浴衣を期待していたなら。


初めて話しかけてから、二度目に話したのは三学期だった。嘉月くんは一年の頃から体育祭実行委員で、よく体育教科の先生にこきを使われていた。


「今日の日直のひと、いる?」


丁度教室の出入り口の近くに席があって、ちょうどその会話を聞いた。

ちょうど私が日直だったからだ。

振り向くと、声をかけられた男子が私を示して教室の中に戻っていく。何か雑用か、と出入り口に来た男子を見上げた。日直に来る仕事なんて、大抵が雑用だ。


「悪いんだけど、これ今日の帰りにみんなに配ってほしい」


こちらを見ていたのは嘉月くんだった。

おお、と心の中で漏らす。廊下に出て、その内容を聞いた。


「あ、うん」

「今度の球技大会の連絡を、」


クラスメート分のプリントの中から一枚を引き抜こうとした、ら、全てのプリントが落ちた。ざざざーっと。正直に言う。漫画みたいだった。

しゃがんでそれを集めると、「ごめん、本当にごめん……」と言いながら一緒に集める嘉月くん。私は私で笑いを堪えるのに必死だったので、「全然」と答えたきりだった。

漸く散らばったそれらをとんとんと均した頃に笑いも治まって、立ち上がった。次に立ち上がった嘉月くんの首を見ると、真っ紅だった。


「もしかして、恥ずかしい、とか?」

「え」


あ、耳まで紅くなった。


「え、なんで」

「ご、ごめん。何でもない、忘れて」

「いや別に、そんな目立つ? うわーまじか、耳?」

「耳というより首の方、かも」


項を押さえた。言ったら悪いことだったのかもしれない。私は無意識にプリントを脇に挟んで、掌を見せる。


「気分を害したなら、ごめんなさい」


そういえばこのポーズは謝罪というよりは降参の方だった。やってから思い出す。これでは気分を害するに決まっている。


「や、そうじゃなくて。赤面症なのバレてないと思ってたから」

「顔は全然なってないよ。言わなきゃ良かったね」

「じゃあ、前に話したときも気付いてた?」

「え」


次はこちらが驚く番だった。覚えていた、というよりも知っていたらしい。私があの時話しかけたこと、このクラスにいることを。

プリントを落とさなかった自分を褒めたい。


「前、というのは」

「二学期中旬の放課後に、俺がコンタクト落としたとき」

「ああ、うん、気付いてた、ね」


歯切れの悪い言い方だと自分でも思った。嘉月くんは苦笑して、眼鏡を取る。顔が整っていると感じた。

私が最初に話しかけたのは、この顔だった。

顔が近づけられる。その距離、約15センチ。


「嘉月雅輝です、どうぞよろしく」


私はそのとき初めて知ったのだ。

嘉月って下の名前じゃなかったのか、と。




「おはよ」

「あ、おはよう」


その時からすれ違うと、挨拶をするようになった。相手も気遣ってかそれとも保身の為か、私が一人で自分も一人のときが多かった。そっちの方が私も気が楽で、少し話をした。

なんでも焦ると、首や耳が紅くなるらしい。昔は顔もだったと言っているけれど、そんな風には見えない。首だって注意して見なければ分からないくらいだ。


「新良、飴もってる?」

「持ってるよ。のど飴」

「一個欲しい」


ポケットに入っていたのど飴をひとつ渡す。喉の調子でも悪いのだろうか。


「ありがとう」

「いーえ」

「お返し何が良い?」

「要らないよ、飴ひとつに」


嘉月くんは譲らず、私が折れる。律儀なひとだな、と思った。思いついたら連絡して、と連絡先を教えてくれた。自動的に私のも教えることになった。


三学期は過ぎるのが早くて、あっという間に修了式。放課後には、体育館からバスケットボールをドリブルをする音や女子バレー部のサーブする音が聞こえる。私たち化学部は化学室に引きこもって、滴定をしていた。


「来年の新入生、入るかな」


同じ学年は穐田くんしかいなくて、部長以外の二年生は幽霊部員。うちの部活は春には部長が引き継がれてしまうので、来年は私か穐田くんが部長か副部長をしなければならない。

それも、部活が存続していたらの話で。


「三年生も卒業しちゃったし」

「幽霊なら入るんじゃないですか?」

「最近生徒会がチクチク言ってくるんだよね。予算もガリガリ削られてるし」

「今のところ実質三人ですからね、活動してるの」


穐田くんと部長は溜息を吐いた。わたしはろ紙をぺこぺこと折っていた。春休み中の実験で使おうと思って、先生に少し分けて貰った分だ。

どうしよう、と言っても今どうにもならないのだから仕方ない。というのが私の判断。それより何より、新入生歓迎会で何を発表するか未だに決まっていないことの方が問題だ。


「歓迎会、何やります? 決めて出さないと、また生徒会にチクチク言われますよ」

「あーそれもあるんだった」

「今年やってたシャボン玉、見ていて楽しかったなあ。ああいうのやりたいです」

「あれか……じゃあ今年は、ダイラタンシーのとかは? 水面上を歩けます! みたいな」

「歩くのは部長か穐田くんですよ」


穐田くんはきょとんとした顔で、「なにそれ」と尋ねる。ダイラタンシー。遅いせん断刺激には液体、速いせん断刺激には固体のような抵抗性をみせる性質。大量の片栗粉を水に溶かしたものが良い例だ。


「片栗粉の中に落ちるのはちょっとな……」


穐田くんはぼやいた。








「こんな状況になるなら、片栗粉塗れになった方がましだ」


どの口がそれを言うか。

と、私は冷酷な人間ではないので口には出さない。今日だってちゃんと集合場所に来たわけですし。どれだけ仮病を装おうかと思ったか。

真面目な部類に入る私たちは集合時間の20分前に集合場所に着いていた。体育祭実行委員は誰一人として来ていない。穐田くんは増えていく人を見て、うんざりとした顔をする。


「新良ちゃん、10分前までに誰も来なかったら、化学部のメンバー集めて花火しようよ。手持ちのやつ」

「良いね、線香花火も」

「俺ススキ花火入ってるやつ……あ、嘉月」


見るよりするほうが楽しそうだな、と思ったところに現実。顔を上げると、私服の嘉月くんが改札を通ってくる。すぐにこちらに気付いて、近付いてきた。

「おはよう」と夕方だけれど挨拶をしてくれたので、二人で返す。それから、私の姿を見て一言。


「浴衣じゃないんだ?」




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