最終章

2056年 1月10日(月)

第208話

 目覚めて最初に視界に収まったのは汚れひとつない清潔な白い天井だった。意識が途絶える直前、床に打ち据えられ半強制的に見せられた運搬経路に酷似したあの房室の天井でないことだけは確かだろう。

 そのまま首筋に強烈な一打を叩き込まれ昏倒したため、何が起きたのかは定かでない。しかし時雨を昏倒させた人物が何者かであるかに関してははっきりとしている。

 自身に現在進行形で降りかかり続けている災難の分析を進めつつ周囲の状況判断に努めることとする。

 天井と同じ素材の超高密物質で三方を囲われた目が痛くなるような真っ白い空間。十畳程度だと推察できる部屋の残りの一面には強化ガラスが張られている。

 時雨が横たわっているのは椅子とも机ともとれない簡素な金属製の台で、それ以外に家具らしい家具はない。当然窓などの外界につながる要素も存在しない。

 換気用のダクトがあるが大型のネズミがギリギリ通り抜けられるかどうかという程度の幅しかない。あそこから脱出するのは土台無理な話か。

 LOTUSによって変質された右肩から指先までは依然変わらず反物質アンチマテリアルのままで。指先をゆっくりと動かし生身のそれに戻らないことを確認。

 台から足を下ろしそこで重傷を負っていたはずの足の傷が処置されていることに気がつく。縫合痕と抜糸痕が残っていないところを見ればある程度マシな医療処置を施されたことに間違いはない。


「目覚めたようだな」


 傷跡を指先でなぞり完全に塞がっていることを確認していると、機械的な拡声音が部屋中に響き渡る。はっとしてガラス側の壁面を伺うとそこには見知った顔が佇んでいた。

 どこかこちらの様子を注意深く観察するような面持ちを携えたその男の正体は見間違えようもない。レジスタンス総司令を務める皇棗すめらぎなつめだ。


「事情は聞かせてもらえるんだよな」


 この施設は港区にあるレジスタンス本拠点地下ジオフロント内接の拘禁施設で間違いあるまい。対アイドレーター作戦の後一定期間泉澄が収監されていた施設だ。それに気がついていたからこそ時雨は驚愕はしたものの動揺はしなかった。

 地下迷宮での死闘から奇跡的な脱出を遂げた結果、本来味方であるはずの勢力からこのような仕打ちを受けたわけだ。説明を要求する権利くらいはあるはずだ。


「君を気絶させ、あまつさえこのような隔離施設に拘禁していることに関する事情であれば」


 棗は強化ガラスの向こう側で壁面に背中を預け腕を組む。そうして一瞬逡巡したのち心労を具象化したようなしわを眉間に寄せて口を開いた。


「君の裏切りを危惧してのことだ」


 彼のその解に思わず言葉を失う。総司令である彼の指示を受けて時雨は今回の作戦に乗り出した。そしてこの身に余る危険を掻い潜り帰還したというのに、どうやら猜疑の念を向けられているらしい。

 怒鳴り散らしたい気分だが今は彼の非情さへの罵倒に割いている時間的猶予もない。精神を落ち着かせるべく深呼吸をして激昂を抑え込む。視線で裏切りとやらの解説を促す。


「そのような反応が返ってくると想定はしていた。この危惧があくまでも思い過ごしだと」

「信用されている割にはだいぶ手厚い歓迎に思えるがな」

「皮肉を言えるだけの精神的余裕はあるようだな。では裏切りに関しての話を続ける」


 彼の話を聞くところによると、時雨失踪の後も情報局にてデバイス解析は継続されていたのだと言う。このデバイスというのは時雨と真那とで防衛省から奪取することに成功した、LOTUSへのアクセス権を内蔵したあの機械のことだ。

 時雨の救出リリーフに伴いネイは解析用端末からアナライザーに移動され真那に持たされた。結果最も効率よく解析を進められる人工知能の離脱を余儀なくされたものの、昴と酒匂とで解析は進めていたようだ。

