第205話
強化ガラスを隔てた向こう側の空間に展開される人智を超越した
東京都次期都市化計画の目的が人類の生存領域の拡充ではなく、それが破綻した後も別の区画で計画を推進していたという言葉の真意。
その解は単純明快。別の区画というのは台場、正確にはそのうちで最もフロート面積の広い工業地帯区域地下。入り口を台場全体に循環する水道システムの処理を担った施設に据え置き、デバックフィールドの研究を実施していたあの施設。
「デバックフィールドの研究が次期都市化計画の目的だったの……?」
「その通り。ちなみに指摘しておくと、君たちがデバックフィールドと称しているあの歪みは正確にはその物ではなく、
真那の動揺に満足したようにうそぶく一成は無視して考えを巡らせる。つまりこの施設の目的はネイを時雨の手から失わせることではなく、デバックフィールドを展開する研究を推進させることだったということ。
しかし理解が及ばないことがある。この場所に時雨らを立ち会わせた理由はいったい何だというのか。
「僕はね、時雨くん、君の絶望した顔を心の底から見たかったんだ」
「悪趣味ね。そんなくだらない目的のためにこんな大掛かりな計画を決行したというの?」
発言の内容は一成の真意を問いただすようなものであったが、その質問をした真那の真意はそうではあるまい。目の前に展開された大量虐殺兵器にも匹敵する脅威に対処する時間を稼ぐ心づもりなのだ。
デバックフィールドの影響が及ばないどこか別の安全な場所から通信してきているであろう一成が、直接こちらに手を下すことはできない。
しかし糸が切れた操り人形のように動かない
したらば一成がU.I.F.に時雨ら抹殺の指示を出せぬよう質疑応答を誘い、少しでも状況整理の時間を稼ごうという真那の作戦なわけだ。
その時間を無駄にしてまで一成との歓談に花を咲かせる理由はなく。情報収集と時間稼ぎを試みる真那に一成の対処は一任し、時雨は自身の置かれている状況の整理に努める。
デバックフィールドへつながるゲートはおそらくまだ完全に形成されてはいない。以前水処理施設地下でみつけた時は、放電現象が内壁を這うくらいにまで膨張しようやく従来のノヴァが現れ始めていた。
現段階はそこまで放電現象も進行していないため、ノヴァが顕現されるまでまだしばらくの時間を要するはずだ。それまでに対処しなければならない。
完全にデバックフィールドと繋がってしまうような事態に追い込まれれば、その時は時雨と真那の命に限らずリミテッドが滅亡しかねない。暴食の大罪を具象化したような存在であるウロボロスがこの場所に顕れかねないからだ。
「そう言えばどうしてお前たちはウロボロスなんてものを造ったんだ?」
一成に沈黙を貫くことに不信感を抱かせないようにとの意図もあったが、レジスタンス内でもっとも解釈しかねた事案であったため解を求める。
「ウロボロスは無差別に物質を変質させるナノマシンの塊よ。デルタサイトの効果が及ばないから、防衛省が世界を掌握するために必要な”ナノマシンを制御できる”という前提すら覆してしまう存在でもあるわ。あなたたちにとってもイレギュラーな存在だと思えるのだけれど」
時雨の意図を読み取ってくれたのか真那が質問を重ねる。対し一成は呆れたように肩をすくめて、小ばかにするようにため息をついて見せた。
「君たちはきっとウロボロスの顕現が僕たちにとっても不測の事態だったと思い込んでいるんだろうね。でもそれは違う。あれはそうあるべくして呼び出されたのさ」
「どういう意味だ」
「あれは僕の求める桃源郷に至るための必要不可欠な存在なんだよ。グレイファミリーを生み出すための手段としてね」
この場に来て初めて耳にしたグレイファミリーという用語。その意味を目線で問いただすと、一成はこちらが既知としていなかったことを理解して迂闊だったねと表情をこわばらせる。
しかし情報を秘匿する必要性と、時雨らに自身の知識をひけらかせる快感を天秤にかけた結果後者が勝ったらしい。数秒逡巡した挙句口を開く。
「どうせ君たちはそのじめついた地下空間で死ぬわけだし、教えてあげてもいいか」
「ぜひとも思う存分
「絶望的状況に瀕してなお余裕あるその態度が気に食わないけどまあいいよ」
無い前髪をかき分ける仕草をしながら一成は何から話したものかと考えている様子だ。やがて要点をまとめたのかおもむろに語り始める。
「グレイファミリーと言うのはグレイで構成されたソサイエティのことさ。グレイというのは人間を人間というくだらない枠組みから解放した素晴らしい存在のことなんだよ」
