2056年 1月11日(火)

第211話

 日を改め、夜間に時雨と真那は旧東京タワーへと護送された。護送と言っても地下にあるジオフロントの隔離施設から、同じ座標のまま直上に移動させられただけであるのだが。

 隔離施設からタワーまでの移送の間も時雨が随伴することとなった。移送の間真那には電子手錠がつけられ、複数人の監視体制のもと逃亡ができないように対策されている。


 隔離施設にて、昨日の時雨と同様目のくらむような白い壁面と強化ガラスに囲われた密室に真那は監禁されていた。とはいえかなり丁重に扱われていたようで、肉体的な疲弊は特に感じられず。

 しかし多少なりとも精神的な疲労はあるようで、移送のため独房から出された真那は時雨の姿を見るなりどこか安心したように胸元に凭れかかってくる。普段からは想像もつかない弱々しい姿を見て、やはりこの施設に彼女を拘留し続けることにならず良かったと胸をなでおろしたものだ。


 移送後、真那と時雨にはそれぞれ別の部屋が割り与えられており、各々少ない荷物を部屋に収納する。真那の容疑が晴れるまではこの場所で生活することになるであろう。

 自分に割与えられた部屋に荷物を持ち込ませたのち、必要事項を伝達すべく真那には時雨の部屋に来るよう伝えていた。

 隔離施設に閉じ込められていたとき彼女は、時雨が着ていたものと同じ囚人用の獄衣を身に纏っていた。獄衣と言っても一般的な刑務所で支給されるような粗雑なものではなく、あくまでも危険物の所持ができない設計というだけのことだが。

 このタワーに移送後は特に指定があったわけでも無いようで、ノックの後に時雨の部屋の扉を開けた彼女は一般的な部屋着をまとっている。普段の真那からは想像のできないゆったりとした機能性皆無のルームウェア。

 不意のことで鼓動が早鐘のように動悸どうきする程度には時雨の心を動かす装いだ。


「どうしたんだ、その服」

「シエナが用意してくれたのよ。今の私は重監視対象だから普段の戦闘衣は支給できないらしくて」


 どこか気もそぞろな様子でひらひらとした裾をただす真那を脇目に覗う。襟から時々伺える首元には細い鎖。きっと蓮をもしたネックレスを今も掛けているのであろう。

 戦闘衣以外の真那の姿などほとんど目にしたためしがないために、どちらかといえば真那よりも時雨のほうがゆとりがない状態だ。

 小さく咳払いをしてドアの前に佇む真那に入るように指示をする。家具らしい家具もないため、一つしかないベッドに彼女を座らせ自分は壁に背を預けることとする。

 シエナによってあらかじめ用意されていた紅茶セットで二人分飲み物を用意する。最低限の説明しかされずにここに移送させられた真那に、多少の休息を与えてやろうというささやかな気遣いからの行動だ。

 しばらくカップに口をつけずに指先を温める真那を見て、黙って暖房を強くする。改造人間である時雨は凛音ほどではないもののそこまで寒暑による身体的影響を受けない。しかし生身の人間である真那のことを慮れば、その程度のこと留意しておくべきであった。

 ややあって紅茶を静かにすすった真那は、どこか目が覚めたような顔つきで味の感想を言表す。


「おいしい……」

「スファナルージュコーポレーションの新商品らしい。これまでは廃棄していた果実の外皮を使っているだとかなんとか。真那に飲ませてやってほしいとシエナに言われてな」


 果実水のたぐいを好まないのかほとんどC.C.Rionを飲んでいる姿を見たことがなかったが。何口目かを口に含み落ち着いたように目を閉じる姿をみれば世辞を言っているわけではあるまい。


「炭酸が苦手なのよ」

「凛音が聞いたら悲しむな」

「そうね。でも私は突き抜ける爽快感も、駆け抜ける青春も知らないもの」


 何を言っているのかと勘ぐるが、そういえば凛音がマスコットを務めるC.C.Rionのキャッチコピーがそんなフレーズだった気がする。

 しばらくの間紅茶を堪能していた真那であったが、やがて心の準備ができたようにそれでと短く切り出す。


「伝達事項があるから私をここに呼んだのでしょう」

「いくつか話さなければいけないことがあるが……まず真那がどこまで把握しているのかが知りたい」


 棗に聞かされた話によれば、時雨が目を覚ますよりも先に真那は目覚め、時雨と同じ話をされたという。棗が現状最も疑いを寄せている真那に対し、すべてを包み隠さず話したとは考えにくい。彼女には全てと言って伝えずにいる情報がある可能性がある。


