第11話 不思議キノコと老いたる女王竜。俺が決死の覚悟で宙を舞うこと。
昔、テレビのドキュメンタリーで、どっかの国にあるシロアリの塚を見た。それは人間の背丈よりもずっと大きな土製の塚で、内部の空気をラジエーターのように調節するとかいう、驚異の建築構造を持つものだった。
だが、それよりももっと信じ難かったのは、シロアリたちが中で農業(彼らは自らの糞を使って、ある種の菌を栽培する)を行っているという事実だった。
一緒に見ていた妹は、シロアリがゴキブリの仲間だと知ってひたすらに「キモい」と連呼していたが、一方の俺は、虫って凄いなあ、とひたすらに感心していた。
世の中には、俺の知らないことがたくさんある。できるなら俺は、色んな生き物になって、目が回るぐらいたくさんの世界を見てみたいって、本気で思っている。
まあ、それはそれとして。
問題は、どうして今になって、俺がこんなことを思い出しているのかということだ。
理由は簡単。竜の巣の内部に入った時から感じていた、ぬくい湿った空気の発生源と推測されるキノコの群生地に、俺が辿り着いたからだった。
キノコの園はもうもうと、何とも形容しがたい、べったりとした甘い匂いを醸し出していた。
「んー…………。あんまり吸わない方が良いかもしれません」
フレイアは眉を顰め、口元を袖で覆いながら言った。俺もジャージの袖を引き延ばし、顔を覆って答えた。
「確かに、あんまり食欲の湧く匂いじゃないね」
「それもそうなのですが、何だかもっと嫌な予感がします」
「嫌な予感ねぇ」
俺の勘はもうすっかり麻痺していたので、特に意見は挟まなかった。なにぶん嗅いだことのない系統の匂いで、判断がつけられなかった。
フレイアは低い声で、短く言った。
「急いで抜けましょう」
俺は「ああ」と返事し、彼女について早足でキノコ園を後にした。
「あれが、女王竜です」
フレイアの静かな、だが熱のこもった囁きが俺を身震いさせた。
長い長い廊下(フレイア曰く、雨期には水が通る道となるらしい)を抜けて巣を登ってきた先、おそらく建物のちょうど中央部にある大部屋に、その老竜は蹲っていた。
外にいた竜の鱗が黒く艶やかに光っていたのに対し、女王の鱗は、見るからに乾いてくすんでいた。
竜は目を瞑ってじっと丸まっており、微かに腹が上下している他には、何の身動きもしなかった。こんな状況でなければ、精巧なアニマトロニクスなのだと言われても、すとんと納得しただろう。
「こんなに近寄ってバレないかな?」
「大丈夫でしょう。竜たちは視覚や嗅覚にはほぼ頼らず、魔力を感知して獲物を探します。コウ様からは、ほんの僅かばかりの魔力しか嗅ぎ取れないでしょうから、この程度の接近では問題にはなりません」
フレイアは彼女が齢二千を超える古い竜であること、そして、もうすぐ女王を引退する定めであることを話した。
「女王の引退は死を意味します」
中央ホールを囲う回廊状の道(というか、壁のでっぱり)をこそこそと辿りながら、フレイアは続けた。
「天寿を全うした竜の逆鱗には、時空を自在に超える力が宿るとされています。例えば魔術師でなくとも、魔力を使わずに、いつ、どんな世界にでも飛んで行けるのだとか」
「へぇぇ、すごい。じゃあ、それをこれから取りに行くわけ?」
聞くとフレイアは、ふるふると小さく首を振った。
「残念ながら、今回は違います。女王の鱗は、彼女の命が尽きるその瞬間にしか手に入らないのです。それも、寿命による死でなくてはなりません。一応確認のために寄ってはみたのですが、見る限り今回は機会に恵まれないようですね」
俺は通路からまどろむ女王を眺めやりつつ、なおも威容を失わぬ彼女の姿を印象に留めた。
静寂な最期を邪魔せずにすんでホッとしたのは、俺の甘さか、それとも自然な感情なのか。フレイアの方の心境は、その小さな背中からではとても測り知れなかった。
それから俺たちは、今までよりもぐっと幅の広い通路へと出た。俺は久しぶりに通り抜ける外の空気を感じて、思わずフゥと一息ついた。
「ここから先は竜の通り道です」
滑らかなフレイアの言葉の端にはピンと張った緊張が窺えた。
「遭遇の可能性がありますので、慎重に参りましょう」
俺はいよいよ昂ぶってきた心臓の鼓動を全身で感じつつ、できるだけ落ち着きのある、深い呼吸を意識して歩き出した。疲労のせいか、頭の芯がジィンとして不自然にくぐもっていたが、痛いわけでもないし、それほど気にはならなかった。
それよりも俺には、通路の奥に見える2つの黒い影が気になっていた。あれが目指す竜かと何度もフレイアに尋ねようと思ったけれど、不思議なことに、疑問は声になる前に、いつも煙のように立ち消えてしまった。
どうも変だ。いや、そうでもないか?
