俺が巨大な扉に触れること(後編)
「あ…………」
あまりにも巨大な存在を前にして、全身が凍りついた。
扉を開いた覚えなど無かった。いや、違う…………扉を開けることを決意したその時にはすでに、「裁きの主」は俺の願いを聞き入れていたのだ。
強烈な光が黒い
最早、黒もクリーム色も無い。白とすら呼べない。ひたすらにまっさらな空間がとめどなく、途方もなく広がっていく。俺は悲鳴をあげる間すら無く、光の虚空に放り出された。ツーちゃんの詠唱も、ヴェルグの黄金色の眼差しも、フゥテルバ達も、何も無い。光しかない。
――――…………
「――――――――ダ、ダメだ…………ッ!!!」
俺はすんでのところで意識を留めた。そのまま流されれば忘却の彼方へ消えると、直感的に悟った。邪の芽の強烈な執念が、俺の意地に拍車をかけてくれたようだ。
「クソッ…………死ぬために開いたわけじゃない!!! 戦うためだ!!!」
俺は光の奔流の真っ只中で、己を鼓舞した。行く先が天国だろうが地獄だろうが魔海だろうが、まだ退場するわけにはいかない。ここでゲームオーバーなんて、いくら適当な俺でも投げやりが過ぎる。
俺は、魂の限りを尽くして叫んだ。
「ツーちゃん!!! 返事をしてくれ!!!」
幸い答えは間髪入れずに返ってきた。
「コウ!!! 貴様、何てことをしてくれたんだ!!!」
「とりあえず生きてるから許してくれ!! それより、君は無事!?」
「たわけ、貴様に心配される程落ちぶれとらん!!
コウ、これは「裁きの主」だな!? なぜこんなことを!?」
俺は壮絶な光の圧力に耐えながら、うそぶいた。
「でかいのを開けてやったんだ!!」
ツーちゃんは俺の答えに、苦しそうに声を掠らせて怒鳴った。
「馬鹿者…………!!」
「裁きの主」がもたらす光はあまりに熾烈で、まともに何かを考え続けることすら困難だった。誰かと喋っているから、かろうじて意識を保っていられる。本当に一人ぼっちだったら、あっという間に消え去ってしまっていただろう。
「…………っていうか、今は口論している場合じゃないよ!! 早く、何か指示をくれないか!?」
ツーちゃんの舌打ちが聞こえる。実際、状況はかなり切羽詰まっているらしく、彼女にしては珍しく何の文句無しに応じてきた。
「よく聞け! 私にもどうなるか全くわからんが…………他に手が思いつかん。
コウ、こうなったら、もう一つのでかいのも開けてしまえ!! 今度こそは「母なるもの」へと繋がる扉を!! 必ずあるはずだ!!」
「本気で言ってんの!?」
「「裁きの主」を始まりの光とするなら、「母なるもの」…………「赦しの太母」は始まりの闇だ。それらを編んで始原の地平を模せば、あるいは両者を鎮める糸口が掴めるかもしれん!!」
「な…………っ」
そんな滅茶苦茶な!
俺は口答えしたい衝動をぐっと飲み込み、短く答えた。
「…………わかった!」
「…………頼んだぞ!」
俺は光の滝の中を、歯を食いしばって見渡した。「見る」というより、無我夢中で意識だけが走り回っているような感じである。
果てし無く広がる何も無い空間を、感覚だけを頼りに駆けずり回る。日頃からきちんと鍛えておけば良かったと、唐突に後悔が襲ってきた。日頃からもっと感じたことを身体に刻んで生きてきたなら、もっと多くのものが感じられたかもしれないのに!!
だが、今更愚痴ってもしょうがない。今、俺がすべきは、せいぜい諦めないことだけ。
…………どこかにあるはず。
…………必ず、あるはず!