「自分が疑われていることは理解しているし、話せないことや、私に話す必要がないと判断したことがあるなら話さなくていいわ」


 レジスタンス構成員としてどこまで真那に話すべきか、それとも胸襟きょうきんを開いてすべてを話すべきか。そんな葛藤に苛まされていた時雨に救い船を出したのは真那自身で。音もなくソーサーにカップを置いて目を伏せる。

 彼女は自分が昴襲撃の犯人だと疑われており、それ故に時雨という観察員が自分につけられたことをしっかりと理解している。そのうえでこの発言をした。


「真那、お前は今の状況を受け入れているのか」


 なんとなく真那のその態度に表現し得ない感情が浮かんでくる。怒りでも悲しみでもなく、この感情はどちらかといえば失望に近いもので。


「受け入れざるを得ないというのが素直な感想ね……実際に記録映像を見せられて、私は感じてしまったのよ。映像に映っている聖真那が偽物ではなく本物であることに」

「だが真那は撃ってない、そうだろ」


 時雨の問いに真那は答えなかった。肯定も否定もしないその姿に、ややもすれば自身の罪の意識に囚われ返答に詰まっていると感じるものもいるだろう。

 しかし時雨はそうは受け取らない。真那の性格からして、これはレジスタンスのこれまでの姿勢から否定しても無意味であることを悟っているがための無言だ。

 自分が黙秘を続けることで、レジスタンスにはひとまず真那を拘留し続ける名目が生まれる。これにより不穏因子である真那の新たな裏切りを危惧しなくて済む。そんな事を考えているのだろう。

 自分のことを二の次にしてレジスタンスのために行動する真那はいじらしく、そしてそんな彼女の姿を見ていて虫酸むしずが走る。真那に対する不快感ではない。彼女をこのような自己犠牲的な性格に仕立て上げた人間たちに。そしてそんな環境を強い続けたリミテッドに。


「この際周りの連中の話は度外視だ。俺の話だけを聞け」

「……」

「俺はお前が昴様を撃ったなんてこれっぽっちも思っていない」


 時雨の返答は意表を突くものであったらしい。真那はいくばくか驚いた様子で目線を上げる。何度かの瞬きのあいだに状況判断につとめようとする真那の双眸をじっと見据えた。


「……どうして?」

「疑う余地がないからだ。真那がレジスタンスを裏切る理由がないし、そもそも真那は味方を背後から撃つようなことはしないだろ」

「それは時雨の個人的な聖真那わたしの印象に過ぎないわ。あなたから私がそう見えているのであれば、実際に裏切っていた妃夢路恋華ひむろれんかはどうなるの? あの船坂ふなさかさんが妃夢路ひむろさんに撃たれたのは、そんな根拠のない信用があったからではないの?」


 確かに司令室にて昏倒していた船坂を発見した構成員の話によれば、彼は全弾正面から弾丸を受けていたという。不死身の英霊イモータルスピリットと呼ばれる舩坂ほどの男が、なぜ無抵抗にも一方的に撃たれる結果に至ったのか。

 それは彼が妃夢路ひむろを信頼していたからに他ならない。陸上自衛隊に所属していた頃からの戦友である彼女への疑いなど持っていなかった。いやもしかしたら疑念を抱いていたのかもしれない。それでもそれを上層部に告発しなかったのは、妃夢路を信じていたいという心の表れだ。


「あなたのその信頼は、船坂さんのそれと何も変わらないの」


 どこか衝動的にも感じられた真那の言葉も次第にしぼんでいく。それは真那の言うように時雨の真那に対する信頼が、妃夢路に対する舩坂のそれと同種であるからだ。

 無条件に信じる心。これには何の保障も担保もなく。時雨の真那に対する感情は時雨の望まぬ形で簡単に裏切られてしまうかもしれない。


「真那はそれでいいのか」

「いいのよ。私個人の存在は小さいもの。戦力として重要ではないし昴様や酒匂さんの代わりになれるような頭も持っていない。けれどレジスタンスへの聖真那の影響力は小さくない。私という人間爆弾を抱えてレジスタンスが崩壊する事態は避けなければ」