 時雨救出作戦の最中に彼ら二人に解析結果を見せられ、今回迷宮からの離脱に成功した時雨らに対し、このような強攻策に及ばざるを得なくなったという。


「解析したのは何の情報だ?」

「台場メガフロート全域のスキャナの記録映像だ。レジスタンスの従来のアクセス権限では閲覧できなかった項目を優先的に解析していたんだ」


 ガラス越しに棗より送信されてきた映像ファイルのプロパティに目を通す。映像の撮影日時は12月22日の夕刻。座標には見覚えがある。台場海浜フロートで間違いない。

 彼より聞かされた話によれば、これは昴主催の地鎮・追悼を兼ねて台場住民とレジスタンス要員向けに開催した祭りの後に、街角スキャナによって撮影されたものだとか。

 祭りの後とということは失踪した凛音の捜索に皆が奔走していた頃か。


「東・昴襲撃の真相がこの映像に映っている」


 神妙な面持ちのまま映像記録を該当場面まで動かす棗。彼を脇目に伺いつつ、当時レジスタンスが憶測立てた襲撃の犯人に関して思い返す。

 使用された弾丸は4.6x30mm弾。これはリミテッドでは警備アンドロイドを除いて国防機関では一切利用されていない代物だ。それ故にアイドレーターの統率者たる倉嶋禍殃くらしまかおうが襲撃の犯人であると仮定されていた。

 話の流れからするに今回発覚したのは昴を撃った犯人の素性だろう。その事実からして時雨たちが裏切り者であると疑わざるを得なくなる物的証拠が、この映像には残されているわけだ。嫌な予感しかしない。


「実際に見てもらったほうが早いだろう」


 棗に指示されるがままビジュアライザーに送信されてきた録画ファイルを展開する。ホログラム型記録映像であるようだ。時雨の周囲には仮想現実がARコンタクト越しに描画されている。

 海浜フロートに背を向け帰投しようとした昴の背後で銃声。短い悲鳴とともに倒れ込んだ彼にとっさに駆け寄り庇うように巨体で射線を切る酒匂。その彼の視線の先に時雨もまた意識を向ける。

 酒匂の視線から逃れるように踵を返し、街灯の明かりの隙間を縫って駆け出した人影。スキャナのノイズ混じりの映像ではその姿は定かではない。肉眼で正体を確かめようとした酒匂では更に認識に難があったことだろう。

 それでも時雨にはその正体の何たるかに見当がついてしまう。背を向けた瞬間に翻った長い黒髪に、白を基調とした特殊な様式のワンピース。そして一瞬だけ伺い見ることのできた、感情の機微が圧倒的に不足した相貌。見間違おうはずもない、真那だ。


「…………」


 話の流れからしてこういう物的証拠を提示されるであろうことは予想していた。それ故に狂乱に陥ったり絶望の淵に追いやられることはなく。それでも今にも溢れ出して来ようとする激流のような感情の嵐を抑え込めそうにはないが。


「思ったよりも動揺しないな」


 探るような棗の言葉には何も返さない。時雨の反応から真那に加担している可能性を探ろうとしているのかもしれないが、そんな事を気に留める余裕もなく。もう一度件の映像を最初から確認することにする。


「何度確認しても現実は覆せないぞ。解析課に確認させたがその記録から技術的介入の痕跡が見つかることはなかった。つまり偽造された映像ではない」

「そんなことは言われなくても理解してる」


 一瞬だけだが間違いなくこの場所に存在している真那の姿。これが何者かによって埋め込まれた本来無いはずの偽造工作などでないことは、本能的に理解していた。

 何より時雨が何度もその映像を見返しているのは、ここに映っている真那の形をしたポリゴンの存在を否定しようとしての行動ではない。

 一通り確認を済ませたのち冷たい壁に背を預け、内心に幾重にも凝り固まった黒い感情を一旦鎮める努力をする。今は冷静に物事を判断する精神力を求められるときだ。


「それで、レジスタンスのおえらいさん方はこの映像を見てどう判断したんだ」


 強化ガラス越しにこちらの様子を窺っているであろう棗に視線を送るでもなく、目を伏せて静かに問いかける。


「この情報を開示すれば混迷を極める事態に陥ることは明白だ。ひいては事実関係がはっきりするまで上層部以外の人間には広報しないことに決めた」

「賢明な判断だな」


 レジスタンス内部、それも主要格である人員の中から裏切り者が更に出たとなれば皆が疑心暗鬼になる。不安の種は留まることを知らずに成長し続けいずれ芽を出すことになるだろう。それがどのような形になるかは定かではないが、最悪の事態を予測しておくことは最低限のリスクマネジメントだ。


「俺たちがこの映像を見て聖に疑いの目を向けるのは当然だ。聖が東を撃ち、その場から離脱した。ここから読み取れる情報はそれくらいしかないからな。君とてそういった解釈にまず至ったはずだが。そのうえで他にどういった判断を下せというのか」