見えなかろうが、わからなかろうが、喰らいつこう。
ふいにポツリと、ヴェルグの言葉が頭に浮かんだ。
――――ああ、縋ると良いよ。頼れば良いとも。惨めで恐ろしく、弱くて苦しくてどうしようもないのなら、それも立派な戦い方の一つだよ。…………
寒気がする。しかし同時に、俺は笑っていた。
何を笑うかと言われたら、火事場で本当に神経がぶっ千切れたからだ。
…………ああ、畜生。
なるほど。
俺はまだ全部をさらけ出していなかった。
意地だか見栄だかを着飾って、「彼女」を拒んでいたんだ。
「…………こっそりと頼りにしてるだけじゃ、不満なんだな?」
…………そう、ここは想いの力場。
そして相手は、神様。
確かに、世間体なんて不純物でしかない。
「ああ!! ここまで来たら、もうどうにでもなれだ!!」
俺は決意し、恥も外聞もなく「その存在」に縋った。
小学生の頃、いじめっ子に3階の階段から突き落とされた時以来の、本気の願いだった。
「――――助けてくれ!!!」
俺にとって一番古い「思慕」の行く先。
母さん…………水無瀬真子の顔が薄れかけの俺の意識にじんわりと沁み込んできた。タカシそっくりの、のほほんとした笑顔。怒った顔。お気に入りの白い変な柄のセーター。いつも薄っすらと漂っていた、おしろいの匂い。温かくて、少し痩せた手。
思い出すと、マジで泣けてきた。
色んな意味で。
「頼む、助けてくれ!!! 馬鹿だし、怠け者だし、ニートだし、光熱費もロクに払わない甲斐性無しだけど――――今だけは、力を貸してくれ!! 母さん!!!」
ヴェルグの話の通りなら、きっと届く。
俺が想う存在の、その深奥まで。
俺の恋しさの分だけ、強く。
俺の弱さだけ、遠く。
俺はいよいよ押し寄せてきた光の内に、何かが蠢くのを感じた。覚えのある胎動。痕跡線を辿った時に、竜の国の景色の最も深くで見たあの手の揺らめき、声の響きが、ゆっくりと近付いてきていた…………。
急に身体が、泥にまみれたみたいに重くなる。
「裁きの主」の光に侵されている自分の内側にも、同じだけのどす黒い暗闇がせり上がってくるのを感じた。
それは夜よりも海よりも濃く、広い闇。途方もないそれは瞬時に噴出し、俺の意識を真っ黒に塗り潰した。
「――――――――ッ!!!」
暗闇に一筋、白い魚が泳いでいくような軌跡が見えて、俺は意識を吹き返した。
どこだかわからない。半透明な小さな魚の尾だけが、遠くに微かに揺れていた。
俺は慌てて辺りを見回した。分厚く塗りこめられた漆黒だけが果てしなく広がっている。俺は息を乱して震えた。
「こ、ここは…………!?」
ふ、と白い魚が翻り、鱗を銀色に光らせる。俺は咄嗟に、蜘蛛の糸を手繰るように、魚の軌跡を追った。
今、あれだけが唯一、俺と闇を分けてくれている。あれを見失えば、俺はたちまち闇に溶けてしまうだろう。
どこか懐かしい感じだと思った。
俺は前にも、この闇を訪れたことがある――――?
俺は白い魚の跡を追っていった。
次第に、邪の芽について調べられた時の記憶が蘇ってきた。俺はあの時、意識が戻る直前、これとよく似た暗闇の中で半透明の魚に出会った。あの闇は川みたいに流れていて、冷たく澄んでいた。魚は俺の傍らをスゥと過ぎ去って消えた。
目の前を行く魚とあの時の魚は、瓜二つだった。
魚はどこまでも滑らかに泳いでいった。身体を躍らせる度、銀の鱗の輝きが闇をチラッと照らす。
まるで何かのシグナルみたいだった。俺はその信号を頼りに、迷わず進んでいく。
と、ふいに魚が姿を消した。
俺はギョッとして、代わりに闇の中に浮かび上がってきた、巨大な何かの姿を目の当たりにした。
「――――…………お前、は」
俺は息を飲み、そのまま言葉を失った。
俺の目の前には、岩山じみた牙を、文字通り山脈の如く峻険に生やした喰魂魚がいた。トレンデで見たよりも遥かに大きなもので、水晶のように輝く小さな瞳を持っていた。
――――ppp-p-pppn……
――――rrr-n-rrr-n……
――――tu-tu-tu-n……
あの不思議な歌が響いてくる。
俺は喰魂魚と相対したまま、呆然としていた。
俺を喰うつもりなのか。だが開くべき扉は、もうない。俺にはどうすることもできない。
喰魂魚の目が静かに俺を捉えていた。霊体すら無いはずの俺を、意識だけの俺を、じっと確かに見つめている。
歌は延々とこだましていた。何に反響しているのか。わぁん、わぁん…………と長く音が伸びていく。
そのうちに辺りがほの白く霞んできた。
少しずつ、染みるように世界が灰色に染まっていく。俺はそのあわいに吸い込まれて、意識がじわじわと消えていくのを感じた。
俺は今、暗闇も光もない場所へ、溶けつつある。
(――――…………歌って、一緒に)
ふいに、鈴のように響いた幼い声に、俺はかろうじて答えた。
「誰、だ…………?」