「そんな事を言っているんじゃない。信用されなくて、必要とされなくて、そのままでいいのかって聞いてるんだ」


 強く彼女の肩を掴んで無理やり俯きかけていた視線をあげさせた。突然の時雨の行動に驚いた真那も思わず時雨と目を合わせてしまう。その瞳の奥で渦巻く複雑な色の中に、確かに時雨が探していたものが見つかる。


「私は、構わない。必要とされていなくても、それでも私は……」

「もういい」


 自分が衝動的になっていることは理解している。本能のまま真那の華奢な肢体を抱きすくめているこの現状に気がついたのも、かなぐり捨てられた理性がようやく戻ってきた頃のことで。

 はっとして彼女の身体を拘束していた腕を解こうとするものの、小さな震えが腕から伝わってくるのを感じて硬直する。それが真那によるものであることを理解はしていたものの、普段の彼女からは考えつかないような状況で。

 その震えはどういった感情の現れなのだろう。嗚咽おえつは聞こえないものの、なんとなく張り詰めた心の糸が切れ静かに哀愁の雫を流している、そんな気がした。


「無抵抗っていうのもさ……ちょっと真那が心配なんだが」


 どれだけの時間が経過しただろうか。華奢な体の震えが落ち着いてきた頃に、急にこそばゆく感じて茶化した言葉をかける。

 普通こういう状況でも突然抱きしめられれば、多少なりとも抵抗したりするものではないのか。時雨にも経験がないためあくまでも憶測の域は出ないのだが。


「どういう意味?」

「いや男の俺に身体を触れられて、嫌がる素振りが見えなかったから」

「私にだって自我はあるのよ。自尊心も、利己心も。少なくとも時雨が思っているよりは身持ちが固いのだけれど」

「だがそれならどうして突き放さないんだ」

「それは……もういいわ」


 どうやら機嫌を損ねてしまったようで、気色ばんだ表情で真那は先まで顔をうずめていた時雨の胸元を突き放す。少しのあいだ時雨の反応を伺っていたが、やがて呆れたような表情をして紅茶を入れ直した。

 少し乱れていたルームウェアとベッドシーツをただして改めて腰を落ち着かせる真那を見て、なんとなく彼女が言わんとしたことに思い当たる。同時に昨晩シエナに去り際に投げかけられた言葉を思い返していた。


「自分に自信を……か」

「?」


 物思いに耽る時雨を訝しげに眺める真那を見つめ返す。今もっとも自信が必要なのは時雨ではなくこの少女だ。

 乱された精神状態を落ち着かせる目的かはわからないが、スプーンで紅茶をゆっくりと混ぜ続けている真那。時雨の意思は伝わったのだろうか。どれだけ彼女を信頼しているのか。そして彼女が自身をないがしろにすることで傷つくのが自分だけでないということを。


「あなたのさっきの行動……どういうつもりだったのかはわからない。それでも私は嬉しかったわ」

「嬉しい?」

「あなたが私のことを大切に思ってくれていることも、失いたくないと思ってくれていることも、いろんな事が伝わってきた」


 真那の率直すぎる眼差しにおもばゆくなって咄嗟に視線をそらす。それでも見つめられていることに耐えられずその場から立ち上がる。どこにいても視線にさらされるならばと彼女とは反対側のベッドの縁に腰を落ち着かせた。

 肝心なときに視線を重ねられない小心者の自分が情けなくなってくる。こんなときこそネイがいてくれれば場を和ましてくれたものをと内心ぼやきながら、必死に逃げ口上を考える。

 そんな時雨の精神状態などいざしれず、真那は音もなくベッドに這って上がってきては時雨の背中に自身のを預けた。

 激しく蠕動ぜんどうする心拍を精神力で強引にねじ伏せながら、窓に映る彼女の姿を伺う。時雨により掛かると言うよりは、抱えた自分の膝に自身を預けていて。


「正直、棗にあの記録映像を見せられて本当は怖かったわ」


 静かに語られる言葉に黙って集中する。


「確かにあの日のことを覚えているわ。いなくなった凛音を探すために私は台場第四フロートに向かっていた。そこからの記憶も鮮明に覚えているし、そのあいだ一度も海浜フロートには戻っていない。容疑者の私の言葉なんて信用に足らないかもしれないけれど……」


