2055年 12月26日(日)

第189話

 ジオフロントに着く頃には日付が更新していた。疲労感がピークに達し全身の骨という骨が軋む。血管を流れる血液が泥水と化したような億劫さが全身にはびこり、歩を一歩すすめることすら儘ならない。

 和馬に引きずられるようにしてモノレールに搭乗し、車窓越しに流れ行くディストピアを俯瞰しつつ何を考えるでもなく時間の経過するに身を任せる。

 下界には先程まで車両が爆走していたハイウェイが伺える。高速は一般車両が走らないこともあって基本的にはライトアップされていないが、今は各所に光源が伺えた。U.I.F.が取り締まっているに違いない。

 モノレール内には静寂が糸を巡らせ、その沈黙を敢えて破ろうとするものもいない。それぞれが度重なるアクシデントによって埋め込まれた心労と、肉体的な疲労に困憊しているのかもしれない。

 そんな状態のままモノレールはレインボーブリッジを通過し、目的のターミナルで地に足を下ろした。


「時雨、凛音とクレアのことだけど」


 唯奈や和馬が颯爽と自室に退散していく中、真那はその場に留まる。提示してきた案件からして、この後も何かしらの気苦労に翻弄されることになると見越して声をかけてきたのだろう。

 改めてそれを実感させられるまでもなく、この後に待ち受けている現実に直面せざるを得ないのは明白。時雨の自室にはかなりの無理難題を抱えた案件が二つほど待機しているはずだ。


「私も行くわ」

「無理するなと言いたいところだが、正直頼みたい」


 真那は物理的な傷をその頭部に受けている。大事には至らないにしても、今は安静に休むべきだ。しかしそんな気遣いを考慮できるほど疲労感は半端ではなく、今は猫の手でも借りたい思いで真那に縋る。


「女性の揉め事を解消するには、やはり女性の真那様にその大役を一任するのが一番ですからね。時雨様は変な所でフェミニストのくせに、肝心な所でデリカシーに欠けますから」

「構わないわ、今回の隠密作戦で私は何の役にも立たなかったから。これくらいは貢献しないといけないわ」


 時雨と反比例しているように、真那は一切の疲労を表面上に出さずに淡々とそう述べた。なんと頼もしい発言だろうか。

 今回の一件で、新たな事実が明らかになると同時に幾つかの懸案事項も創出される形となった。凛音には今の自分の置かれている状況を正確に認識してもらい、その立場を再確認してもらう必要がある。

 重い足を引きずるようにして自室の扉の前にまで達する。そうして躊躇が生まれる前にそのノブに手をかけた。


「あ、センパイ、ど〜もご無沙汰してるっす」


 緊張と心労を悪い意味で払拭するように月瑠の間抜けな声が出迎えた。何故彼女がいるのかと訝しみつつ廊下を抜けると、部屋には何故か月瑠しかいない。

 凛音とクレアのダブルベッドの上にて一人でトランプをばらまいている彼女は、裏返しのそれらを見て何やら唸っている。


「センパイ、ウノってどうやるんですか」

「何でここにいる」


 何やらトランプを勘違いしている月瑠の質問は無視する。彼女の一挙手一投足にいちいち反応していたらキリがないからだ。


「何って、ここにいろってコマンダーに指示されたからいるんですよ。あたしだって、ジャパニーズニンジャ臭の一切しないこの部屋なんか命じられてなかったら留まっていませんよ」


 棗に命じられたということは、おそらく峨朗姉妹の様子を見ておけという棗の命令に、未だ律儀に従っていたということだろう。

 しかし肝心の観察対象がこの部屋にいない。非難の目で彼女を見据えると、月瑠はあからさまに気まずそうに目をそらす。


「さてセンパイがたも帰ってきたことですし、あたしは退散します」

「待て、クレアと凛音はどこだ」

「えーと……それがですね」


 月瑠の言葉足らずの解説から理解できたことは、月瑠がシャワーを浴びている間にふたりとも姿を消してしまったということだけだった。

 命じられた簡単な任務をこなすことすら出来なかったことに負い目を感じているのか。その非を可能な限り隠そうとして彼女が全く要点に触れなかったために、それが判明するまでにかなりの時間を要した。