声はカラン、ともう一度儚く鳴った。
(穢されてしまったこの子のために、歌って…………)
俺は喰魂魚を見つめ、尋ねた。
「でも、どうやって? 俺には、歌なんて…………」
(――――想うだけでいい。歌って…………)
俺は散りゆく意識をかき集め、響き渡る喰魂魚の歌に聞き入った。「想うだけ」と言われたので、本当にそのまま、歌いたい気持ちだけを乗せてみる。鼻歌にもならない、頭の中から出る旋律だけを響かせる。
(――――p-p-p……
――――r-n-r-n……
――――tu-tu-n……)
それはいつの間にか、喰魂魚の歌と綺麗に調和していた。
(――――歌って…………想いを、紡ぎ続けて…………)
俺の耳元を、小さな魚が木の葉のように掠めて行った。あの魚が喋っていたのだと、頭の片隅で思った。
俺はそれから、全てを音に委ねて歌い続けた。一心に歌っていると、周囲にきらめく雪のようなものがサラサラと散らばっていくのがわかった。
歌いながら俺は、喰魂魚が誰に向けてでも無く、世界そのものに向かって歌っているのだと知った。この魚は、光にも闇にも同じだけ強く呼び掛けているのだ。黒も白も、編み上げるように、響かせ合うように、歌っている…………。
俺は柔らかい吹雪に包まれゆく世界で、喰魂魚がついに歌い止めるのを見届けた。
「――――――――コウ!!!」
ツーちゃんの声に、俺は我に返った。危なかった、というか、ほとんどアウトだったかもしれない。気付けば俺は心地良い雪の中で眠りかけていた。
吹雪はいつの間にか収まり、後には透き通るような水色の世界が広がっていた。あたかも水晶の中にいるような、不思議な輝きが満ちていた。
「ツーちゃん! どこ!?」
俺は返事に耳を澄ませた。ツーちゃんは掠れ切った声で、鋭く叫んでいた。
「よくやった! 本当に…………信じ難い程に! だが、この力場にこれ以上長く留まっておるわけにはいかん! この力場は闇にも光にも近過ぎる!」
「えっ!? どういうこと!?」
「ヴェルグが次の手を打つ! 直ちにこの場から逃れるぞ!」
ツーちゃんが言い終わるや否や、頭上に墨のような黒がぶちまけられた。水っぽい黒は瞬く間に、水晶を暗く染め上げていく。
ツーちゃんは忌々しげに呻いた。
「クッ、抑えきれぬ…………!!
コウ!! 手を、伸ばせ!! …………私を、掴め!!」
俺は誰かが近くに寄って来る気配を察して手を伸ばそうとした。だがその時、全く同じツーちゃんの声が重なって聞こえてきた。
「私を呼べ!! …………この手を掴むのだ!!」
俺は戸惑った。
片方はヴェルグで、片方はツーちゃんなのだろう。
どうしよう。
悩むうちにも、ぐんぐんと黒が浸潤していく。
「――――――――ッ…………!!!」
俺は逡巡の末、決断した。
「どっちも、来い!!!」
小さな手が二つ、俺の両手に触れかかる。俺は二人の手を強く、抱き寄せるように握り締めた。
華奢な身体が二つ、同時に俺の胸にぶつかる。
少女たちは驚いたように俺に縋った。見上げるその眼差しは、琥珀色とも黄金色とも言える同じ色で輝いていた。並んでみれば、二人は双子のように似ている。
俺は彼女たちを離さないよう、よく小さな妹にしていたみたいに、両腕を背に回した。
「君達二人の扉を開く。…………今ぐらい、仲直りしろよ」
俺は二人に声をかけ、力をこめた。
「…………余計なことを」
どちらの言葉だろう。
いずれにせよ、それから二人は争うように詠唱を紡ぎ始めた。魔法陣が一気に俺の周りに展開し始める。幾重にも重なり合った、琥珀色と黄金色に混ざり合って輝く、複雑な魔法陣。
魔法陣は火花を散らすように、激しく瞬いた。
――――…………輝きが華やかに開いていく。
琥珀色と黄金色が混じり合う。
魔法陣から真っ直ぐな光が天地へと放たれ、
白い砂のような雪が降り注ぐ。
川の流れる音が聞こえてくる。
小さな妖精たちがプツプツと俺の頬に当たり始め、
やがて風となって力場を吹き抜けた。
「…………コウ」
最後に俺を呼んだのは、誰だったのか。
とても優しい声だった。
――――…………それから我に返った時、俺は玉座の間の戦闘の中に戻っていた。
今まさに、クラウスに呪われ竜の炎が降りかからんとしている。
目の前にいたはずのヴェルグは、いつの間にか姿を消していた。
「「扉」の魔術師、か…………」
ヴェルグの気取った声だけが余韻となって耳に響いた。半眼に見開かれた黄金色の瞳が脳裏によぎる。
俺はハッとして、時の流れが元に戻ったことを知った。
俺はその瞬間、力一杯に叫んだ。
「――――上だッ!! クラウス!!」
叫びは届いたか、どうか。
額に剣をかざしたクラウスは、何か短い詠唱と共に黒炎に飲み込まれていった。
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