第12話 軽業師フレイアとそのおまけ、俺。俺が初めての空で、初めてのトリップしたこと。
母竜は身体を静かに捻り込み、ごく滑らかな旋回に移った。子竜はその下方で拙く羽ばたきながら、どうにか真っ直ぐフラフラと飛んでいた。
母竜は翼をやや後方に逸らせて、そのままの速度で下降に転じながら、ゆっくりと姿勢を水平に戻し、首をこちらへ向けた。はたと目が合った瞬間、俺はぶるりと身を震わした。
竜の両眼には、擦りガラスに似た不思議な靄がかかっていた。
「っ…………」
俺は魅入られ、思わず息を詰まらせた。叫び過ぎて、もうすっかり喉が嗄れ果てていて、微かな空気しか漏らせなかった。
「そのまま、喋ってはいけません」
ふいに聞き覚えのある声が俺に耳打ちした。
俺はおずおずと目線を自分の肩の方へ移動させ、いつの間にかそこで片膝をついているフレイアの姿を見た。
彼女はキッと正面の竜の頭を見据えたまま、俺に囁きかけた。
「今、竜が警戒しているのは私です。もちろん先程からの騒ぎでコウ様の存在に気が付いてはいますが、それよりも、あなたを振り落とすために動いて、私に隙を見せることの方を心配しています」
あれ、じゃあ俺っていらなくね?
などという今更な思いはひっそりと心に秘めつつ、俺は黙って点頭してみせた。
フレイアは心持ち熱のこもった口調で、さらに続けた。
「なかなか賢い竜です。慣れないコウ様に、もっとパニックを起こしてくれるかと期待していたのですが、そう易々とはいきません」
ああ、一応役には立つ予定だったのか(実際は立っていないみたいだが)と安心しつつ、俺は身を切る風に、再度身を震わせた。
とにかく、上空の大気が寒くてたまらず、思考が後手後手に回っていた。高所の恐怖や自分の存在意義についての悩みは、ことごとく頭の片隅に追いやられ、代わりにふつふつと湧き立つ謎の高揚が、脳の真ん中の空洞部を急激に充填しつつあった。生の感情では決してあり得ない、不自然な昂りが、むしゃらな勢いで俺を満たそうとしていた。
不安なのに不安を感じない、むしろ不安が次々と高揚感に塗り潰されていくという、非常に奇妙で、異常な感覚だった。
「フレイア」
俺は口が勝手に動くままに彼女の名を呼んだ。この時点ではまだ、何を話すつもりだか全く考えていなかったのだから尋常ではない。
応じたフレイアは不思議そうにこちらを見た。
「俺、まだ、君のことを何も知らないんだけど」
俺はぱちくりと目を瞬かせるフレイアをじっと見つめながら、思いつきに任せて口走った。
「君から目が離せない。次に何をするのか、どんなことを言うのか…………気になってしょうがない」
だから、と俺は言葉を継いだ。
「だからどうか、あんまり遠くへ行かないでくれ。きっと必ず、俺の手が届くところにいて」
俺は自分が現在述べ立てている内容について、半ばもうろうとした状態で理解を試みていた。
多分、俺は彼女を口説きたかったわけではなく「俺を見捨てないでくれ」と伝えたかったのだと思う。そりゃあ、心のどこかにはもっと仲良くなりたい気持ちもあったのだろうが、さすがに今はそんな場合ではないし、だが、ああ、こんな話は今の俺には複雑過ぎる。
何にせよ、俺の肩のフレイアは精悍に笑うと、実に頼りがいのある口調で短く言い放った。
「わかりました。フレイアは、ずっとコウ様のお傍におります」
それから彼女は紅玉の眼差しで俺の目を熱っぽく見、さらに重ねて言った。
「そして、必ずやご期待に応えます」
宣言するなり、彼女は鋭く俺の肩を蹴ると、水飛沫のような足跡を点々と竜の背に残して、あっという間に竜の頭部へと駆けて行った。
俺は蹴られた肩の痛みに茫然としたまま、己の異常な心拍に恐怖した。俺の心臓はもう、明らかにおかしな律動を刻んでいた。やけに息が上がって、寒さがみるみる気にならなくなってくる。
竜の吻部から、一瞬、鮮やかな炎の柱が立ったように見えたのは、俺の気のせいか?