「二人はどこへ行ったの?」

「それが解っていたら苦労しませんよう」


 どうやらこの子守役は役に立たないらしい。子守役の子守役が必要だなとがらにもないことを考えつつ月瑠を部屋に残して再度屋外へと躍り出る。


「あ、センパイ、そういえばこれがゴミ箱に入ってました」


 何かを想起したように声を投げかけてくる月瑠に振り返ると、彼女は何やらスチール製の枠のようなものを手に歩み寄ってくる。すぐに何であるかは理解がついた。


「フォトフレーム……」

「写真は入っていないようですが」


 ガラス部分に亀裂が走っているのは、それを捨てた人物の精神状態の表れがゆえか。それは分からぬが、たしかにネイの言うように肝心の写真がはいっていない。

 記憶が正しければ、件の襲撃事件の直前まで峨朗一家団欒の光景がセピア色に色づいていた。その光景が今はない、一応フォトフレームを発見したという屑籠の中を漁ってみるがそれらしいものはなかった。

 

「事件性は無いよな」

「部屋で一悶着があれば月瑠が何かしら気づいているはず。それがないということは、二人でどこかに出かけたかあるいは……」

「……ちくしょう、もう一度招集するか」


 解散したばかりであったが致し方あるまい。台場メガフロートの捜索をするには時雨と真那の二人だけでは広すぎる。

 しかしこれで何度目だろうか。彼女の捜索をするのは。


「……どうやらその必要はないみたいよ」


 ジオフロントのHQに連絡をつけていたのであろう真那が、時雨の心労をいくらか和らげる。

 目線で発言の意図を尋ねると、彼女はビジュアライザー上に展開した簡易ソリッドグラフィに表示されるマーカーを示してくる。ユニティ・コアを示す赤ではなく青いそのドットに見覚えはない。曰く凛音達の今いる地点であるとか。

 彼女の言うことにはリジェネレート・ドラッグを回収に出向いた隊員が彼女たちを尾行し、様子を窺っているという。月瑠よりも有能な監視役がいて助かった。


「ここは……台場海浜フロートか」

「ええ、どうしてこんな所にいるのかしら」


 疑ってもマーカーの位置に誤りはない。流石に台場海浜フロートのどのアトラクションにいるのかまでは分からないが。

 マーカーが動く気配がなく、またその周囲にユニティ・コアの反応もないため危機的状況に陥っているわけでないことはすぐに察せた。


「どこなのですか、凛音さん」


 徒歩で目的地にまで向かっていると、道中でゴミ箱の蓋を開けてその中を覗き込んでいる小柄な不審ガスマスクを発見する。


「いないのです」

「いつから凛音様は狼から野良猫に転職したのですか」

「あ……」


 接近には当然気がついていなかったようでクレアは脊髄反射的に振り返る。時雨たちであることを認識したように肩の力を抜いた。

 あまりにも不審過ぎる彼女の周囲に視線を配るが、彼女以外に生体反応はない。


「てっきり凛音と一緒にいるものかと思っていたんだが」

「え? 違うのです。私は凛音さんを追いかけて部屋から出てきたので……」

「ほう、つまり姉妹仲良く台場海浜フロートで遊ぶために外出したわけではなかったのですね」


 口元に手の甲を当て海浜……と呟き思考しているところを見るに、どうやら姉が遊園地にいることを知らないのは本当の様だ。


「どうしていきなり部屋を飛び出したんだ?」

「それは……」


 彼女はその質問に対して口籠る。回答は持ち合わせているようだが、なかなか模範解答に行き着かないように。

 何かが二人の間にあったことは間違いがない。それが、ここ数日間時雨たちが追い続けてきた謎に関係のあるものであることも。もうそろそろ解き明かしてもいいのではないだろうか。


