第66話 「サモワール」第2階層。甘い夢想と、冬の寺院。俺が新たな「扉」を探すこと。

「――――コウ様」


 優しく呼びかけてくる女の子の声で、俺は目覚めた。寝ぼけた心地がまだ頭に残っていて、それが何だか途方もなく気持ち良い柔和な波のリズムとして感じられた。


 紅玉色の瞳がじっと俺を見つめている。いつ見ても、なんて綺麗な色だろう。つい彼女の目元に触れたくなる。


「コウ様、お体の具合はどうですか? …………どうか、あまりご無理はなさらないでくださいね。

 あなたは私の大切な方ですから。

 私は…………いつもあなたのお傍におります。あなたの力になれますよう、これまでも、これからも、全身全霊をかけて、努めて参ります。

 ――――そのために、ずっと…………」


 女の子の白くほっそりとした指が、俺の頬にそっと触れかかる。

 俺はこのまま、再び眠りの中に落ちていきたくなった。せっかく目覚めたのに、もう一度、何なら永遠にだって、溶けてしまいたくなった。

 このまま、何も考えずに夢の中で時を過ごせたら、どんなにか…………。



「ん…………?」


 だが、俺の世界は次の瞬間、パタンッとオセロみたいにひっくり返った。我に返るなり、意識が高速で現状解析を始める。目の前の物の色が一気に鮮やかに、生々しく蘇ってきた。


 ここはどこだっけ?

 「サモワール」。

 俺は何をしに来たんだっけ?

 濡れ衣を着せられぬよう、泥棒を捕まえるために、やって来た。


 まだ完全には目覚めきらぬ俺の目を、翠玉色の瞳がぐんと間近で覗き込んでいた。


「ミナセさん! やっと起きた!」


 俺は眼前の女性に豪快に肩を揺さぶられながら、慌てて返事した。


「ナタリー! 大丈夫、もう、大丈夫だから!」


 俺は興奮する彼女をどうにかなだめすかし、半身を起こして乱れた前を整えた。ナタリーは大きな目をさらに大きく、ほとんど真ん丸にして、キョトンと俺を見ていた。


「あぁ、焦ったぁ~! あんなことまでしたのに、連れて来損ねちゃったかと思ったッス。

 1階にあった泉、あそこが2階への入り口だったんですけども、ちょっと入り方が思いつかなくて…………強引なことをしちゃったから」

「強引なこと…………?」


 俺は彼女が何のことを言っているのか分からず、顔をしかめた。

 やや申し訳なさそうに肩を縮め、上目遣いに俺を見るナタリーを眺めつつ、俺は突如、雷鳴に打たれたかのごとく、気を失う直前に起こった出来事を思い出した。


 ――――そう。

 俺は、この子にキスされたんだった。

 それも、何の脈絡もなく、熱烈に。


 俺は彼女のぽってりとした唇の、柔い感触をまざまざと思い起こした。彼女から伝わってくる、ほろ苦い、活き活きとした魔力もまだ生々しい。俺は、もう少しだけその魔力に触れようとして、そしたらいきなり、身体の内がぐっと熱くなって――――。

 あの、ぼんやりとした波の世界に飲み込まれてしまったのだった。


 あそこで聞こえた声は、まさしくフレイアのものだったけれど。あの子が何か関係があるのか? それとも、俺のおびただしい妄想の一つが、たまたま噴出したに過ぎなかったのか。

 どうせ後者だとは思うものの、いまいち落ち着かなかった。


「あっ、ああ…………えっと」


 ともあれ、俺はまごついて頭を掻き、とりあえずは話を進めた。


「いや、そのことはいいんだ。よくわからないけど、そうしなくちゃ、ならなかったんだろう? 別に、た、大したことじゃないし。

 それより、さっきの君の話からすると、ここはもう2階ってことだよね? まぁ、何であれ、無事に着いたなら、良かった、良かったんだ、ハハ。

 それで、これからどうするつもりなんだい?」


 我ながら極めて不自然な早口ではあったが、ナタリーは特に何も突っ込んでこなかった。何かと察してくれたのかもしれない。

 ナタリーは足を崩して座ったまま、静かな目で、気が急いで先に立ち上がってしまった俺を見上げた。


「それなんスけれど、ちょっと辺りを見回してみてください」

「えっ、あ、うん!」


 俺はいかにも当然と言った顔で、慌てて辺りを眺め回した。今まで見てなかったわけでは、あるのだが、改めてきちんと周囲の状況を確かめてみると、2階は、1階とはまるで違った景色の場所だった。


 1階が屋外であったのに対し、2階は明らかに、どこかの建物の中だった。木造の屋根と床が、冬空じみた灰色の空から俺たちを守っている。

 一体、何がどうなっているのか。俺は驚きのあまり、例によってしばし言葉を失っていたが、やがてナタリーの声によって正気を取り戻した。


「思っていたより、探し難そうな感じじゃないスか?」

「そう…………なの?」


 俺らを囲う建物は、修学旅行の時に訪れたどこかのお寺とよく似ていた。どこかからお香のような香りが漂ってくるし、床や天井の張り方もそっくりだった。ただ木目の色がどこもうっすらと蒼っぽくて、そこだけが異質と言えなくもない。

