第37話 兄のいない家。もう聞こえない声。私が思い出した、ある重要なこと。

 兄の突然の失踪から2週間。

 ウチの陽気の源であるお母さんは、ガッツリ気落ちしてしまっていた。


 そりゃあ、家族が行方不明になったのだから当然かもしれない。だが兄はもういい大人だったし、そもそも普段からいるやらいないやらの隠居生活だったわけで、案外「ちょっとした家出でしょ」的なノリで穏便に済ますものと思っていたので(現に、警察の人もそう言っていた)、結構意外だった。


 私は二階の自分の部屋から下りて来ると、居間で茫然自失となっているお母さんの姿を横目に見ながら、こっそりと台所に忍び込んで、手早く冷蔵庫から麦茶を一杯汲み取って二階へ戻っていった。


 お母さんはここのところ、パートから帰ってくるなりずっとあんな感じで塞ぎこんでいる。元々明るくて楽観的な性格だっただけに、可哀想で見ていられなかった。しかも「きっとすぐに帰ってくるよ」なんて声を掛けて以来、かえって一人で黙り込むようになっちゃったし。


 私は自室で麦茶をちびちびと飲みながら、ちっとも進まない問題集を見つめて溜息を吐いた。


「やめよ。ちょっと休憩!」


 一人宣言し、イスから離れてベッドに倒れ込む。


 天井の照明が白く、丸く輝いている様が、私にあの晩の光景をフラッシュバックさせた。

 実は、私はあの光る輪や、焼け焦げたゴキブリのことを誰にも話していなかった。どうせ気が動転してわけのわからないことを捲し立てていると思われるのがオチだったし、Gについては、頭のおかしくなった兄の悪戯と見做される可能性すらあったので、勝手に処分してしまったのだった。


 あの時は必死で兄を庇ったつもりだったけれど、今となっては正しい判断であったのか自信が無かった。もしかしたら、あんなものでも兄の行方を知るための重要な手がかりになったかもしれないのに。


 私は寝返りを打って、また溜息を吐いた。いくら休んでも気が晴れそうにない。

 どうしてあのバカ兄貴は、いてもいなくても家族に迷惑をかけるのだろう。近頃ではろくに口も利いていないっていうのに、なんでこんなことになるのやら。さっぱり理解できない。


 私は幼い兄と自分の映った写真立てを一度見やり、また目を逸らした。

 あの写真を見ていると、懐かしくなるのと同時に、何だか妙な寒気を感じる。


 ――――あーちゃん。


 思い出せる兄の声は、やけに遠くから響いてくるように感じられた。「あーちゃん」。アイツはいつも私のことを、そう呼んでいた。

 思えばもうずっと昔のことなのだけれど、私は未だにその声の、やんわりとした抑揚を覚えていた。二度と聞けなくなるかもしれないだなんて、考えたこともなかった。


 私は兄の呼び声と一緒に、誰か知らない男の子のことも思い出していた。


 ――――その子、コウの妹?

 ――――ああ、そうだよ。アカネっていうんだ。可愛いだろう?


 私は兄の後ろに隠れて、兄と話す少年…………当時の私には、なぜか彼が恐ろしく大きな、鬼か悪魔みたいに見えた…………を見つめていた。

 少年は手に高級そうな、厳めしいカメラを持っており、私にはそれが何かの武器に見えて怖かった。兄は怯える私を無理に前へ押し出すでもなく、のんびりとした口調で話していた。


 ――――この子、写真撮られるのが好きなんだ。だから多分、将来はアイドルか、モデルになるよ!

 ――――えらい親バカ…………いや、兄バカだな。まぁ、そういうなら記念に一枚撮ってやるよ。そこの花壇のところに立たせろよ。


 私がなおも立ち竦んでいると、兄はすっくと私を抱き上げた。


 ――――もちろん、俺も一緒に入れてくれるよな!

 ――――いや、画面が汚くなる。

 ――――わかってないなぁ。風情が出るって言うんだよ。

 ――――ったく、どういう理屈だよ。…………まぁ、いいけどよ。じゃあ、ほら、とっとと笑え。


 軽快なシャッター音が脳裏に鳴り響き、私はベッドから跳ね起きた。

 私はそのままの勢いで問題の写真立てを引っ掴むと、荒々しく階段を雪崩れ落ちた。こうやって下りるのが、一番速い。

 私はリビングの戸を大急ぎで開け放つと、大声でお母さんに尋ねた。


「お母さん! 前に、お母さんが置いて行ったこの写真なんだけど!」


 お母さんはぽかんと口を開けて、私を見た。


「アカネちゃん? どうしたの、突然…………。その写真がどうかしたの?」

「これを撮ってくれたお兄さん、兄貴の友達…………いたでしょ? 名前は忘れちゃったんだけどさ」

「ああ、セイ君のこと? 懐かしいわね。よく覚えているわ」

「今、どこにいるか知っている?」

「ええ。確か横浜の方に引っ越したって聞いているけれど…………。でも、どうして?」

「急に思い出したことがあるの! どうしても確認したくて!」


 お母さんは怪訝そうに眉根を寄せると、改めて私の目をじっと睨んだ。いかにも訳を話して欲しそうな様子であったが、私はあえて気付かないふりをして話を進めた。


「兄貴のスマホはどこ? この間、部屋を調べた時に見つけたよね?」

「それなら、あっちの机にあるわよ。もしかしたらあの子が連絡して来るんじゃないかと思って、ずっと置いてあるの」


 私は母が指差した先の、黒い型落ちスマホを手に取って、ロック画面をあっさり突破した。倫理的には問題アリだが、何の連絡もせずに心配をかけている方にも十分に問題がある。何より、私の誕生日をパスワードにするのはキモいから止めろと言ったはずなのに、未だ変更してないのも大問題だ。

 母は私を見守りながら、しみじみと呟いた。


「アカネちゃんも、本当はちゃんと心配してくれていたのね」


 私は全く女気のないアドレス帳をハイスピードでスクロールしながら、目的の名前を探し出した。


 心配なんて、当たり前だ。家族なんだから!

 バカ兄貴め。

 …………どうしていつも、何にも話してくれないの?


 ――――――――私は、完全に思い出してしまった。

 「八神 誠」が、かつて私を誘拐したこと。

 そして彼が、兄を殺そうとしたことを。

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