 信じるよと短く答える。時雨の意思はおそらく伝わっているであろうから、それ以上の言葉は必要ないと判断してだ。


「間違いなくあの映像に映っているのは私だったし、それが偽造されたものでないことも教えられた。でも怖かったのは、私が昴様を撃ったということにではないの」

「記憶との相違か」

「いえ、そうじゃないわ。映像に残っていた私は間違いなく私なのに、でも私はそれが私であるということに心の底から抵抗感を抱いていた……それがとても怖かったのよ」


 弱々しいながらも語られるその言葉の真意を探る。抵抗感というのは昴を撃った聖真那が自分であるという物的証拠を受け入れられない、という意味ではあるまい。その聖真那と自分を重ねることに本能的に拒絶反応を抱いたということ。

 実際時雨もまた映像を始めてみたとき真那と同じ感想を抱いた。拒絶反応と言うよりは強烈な違和感という形としてであったが、これは真那でいて真那ではないと言う結論に至ったのだ。

 現実的に考えて聖真那が二人存在することなどありえない。しかしそれが現実でないとすれば。


「現実……?」


 頭の中で解釈を進めていたつもりであったがうっかり口に出していたらしい。訝しげに復唱する真那の声音はどこか懐疑的だ。現実を受け入れられない時雨が逃避を始めたと思われたのかもしれない。精神異常を来したと思われても困るため訂正する。


「確かに普通ならあれがお前であると考える。だが俺はあの真那を知っているんだ。今ここにいる真那とは別の存在としてだ」

「過去の聖真那ね。でも」

「言いたいことはわかる。たとえあの真那の外見的特徴や印象が救済自衛寮時代の聖真那であったにしても、あくまでもそれは過去の聖真那だ」


 今時雨のそばに真那がいる以上、もうひとり存在するという発想に至ること事態が愚の骨頂。しかし時雨はその結論に至った。


「これまでちゃんと話したことはなかったよな。俺がレジスタンス所属後に見た真那とは別の聖真那について」


 これまで時雨は何度か映像の中の聖真那をこの目で見たことがある。勿論救済自衛寮時代にではなく、レジスタンスに所属し今の真那と知り合ってからだ。


「初めて見たのは織寧重工おりねじゅうこう本社で開催された公演会の時だ」


 スファナルージュ第三統合学園への入学の際に、時雨は棗にとある作戦を与えられた。防衛省に新型立体駆動戦車であるA.A.が渡らぬよう、その公演会に参加するための条件を揃えろという内容。

 その手段として時雨は織寧重工社長の娘に当たる織寧紲おりねきずなに取り入り、時雨と棗の入場コードを入手したのである。


「覚えてるか。皇が織寧社長に接触するために潜入した公演会会場で、新型A.A.の陸軍用機RG2ワイヤラブル登場のときに俺が取り乱したこと」

「ええ。覚えているわ。たしかあの時あなたおかしなことを言っていたわね。私がどうとか……もしかして」


 時雨の言わんとしていることに感づいたのか、はっとしたように真那は目線で探りを入れてくる。それに首肯で返して公演会当時の状況を思い返す。


「あのときの無線を明瞭には思い出せないが、あの時俺が見たものは鮮明に覚えている。新型A.A.がホールに現れた時、俺はあの軍用機のそばに真那を見たんだ」


 救済自衛寮時代の白いワンピースを身に纏った真那。無感情という表情をその端正な顔に貼り付け冷たい視線を時雨に向けてきた聖真那。動揺する時雨をよそに、彼女はゆっくりと自分の唇に人差し指を当て時雨を黙らせるなり姿を消した。