 仲間である真那を真っ先に疑うその姿勢は冷淡だが、彼にそうさせるだけの証拠が二人の端末にはホログラム記録媒体として存在している。

 だがしかしそうではないのだ。この映像から読み取れる情報は他にもある。


「皇たちが真那を疑うのは当然だ。その上で意思表明をさせてもらう」


 背を預けていた壁から離れ、強化ガラス越しに棗の目を見据える。


「俺は真那を信じる」

「この映像が偽物であるというのか」

「いや、紛れもなくこの記録媒体は第三者の手の加えられていないものだろうな」


 ならばなぜと不審そうな目で問いただしてこようとする棗を手で制し、踵を返した瞬間の真那のホログラムをトリミングして棗に共有する。

 きめ細やかな肌に絹のような髪質。無感情ながらも翡翠のような瞳。映像加工ではこのレベルの再現度は実現し得ない。


「この真那はたしかに真那だ。だが断言できる。これは真那じゃない」

「言葉遊びも大概にしろ。君の感情論で済ませていい事態では」

「ここに映っているのはレジスタンスに加入する前の……いや、救済自衛寮時代の聖真那なんだ」


 幾度となく夢の中に現れた記憶の中の聖真那。レジスタンスに所属している真那と同一人物ながらにして似ても似つかない対極の存在だ。

 今の真那は確かに表情を相貌に出すことによる感情表現を得意とはしていないが、それでも時雨にはその違いがつぶさに分かるのだ。ここ最近の真那は特に表情が豊かになってきたこともある。

 一体何のことだと話の筋を理解できていない様子の棗に対し、皇には話したことがなかったがという言葉から説明を始めることにした。

 レジスタンスに所属する以前、救済自衛寮にて時雨が生活し、同時にその孤児院の院長の娘が真那であることは皆周知の事実だ。しかし同じ院で過ごしていただけの関係程度にしか認識されていない。


「俺たちは五年近く一緒に過ごし、互いにかけがえのない存在になっていた……と思う」


 確証はないが。


「だから分かるんだ。レジスタンスの皆にはその違いが分からなくとも、俺にはここに映っている真那があの頃の真那だと感じられる」

「君と聖の信頼関係に水を指すつもりはないが、そのような不確かな個人的な印象で覆せる事態ではないんだ」


 そもそもそれが感情論というものじゃないのかと、ため息交じりに棗はガラス奥で疲弊したように椅子に腰を落ち着かせる。しばらく何やら考え込んでいた様子だったが、やがて眉をひそめたままおもむろに開口した。


「君の話は何の根拠もないが、たしかに聖を疑うには不確かな状況証拠が残っている」


 ここにおける状況証拠というのは、レジスタンス所属の真那が昴を撃ったのではないという証拠か。真那を前提的に疑っていると思っていたために棗の口から真那を擁護する発言が出てきたことに少しばかり驚く。


「この時刻、たしかに聖は峨朗凛音がろうりおん捜索にあたっていた。無論ツーマンセルでの捜索ではなかったために誰かの監視があったわけではなかったが……風間による目撃証言が挙げられている。風間が言うことには、第四フロートへ向かう高架モノレールに搭乗する聖の姿を確かに見たとのこと」


 第四フロートは工業地帯の更に先にある貯蔵施設が主として建造されているフロートだ。台場メガフロートの南端にあたるため海浜フロートまでかなりの距離がある。泉澄いずみに目撃されたのち急いで向かっても昴襲撃が可能なはずもない。

 

「だが風間は烏川、そして君と親しい関係を築いている聖に絶対的な忠誠心をいだき従事している。あまりこういう発言を総司令である俺が言うのははばかられるが、君たちの危機的状況とあれば、」

「言いたいことは分かるから言わなくていい」


 棗としても泉澄にまで疑いの目を向けることに心が傷まないわけがない。それに真那とともに裏切りを企てているかもしれない時雨に対し、こうして面と向かって話し合う場を設けてくれているだけでも十分すぎる譲歩と言える。


「それ故にこの状況をどう収めるべきか考えあぐねているのが現状だ。情けないことにだがな。聖の処遇と、そして君の処遇に関してだ」

「一応確認しておくが、真那はともかく俺の罪状は何だ?」

「罪状ではなくあくまでも容疑だ。言うまでもないだろうが、聖が裏切っていると仮定し、その聖と君が繋がっている可能性だ」


 そのためのこれだよと棗は厚さ二十センチほどの強化ガラスをコンコンと指関節で叩いてくる。アナライザーは回収されているようだから時雨にはこの分厚い壁を破壊するすべはない。

 だがこれはあくまでも仮定でありそれもかなり低い可能性の話だ、と拍子抜けするような言葉で棗は続けた。


「君の繋がりを疑ったのは、聖に最も親しい存在が君であったというだけの理由だからな。正直な話俺個人の解釈で語れば君は限りなくシロに近い」

「その割には分厚すぎる壁な気がするが」

「これは聖を疑っているという俺達の意思を聞き届けた君が逆上したときの対策だ」


 そこまで短絡的でないことは知っているがと肩をすくめて、彼はガラス越しに壁面に指を這わせる。いくつかの認証解除ののちあっけなく時雨の隔離体制は解除された。

 あまりにもあっさりと解放されたがために毒気を抜かれつつ棗のいる通路に躍り出る。どういうつもりだと懐疑的な視線を向けるが、彼は気にした様子もなく背を向け通路を歩んでいく。