「アニエス・ロジェに関わることか」

「…………」


 クレアのことであるから母親の名前を出せば狼狽するものかと思っていたが、そういう様子もなく彼女は自身の抱えるガスマスクを見下ろしたままで。


「そろそろ、話してくれてもいいんじゃないか?」

「……どうして時雨さんたちは、私の隠そうとすることを掘り起こそうとするのですか」

「理由なんか無い。ただの知的好奇心だ」

「とんだゲス野郎ですね」


 横目にジト目を向けてくる人工知能。そのホログラムの瞳に映る感情によく似た煌めきも、知的好奇心に他ならないのではないのか。


「それに、アニエス・ロジェを取り巻く謎を解明する必要があると判断したからだ。アニエスの死因は発症だ。それは中央区の隔離施設内で、彼女の崩壊記録を確認したから間違いがない」

「アニエス・ロジェが発症するに至った事件は、2053年の5月16日で間違いないでしょう。レッドシェルター内部の施設でとある事件が起き、アニエスは感染した。そこが問題なのです。一般的にマスメディアで広報された事故内容はレゾルシノール製造工場における爆発事故。しかしその工場は今も健在です。以上の点から、私たちは件の工場は爆破などされていないと踏みました。アニエスはナノマシン漏出によって発症したのです」


 だのに防衛省は何かを隠匿するためにそのような嘘の情報を拡散した。その隠匿しようとした事実とは何か。


「勘ぐるまでもありません……アニエス・ロジェが人為的に殺害されたということ」

「…………」


 クレアはこれまで推察してきた事件の真相の解釈を黙って聞いている。

 その顔には様々な表情が浮かんでは沈み、感情の起伏が激しい反面、考えていることは少しも読み取れない。

 ネイの発言が果たして真実の解明につながっているのか、あるいは全くの見当違いなのか判別しようがないのだ。


「そしてアニエスが死去した次期を境に、幾つもの転機が確認できます。クレア様がガスマスクを常に携帯し、性格的にも過剰なまでに内向的になった。それまで順風満帆と言えていたはずの家庭環境には歪が生じ、峨朗一家の心はそれぞれ分離してしまった。そして凛音様のアナライト化」


 これが一番の問題ですと語調を改める。


「最初はアニエスと共にナノマシン漏出の現場に居合わせて、感染したのかと思いました。ですがアナライトは特殊です。他の感染者とは違って、体内に直接インフェクト型ナノマシンを注入されなければ人体構造の変態は生じません。つまり凛音様は人為的にアナライト化された」

「……凛音が手を加えられたのは、アニエスの死去に関して、凛音が何かを知ってしまったからじゃないのか?」


 防衛省が行った殺人について、知られてはいけない何かを知ってしまったがゆえに、口封じで人体実験を施された。アニエスに関する凛音の記憶がことごとく抹消されているのがその証拠だ。


「人の手が加えられなければ、通常特定の人物に関する記憶だけクラッシュなんてしないだろ。だから──」

「──違うのです」


 ようやくクレアはその唇を震わせた。閉ざした心の隙間を内側から押し開くように小さく溜息をつく。


「全部、違うのです」

「違うというのは、凛音様のアナライト化に関することですか」

「それも含めて全部なのです。そもそもお母様が死んでしまった原因は、事件性のあることなんかじゃないのです……事故なのです」


 隠し続けてきたものを更に押し隠そうと嘘を塗り固めようとしたのかと思った。

 だが違う。クレアの瞳には一切の淀みがない。言葉にしてしまうことに対する未練や躊躇に翻弄されているが、それでも嘘はついていない。そんな気がする。

 

「……話して」


 真那も同様の印象を受けたのだろう。クレアに対する言及から始めるわけではなく、彼女の供述を再優先することに決めたようだ。

 クレアは視線を一身に受け、だが萎縮することはない。


……


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