だがその途端、竜は一気に角度を垂直近くまで深めて降下し始めた。
俺は叫びだしたい衝動に駆られた。叫んでも別に構わないんじゃないか、そうだ、きっとそうだという低い囁き声はまさに自分の心の底からの声であったが、限界一歩手前のところで理性が抗っていた。
俺は喰いしばった歯の隙間から掠れた空気を漏らし、急降下にぐっと耐えた。
竜は翼を大きく捩じって回転し、ドリルのように地面へ向かって落下していった。回転による遠心力が、俺の精神のたがを吹っ飛ばそうとする。心臓は爆発寸前まで荒ぶっていた。
俺の頭の中では、俺の感情の分身たる北京原人達が、野太い雄叫びを上げていた。
ズンドコズンドコ・ドロドロドロドロ…………と、おどろおどろしい戦神楽が、むらむらと原人たちのアドレナリンを焚き上げる中、大地ごと震撼させるような、竜の猛々しい咆哮が空に響き渡った。
俺はその迫力に目を剥いた。フレイアを口説いていたことが、百年前のことみたいに感じられた。
パァン!
あわや竜の身体が大地に衝突するかという距離まで近付いた時、何かが弾ける、けたたましい音が鳴った。風船が割れるよりももっと大きな、空間に一気に広がる音だった。
それから瞬く間に天地が翻った。水泳のクイックターンに似ていた。
俺は強烈なGに、えずきそうになったが、竜はお構いなしにぐんぐんと上昇し続けた。俺は猛烈な向かい風に呼吸を忘れ、そのおかげで、吐き気も忘れた。
原始人の太鼓がいよいよ盛り上がってくる。竜は獰猛とさえ形容できる勢いで翼を空に打ち続け(その度に、先と同じ、パァンという音が鳴った)、ついには雲を突き抜けた。
――――フレイアは?
俺はなおも昇り続ける竜の背で、血眼になって彼女を探した。
普通に考えれば、あの高機動の中で、手綱も無しに立っていられるはずがなかった。どこかで落ちてしまったのでは? ああ、そんなのは、そんなのは嫌だ。
…………が、彼女はいた。俺より無事だった。
フレイアは竜の首筋に細い剣を突き立て、凛とした面持ちで強風に髪をなびかせていた。彼女はふと俺に目を剥けると、
「大丈夫か」
とでも言いたげな、男前な面持ちで俺を見やった。俺は旋回に移る竜の姿勢に対し、少しでも密着せんと心掛けながら、口だけを動かした。
「平気。君は?」
それで伝わったものかは知れないが、フレイアが不敵に微笑んだのを見て、俺はホッと一息ついた。本当にハラハラする。恋する前に死にそうだ。
フレイアはまた竜の背へ戻ると、剣を虚空へ向けて、素早く水平に滑らせた。切っ先から飛んだ竜の血と思しき赤い雫が、俺の頬を掠めて後方へ飛び去っていく。全力で怯えている俺と比べて、素晴らしいバランス感覚で佇むフレイアの背中は、どこまでも気丈に映った。
俺はふと気になって子竜の行方を窺った。
子竜は遥か下方の草原上空で、呑気に円を描いて飛びまわっていた。先に見た時よりも飛び方が上手になっているようだった。
フレイアはそのまま剣を持つ手を翻し、今度もまた竜の吻部へと駆けて行った。刃の周りに、螺旋状に渦巻く炎が見えた。
フレイアの動きを察してか、母竜はぐらりと左方に傾いた。フレイアを落とすつもりか。俺はフレイアを見つめるあまり、思わず下半身を滑らしてしまい、慌てた拍子に片足を思いきり翼に引っ掛けた。
驚いた竜が下方へよれる。
同時に、俺の視界の右端に、真っ直ぐに天へと立つ炎の柱が映った。炎は鞭のようにしなり、宙に弧を描いてゆらりと落ちていく。
俺は瞬きの後、「あ」という形に口を開けて、竜の喉元にぶら下がっているフレイアの姿を見つめていた。
フレイアは剣から伸びる炎を竜の首に巻きつけて、空中ブランコの要領でダイナミックに揺られていた。
竜は怒りか焦りか、それとも炎が熱いのか、ぐんと身体を丸めて暴れ始めた。俺は抱きつくようにして竜にしがみつき、フレイアは滑らかに身を宙へと放り投げた。
風がビュウビュウと竜を巻きながら、俺を引き剥がさんと無茶苦茶な力で襲ってくる。
フレイアはどこへ? と、細めていた目を動かした途端のことだった。
「グゥワァッッッ!!!」
「ギャアアアアアア!!!!」
俺は足元からの不意の襲撃に、たまらず声を上げた。
「コウ様!」
どこからか、フレイアの叫びが耳に届く。
襲撃者は、さっきまでずっと下にいたはずの子竜だった。上昇気流にでも乗って来たのだろうか、いつの間にやら、ここまで昇ってきたらしい。さっきまで頼りなく飛んでいたはずなのに、何て上達の早さだろう。
子竜は八の字を描いて暴れ回る母竜の周囲を螺旋状に巻きながら、俺に喰いかかって来た。速度は母竜ほどでは無いが、飛行はもう完璧であった。
「うわぁぁ! ああぁ!」
俺は竜の背を這いずり、すんでのところで噛み付きを躱していた。
母竜が燃える首輪の付いた頭をねじり、尖った視線を俺に向ける。相変わらずくすんだ瞳ではあったが、今はその奥に、確実に俺を捉えているとわかった。
母竜の喉元に、剣を突き立てて逆さになっているフレイアが見えた。
「フレイア!」
俺は縋る思いで彼女に呼びかけた。
フレイアは眉間を険しくし、白熱した目でこちらを睨んでいた。状況を打開できない歯痒さが、剣を握る手の力みに顕著だった。歯ぎしりの音さえ聞こえてきそうな気概が、赤外線となってじりじりとこちらまで伝わってきた。あんな子だったかな?
