第65話 「サモワール」第1階層。俺が異国の浴衣に身を包むこと。

 タカシが待合室へ連れて行かれた後に、俺は更衣室へと案内された。「サモワール」での時間をより快適に過ごせるよう、霊体用に織られた特製の衣とサンダルに着替えてほしいとのことだった。


 更衣室は、ほのかに石鹸の香りが漂ってくる、掃除の行き届いた部屋だった。壁際にはどっしりとした木製のロッカーが置いてあり、その他の調度は必要最小限に留められていた。音楽がかかっているわけでもなく、シンと静まり返っていて、俺の他には誰もいなかった。


 男は生真面目な歩みでロッカーへ近寄ると、手持ちの鍵を差し込みながら説明した。


「こちらがミナセ様の私物の保管庫になります。ご自由にお使いください。なお、保管庫の戸はミナセ様の固有魔力波形を認識し、高度な暗号術で施錠されますので、鍵などを持ち歩く必要はございません。どうぞご安心してお過ごしください」

「暗号術、っていうのがあるんだね?」

「はい。当館専任の魔術師共により、お客様の波形を当館独自の術式で変換致しております」


 俺は、能面じみた顔なりに誇らしげに語る男を眺めつつ、あえて「へぇ」と気の抜けた相槌を打った。

 そんな場所でどうして下着泥棒なるものが出没するのかと大いに疑問ではあったが、迂闊にそんなことを突っ込めば、俺が怪しまれないとも限らなかった。

 幸い男は何を疑う様子もなく、淀みなく話を続けた。


「当館ではサービスの性質上、お客様のプライベートを最大限に考慮、管理する必要がございます。ゆえに、常に魔術師…………とりわけ暗号術に長けた者を雇用しております。彼らは厳格な審査の下で選抜され、特別な教育を受けており、必ずや信用していただけるものと自負しております。

 よろしければ、術者の固有魔力波記憶事項における契約規定をご覧になりますか? 彼らの記憶録の扱いについて、ここに明言されておりますが」


 俺は首を振り振り、丁寧に勧めを辞退した。どうせ見ても読めないし、あまり今回の任務に関係ありそうだとも思えなかった。


 男は「左様でございますか」と心持ち残念そうに引き下がると、懐にロッカーの鍵をしまいつつ、これが最後と見計らってか、一気に喋り通した。


「では暗号術の取り扱いに関しまして、今一つお願いがございます。当館では、各階層の境ごとに、認証用の魔法陣を設けさせて頂いております。一重にお客様の安全を配慮してのことではございますが、ここにおきましても、同様に暗号術式が組み込まれていますことをご了承頂けると幸いです。

 暗号術式はお客様の魔力や月相等に依存し、流動的に変化いたしますので、一見してお客様に対して失礼な様相を呈す恐れがございます。その点、予め深くお詫び申し上げます」


 俺は彼が何を言っているのかさっぱりわからぬままに、


「はぁ」


と力無く頷いた。


 男は顔を上げると、「では」ともう一度区切ってから、話をまとめた。


「お渡ししました衣装をお召しになりましたら、そちらの扉から浴室へご入場いただけます。

 ――――どうぞ心ゆくまで、お寛ぎくださいませ」


 男は再び深々と礼をすると、音もなく、まさに幽霊が柳の下に立ち消えるがごとき所作で更衣室から退室した。


 俺は一人になって肩を落とし、言われた通りに衣装へ着替えた。

 衣装は、ちょうど浴衣みたいな具合だった。シンプルな藍染めで、袖や裾にかけて、燕に似た鳥の紋様が染め抜かれていた。前を合わせる際に、左前だったか右前だったかしばらく悩んだが、思えばここは日本でもなし。気にすることもないかと考え直して適当に合わせた。(で、本当はどっちだったっけ?)


 サンダルは下駄であり、こちらは履くと不思議なぐらいよく足に馴染んだ。吸い付くような履き心地と言えば聞こえは良いが、魔法使いがシンデレラに拵えたガラスの靴みたいな不気味さを感じないこともなかった。浴衣にせよ下駄にせよ、俺はサイズを全く聞かれていなかった。


 あながち魔法の衣装というのも、間違いではないのかもしれない。何せここは、魔法使いの国である。何か仕掛けがあると思っておくのが妥当だろう。

 俺は鏡の前で、露骨に素人臭い帯を気休め程度に直してから、意を決して浴場へと続く扉を開け放った。



 扉を開けた途端、白い霧が俺を包み込んだ。湯気かと思ったが、それにしては湿っぽさも温かさもなかった。まるで匂いのない煙で、ほんの1メートル先すらも覚束なかった。足元すらも真っ白に染まった。


 俺は振り返り、背後にちゃんに更衣室へのドアがあることを確認した。ドアの上下にはオレンジと緑の灯が煌々とついていたけれど、この霧の中では、いつ見失うかと不安でしょうがなかった。


