第29話 明かされる敵の正体、脅かされる「勇者」俺。俺が三度目の時空移動に挑むこと。

 目覚めた俺はシャチの死骸の上に寝かされていた。菫色の空と茜色の残光、そして長くたなびく薄い雲が、トレンデの果てしない空を彩っていた。

 俺の身体は元の人の姿に戻っていた。服は家から着てきたジャージのままで、ずぶ濡れという程ではなかったけれど、全体的に湿っている感じがした。


「よかった…………! コウ様、お戻りになられたのですね!」

「フレイア」


 俺は俺の顔を食い入るように覗きこんできていた小さな少女の名を呼んだ。フレイアは返事を聞くなり、俺からパッと離れて胸を撫で下ろすと、また例の真っ赤な頬で、涙の滲んだ笑顔を見せた。


「嬉しいです。捜索魔術に成功したのは初めてです。でしたのに、もう手遅れになってしまったかと思い…………」

「探索、魔術?」


 俺が問い返すとフレイアは、未だ興奮が冷めやらぬ調子で答えた。


「探索術は、ガシューリン結界の応用術なのです。己の魔力も同時に使って二重に魔力を濾し分けます。コウ様がオースタンの方で幸いでした。火蛇たちが水底まで網を張って、コウ様の霊体を探し出してきてくれたのです」


 言いつつフレイアは胸の前できゅっと手を組むと、もう一度息をついて上目使いに俺を見た。俺は彼女を抱きしめてしまいたい衝動に陥ったが、そこはさすがに冷静になって対応した。


「ありがとう、助かった。実際死にかけていたんだけど、ツーちゃん…………琥珀様が助けてくれたんだ」

「ええ、きっとあのお方なら、そうしてくださるだろうと信じておりました」


 フレイアは力強く首を縦に振ると、組んでいた手を解いて話を続けた。


「琥珀様のお使いになる術は、私などには想像も及びません。ですが、琥珀様ほどの魔導師様であれば、必ずや何か策を講じてくださるに違いないと思っておりました。導き手を失った魂の鎮魂は、本来魔術の領分ではありませんが、琥珀様ほどの知識とお力があれば可能なのではと」

「そう、なんだ」


 俺は救援に来てくれたツーちゃんの、ちょっと近所の公園にでも散歩へ出てきたかのような姿を思い浮かべて、話から浮かぶ絵とのギャップに困惑した。術とは言うものの、正直な話、俺には何からどこまでが彼女の魔法だったのか、未だによくわからなかった。

 まぁ、助かったのだからどうでも良いと言えばそれまでなのだが、どうにも実感が湧かないのは否めない。


「…………これから、どうしようか?」


 俺は身を起こし、気を取り直してフレイアに尋ねた。

 フレイアはようやくいくらか落ち着きを取り戻したようで、穏やかかつ冷静な、いつもの口調に戻っていた。


「一刻も早く時空の扉を開きましょう。この際、敵の攻撃は全て無視して、逃げ切ることだけに専念した方が良いかと思います。先程琥珀様がトレンデの気脈を解放してくださったおかげで、何とか扉を開くことができるようになりました」

「わかった」


 俺は一度頷いたのち、一拍置いてから続けた。


「ところで、今まで聞きそびれてしまってたんだけど、その「敵」についてもう少し俺に教えてくれないか? 何で襲われているのか、わかっていた方が何かと都合が良いかと思ってさ」

「はい。では、移動しながら」


 フレイアはそう言うと、火蛇を自分の右腕に纏わせた。火蛇が彼女の腕を這い上っていく様子はあまりにも自然だったので、俺には蛇がいつ、どこから出現したのか、認識できなかった。何だか彼女の陰の、どこでもない空間からふいに現れたという感じが一番妥当な表現だった。


 フレイアはその蛇の尾を腕に残したまま、頭側をロープのように岸部へ投げると、指先をちょいちょいと動かして近くの樹に巻きつくよう指示を出した。蛇は樹の幹を一周した後、またするするとフレイアの元へと戻って来た。


 フレイアは蛇にねぎらいの言葉を掛けた後、蛇を手繰ってシャチの屍を岸部へと寄せていった。

 俺はその間、いつの間にかフレイアの足元に這ってきていた、もう一匹の火蛇と目を合わせて、あえなくすまし顔で目を逸らされたりしていた。黒々としたつぶらな瞳をしたその蛇は、フレイアの足を辿ってもう一匹の蛇と合流すると、くるりと身を捻って螺旋を作り、木の陰へと姿を消した。どこへ行くのだろう?