「これは信頼されていると判断して間違いはないか?」

「解釈は君次第だ」


 彼に追随して長い通路の先を俯瞰する。通路には数十近い独房が鈴なりに並んでいて、空のものもあれば捕虜としたU.I.F.や自衛隊員が拘禁されていたりとはまちまちだ。

 U.I.F.のアーマーを見て咄嗟に迷宮区で自爆特攻されたことを思い返す。


「この施設に隔離されているU.I.F.はすべて精密スキャンされた上でここに移送されている。グラナニウム製の被膜で隠していない限り、爆弾は確認されなかった」


 どうやら自爆特攻型の個体は特殊仕様であるようだ。だが危惧すべきものは人間爆弾の可能性だけではない。それよりも難題な問題が控えているのだ。

 迷宮施設内で一成に聞かされたグレイというクローンもどきの話を棗に端的に説明する。生身の人間をナノマシンにより変質させ、ナノマシンで構成されるグレイという存在にすり替えU.I.F.に登用していたこと。


「グレイか」

「なにか思い当たるものでもあるのか?」

「いや、従来のナノマシンとは乖離かいりした存在だと思ってな」


 ナノマシンには大きく分けて四種類が存在する。世界を蹂躙し人間に感染し崩壊現象を強制的に起こさせるインフェクト型。ノヴァもこれ該当し、粒子が無数に集まり収束したものが形を成したものだ。


「次に君が肉体的損傷を修復するために服用しているリジェネレートドラッグだが、これはいわゆるメディカルナノマシンだな。知っての通り凛音が防衛省によって供給されていたものはインフェクト型だったが」

「それ以外には核抑止力の実現のために開発されたニュークリア型だったか。それと実現し得なかった新開拓型発電運用のジェネレーター型だったか」


 感心したように棗はほうと感嘆の声を上げて振り返る。知識をひけらかしたつもりもなかったためにネイから以前教えられていたことを話すと、棗は何やら怪訝そうな目で時雨のビジュアライザーをうかがい見てくる。

 普段から口うるさく抗弁たれてくる人工知能が全く姿を現さないことを、今更ながらに不審に思ったのだろう。しかして彼女がLOTUSによって抹消されたことを説明するには、時雨の精神的な問題においても現時点の優先事項と秤にかけても足りない物が多すぎる。

 あとから説明するとだけ端的に返して先程の話の続きを促した。


「従来の四種……実現し得なかったものを除けば三種のナノマシンと、そのグレイとやらを構成するナノマシンとではどうにも別種の有り様が見て取れる」

「別種って……人間の体を蝕んでナノマシン化しているインフェクト型と何が違うんだ?」


 時雨の脳裏をかすめたのは、感染者を隔離する施設に収監されていたきずなの弟である織寧智也おりねともやの姿だ。ナノゲノミクスによって放たれたナノテク弾頭が原因でインフェクト型に感染した彼は、時雨が初めて出会ったときには既に右半身の殆どが消滅していた。

 智也の肉体に感染寄生し肉体を蝕んだあれとグレイとの違いがいまいち時雨にはわからない。


「インフェクト型は正確にはナノマシンとして備えている複製機能を用いて、有機物を無機物ナノマシンに変質させる機能を持つ。それに対してグレイはナノマシンに変質させた後も、もとの有機物ニンゲンの原型を保たせる機能を持っている」

「どういう意味だよ」

「君の救済自衛寮時代の同居人、琴吹波音ことぶきなみねといったか。彼はグレイとなったあとも人間としての形を維持していたのであろう。少なくとも君にナノマシンであると認識させない程度には擬態できていた」


 その言葉には何も返せなかった。確かに自爆したU.I.F.の肉体が消滅したりしなければ、琴吹がグレイなどという非科学的な存在であると信じすらしなかったであろう。

 したらばグレイとは一体何なのか。その解は持ち合わせていなかったものの、時雨の心中には一つだけわだかまる疑念が存在していた。

 デバックゲートを爆破する直前時雨と真那を突き飛ばしたのは、間違いなく琴吹の形をしたグレイだ。あの行動は疑うまでもなく時雨らを爆発に巻き込ませないがためのものであり。


「感情を持ったナノマシン、か」


 最近そんな話をどこかで耳にしたような気がした。

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