第39話 辿り着いた目的地、新たなる出会い。俺がまた一歩、歩み出すこと。
俺は瞼をゆっくりと持ち上げて、おそるおそる世界を覗いた。
まず目に飛び込んできたのは、初夏らしい陽気な日差しだった。それから、青く鮮やかな空にそびえる赤い屋根の教会。眩い緑が白い小花と一緒に、そよ風に揺れていた。
まるで絵葉書のような爽やかな庭の一画に、俺は立っていた。
鳥が歌うようにさえずっている。遠く長く響く教会の鐘や、風で葉がこすれ合う軽やかな音が心地良い。
魔力が世界の隅々に至るまで、深く豊かにたゆたっているのが、一つ息をする毎にひしひしと実感できた。大きな力が身体を駆け巡り、しっとりと沁み渡っていく。何だかものすごく安心する。
俺はすっかり目を見開いて周囲の景色を見渡した。
花壇と、水の止まった小さな噴水。庭の片隅にはエンドウ豆(らしきもの)が植わった畑があった。開かれた教会の戸からは中の講堂の様子が見える。簡素だがきちんと整えられた、美しい竜の絵が彫られた祭壇が窺えた。
――――サンラインだ!
俺は聞かされるまでもなくそう確信して、思わず笑みを漏らした。真っ当な人の住む都に、ついにやって来た!
「コウ様、お加減はいかがですか?」
俺はすぐ隣から聞こえた声に振り向き、そしてたじろいだ。
「あっ…………!」
俺は話しかけた言葉が途中で空中分解してしまう感覚を久しぶりに味わった。
俺をやや見上げて微笑んでいるその女の子は、俺が知っている彼女よりも、数倍大人びていた。
いいや、冷静になってみれば、初めて会った時から何も変わっていない。だけど俺はなぜか、無意識のうちに、小さな彼女のことを子供のように思ってしまっていたのだろう。
でもそれは、大きな間違いだと思い知った。フレイアは今や、完全に大人の女性に戻っていた。
口を開けたきり硬直している俺に、フレイアは首を傾げて尋ねた。
「コウ様? どうかなさいましたか?」
俺は半ば呻くように「ああ」と声を絞りだし、彼女から少し目を逸らして答えた。
「う、うん。何でもないよ。ちょっと酔ったけれど、平気」
「本当ですか? どうか無理をなさらないでくださいね。今度こそ、無事にサンラインに到着いたしましたので、どのような治療でも受けられますからね!」
「あ、ありがとう」
俺はちらとフレイアに視線を向け、また照れくさくなって背けた。横目で、盗み見るように彼女の横顔を見つめるしかない。
粉雪みたいに白いフレイアの頬は、今はうっすらとした桜色だった。長い睫毛の下の凛々しい眼差しは相変わらず深く紅く澄んでいて、俺をいつまでも眺めていたい気分にさせた。彼女の整った顔立ちは小さかった時よりもずっと格好良く、陽光の下で、活き活きと映えていた。
フレイアは何かを探すような素振りで教会の方へと顔を向けていたが、ふいにこちらを振り返った。
「コウ様? 私の顔に何か付いていますか?」
「えっ!? あっ、いや、ごめん。…………えっと」
俺はしどろもどろになって続けた。まさか気付かれているとは思っていなかったので、余計に動揺してしまった。
「いや、その、フレイアの方こそ怪我の具合はどうかなと思って。俺なんかより、君の方が余っ程ひどかったから…………」
「ああ、傷のことですか?」
フレイアは目を細めて笑い、自分の頬についた傷を人差し指で撫でた。
「お気遣い、いつも痛み入ります。ですがご覧のとおり、身体も元通り大きくなりましたし、この程度の傷は、もう問題ではありません」
「そっか。よかった」
俺は頭を掻いて笑って見せた。彼女の笑顔がやけに眩しくて困った。
自分がこんなに可愛い女の子と会話しているなんて、あまりに現実味が無い。どんな顔をしていいやら、急にわからなくなってきた。
俺は少し俯き、会話を続けた。
「えっと、これからどうする?」
「はい。それなのですが、ここで迎えの者と合流することになっておりますので、少々お待ちいただけますか? もう間もなく、やって来る頃かと思います」
「うん、わかった…………」
俺はわざとらしく辺りを窺いながら(さっき、誰もいないっぽいと確認したばかりだったのに)、返事した。