「降りましょう」


 フレイアに言われて、俺は久しぶりに丘に立った。

 ずっしりとした疲労感の中で、俺は改めて今の自分の身体が霊体であることを思った。俺の肉体は、一体どこにあるのだろう。まだあの馬小屋の中だろうか…………。


「時空移動は、向こうに見える水路に囲われた土地で行います」


 フレイアが指差した方向には、几帳面な正方形の畑が広がっていた。他の畑が長方形や円形であったためにすぐに見分けることができるが、その畑からはどうにも不気味な魔力が漂ってくるようで落ち着かなかった。強いて言うなら…………血液でできたザラメが、口の中でジャリジャリいっているような、そんな魔力を感じる。


 俺は嫌な気配に眉を顰めつつ、フレイアについて走り出した。人間の身体の重さが戻ってくると、走った時の息苦しさが一気に不快感として感じられるようになった。濡れた頬に当たる風なんか全然気持ち良くない。やはり本来の俺にとって、運動は決して愉快なものではなかった。

 道すがら、フレイアが「敵」について語ってくれた。


「私達を襲ってきている敵は、サンラインの元老院議官、ヴェルグツァートハトー様の一味です」

「ベルグツァ…………? どこかで聞いたような名前…………?」


 俺は足元のフレイアを見下ろしてこぼした。フレイアは俺を見上げ、さらにそのベルグ某について話を続けた。


「本名はもっと長いそうで、大抵の方はヴェルグ様と略称でお呼びします。

 ヴェルグ様は、サンラインにおけるタカ派の筆頭です。同時に一流の魔導師でもありまして、サンラインでは一廉の人物として、多くの市民から尊敬を集めております。お弟子様の数も大変に多く、その人数を頼んだ大規模魔術研究の第一人者です」

「ふぅん。それで、どうしてそんなすごい人が俺たちを狙うんだ?」

「それは」


 フレイアは神妙な顔を作り、また淡々と話した。


「コウ様が、サンラインの行く末を左右する存在だからです。サンラインは現在、アイラム侵食によって進軍してきたジューダムと交戦状態にあります。ヴェルグ様はこの戦争の総指揮を執られているのですが、その立場を脅かしうる存在に対して、異様に敏感なのです」


 俺はいよいよ近付いてきた魔力の感覚に、背筋が冷えていくのを感じながらも、黙ってフレイアの話に耳を傾けた。さっき感じた嫌な甘さはどんどん鮮明になってきていたけれど、その一方で、全く別の気配も微かに感じ取れるようになってきていた。どことなく安心できる、薄いけど、広がりのある味わいだった。


「ヴェルグ様が元帥の地位に執着する理由は定かではありません。サンラインの最高位術師として、すでに絶大な権力と名誉をお持ちの方です。それこそサンラインに到着した私たちを、例えば密偵の疑いをかけ、拘束することも不可能ではないでしょう。ですから、ここで私たちを襲撃することに関して何か他に狙いがあることは確かなのですが、私にはまだわかりません」

「…………なるほど」


 俺は自分が何に納得しているのかもあやふやなままに返事をした。

 要約すると、サンラインにも派閥があって、俺を歓迎していない人々もいるということらしい。

 俺はそんな状況に、今更ながら不安を募らせた。何とかこの場を生き延びた暁には、フレイアを俺の元に遣わしたという「蒼の主」に、今度こそはきちんと話を聞かせてもらいたい。(まぁ、ろくに話も聞かずに行くと言ったのは、他でもない俺なのだが)