意味不明な発言の意図を尋ねるまでもなく、一成本人がその意味を注釈してくる。
要約するにグレイというのは人間をナノマシンを用いて複製し、外見はまったく同じでありながらもう一つの存在として生み出された個体のことを言うらしい。
「複製? 酔狂な話ね。それはつまりクローンを生み出したということでしょう」
「グレイはクローンよりも単純で分かりやすいシステムさ。オリジナルの細胞から同一個体を複製したものがクローンだけど、グレイはそんな面倒で無意味なことを必要としない技術だからね」
ナノマシンの自己増殖機能を利用することで複製は簡単に行われるという。そのシステムは時雨の知能では到底理解の及ばないものであったが、グレイがいかなるものであるのかは何となく察する。
「ウロボロスはグレイを生み出すために必要不可欠なんだ。おっと、そんなもの欲しそうな目で見てもこれ以上ウロボロスに関する情報のポロリはないよ」
「……ウロボロスに関しては分かった。だがそもそもグレイとかいう存在を生み出して何の利があるというんだ?」
一成の見下したような態度と挙動に苛立ちを隠せないながらも、情報収集のためその感情はしまい込む。
「利だって? グレイの利便さに気が付かないなんて時雨くんは本当に馬鹿だなぁ」
「何が言いたい」
「君たちが労力と命、資源と軍需を賭して戦っていても、グレイのおかげで僕たちは何ひとつ被害を被らずに済めているというのに」
一成が言わんとしていることをしばらく理解できなかった。対して何かを察したように真那がその場から振り返る。その視線をたどった先には爆散したU.I.F.の強化アーマーが転がっている。
「まさか……」
アーマーの内側に仕込まれていた爆弾によって胴体から引きちぎられた右腕。少し前に確認したとき血飛沫が消えていて不審に感じたものだが、今はもはやひしゃげたアーマーの内側に何も存在しない。腕がないのだ。
腕が吹っ飛んだことで本来胴体側のアーマーにも多少なりとも血液が付着しているはずだが、その内側は空洞で火薬ですすけた跡が残っているばかりだ。
その内側に人間が入っていたという事実自体が錯覚に思わせられるようで。
「U.I.F.はクローンなのか……?」
「それは違うよ時雨くん。クローンじゃなくてグレイさ」
確かにU.I.F.の超人的な身体能力や、到底生身の人間では耐えられないような物理的な損傷を受けても活動を継続する姿を見て、本当に人間なのかと疑ったことは幾度となくある。
しかしこうしていざ人間ではないと明言されると驚愕を隠せない。グレイというナノマシンで構成された存在が一成の狂言ではなく本当に存在すること、それが統率を取られ防衛省によって兵隊とされていることに。
「言葉の通りの『鉄のような無人軍隊』だったわけね」
「防衛省はU.I.F.という兵隊に生身の人間ではなくナノマシンの複製を使っているわけか。確かに人員的な被害もコストも削減できるな」
いまだに一成の指示を待ち微動だにしない琴吹にうり二つのU.I.F.を伺う。彼の登場には驚愕を隠しえなかったが、それがナノマシンによる複製品というのならば頷ける。
琴吹は時雨と同じく救済自営寮の孤児であり、ほかの孤児と同様実験素体として連れていかれたのだ。グレイとして登用されていても何もおかしくない。
「しかし意外だ。人間の命なんて何とも思っていない
「何を言っているんだい?」
むろん感心したわけではないが意外な事実を受けて得た感慨を言葉にする。しかしどうやら今度は一成がそれに対して見解の不一致を感じたらしい。
「生身の人間に存在価値なんて見出しはしないさ。機械化はしていないけど、文字通りすべてナノマシンになり果てたよ」
黒い薔薇を口元に押し当て香りを堪能している一成の言葉の意味。それがゆっくりと脳内に浸透していく。おぞましい感覚と戦慄が脊髄を渡って全身に行きわたる。
どうやら時雨の解釈は間違っていたらしい。
「被検体を殺したの……?」
「人聞きの悪い言い方をしないでほしいなぁ。実験素体はすべてナノマシンの変質作用に耐えられないんだ。まあでもいいじゃないか。肉体なんてただの容れ物さ」
当然のことじゃないかと言いたげな発言に、ようやく時雨は防衛省の画策するラグノス計画の何たるかに理解が及ぶ。
そして再び思い知らされる。ただの複製品だと認識したばかりの目の前のU.I.F.。琴吹波音の形をしたそれはただの金属粒子の結合体であると同時に、琴吹波音そのものでもある。