 次いで俺は、自分たちのいる回廊によって囲われた、枯山水風の中庭に目を凝らした。


 ど真ん中にそびえる前衛的な切り口の大岩は、噴火した火山のようだった。周りの白砂が降り積もった灰で、しんしんと降りしきる粉雪が、今も火口から舞い落ちてくる火山灰である。

 ある種の死の静寂が、巨大なスノードームのようにそこにわだかまっていた。


 魔力が上から下へ、絶え間なく降ってくる。微細な魔力の雪片は、中庭から、凍える隙間風となって堂内へ行き渡っていく。流れの強い場所と、弱い場所があるようだった。

 誘うように少しだけ開かれた引き戸や、薄暗い廊下の奥には、一際風が冷たく泳いで行っている一方で、締め切られた部屋には、ほとんど庭からの力は入っていっていないらしい。

 俺はナタリーを振り返り、話した。


「3階へ行きたいんだよね?」

「うん。1階の時と同じように、魔力の気配が濃厚な方へ行けばいいはずなんだけど…………どこに上り口があるのか、私じゃわからないや。ここの風は、どうも」


 ナタリーは不安なのか、寒いのか、腕をさすりながら続けた。


「苦手。そっちにも、こっちにも引き戸があるけれど、どこに入ってみよう? 私はあっちの、暖かそうな部屋に行ってみたいんだけど…………どう思うスか、ミナセさんは?」


 俺は向かいの、鶴に似た羽と嘴を持つ鳥が描かれた開きかけの襖を指さした。


「俺は、上に行くならあっちだと思う」

「えぇっ? 何でわざわざ、あんな寒そうな、不気味な部屋を選ぶんスか?」

「いや、何となくだけど、そんな気がする。「扉」の予感」

「それなら、先にこっちを見ても罰は当たらないでしょう!」


 ナタリーは言うなり、俺の言うことを無視して、近くのマヌーの大群が描かれた戸に手をかけた。


「正直、ミナセさんが寝ていた時から、寒くて寒くてたまらなかったんです。そろそろ温まらないと、本格的に凍え死んでしまいそうス!」


 ナタリーは俺が止める隙もなく、すっと2センチほど戸を引いた。

 だが。


「あっ…………!!!

 …………ッ!!!」


 襖の奥を覗いたナタリーは、途端に青ざめて、目を血走らせ、自らの身でかばうようにして迅速に襖を閉めた。


「どうしたの?」


 ナタリーは俺の問いに無言で首を振ると、絞り出すように返事した。


「あの…………ちょっとその、衝撃的なものが目に飛び込んできて」

「何が見えたの?」

「み、見ない方が良いッス。ミナセさんの言う通り、あっちが正解だったみたい」

「…………何が見えたわけ?」

「だから、女の人たちが、男の人に」

「?」

「もう、いいじゃないスか! そんなこと問い詰めるなんて、ミナセさんって、そんな涼しい顔して、信じらんない!!」


 ナタリーはいきなり、怒って顔を赤く染め上げた。俺は相手の変貌ぶりにどう対応していいかわからず、仕方なく大袈裟に肩をすくめた。

 アルバイトをしている時もいつも思うのだが、やはり若い女の子の考えることは俺にはよくわからなかった。


 ナタリーはぼちぼち歩き出した俺の少し後ろからついてきながら、やや落ち着きを取り戻したトーンで呟いた。


「それにしても、やっぱりミナセさんはすごいスね。どうしてそっちだって、すぐにわかったんスか? ここの力の流れ、弱いわりに入り組んでいて、難しいのに」

「いや、全然だよ。実際、勘みたいなもんだし」

「勘って。それ、信用してもいいんスか?」

「同じ理由で俺をここまで連れてきた君に言われるのも、ちょっとだけど」


 俺は苦笑しつつ、彼女を連れて鶴の間へと向かった。


「あっ、そうだ」


 行きがけにふと思いついて、俺はナタリーを振り返った。


「何スか、ミナセさん?」

「靴、脱いだ方が良いかも」

「げっ、何で!? そんなことしたら余計に寒いッスよ」

「この方が場への適応力が高まる、気がする」


 ナタリーはしばらく声も出せずにいたが、ついには俺の真顔に押されて渋々と裸足になった。


「ひゃあ、冷たい!」


 ナタリーは哀願やら抗議やらの眼差しを俺に投げつつ、パタパタと大袈裟に足踏みをした。東京育ちの俺はと言えば、裸足の生活は慣れたものだった。真冬の道場は、もっと冷え込んでいたりもしたし。


 裸足になるとやはり、風の流れはもちろんのこと、人の足跡による床の滑りやしなりがよくわかった。よし。これでよりしっかりと魔力が辿れる。

 俺は少しワクワクとしながら、もっと強い力が感じられる方へ近付いていった。

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