「地下のA.A.格納庫にいた私達も映像で公演会を見ていたけれど、少なくともA.A.と織寧社長以外の何も見えなかったわ」

「そうだな、ネイにもそう言われたよ」


 時雨が見ているものが幻覚だと。弱き精神が見せているだけの偶像であると説明されてその場は状況もあって納得せざるを得なかったのだ。

 しかし今思えば不自然な点がいくつもある。時雨にしか真那の姿は見えていないはずなのにネイはこう冷やかしたのだ。


「初対面、いえ対面すらしていない少女に目を奪われたのですね。時雨様のUMN細胞数値が未だかつてないほどにまで増幅中……なるほど、時雨様のストレートポイントは黒髪ロングの18歳ほどの少女ですか。ぎりぎりイリーガルですね。つまり有罪です」


 精神状態が正常に保たれていなかったとはいえ、時雨には真那の姿をネイに説明した記憶などないし、彼女が真那の姿を認識できていたとしか考えられない。


「ネイは時雨のアナライザーに常駐して、あなたのつけているARコンタクト越しに映るものを認識していた。だからおかしい話ではないのではないの?」


 確かに時雨もこれまでそのように解釈して納得していたのだが、ARコンタクトはAR――つまり拡張現実Augmented Reality情報を視覚情報として表示させるものに過ぎない。したらばARコンタクト越しにネイが認識できるものは、現実の情報と拡張現実のどちらかとなる。


「だがネイは動揺する俺を、ただの幻覚だと言って制した。つまりARコンタクトに映った情報ではないということだ」

「これはネイの冗談だと私は思っていたのだけれど、大脳皮質に埋め込まれたインプラントチップが読み取る情報を受け取ることもできるとネイは言っていたわ。それにARコンタクトにも制限があるけれどインプラントチップにアクセスする権限がある」


 言われてみれば確かに以前救済自衛寮の夢を見た時、なぜか記憶の中の真那のワンピースを着たネイがそこにいて、時雨のインプラントチップにアクセスして夢に侵入したとかどうとか言っていた気がする。


「インプラントチップは脳が認識するあらゆる情報を統合してビジュアライザーに伝達できる。そうなれば幻覚という視覚的体験をネイが読み取れていても……」


 そこまで自己解釈を述べて真那は小さくかぶりを振った。話が大幅にそれてしまっていることに気がついたがためだ。

 今重要なのはネイが何にアクセスして時雨の見た幻覚を認識したのかではない。時雨が見た聖真那が本当に幻覚に過ぎないものであり、時雨の妄想の産物に過ぎないものであるのかという事実確認だ。


「第一前提としてあそこに真那は実在はしていなかった。他の皆の証言があることを鑑みてもその事実に間違いはない」

「でも時雨はただの幻覚などではないと確信しているのでしょう?」

「ああ。ただの妄想でも幻覚でもない。そういう次元の再現度じゃなかったしな」


 救済自衛寮時代の真那の姿は何度か夢に現れたこともあって明瞭に想起できる。だがあそこまで鮮明な幻などあり得ようはずがない。それに公演会以外でもあの真那に遭遇したことがあるのだ。

 唯奈奪還のためにレッドシェルターに単独潜入した時、検問を抜けるべく新型A.A.の試作機の中に隠れていた時雨は帝城まで移送された。目的地は帝城の中心部を地下にまで貫く形で設計されているエレベーター・ロータスの心臓。

 内部液晶で外の光景を伺っていた時雨は、一成かずなりのそばに真那が佇んでいる姿を目撃しているのである。


「しかも一成は真那に向かってEVEイヴと呼びかけた。あれは間違いなく真那を認識していて……どうした?」

「……ごめんなさい。続けて」


 一成アダムにイヴ呼ばわりされたことが心底不快感を駆り立てたようで、真那は苦汁をなめたような声音で続きを促してくる。

 真那に対し一成は語りかけるような仕草をしてみせたが、ネイは一成の瞳孔が一切拡張も縮小もしなかったことから虚像を見ていたと判断した。しかしこの段階でその言葉を信じるのはそれこそ愚か者の極み。

