第212話
昴襲撃に関する記録映像の話はひとまず済んだ。もう一人の真那の存在について話し合いたいことや解明すべき事実がいくらかあるのが本音だが、今は真那を休ませてやりたいというのが時雨の身勝手な感情である。
背中に真那の体重を感じる。凝り固まった疲労感と
ようやく安心して眠りにつけたであろう真那を起こすのは忍びなく、その貴重な休息の時間を奪わぬようにしばらくそのままの姿勢を保つ。やがて彼女の眠りが深い場所にまで沈んだ辺りで、ゆっくりとその身をベッドに横たえた。
胸元の女性的ななよやかな起伏を意識しないようにしながら、その華奢な肩まで覆うように毛布をかけてやる。雪こそ降っていないものの既に時期は初冬だ。風邪など引かれるわけにもいかない。
時雨はベッドの縁に腰掛けてゆっくりと溜息をつく。真那との話し合いで最悪な方向に話が転ばなかったことに対する安堵のため息だ。正直懸案していた事態はいくつもあった。
まず昴襲撃の犯人として真那が自分自身の記憶に疑問を持った場合。昴を撃ってしまったことに対する自責と、自分では制御の利かない人格が存在するのではないかという恐怖心。そんなものを感じるようになってしまえば最悪真那の精神が崩壊しかねなかった。
他には自分がやったのではないと自覚しつつもそれを認めてしまう事態だ。レジスタンスの平穏を優先して自分を二の次にし、廃っていってしまうような結果にならなくて本当に良かったと思う。
他にも危惧していた状況はいくつもあるが実際にはそうならなかった。時雨が思っている以上に真那は精神的に成長していたのかもしれない。
「俺にそんな事言われる筋合いはないか」
それよりも今は他にやらねばならないことがいくつもある。真那の中にレジスタンスへの疑心を芽生えさせたくはないため、できれば彼女が眠っている間に済ませたい。
真那に割与えられている部屋に出向いて室内を物色する。当然ひと目見てすぐに気づかれるような場所に真那を監視する機材は設置されていない。しかし上層部の連中が時雨というお目付け役以外の監視を用意していないとは考えにくい。
天井や壁、家具などを一通り洗っていくつかの観測用デバイスを確認する。時雨の確認できたものだと盗聴器に赤外線カメラ、それから動作検知系のセンサーのたぐい。真那の部屋だけでも二桁近い数が隠されていた。
「普通の監視カメラじゃなければいいってわけじゃないぞ……」
プライバシーの侵害である。そもそもこういった物を設置させないことを条件に、時雨が真那のお目付け役に
棗に対する
これはこのまま放置して、動作識別センサーだけしか設置の確認できなかった時雨の部屋に真那を居住させるのが吉か。上の連中も真那が脱走など企てずに旧東京タワー内に留まっていることが分かっていれば、行動には移さないはずだからだ。
現状旧東京タワー外へと出る手段はエレベーター以外にない。数百段の外階段はあるものの、非常扉は頑強なものに付け替えられ非常時にしか開かないようにプログラムされている。
そのエレベーターに関してもそれなりに高度なセキュリティが掛けられており、稼働させるためには認証が必要になる。予告通り移送前には既に時雨と真那の権限は剥奪されていた。そもそも認証に用いるビジュアライザーが回収されているため、剥奪の手続きがなくとも利用することは叶わないのだが。
もしエレベーターなどを経由せずに下界に降りようと考える場合、展望台の強化ガラスをぶち破って三百メートル以上の高さから身投げするしかない。その時点で到底現実的とは言えないが、たとえ地面に五体満足で着地できても敷地外に離脱することは不可能に近い。
都市化計画に伴って旧東京タワーは電波塔としての役割を失い、リミテッドの象徴的建造物になった。その際外周半径約百メートルに渡って区画整理が行われ、侵入者を拒む自動タレットが設置されたのだ。
そのタレットがあるからこそ、レジスタンスはこの電波塔を本拠点に据えることができたのである。
「しかし下界との連絡手段がないというのは不便だな……」
真那の裏切り発覚が原因でこの軟禁体制が築かれている以上、通信端末が使えないのは当然ではあるが。
時雨と真那では対処し得ない問題や、逆に下界で何か看過し得ない問題が生じた時どう対処すべきなのか。これに関しては後で真那と話し合う必要がありそうだ。
一通り施設内を巡回して生きているシステムを確認し、ジオフロントに管制塔が移動する以前の設備はだいたい生きていることは分かった。中階段で移動できる階層であれば、時雨らでも設備も利用することはできるはず。