 フレイアは息も切らせずに走り続け、対して俺はみっともなくゼイゼイ喘ぎたいのを必死で堪えていた。フレイアは時々心配そうにこちらを仰ぎ見たが、俺はその度に、呼吸の合間を縫って「大丈夫さ」と答えねばならなかった。

 男には張りたい見栄があるんだって、どうしてわかってくれないのだろう。



 フレイアは目的の畑に辿り着くと、早速詠唱の準備に取り掛かった。

 彼女が目を瞑って深呼吸をし、再び目を開くと、火蛇がポッと灯るように現れた。彼らは互いの尾を軽く咥え合うと、細く長い輪となって彼女の周囲を回り始めた。


 相変わらず辺りには不穏な魔力が濃厚に漂っていたけれど、見渡す限りではどこにも明らかな脅威は見当たらなかった。

 俺は乱れた息を整えつつ、フレイアの言葉を聞いた。


「琥珀様が取り戻してくださった気脈を使います。このトレンデにおける最も大きな気脈を押さえてはいますが、未だその枝の多くは敵の手にありますので、今までよりも長く、複雑な詠唱が必要となります。コウ様、どうかご辛抱をお願いします」

「OK」


 俺の短い返事にフレイアは微笑んで答えると、詠唱を始めた。


 ――――…………蛇たちの回転が速くなり、彼らの白熱が徐々に高まっていく。

 俺は気分を十分に落ち着かせて、目を閉じて彼女の言葉に集中した。


『燃える里…………』

「もえるさと」

『駆ける、駆ける、駿馬…………』

「かける、かける、しゅんめ」

『果てない草原の、夢の跡へ』

「はてないそうげんの、ゆめのあとへ」

『…………童子たちよ』

「どうじたちよ」

『吹け、吹け、掻き鳴らせ。高らかに!』

「ふけ、ふけ、かきならせ。たからかに!」

『遥かな波を越え、大瀑布を凍らせよ、それでも玉座には遠く及ばぬ。王へ捧げる火と日を焚き上げよ。決して香を絶やすなかれ!』

「!?」


 俺は唐突な早口に思わず息を飲み、目を見開いた。


 そして同時に、畑の外にそびえ立つもの…………そびえ立つ、という言い回しがまさに適当だった…………を目の当たりにして、俺はまさに絶句した。


『とろけるもの、たゆたうもの、澱と残るものたちは…………』

「…………」

『一つの長い永い歌を紡ぎ、暗い水底の…………?』


 フレイアが異変に気付いて詠唱をやめると、火蛇らも回転を止めて輪を解いた。おそらく主人より先に事態に気付いていたのだろう。彼らはそれからたちまちのうちに、フレイアの陰に隠れて消えた。


「コウ様? 詠唱に何か問題が?」


 とぼけたフレイアの問いに、俺は思わず怒鳴りかけた。


「問題だって!? あんなもん、覚えられるか!!」


 だが実際の俺は、何も言えずに、震える手で目の前を指差しただけだった。フレイアが呑気に背後を振り返る様を、俺は視界の端で眺めていた。


 俺たちの前には、馬鹿でかい巨人が立っていた。

 一体どれぐらいの大きさなのか見当もつかなかった。巨大な大仏が悪魔に乗っ取られたみたいだなと、俺の脳が他人事のように呟いていた。


 岩のような筋肉に包まれたその化け物は、爛々と光る小さな瞳でじっと俺たちを見下ろしていた。酸性雨で溶けだしたようなドス黒い肌が、彼を無慈悲な魔人らしく、強烈に印象付けていた。


 ふいに、口の中に鉄サビ味のミルクがばっと広がり、俺は思わずえずいた。それから畳みかけるようにして、甲高い女の声が上空から降ってきた。血液のザラメがバラバラと降ってくるイメージが、それとぴったりと重なった。


「お待たせいたしました、勇者様!! 本日のメインディッシュでございます!!」


 声の主は巨人の肩に腰掛け、さも愉快そうに形の良い足を組んだ。

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