だが、そんなことを気にしている暇は無く、子竜はついに、俺の脇腹へと攻撃をしかけてきた。
「ヒィィッ!」
大空に俺のみっともない悲鳴が響いた。
ガクン、と母竜が揺れた拍子に、子竜の鋭い爪が俺のジャージを、一文字に切り裂いたのだ。
かろうじて引っ掻き傷のみですんだものの、俺は痛みよりも驚きで悲鳴を上げざるを得なかった。寸でのところで、俺の中身が異国の空にぶちまけられるところだった。
俺は夢中になって身をばたつかせ、すがりつく子竜を蹴った。子竜はそれでも首を伸ばして俺の足にじゃれつきながら、ズボンの裾をズタズタに千切って、なおも執拗に腹を狙ってきた。
フレイアの詠唱が聞こえてきたのは、その時だった。例のあやとりの音に似た、彼女の国の言葉だ。
詠唱が終わるや否や、たちまち俺の周りに、マンホールの蓋大の炎の輪が湧き起こった。
「!?」
俺が驚愕したのと同時に、子竜が炎に弾かれて引き下がった。
炎の輪はそれから盛大に火炎を噴き上げると、あっという間に、小さな火の粉だけを残して消え失せた。
子竜は炎が消えたと見るや、無謀なのか勇敢なのか、またもや勢いを盛り返して俺に喰いかかってきた。
「コウ様!」
フレイアの甲高い声に、俺はすぐに彼女の方へ視線を向けた。
「何!?」
その間も、子竜はしつこく俺を襲ってくるし、母竜はハイスピードの超蛇行運転をかますしで、俺はちっとも気が気でなかった。
「コウ様、予定変更です!」
「何だって!?」
「今、ここで扉を開きます! 十分状況が安定しているとは言えませんが、それしか方法がありません!」
「はい!?」
「とにかく、これから詠唱を行います! 何とかして続けてください!」
俺は光る手綱を、ほとんど感覚が麻痺してきた指で強く、これでもかときつく握り締めながら、子竜に対する反射神経を極限まで高め、風音の中で覚束ないフレイアの声に向かって、聴覚を研ぎ澄ませた。
究極の興奮と極度の集中の合間で極まった俺は、フレイアが詠唱を始める前の刹那の隙を突いて叫んだ。
「フレイア!」
「何です!?」
「俺――――最高の気分だ! 君と会えて!!」
彼女の頬にバラのような紅色が花開くのを、俺は確と見た。
今の俺は、最高にキマッていた。
正直な話、すべてはラリっていたからこそ出来た芸当だったと思う。俺のニューロンはかつてないレベルで鋭敏になっていた。俺はキノコに感謝しつつ、馬鹿野郎と思いっきりなじった。
脳内原人たちの天まで焦がすキャンプファイヤーが、チラチラと美しい火の粉を無数に夜空へ飛ばしていた。輝く一面の星空が、鋭くなった視力によってさらに輝かしく、一粒一粒が狂気的なまでにハッキリと見えてくる。
俺はライトスピードで宇宙を駆け抜けていた。
――――真実だ!
果ての果てに見えたそれに向かい、俺は直感的にそう叫んだ。
真実は○かった。
何を言っているかわからない?
俺にもさっぱりわからない。
妄想は星霜の彼方に、煌めく尾を引いて過ぎ去っていった。
果たして俺は、ちゃんとフレイアの言葉を繰り返せていたのだろうか?
いずれにせよ俺は、ぐわんぐわん揺れる竜の上で、自分の部屋にいた時と同じ強烈な光に包まれていた。
『走る波』
「はしる、なみ!」
『回る、回る、風車』
「まわるまわるー、かざぐるま!」
『陽気な隠れ家の裏口へ』
「ようきな、かくれがの…………うらぐちへ!」
『今、通い路を』
「いま、かよいじを!」
『穿て――――』
『うがてェ――――!』
やがて、白以外何も見えなくなった。
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