ううむ、どうも考えがうまく巡らない。
俺は仕方なく淡々と進んで行き、やがてまた疑問を浮かばせるという反復を、密かに繰り返していた。
前を行くフレイアは足取りも軽く、しかも本当にわずかな音さえ立てずに歩いていた。身体が小さいせいかもしれないが、それにしても彼女は器用に足を運んだ。
俺は一歩毎にじゃりじゃりと泥砂のこすれる自分の足音を聞きつつ、着実に影の方へと近付いて行った。見れば見る程、影は竜の形だった。
通路は水平、垂直方向に複雑な網目状となっているらしく、途中にはいくつもの穴が開いていた。暗がりとなった穴の奥からは、風が通る「オオオン」という不気味な音が絶えず漏れ出てきており、誤って落ちたらと想像すると冷や汗が垂れた。
そうしてようやく、竜の鱗の陰影がくっきりと見えるぐらいの距離まで近付いてきた時になって、俺たちはそろりと近くの横穴へと姿を隠した。
先程、竜が魔力を感じて動くという話をフレイアから聞かされたが、それにしたって、背筋が冷えないことはなかった。さっきからずっと持続している身体の緊張とも相まって、俺は今にも「うわー!」と叫んで、なりふり構わず全速力で逃げ出しかねなかった。
竜の片方は、もう一方よりも三周りぐらい小さく、まだ子供のようだった。俺は寄り添って熱心に外を見つめる親子を見張りながら、声を出す危険を承知でフレイアに尋ねた。
「なぁ、竜の喉の鱗って、取ったら竜はどうなるの?」
フレイアはちらと俺の方に目を向けると、ごく抑えた声で淡泊に答えた。
「生存は可能です」
「生存「は」?」
「コウ様は、不殺生主義でいらっしゃいますか?」
俺は穴から抜けてくる冷たい風に身震いしつつ言った。
「いや、必ずしもそういうわけじゃないけども。どうなるのかなー、って思ってさ」
フレイアは顔を竜の方へ向け、風に乗せるような調子で述べた。
「黒蛾竜の場合、逆鱗は一定期間の後にまた生じます。直ちに生命活動に影響が出ることはありません。ですが、生存競争において不利になる点はどうしても出てきます」
「例えば、どんな風に?」
「逆鱗は竜の魔力の源泉となる器官なのです。もちろんそれのみに魔力の生成を頼っているわけではないのですが、竜の魔力循環系において、逆鱗が重要な役割を担っていることは否めません。
ですので、竜がまだ幼かったり、たまたま生命力の弱い個体であったりして、他器官での魔力生成が不十分であったりしますと、逆鱗の損失が致命的となることがあります」
フレイアは一拍置いてから、抑揚少なく付け加えた。
「…………少なくとも、好んでやるべきことでないのは確かでしょう」
俺は「そっか」と毒のない頷きを返し、また竜たちがいる方向へと目を戻した。
「それで、これからどうする?」
俺が問うとすぐにフレイアは返してきた。
「隙が生じ次第、ここから一気に詰め寄ります」
「隙と言いますと」
「この時期、親竜は生まれた子に飛行訓練を施します。この土地に時折吹く強い風を利用し、風の掴み方、飛び方を教えるのです」
一体その行為のどこに隙があるのか、という俺の疑問は、しっかり顔に出ていたようで、フレイアは俺の問い返しを待たずして話し続けた。
「離陸の瞬間に、竜は必ず無防備になります。特に母親は、子の様子を見守るために己自身への注意を疎かにしがちです」
「なるほど、OK。風を待って、飛び立つ親竜に突進するってことなんだね」
「はい」
…………あれ、この計画イカれてない?