娯楽設備らしきものはないが、時雨の把握している限りだと慰霊碑のある中央展望台や、以前棗を探しに出向いた小さなバー等があるはずだ。当面は支給された即席食品で生活できるが、それでは更に閉鎖的な気分に陥りかねない。バーに備蓄されているらしい食品を使ってなにか作ってもいいだろう。
「おかえりなさい」
数時間かけて一通りタワー内の監視システムを確認し部屋に戻るなり、真那が出迎えてくれる。どうやら自分が監視対象であることを自覚し部屋から出ずにいたようだ。
起きてから既にそれなりの時間が経っていたようで、暇を持て余したのであろう真那は時雨の部屋の清掃をすませていた。ユニットバスなどにも清掃の手が行き届いており、浴室の戸を開けると蒸気が顔面に降りかかる。
「ここのところ殆ど休めていなかったでしょう。私よりも時雨のほうが休息が必要なはずよ」
私ばかり仮眠なんてとっていられないわと呟きながら、真那は簡易キッチンで調理したのであろう軽食を乗せた皿を手にベッドに座った。この部屋には机や椅子などという生活感のある家具はほぼないのだ。
座ったら? と目線で相席を促してくる真那に従って彼女の隣に腰掛ける。家政婦もかくやというそつなさで家事をこなす真那。その姿に驚く時雨を気にかけるでもなく、彼女は皿からスコーンをつまんで時雨に手渡してくる。
「菓子とか作るんだな」
「この部屋の冷蔵庫に用意されていたものが乳製品と卵だけだったから。粉類とそれらで私が作れるものがこれしかなかったのよ。ドーナツを揚げるにも油がないし……」
時雨の知らない一面を見せる真那。レジスタンスに加入してから今まで殺伐とした環境の真那しか見てこなかったために、普通の年相応の女性らしい姿に感銘を受ける。
早く食べてくれないかしらと促し時雨の反応をどこか期待している様子の姿にも、時雨はささやかな喜びを抑えきれない。
「うまいな」
「そう。消化されてしまえば、何を食べても同じなのだけれど」
平静を保ったまま淡々とそう応じる真那だが、なんとなく声音に嬉々たる印象を感じ取ったような気がした。自分の作った菓子を褒められて喜ぶ女性らしい一面もしっかり持ち合わせているらしい。
真那の厚意で用意されたスコーンとシエナの差し入れの紅茶で小腹を満たしつつ話に花を咲かせる。真那とこんな風に普通の話題で歓談したのは初めてだ。
「ふふっ……こうやって何も考えずにくだらない話をしたことがあったかしら」
真那も同じ感慨に至っていたようで表情を弛緩させては微笑をこぼす。
これまでは
そんな癒やしの時間を自ら途切れさすのは忍びなく同時に残念ではあるが、今は真那との歓談に和んでいる場合ではない。それよりも早急に解決せねばならない重大な案件が残っているのだ。
「非常に言いにくいんだが……まず先に言っておくと、俺は真那のお目付け役、いや監視役としてこの場所に一緒に勾留される形となっている」
「そのことに関しては棗からも、あなたからも既に聞かされている話なのだけれど」
改まった態度に訝しく感じたのだろう真那は、軽食の皿をマットレスの上に置いて時雨に向き直る。
「本来真那はあの隔離施設に疑いが晴れるまで拘禁される予定だったのを、この旧東京タワーに監視付きで軟禁するという形で話をつけることはできた」
この監視付きというのがちょっと問題でなと言ったところで言葉に詰まる。話題を出したもののどう説明すべきか考えていなかった。そんな時雨の様子から言いたいことを察したようで、真那は口元に手を重ねて考える素振りをする。
「本来重監視対象の私が、時雨の監視と軟禁だけという形で管理されるのはおかしな話……実際のところはそれ以外の監視体制も築かれているのね」
先ほど真那の部屋を調べて見つけた監視用機材について説明すると、真那は大体の状況を察したようで時雨が提案するよりも先に肯いて応じた。
「私の部屋には二十四時間体制で厳重な監視をするための環境が整えられている……私と時雨それぞれに部屋がわり与えられている時点でおかしいとは思っていたのよ」
「この部屋には動作感知系の機器しかないから、真那にはここで生活してもらおうと考えていたんだが……考えてみればそれでは何の解決にも至らないんだよな」
真那をあの部屋の厳重すぎる監視体制から外すべくこの部屋で生活したとして、この部屋にも同じ機材が運び込まれるのが関の山だ。つまり時雨の目がないところで真那を一人にさせる場合、あれらの監視用機器の設置が余儀なくされるわけだ。