「クソが……」
「時雨くんはいったい何に怒り心頭なのかな? そのU.I.F.は君にとってにっくきナノマシンだよ。君の旧知でもましてや人間ですらない」
嘲笑う一成の言葉はもっともだ。時雨の知っている琴吹波音とはもはや全くの別物なのである。命なき金属生命体。ノヴァと何一つ変わらない。
それだのに胸中には躊躇いの感情が芽生えてやまない。琴吹の形をしたその人形を殺さなければならないという決意が抱けない。
「みじめだね、本当に君は。そうやって自分の中の感情にいつも翻弄されている。目の前のものだけが自分にとって真の実であると思い込んで現実を受け入れようとしない。ずっとそうさ。救済自衛寮にいた時から君は」
そこではっとしたように一成は口を噤んだ。何か時雨に知られてはならない情報でも口走ったのか。しかしそんなことはどうでもいい。今は直面している問題を早急に解決せねばならないのだから。
「この状況を切り抜けられたとしてどうせ君たちはここで死ぬ。せめてもの手向けとして、贈り物をあげよう。イヴ、気が進まないと思うけど頼むよ」
一成のその発言に併せて先ほどサイバーダクトにてアクセスしたコンソールが点灯する。仮想液晶上には蓮を思わせる幾何学的な鈍色の紋様が浮かび上がっていた。一成がイヴと呼称したことからそれが
「副管理者権限のコマンド入力を確認――声帯識別による識別が完了――実行します」
コンソールが明滅し無数のポップアップウィザードが出現しては消える。やがてポップアップするウィンドウがすべて消えたあたりで突然時雨の右腰あたりから眩い電光が放出される。ホルスターにしまっていたアナライザーに幾何学紋様が浮かび上がっているのだ。
その紋様には見覚えがある。ネイがサイバーダクトを用いるときにも紋様が浮き上がるがそれとはまた別物だ。この現象は特定の条件下でのみ起こりうる物であり、時雨はその現象についてすぐに思い当っていた。
「時雨、腕が……」
息をのむ真那の視線は時雨の右腕に注がれている。右肩関節部から指先にかけて無機質的な黒金属へと変貌を遂げていた。
それにはアナライザーに浮かび上がっている紋様に酷似した幾何学模様が刻まれ、ゆっくりと明滅している。アンチマテリアルだ。
「どういうこと……? その腕はネイの技能で変質するものではないの?」
「俺たちが勝手にそう思い込んでいただけだ。ネイの口からそう聞かされたわけじゃないしな」
動揺をあらわにする真那に対し、なぜか時雨は自分でも驚くほどの冷静だ。一連の出来事や一成の発言から、LOTUSによって腕が変質したことに対し得心にも似た解釈ができてしまったのである。
その解釈をあえて口にはしない。それを口にすれば真那の困惑を助長させかねないし、何よりそんなことをしている時間的猶予もない。
「時雨くんにはその不格好さがよく似合っているね。アダムである僕とイヴの桃源郷に土足で踏み込んだ挙句、イヴを奪った
身に覚えがないと内心で吐き捨てつつも一成が時雨の腕を変質させた目的を探る。
現状時雨は全身を負傷し真那によって応急処置されただけの右足首はほとんど感覚がない。度重なるイレギュラーによるアドレナリンの分泌が、時雨の肉体を無理やり動かしているに過ぎない状態なのだ。
真那に関しては外的損傷は大したことがないものの、武装は数発の弾丸とアサルトライフルだけ。生身の彼女がU.I.Fに肉弾戦を試みたところで痛み分けが関の山。
この腕はナノマシンの構成を
「敵に塩を送る目的はなんだ?」
「君の絶望が見たいだけ、そう言っただろ」
時雨が琴吹に勝ったとしてどうせこの迷宮から逃れられることはないという慢心か。実際問題時雨たちはこの管制室に追い詰められているし、もし管制室から出られたとしてもデバックフィールドから溢れ出す破壊の奔流に叩き潰される。
つまり時雨が救済自衛寮時代仲良くしていた琴吹と殺し合う姿を見たいだけということか。どちらが勝っても時雨たちの死は確定している。悪趣味な話だ。
体を乗り出していた空冷ファンに改めて背中を落ち着かせる。そしてゆっくりとため息をついた。心中に凝り固まる複雑な感情を取り払うためだ。
琴吹に関してどうするのかと目線で解を促してくる真那。時雨の内心を
放電現象はかなり進行していた。眩い程に青白い高圧電流の蛇が壁面にまで及んでいるのだ。もう時間はない。
「真那。作戦がある」
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