そう思ったところで、今更何が変えられるわけではなさそうだった。どうして事前にもっと詳しく聞き出しておかなかったのかと、自分を責めたいところではあったが、例の頭の靄が今になって急速に広がりつつあって、思考が凄まじく鈍っていた。緊張と理解が乖離し、現実が変に浮足立って見える。
変だな。いくら何でも、そんなに疲れているとは思えないのに。それに気のせいか、目の前が霞んできたような感じもする…………。
「突風には前兆があります」
フレイアの言葉がまるで、そよ風に揺れる風鈴みたいに耳に響いてきた。
「フゥテルバ、というのは、この世界の草原に生息する小さな妖精の名なのですが、突風の前にはあれらが全てあのジュマ山脈の頂に集まります」
聞きながら俺は、竜がぼやけているなと思い、目を手の甲でこすった。やはりピンぼけている。
「集合したフゥテルバが、一斉に山から駆け下りる際、風が引きずられて落ちてきます。そして竜たちは、風だけではなく、大気中のフゥテルバも一緒に掴んで空を飛ぶのです」
ああ、やばい。
俺の目はリアルにおかしくなっているようだった。無駄に視力だけは良かったはずなのに、いくら瞬きしてみても、遠くのものがぼやけてしょうがなかった。
「従って、竜たちは、フゥテルバが山へ登ってしまうと空から巣へ戻って来ます。今がまさにその状態です。私たちの侵入前には、まだ少数のフゥテルバが平地に残っていたようでしたけれど、そろそろ全員が山頂に辿り着いたのではないでしょうか」
俺は慣れない視界に困惑していたが、それを口にするとかえって混乱をきたしそうで、あえて黙っていた。かわりに俺は、自分でも阿呆っぽいとわかる、間の抜けた質問を繰り出した。
「フレイア」
「はい、何でしょう?」
「俺、死んだらどうなるんだろう?」
は、という相手の発音が聞こえるか否かのタイミングだった。
待っていた風が吹いた。
俺たちは咄嗟に走り出していた。正確には、俺が真っ先に、脇目も振らずに飛び出していた。
強烈な向かい風で思うようには進まなかったが、それでも俺は邁進した。突進した。急がねばフレイアに置いていかれてしまうと、なぜか滅茶苦茶に焦っていた。
竜は両者ともやや前傾になり、翼の広げ方をレクチャーしていた。
俺は力の限り手足を振りながら、ふと、フレイアはどうしているだろうと考えた。そもそも俺でさえ走り難い風の中で、人形サイズの彼女がどうして立っていられる? もう吹き飛んでしまったのでは?
だが例によって、そんな心配は全く無用であった。
それに俺が気付いたのは、子竜がいよいよ大地を蹴り、わずかに浮き上がり、母親が今にも後を追いかけんとした、その瞬間だった。
ああ、竜が飛んでいく――――――――。
目の前が太陽光に飲まれて薄らいだのとほぼ同時に、何か強い力が俺の足の裏で弾けた。
「うおおっ!」
俺は前のめりになって急加速しながら、腹の底から叫んだ。
慌ててもう片方の足を着地させた途端、同じことがその足の裏で起こった。
悲鳴か、雄叫びみたいな俺の奇声がそこら中の穴に響き反響するさなか、俺の肩から小さな影が、素早く前方に飛び出して行った。
影は厳しい口調で俺に呼びかけた。
「思いきり飛んでください!!!」
俺は足元の爆発に乗り、無我夢中になって駆け、やぶれかぶれで巣の外へジャンプした。
思いのほか遠い大地との距離と、刹那の無重力に、ちょっと泣いていたかもしれない。
俺は、いつの間にか竜の黒い首筋にかかっていた、光る紐に手を伸ばした。その紐が何だとか、フレイアがどこへ行ったのかだとか、もう一切考えていられなかったが、幸いにも、俺の手はすんでのところで紐を掴んだ。
俺は強く強く、さらに強く強く、紐を握り締めた。
紐はたちまち、俺を引いたまま短く縮んで行った。俺は竜の首筋に、ぴたりとヤモリのように纏わりつくかたちとなった。
竜はその間も、ぐんぐんと上昇していった。俺は全身に強烈な風を浴びながら、眼下の景色を視界に捉えた。
日を浴びて水晶のように輝く白い草原。点在する青い木。それらを囲う、峻嶮な連峰。そして草原の中にいくつもそびえ立つ、灰白色の竜の巣。そんな風景が、地平線まで遥かに続いていた。
俺は最早、恥も外聞もなく、ひたすらにフレイアの名を絶叫していた。もし返事があったとしても、間違いなく聞き取れなかったろう。加速に伴う風の咆哮が、やがて悲鳴さえも無情に飲み込んでいった。
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