第36話 トレンデの夕焼け、フレイアの微睡み。俺が最後の時空の扉を開くこと。

 どれくらいの時間が経ったろう。きっとささやかな時間しか経ってないとは思う。俺より先に、フレイアが身を動かした。


「…………あの、コウ様」


 俺は腕の中から響く彼女の弱り切った声(戸惑った声といった方がいいのかも)に応じて、やっと顔を上げた。

 フレイアは傷だらけの、汚れにまみれた顔を、それでもはっきりとわかるぐらいに赤くして俺を見ていた。


「コウ様、もう…………大丈夫なようです。本当に、私も、もう平気です。それにその…………あまり私に近付かれますと、コウ様のお召し物が汚れてしまいますから……………」

「うん」


 俺は返事をしつつ、しばらくは彼女を離さないで辺りを見回していた。強い光をもろに浴びたせいか、頭がぼうっとして、まだあまり素早く物事が考えられなかった。


 周囲にはトレンデに到着した時と同じ、のどかで物寂しい農村の風景が広がっていた。

 遠くの丘に見える風車や、村を抜ける長い街道に見覚えがある。電線に止まったおびただしい量の小鳥たちも、ぽつりと灯った民家の燈色の明かりも、俺の目には懐かしいばかりだった。


 滲み出すような茜色の空の下、俺たちはだだっ広い畑の真ん中で、静かに蹲っていた。俺は吹き抜けるささやかな風の音に耳を傾けつつ、ようやく気を持ち直した。

 紅い、深く揺れる眼差しにうっとりと見惚れながら、俺はそっとフレイアを離した。彼女はようやく安心したようで、ホッと息をついた。


「ごめん、乱暴にして」


 俺が謝ると、フレイアは小さく首を左右に振った。


「いいえ、そのようなことは。私こそ至らぬことばかりで、もう言葉も見つかりません。申し上げられるとすれば、一言だけ…………。

 コウ様、ありがとうございます」


 俺は目の前にふっと咲いた笑顔にたじろぎ、思わず視線を逸らした。ずっと見たかったはずの笑顔なのに、どうしてこんな風に振る舞ってしまうのか。自分でも情けない限りだった。

 だがフレイアは、そんな俺の態度を気にするでもなく、柔らかな調子で言葉を継いだ。


「もしコウ様がいらっしゃらなければ、私はきっとなす術なく敵の前に倒れていたと思います。本当に、心より感謝しております」

「それは、さすがに言い過ぎだよ。君は」


 俺が次に何を言おうかと口ごもっている内に、聞き慣れた声が頭に響いてきた。


(…………もういいか?)


 俺はギョッとして、声の主の名を呼んだ。


「ツーちゃん。聞いていたの?」

(終わったのなら、はやく帰って来い。なりゆきで何とか奴らを追い出せたとはいえ、何のために戦っていたのかを忘れるでないぞ)


 俺は同じく驚いた表情のフレイアと顔を見合せて、答えた。


「わかった、もう帰るよ。えっと、どこに行けばいいかな?」

(貯水池近くの空き地におる。イメージはすでに貴様に送っておいた)


 俺はワニになって泳いだあの貯水池を頭に思い浮かべて、頷いた。


「OK。すぐ行くよ」


 ツーちゃんは「フン」といつもの鼻息で返事すると、またぷっつりと黙り込んだ。フレイアはちょっとすまなそうに肩をすくめ、上目使いに俺を見た。



「フレイア、歩ける?」


 俺は帰り道を辿りながら、尋ねたことを早速後悔した。

 こんなことを聞いたところで、フレイアの答えは必ずイエスと決まっていた。無理を無理とも思わない彼女の根性には正直頭が下がるが、そうして守られる側からすれば、堪ったものではない。

 俺は予想と寸分違わぬトーンの、


「大丈夫です」


という返事を耳にして、一度わざとらしく溜息を吐いた。


「?」


 不安そうに俺を仰ぐフレイアに、俺は淡々と本音を話した。


「あのさ、フレイア。ずっと、っていうかさっきも、言おうと思っていたんだけど」

「何でしょうか?」

「君は、少し自分に厳し過ぎると思うんだ。何ていうか、自分に甘いばかりの俺が言えたことじゃないかもしれないんだけど、多少は自分を労わることも、一緒にいる人のことを本当に考えるなら、大切だと思うよ」

「…………仰ることはわかります。ですが」

「わかっていないよ。君は「ですが」ばっかりだ」


 俺は立ち止まって足元のフレイアを見た。彼女は口を噤み、悲しそうに俯いた。


「いや、責めるつもりはないんだ。言い方が悪かったかも。ごめん。ただ、俺は、自分勝手な話だけど、もう少し」


 俺はやや声を落として最後を述べた。


「君に、信用してもらいたくて」


 フレイアは聞きながらじっと黙っていたが、ややしてから、ゆっくりと口を開いた。


「ごめんなさい」


 彼女は俺がそれに対して何と答えるかを察したのか、慌てて続けた。


「わかっています。謝る問題ではないのでしょう。しかし私は…………他にどうしたらいいか、わかりません。

 私の仕事は、コウ様をお守りすることでした。ですのに、散々術を失敗してご迷惑をおかけした挙句、結局コウ様に救っていただきました。

 それなのに、これ以上どうして、コウ様のご負担となるようなことができましょう? ………せめて、歩くぐらいはさせてください。絶対に遅れませんから!」


 俺は泣き出しそうなフレイアの傍にしゃがみ込み、話した。


「フレイア。君の気持ちはよくわかった」


 俺は改めてフレイアの姿を見て、彼女がいかに今も無理をしているかを思い知った。竜の国ではあんなに溌剌としていた顔色が、今では見る影もなく蒼ざめていたし、あれだけ走っても上がらなかった息だって、少し話しただけで、もう乱れていた。未だに血の乾き切らない傷痕が数えきれないほどにあって、俺は見ているだけで胸が締め付けられた。