 俺は念のため、手の甲を口元にかざして、小さく舌を鳴らした。早速だが、ポルコを呼びつける。こんな視界の中で一人きりでは、とても心許なかった。


 俺はしばし待ち、何かが自分の足回りをくるくると走り回っている気配を感じ取った。落ち着きのない気配は、ウロチョロと何度も俺の股の間をくぐり抜け、やがて


「ワゥッ!」


 と威勢の良い声を上げた。

 俺は足元に目をやり、そこで千切れんばかりに尾を振って伸びをしているポルコに呼びかけた。


「やぁ、ポルコ。さ、行こっか」

「ワゥッ!」


 ポルコはようやく外(そもそも、普段はどこにいるのだろう?)に出られたことが嬉しくて堪らないのか、足取りも賑やかに、勇ましく俺の前を歩き始めた。相変わらず頼りない調子ではあったが、見ているとつられて気分が明るくなった。


 しばらく行くと、じんわりと霧が晴れてきた。それから百合の華やいだ香りが色濃く漂ってきたかと思うと、奥にちらほらと人影が見えてきた。


 近付いて行くと、そこにはチェアやソファの並んだこぢんまりとしたサロンがあった。人影はそこに腰をかけていたり、傍に立っていたりしてくつろいでいた。周囲は相変わらず濃い霧に包まれていたが、宙に浮いた絵画に囲われたサロンの中だけはスッキリと晴れ渡っていた。


 サロンの床には円形の深紅のカーペットが敷かれており、中央には花瓶が据えてあった。靄がかかって見えない天井からは、優しい明かりを振りまくランプの明かりがうっすらと届いている。


 人影は、近寄ると急に薄く透けていった。俺はトレンデで見た影人のことをふと思い出し、あるいはこの「サモワール」も、あそこと似た場所なのかと考えた。

 そして中に一つ、いつまでも消えない影があった。


「…………ナタリー?」


 おずおず呼びかけてみると、影はすぅとその姿を現した。

 ナタリーは長い脚を堂々と前へ運び、身体中に纏った色とりどりのアクセサリーをジャラリと鳴らしつつ、何度見ても鮮やかな入れ墨の手をこちらへ振った。均整の取れた大胆な体つきが、俺と同じ色柄の浴衣の上からでもはっきりとわかった。


「遅かったね。っていうか、ミナセさん、だよね? その服を着ていると、どうも自信が無くなっちゃう」

「そうだよ」


 俺は答えつつ、彼女の傍に寄った。ひとまずは無事に合流できて、一安心だった。


「そのアクセサリーは着けてきても大丈夫なのかい?」

「うん、特別にね」

「特別?」

「まぁ、色々あるんだ」


 ナタリーは軽く流すと、颯爽とサロンから歩き出した。俺は下駄の音をカラコロと虚空に響かせて、彼女について行った。よく見れば、ナタリーもまた可愛らしい下駄を履いていた。花緒の慎ましい萌黄色が、派手な彼女にも案外良く似合っていた。


 ナタリーは改めて俺の姿を興味深げに見やると、感心した調子で言った。


「ミナセさん、似合うね。まるで本物のスレーン人みたいだよ。それ、袖の下に手を入れるポーズとかも。そこにいるのがワンダじゃなくて、竜だったら、マジで完璧だよ。誰にも見分けが付かない」


 俺はスレーン人について全く知らなかったけれど、そんなもんかと適当に頷いた。つと目を落とすと、爛々と目を輝かせたポルコが会話に混ざって


「ワゥッ!」


 と鳴いた。



 乳白色の美しい霧は時折、風も無いのにゆっくりと薄らいだ。

 その度に見えてくるのは、しんみりと移り変わる高原地帯の景色だった。

 霧はある地点まで来ると、わっと一気に晴れた。俺はそこで初めて、中の景色をすっかり目の当たりにして、絶句した。


 鏡のように輝く湖や、甘酸っぱい香りの漂う果樹園、山から静かに吹き降りてくる清涼な空気が、ともすると怯えがちな心を自然となだめた。どこかの村の風景なのか、あるいはどこにもない、夢の光景なのか。どこかに流れる小川から、澄んだ水の波立つ音が柔らかく伝わってきた。


 風に乗って漂ってくる、土の匂いと草いきれ。さえずる鳥の歌声。白く儚げな路傍の花。はしゃぎ回るポルコ。集中すると、ほんのかすかに魔力を感じる。ツツジの蜜に似た、素朴な味がする力。

 一体、建物の中はどうなっているのだろう! 考えるだけで眩暈がする。


 俺は風景を観察する合間に、ナタリーの横顔を眺めた。ナタリーもまた俺と同じように、ちょっとだけ目を細めて、懐かしむような表情で辺りの風景を見つめていた。何だか避暑地を一緒に散歩している気分だった。ナタリーと俺の下駄のリズムが、いつの間にか調和している。


 ナタリーは俺の視線に気付いてパッと顔を振り向けると、少女らしさの残る無邪気な笑顔を見せた。


「綺麗だね。ずっと、眺めていたいぐらい。スレーン高地の光景なのかな? 聞くところによれば、ここのオーナーってスレーンの出身らしいし。ここの魔術も、スレーンの術式が大元になっているとか」