「私は別に誰に監視カメラで監視されていようと気にならないのだけれど」
「俺が気になるんだ」
「カメラと言っても赤外線なのでしょう?」
時雨が何に悩んでいるのかいまいち測りかねている様子の真那に、一体どう言い聞かせたものかと考えあぐねる。羞恥心が人並みにあると言った割に、自分のプライバシーを侵害されることに対する抵抗感はないのか。
「でもそうね……確かにいい気分はしないかもしれない」
「どちらにしても俺か監視員のどちらかの監視を受けることになるわけだ。俺と同じ部屋で生活するのは嫌かもしれないが、だがどこから見られているかわからない状況よりは幾分マシだと思うんだが」
これに関しては真那の一存に任せるほかない。カメラで監視されるよりも時雨と寝食を共にするほうが嫌だと言われればそれまでだ。
「時雨とこの部屋で生活することに、なにか不都合でもあるの?」
「いや不都合というか……ほとんど同棲みたいなものだろ」
「あなたと同じ部屋で寝たことは何度もあるし、今更そんなこと気にしないわ」
何度もあると言っても、その殆どが戦場か他の誰かのいるような部屋でのことだったような気がするが。ジオフロント陥落直前に
時雨に問題がないなら私もこの部屋に住まわせてもらうことになるわと述べて、真那は皿を片付けるべくシンク前まで移動する。本当に動じないなと心の奥底で残念がるもうひとりの自分を感じた。残念に思う理由がないだろうと自分に言い聞かせる。
「ところで……」
食器を洗っている真那の後ろ姿を俯瞰していると、彼女は洗い物の途中にも関わらず突然シンクの水を止めた。そうして背を向けたまま静かに問うてくる。
「あなたによる監視というのは、どこまで要求されているのかしら」
「どこまでってどういう意味だ? 基本的に俺の目の付く場所にいてくれればそれでいいとは思うが」
部屋の外に出る場合は時雨の同行が求められる。あたかも手のつけられない子供のように扱われることに嫌気を感じたのか。どうやらそういうわけでもないようで。
「この部屋にいる限り、ずっとあなたに監視されている必要があるのかしら」
「一体何が言いたいんだ?」
「……わかってほしいのだけれど」
真那らしくない歯切れの悪さにどう反応したものかと悩む。わかってほしいと言われても要領を得ない発言をしているのは彼女の方なのだ。真那心理ソムリエになろうと日々奮闘している時雨にも限界はある。
「だからその……お風呂とか」
感情の起伏が比較的少ない真那でも、この発言には羞恥心を隠し得なかったらしい。こんなことを言わせてしまった時雨もまた自身の甲斐性のなさに情けなさを覚える始末だ。
羞恥のあまりにそわそわと落ち着きない様子の真那の後ろ姿に、身の程をわきまえず高揚を感じてしまう。ネイがいればどんな暴言を図れるかわからない。
ここに勾留されてからというもの、普段は見られない真那の女性的な面を感じる機会が否応なく増えた。彼女の一挙手一投足に反応しないほうが難しい。
「別にそこまで意識しなくていいんじゃないか。俺が部屋にいれば問題ないだろ」
なんとなく気まずい空気に耐えかねて時雨は立ち上がる。浴室には換気口以外の外界との接点がないから時雨の目を盗んで逃走するのは不可能。
そもそも本来旧東京タワーにないものを居住区画として増築したのがこの部屋であり、壁は頑強なトラス構造で補強されている。逃げようと考えても正面扉から外に出るほかない。
「隔離施設に閉じ込められていた時風呂に入れなかっただろ。気にせず入ってきていいぞ」
「……そうね、そうさせてもらおうかしら」
気まずい空気に耐えかねたように真那は立ち上がる。しかし本来こちらの部屋で居住する方針ではなかったために、自分に割与えられている部屋から荷物をとってくる必要があるわけで。それくらい俺がやると真那に言い聞かせて彼女をさっさと浴室に入らせる。
一応上層部に対して監視役が務まっていることを証明するべく、シャワーの音が聞こえてくるまでは部屋に留まる。
時雨が入浴するときはどうしたものか。睡眠時はどうする。強襲に備えて眠りを浅くすることには長けているが、さすがに寝ているときまで真那を監視することは難しい。今後もこういった悩みは尽きなそうだ。
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