 俺は彼女の目を一心に見つめて、精一杯の誠実さを込めた。


「だけど、やっぱり俺には君の頼みは受け入れられない。…………俺は、君はもう十分に頑張ってくれたと思うんだ。それに、この後も時空移動の術を頑張ってもらわなくちゃならないし、悔しいけれど、それは俺にも、ツーちゃんにも代わってあげられないことだ。だから、せめて今ぐらいは休んでもらいたい。

 …………なぁ、フレイア」


 フレイアは話す俺の顔を、まるで叱られている子供のような表情で見つめていた。俺は彼女に手を伸ばしつつ、言い含めるように続けた。


「もし、どうしても聞いてくれないなら、俺は力づくでも君を抱いて帰る。君の炎で焼かれたって、そうしなくちゃならない。でも俺は、できればそういうやり方はしたくない。…………君から手を取って欲しい」


 フレイアは何も言わずに困った顔で俺を見ていたが、しばらくすると、本当に小さな、たんぽぽの花びらが擦れ合うような声でこぼした。


「…………はい」


 それから彼女は血で汚れた手を、おそるおそる俺の手に重ねた。俺はその手をしっかりと握り返し、彼女を近くに引き寄せた。



 トレンデの景色は、どこまでも美しい夕暮れに染まっていた。雲の合間から澄み切った光が差し込み、それを横切る鳥のシルエットは天使みたいに優しげだった。


 俺はフレイアを抱きかかえて畦道を歩きながら、貯水池に瞬く陽光のきらめきをぼんやりと眺めていた。

 あの池の底には暗く凄まじいものが潜んでいることを俺は知っていたけれど、それでもなお水面には静寂と、深い安らぎが満ちているように思えた。

 フレイアは俺の肩に頭を乗せてうとうととしながら、それでも何とか意識を保とうと努力しているようだった。


「寝てていいよ」


 一応言ってみたが、フレイアは頑として聞かなかった。


 俺は段々と見えてきた目的地に向かって歩いて行った。ツーちゃんが腕を組んで立っているのが見えたけれど、両手が塞がれていたので、今回は手を振れなかった。

 フレイアは少し顔を上げてツーちゃんの方を確認すると、また恥ずかしがるようにして俺の肩に頭を沈めた。俺は理性のネジが一本どこかへはじけ飛ぶのを感じたが、一本ぐらいであれば幸い、行動には影響がなかった。


(…………遅いぞ)


 低くくぐもったツーちゃんの声に、俺はのんびりと言い訳をした。


(ごめん、お腹が減って力が出なかった)



 フレイアは俺の腕から飛び降りると、幾分調子を取り戻した(ように見える)元気な口ぶりで言った。


「ありがとうございました、コウ様! あの、良く休めました。これで時空移動もばっちりです!」

「それは何より」


 俺は傍からひしひしと刺さりくるツーちゃんの視線をあえてスルーし、あらかじめツーちゃんが地面に用意しておいてくれていた正方形の陣の上に立って、


「じゃあ、さぁ、いよいよ出発だ!」


と、我ながらあざとく息巻いてみせた。

 ツーちゃんは呆れたのか、無言の圧力を解いて溜息を吐いた。


「まぁ、どうとでもなることだがな。人間同士など…………」


 ツーちゃんは独り言をゆらり風に流すと、そのままフレイアに目を向けた。


「フレイア。本当に問題無いか?」

「はい、ご心配をおかけしました」

「よい。では、私はここで別れよう。後始末をしていく。二人とも、くれぐれも気を付けて帰って来るのだぞ」

「はい!」

「OK!」


 俺とフレイアは同時に返事をして頷き合った。



 ツーちゃんが陣から離れた後に、俺たちは最後の術に取り掛かった。

 フレイアは陣の中で深呼吸を何度かすると、目を瞑って術に集中し始めた。

 俺はそんな彼女の足下から、火蛇がスルスルと彼女の身体を伝って登って行くのを見た。蛇たちはフレイアの腰辺りでチラと俺に視線を向けると、またプイとそっぽを向いて、フレイアの首へと這っていった。心なしか、主人が戻ってきて嬉しそうだった。


 やがて俺とフレイアの周囲が白く輝き始め、激しい風が辺りに吹き荒れた。火蛇は宙で互いの尾を加え、白熱しながら回転していた。

 俺は聞こえてくるフレイアの詠唱に耳を澄ませた。


『燃える里』

「もえるさと」

『駆ける、駆ける、駿馬』

「かける、かける、しゅんめ」

『果てない草原の、夢の跡へ』

「はてないそうげんの、ゆめのあとへ」

『今、通い路を』

「いま、かよいじを」

『穿て!!!』

「穿て――――…………!!!」

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