「なら、そうなのかもね。確かにすごく綺麗だ。俺の故郷の、田舎の景色に似ている」

「そう言えばミナセさん、どっから来たんだっけ?」

「オースタン」

「オースタン!? …………って、どこ?」

「多分、ここからすごく遠いところ」

「へぇ、スレーンより遠いの? ウマでどれくらいかかる? むしろ竜じゃないと行けない?」

「馬? まぁ、いいや。っていうか、時空の扉を越えなくちゃ行けないんだ」

「ほえぇ、本当に外国の人なんだね」


 俺とナタリーは当たり障りのない会話を交わしつつ、田園の中を道に沿って進んでいった。


 俺にはどうしてここがそんなにいかがわしいとされるのか、わからなかった。見える景色は一向に健全なままだったし、こうしているとむしろ心が凪いでくる。魔法で映し出された高原のリゾートっていうだけなら、何もあんな風に言われる謂れはないのでは?


 やがて見えてくる景色が雑木林になり、道が段々と細く、荒れがちになってきた。周囲が岩がちになり、少し傾斜がかかってくる。ポルコはいよいよ興奮して、今にも小動物を追って、どこかへ走って行ってしまいそうだった。


「ああ、ここだ」


 道の奥に湧いていた泉のほとりで、ナタリーが立ち止まった。俺とポルコは彼女の隣で、豊かに湛えられた水面を覗き込んだ。


 青く透明な、ぞっとするぐらいに深い泉だった。底の辺りでは近くの川と岩穴で連結していると見え、魚も何匹か泳いでいた。覗いていると、透明過ぎて深さの感覚が段々とわからなくなってくる。心がスゥとそのまま溶けていきそうな、そんな危うさがあった。

 魚たちは細い流線形の身体をくねらせて、そんな泉の洞窟の奥へとするりと消えて行く。


 俺は小首をひねって尋ねた。


「ここで、どうするの?」

「ここが2階への入り口になっているみたい。気付かなかったスか? ここから、魔力が流れ出ているみたい」


 そう言われて初めて、俺は「扉」を探ってみた。確かに感じる。ここが「扉」だ。うっかりしていたというより、あんまり自然に、当たり前のように魔力の流れの中に飲まれていたものだから、つい意識し損ねてしまっていたのだった。


 そういえば、案内の男が各階層の境に魔法陣が組み込まれているとか言っていたけれど、もしかしてここがそうなのだろうか。

 ナタリーは淡々と語り継いでいった。


「ここから、サモワールの力場にさらに溶け込むために、私とミナセさんの霊体とを一緒に魔法陣の中に昇華させなければならないんだけど…………。さぁ、どうしよっかな」


 俺は放せとばかりに激しく暴れるポルコを抱き上げつつ、難しい顔をしているナタリーの横顔を見た。


「霊体を昇華させる、ってどういうこと? よかったら、説明してもらえると助かるな。あと、ポルコはどうしたらいい?」

「うーん、とりあえず、ポルコ君はおうちに帰していいよ。昇華は、何て言うか…………。魂の形を解放させる行為というか…………音でいうと、パワワワァー、みたいな…………」

「…………」


 俺の視線に耐えかねてか、ナタリーはそこで喋り止めた。

 それからナタリーは何も言わずに、おもむろに俺を抱き締めると、真っ直ぐに翠玉色の瞳を俺に向けた。


「え? 何?」


 ナタリーは俺の腕の中のポルコを一撫ですると(すると、ポルコはあっという間におとなしくなった)、

 俺に、口づけをした。


「えっ…………?」


 俺はキスの最中、ずっと目を開けていた。


 ポルコがもぞもぞと、もどかしそうに身をよじっている。

 サラサラと、俺とナタリーの身体が白く光る粉になって散っていく。ツーちゃんがトレンデで、俺を助ける時に使った魔法が解けていく時と同じ光景。


 俺は、全身に生暖かいそよ風が吹き抜けて行くのを感じていた。舌に触れる、ほろ苦い若葉の瑞々しさに、じんわりと全身が熱くなった。体中の血が一滴残らず霧となって拡散していく快感が、魂を震わせる。


「ワゥッ!」


 ポルコが一際大きく訴えかけた時、俺はナタリーにつられて、泉の中に片足を踏み込んでいた。

 浴衣の裾に水がひんやり染み込んできた、次の瞬間にはもう、俺はすっかり泉に沈んでしまっていた。


 軽く、優しい水音。

 不思議とちっとも苦しくなかった。今までに一度として感じたことのない極上の浮遊感と、解放感が、俺という形をとろけさせる。

 俺はナタリーの唇越しに、囁いた。


 ――――冷たい。

 ――――意識が、遠退きそうだ。


 ナタリーもまた、抱擁の中でぽつりと呟いた。


 ――――ううん…………。私は、熱いよ。

 ――――ね、そのまま。

 ――――魔力の迸るままに、気持ちを委ねて…………。

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