 不本意ながらも時雨と一成との間には一つの共通点が生まれていたのである。偶像であるはずの真那という存在をもって。このことから一つの解釈が生まれてくる。


「確信はなかったんだが、今回の一件でようやくひとつの可能性を見出した。俺が見た真那は確かに実在はしていないのかもしれない。だが存在はしていた」

「つまりあなたはこう言いたいの? あなたが見ていた聖真那は拡張現実でのみ認識が許される情報データの集合体だと。でもそれだと私達が認識できないのはおかしいわ」


 確かに時雨が使っているのは真那たちと同じ角膜操作レベル3以上の軍用ARコンタクトである。これは防衛省直下の開発局によって製造されるものであり、時雨のものだけが特殊な仕様をしているというわけではない。

 そもそも軍用品と言ってもあくまでも角膜に直接接続する精密品のため、消耗すればすぐに取り替える必要がある。時雨も例にもれず一週間ごとに新しいものに変え、傷や故障があれば廃棄し同様に新調している。つまりARコンタクトによって認識できるかどうかが左右されるわけでもない。


「真那もさっき言っていたが、ARコンタクトにはインプラントチップにアクセスする権限が存在する。つまり俺と一成に共通しているインプラントチップの何かが真那を認識させた可能性があるんだ」

「けれどあなたと山本一成のインプラントチップだけが特殊だなんて……もしかして、身体が改造されていることが条件であるというの?」


 そうとしか考えられない。一成との共通点といえばお互いがTRINITYトリニティに関係している改造人間だということくらいしか思い当たらない。正確には、時雨はTRINITYではなくそのサイボーグたちのプロトタイプに当たるだけであるが。

 この場合他のTRINITY構成員である立華たちばな兄妹のかおる紫苑しおん、及び脱退しているが月瑠るるも認識できる可能性が高い。


「あの三人はその場に居合わせてないから確認のしようがないけどな」

「どちらにしても今この状況では整合性の確認なんてできないわ」


 そう呟いて右手を掲げてひらひらと振る真那の手首にビジュアライザーはない。旧東京タワー自体が電波暗室化しているが、念の為回収されているのだ。無論時雨も持っていない。


「そうだな、とにかく俺のこの解釈が正しいならあの映像に映っている真那も、実在する存在ではなくただのポリゴン体であるという可能性が浮上する」

「聖真那が二人存在するという論よりは現実的かしらね……ひとまず今は、今後のことについて話し合いましょう」


 そこで真那は静かに溜息をついた。心奥に潜めていたいろいろな感情を吐き出すように、ゆっくりと。


「ありがとう、時雨。私のことを気にかけてくれて」


 自身の膝に預けていた体重を時雨の背中に預けてくる。長く柔らかい黒髪が時雨の肩にわずかばかりかかり、女性的な淡い香りが時雨の鼻孔をくすぐった。


「気にするな。真那はもっとエゴに従順になるべきなくらいだ」

「でもそしたら私、面倒な女になるわ」

「今更何言ってるんだ。真那ほど面倒くさい女はそういないぞ」


 酷いわと短く不平をたれるのと同時、後頭部に鈍痛がはしる。どうやら真那が後頭部で頭突きをしてきたらしい。しかし改造人間の石頭に勝てるはずもなく、真那は声を出さずに悶絶する。真那らしくない感情任せな反発行動に愛着を覚えた。


「真那以上のエゴイストならお前の背中にいる。あくまでも利己的りこてきに、俺は真那の隣に居座り続ける」

「……っ」

「そんな俺のエゴのほうが、よっぽど面倒くさいだろ」


 しばらく静寂に支配されていた室内に静かながら華やかな嬌笑きょうしょうが浸透する。


「ばかね」


 手持ち無沙汰にマットレスに投げ出されていた時雨の右手の甲に、衣擦きぬずれ音とともにひんやりとした感触がかさなった。


「それはあなたの利己心ではないわ……あなた以外の誰かの、めんどくさい女の子のエゴよ」


 気の利いた言葉が何も浮かんでこないことに対するもどかしさ。それと同時にこの沈黙がどこか心地よいと感じている自分がどこかにいる。

 言葉は返さずに手のひらを返して細い指に自身のそれを重ねた。背中にかかる真那の肢体は時雨にとっては軽いものだが、虚弱な身には余る大きすぎる何かを彼女は抱えている。

 それを少しでも軽くできるならばどのような苦難にも立ち向かえる。視線を上げ窓の外にどこまでも広がる暗闇を俯瞰しながら、そんな名前のない確信を時雨は心の奥底で抱いたのだった。

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