フレイアと二人きりという、これまでもずっとそうだったはずの状況が、今更になってすごく気恥ずかしい。フレイアが俺の態度を不審がっている様子はなかったものの、傍から見れば、俺の挙動は露骨にぎこちなかっただろう。
俺は手紙を待つ乙女のように、そわそわと庭を行ったり来たりして時間を潰した。別段庭に目に留めるべきものは何もなかったけれど、俺は並んでいる全ての物をいちいち熱心に観察して回った。噴水に溜まる葉っぱから、花壇の土の盛り方まで、あますところなく見て回る。照れ隠しも楽じゃない。
フレイアは庭の中央に立って、そういう俺を無邪気な目で見守っていた。
俺がエンドウ豆の葉脈を左から順に数え始めた時だった。
「フレイア、いるか?」
低く、力強い男性の声が教会の中から響いてきた。俺は観察を一旦中断して、おもむろに立ち上がった。
フレイアは声を聞くなり、ピッと背筋を正し、教会の方に向き直った。俺は彼女と同じ方向を見つつ、ツカツカと歩み寄ってくる鎧姿の人影を認めた。
「すでに琥珀殿から事情は聴いている。…………オースタンからのお客人も一緒だな?」
鎧の男はぶっきらぼうな口調と足取りで講堂から庭に入って来た。俺は日に照らされて明るみになった彼の顔を見、呆然とした。
「グラーゼイ様。フレイア、ただ今帰還しました。こちらが伝承に伝わる「勇者」、ミナセ・コウ様です」
フレイアが滔々と述べる。俺は何も言えずに、ただ口を開けて男を見つめていた。
目の前の大柄な男は、相対する俺を見下ろし、毛深い顔をぎゅっと顰めていた。俺はそのごく自然な皺の動きから、彼の容姿が、着ぐるみや特殊メイクによるものではないことを悟った。
「…………おい、フレイア」
男は、鋭い牙の生え揃った口を開いて声を濁らせた。
「本当に、彼がそうだと言うのか?」
俺は「あっ」と惚けた声を漏らすと同時に、反射的に頭を下げた。
「すみません、いきなりジロジロ見て! あ、あの、俺、水無瀬孝と言います。よろしくお願いします」
鋭い黄金の瞳に、ごわついた白銀の毛並み。
ピンと立った耳は凛々しく、黒ずんだ鼻の頭には、大小無数の切り傷の痕。
男は、まさにオオカミそのものの顔を、わかりやすく不快に歪めた。
俺は緊張で身が強張るのを感じながら、おずおずと隣のフレイアを見やった。フレイアは頬を上気させ、なぜか慌てて俺のことを庇った。
「申し訳ありません! 私の不手際です。事前にコウ様にお伝えするのを、怠っておりました。ですからどうか、この度はご容赦願えませんか? コウ様は本当に、ただ、驚かれただけなのです。コウ様はサンラインに来るのが初めてでいらっしゃいますから…………」
俺はオオカミ男の顔に視線を移し、
「すみません」
と、小声で伝えた。何がいけなかったのか、未だによくわからなかったが、とりあえず謝らなくてはならない事態だとは察した。
オオカミ男は「フン」と不機嫌そうに鼻を鳴らすと、俺だけを睨みつけて話した。
「わかっているならば、それでよい。以後気を付けるように。それと、お客人」
「ハイ」
「他国からいらっしゃったばかりで、礼に慣れぬのは致し方ないことでしょう。しかし、自ら学ぶ姿勢は常に忘れぬよう願います。我が部下のフレイアはこの通り、未熟者です。あまり頼りになさり過ぎぬように」
「ハイ…………」
俺は項垂れて返事した。不本意だったけれど、気圧されて反抗する言葉が全く浮かんでこなかった。後でフレイアに、彼の言う「礼」とやらについて聞いてみなければ。
それにしても、どこの土地にもそういったことにこだわる人はいるということか。ハァ。幸先悪い。
オオカミ男は再びフレイアに視線を戻すと、厳しく短く命じた。
「行くぞ」
フレイアは俺に目配せすると、さっさと踵を返して行ってしまったオオカミ男について早足で歩き出した。俺は彼女らと共に教会の講堂を抜け、サンラインの街へと出て行った。
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