第2章 賢者の日常と、波風を立てる者たち
第06話 愛猫神官の留守に
『なあ、爺ちゃん』
ワシは、手に馴染んだ魔導書に目を落としたまま、「ん?」と、こたえた。
『いつものことだけど、うちの父ちゃん、大げさ過ぎるよな』
「愛猫神官のことか? やつが王都の教団本部へ出張する時は、前はもっと大騒ぎだったじゃろ」
『あー。まだ僕が子どもの頃のことかな。ぼんやり覚えてる』
「『風邪を引いてはいけない』と、人間の赤ん坊用のゆりかごやら衣類やら
毛布やら、背負ってふうふう言いながらやって来たからなあ」
愛猫神官の猫、あおは、黙って毛づくろいを始めた。灰色で淡い縞のある短毛種なんじゃ。「あお君、あお君」と、愛猫神官は可愛がっとる。
定期的に、王都へ出かける時は、ワシがあおを預かっておるんじゃ。ここにはイルカ型の助手もおるし、本棚に飛び乗っても誰も叱らない。
あおは自分の別荘みたいに思っておるようじゃ。
『爺ちゃん』
ひとしきり毛づくろいをして気が済んだのか、またあおが話しかけてきた。言葉が通じないと不便じゃから、ワシの耳にはあおの話す言葉が分かるように呪文をかけてあるんじゃ。
「なんじゃね」
『僕らは、ネズミや虫を捕まえたり、可愛いのがお仕事でしょ』
「そうじゃな」
『だとしても、うちの父ちゃん、僕のこと好きすぎない?』
「『一緒に寝ようと思いまして、抱っこして寝床に連れて行ったら
引っかかれました』と、いつだか、
ワシに引っかき傷を嬉しそうに見せておったな」
『父ちゃん、そんなことしてんのかよ……。
僕も父ちゃんのことは気に入ってるけどさあ、過保護過ぎるし過干渉なんだよ』
「愛猫神官は、可愛がりすぎて殺すタイプじゃな」
『そう思う。鉢植えとかみんな枯れちゃうんだよ』
あおは、愛猫神官が、ど外れて自分を好き過ぎること。軽い風邪を引いただけで大騒ぎされたこと。人の五倍の早さで生きる猫としては、愛猫神官を残して死ぬわけだから、愛猫神官を残していくことが心配であること。等を、前脚を舐めたり、顔を洗ったりしながら、話してくれた。
「あお君は優しいですね」
助手が宙で寝返りを打ちながら、そんなことを言ってよこす。助手は呪文をかけるまでもなく、動物の言葉を理解する。イルカの姿しとるしな。
『優しいのかなあ。うちの父ちゃんと暮らすと、誰でも心配になると思うよ』
「きっと、猫によると思いますよ」
『そうかなあ』
あおは解せないという顔をしとる。助手は、ワシがどうにでもできることを知っているので、気持ちよさそうに宙を漂っとる。
「なあ、あおや。黒服美形のように不老不死にすることも、
死ぬ度に生まれたての赤ん坊猫に戻って生き続けることも、
あるいは別の方法も、望むならワシが用意するぞ?」
『ずーっと生きるのも大変だよね。父ちゃんが死んでから、
僕が死ぬようにするのは出来る?』
「出来る」
『そうかあ……』
今日は黒服美形に頼まれた用事があるんじゃ。あおの問題はじっくり考えさせることにして、ワシらは老いた農耕馬の元へやってきた。助手の背中で、『高いところは気分がいいねー』と、あおがはしゃいどる。
「元気がないらしいな」
『これは賢者様。脚も腰も悪くしておりまして、寝そべったままで失礼致します』
「よいよい。ワシらも書斎に引きこもってばかりではいかんからな。気を使うな。
お前は、まだ病気でも無いのに、餌を食べなくなったと聞いたぞ」
『はい』
「医術は黒服美形も身につけておるが、動物と話せるのはワシらだけだからのう」
『ご心配をおかけして申し訳なく思います』
「お前、まじめじゃな」
老いた農耕馬は、きょとんとした顔でワシを見つめた。あおはワシらから少し離れた場所で、目を閉じて耳だけこちらに向けておる。助手は、そのあたりを漂っている。
老いた農耕馬は、若い頃のように働くことが出来なくなった。村外れに賢者が住み着いたことで、飢饉が起きたり疫病が流行ることは無くなったが、特別に豊かになったわけでもない。一緒に生きてきた人間達は、優しくしてくれるし、若い世代の馬たちに邪険にされることも無い。
だが、出来たことが出来なくなることが切ないのだと言う。
「役に立たないなら、食べる必要もないと考えたか」
『いえ、そうではないのですが、喉を通らないのです』
「ふーむ。お前が餌を食べたくなるようにすることも、
若い頃と同じように働けるようにすることも出来るが、
それではお前の気持ちが納得せんよな」
『仰られる通りです』
「では、お前はどうしたいんじゃ?」
老いた農耕馬は、家族が育てているミニバラが心に残っているという。残りの命を、ミニバラとして過ごし、家族を喜ばせたいのだそうだ。ワシは老いた農耕馬の額に指で触れ、魔法を発動した。
――霜柱が立つ冬、わずかな日差しを楽しみに、春に備えて力を蓄えていく。春が来て、新芽を出し枝を伸ばし蕾をつける誇らしさ。淡い赤の花を咲かせ、やがて花がらを落とし迎える夏。強い日差しを浴び、過酷な冬へ向かう支度をする。そんなミニバラとしての時間を数年分、まるで自分のことであるかのように経験させた。
『賢者様。私は夢を見ていたのでしょうか』
「夢のようであり、お前がたしかに経験したことでもあるなあ」
『花としての時間は、こんなにも静かで力強いものなのですね』
「ワシはお前が経験したことを、経験することはできんじゃろうな」
老いた農耕馬が不思議そうな顔をする。
「獲得した知識や力を手放したくない欲が強すぎる。ある種の呪いだ。
呪われておっては、お前のように花の命を経験することはできぬよ」
『賢者様でも、経験できないことを味わわせて下さったのですか』
老いた農耕馬は、ワシに礼を言うと、痛む体をかばいながら立ち上がった。
『なんだか、食べられそうな気持ちがします。――馬としての命の他に、
ミニバラの命も経験した馬は、きっと私くらいのものでしょう』
ゆっくり、ゆっくりと、痛む体を庇いながら小屋へ帰っていった。
あおがワシの側へやってくる。
『爺ちゃん』
「なんだね」
『さっき爺ちゃんが話してくれた、「父ちゃんを看取って僕が死ぬ」ってことも、
爺ちゃんが言ってた呪いになるのかな』
「普通の猫の何倍も生きることになるからなあ。呪いとまではいかなくても、
歪みは生じるなあ」
『僕まだ答えを出さなくていい?』
「もちろんじゃ。あおの中で答えが出るまで、時間ならいくらでもあるわい」
あおは帰り道、ワシの背中にむしり着いておった。助手の背中の方が、乗り心地が良かろうに、仕方のないやつじゃ。
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