第190話

「5月16日は……凛音さんの誕生日なのです」


 断片的に語られたクレアの過去。三年前の5月16日。つまり写真の撮影された日について。

 あまりにも言葉足らず情報足らずな彼女の言葉から把握できたことは、あの写真は凛音の誕生日にレッドシェルター化学開発プラントで撮影されたということ。

 そこには水底基地にあったNNインダクタと同じものがあり、これまた同様にデバックフィールドを制御していたということ。

 写真にインダクタがあったことからデバックフィールドが関係していることには大凡の予測がついていたが、しかしまさか凛音の誕生日だったとは思わなかった。


「凛音さんがお母様の職場訪問をしたいと言い出したのです。それでお父様と私と凛音さんとお母様で、あの工場に行きました」


 ガスマスクを小さな胸に掻き抱きながらクレアはぽつりぽつりと話進める。


「今の話は三年前、2052年の5月16日に関してだな。事件が起こったのは二年前の事だったはずだ。その時は何が起きたんだ」


 つまり事件が起こったのも翌年の凛音の誕生日だったということになる。


「凛音さんの要望の通り、翌年の誕生日にも開発プラントに行きました。ただ、その日はお父様が自衛官として重要な事案に駆りだされていて……私と凛音さんとお母様の三人で向かったのです」


 翌年ということは事故が起きた2053年ということになる。ノヴァが日本に侵攻の刃を向けてそう時間が経っていない時期だ。

 おそらく幸正はイモーバブルゲート周辺の哨戒や、その他の任務にでも駆りだされていたのだろう。


「きっと、お母様はデバックフィールドのことや防衛省の目論んでいること、ラグノス計画について私達に教えてくれるつもりだったのだと思います……けれどその時、事故が起きてしまったのです」

 

 NNインダクタが機能しなくなりデバックフィールドが展開した。これによってノヴァが製造プラントに充満しアニエスは発症したという。

 クレアは事件ではなく事故だといった。これが指し示すことはつまり、第三者の人為的な介入によってアニエスが殺害されたわけではないということ。しかし腑に落ちない点がいくつかある。


「本当に、ただの事故なのか?」

「今の話を聞く限り、アニエスはフランスから派遣された諜報員だったということになるわね。ラグノス計画という得体のしれない危ない計画の真相を知るために、G7から送られてきた刺客……防衛省に抹殺されるに相応しい立場だと思えるけれど」


 疑念を真那が代わりに解消してくれる。

 結局はそこだ。アニエスは防衛省に加担する側の人間ではなく、その皮を被っただけのスパイであったわけだ。

 彼女の立場が発覚するきっかけがあったかどうかは判りかねるが、その状況を鑑みれば彼女の死因は偶然の事故などではなく、人為的なものと判断するほうが自然である。


「確かにそうかもしれません。でも、違うんです」


 クレアはそれを否定する。不確定要素ばかりの返答。しかし何となく彼女が嘘でのり切ろうとしているわけではないように思えた。


「どうして言い切れるのですか? 状況を正確に把握できていないためあくまでも憶測の域を出ませんが。峨朗一家が一年後再び訪れた時偶然NNインダクタが故障してアニエスが死んだ……と考えるには少々材料が不足しているように思えますが」

「それは……」


 そこでクレアは二の句に詰まる。これまでで一番回答に躊躇しているように思えた。


「クレア、黙っていたって仕方ないだろ。俺達ももう引き返せないところまで踏み込んでしまってる。場合によっては不本意な形で情報を捻出する必要も──」

「黙って」


 痺れを切らした時雨を真那が端的に黙らせた。そんな野暮な催促をするんじゃないと言わんばかりに尻目に見据えてくる。

 真那がそんな表情をするなどと思ってもみなかった時雨は思わず口を噤む。


「クレア、もしかしたらこの件は本当に私たちが関わるような、いえ、関わってはいけない事案なのかもしれない。その事故が事故であるなら、きっと私たちはこれ以上介入をするべきではないのかもしれない……だから、ここからはあなたの裁量に委ねるわ」

「真那さん……?」

「私はレジスタンス、敵味方関係なく自分達の不利に傾くような因子は排除する必要があるわ。でも、だからといって他人の人格に無闇に干渉していいはずはないわ。もしあなたが話したくないのなら私はこれ以上何も尋ねない」

「…………」

「でも、もし私たちに話すことで、少しでもあなたの心を蝕むものが緩和されるのなら……私たちを頼って」


 真那は慈愛に満ちた優しい表情でクレアに静かにそう告げた。そんな彼女の姿を視界に、自分が少し焦燥に駆られ過ぎかつ衝動的になっていたのかもしれないと痛感させられる。

 クレアは二年前の5月16日に何かを体験した。凛音には絶対に話せないことを、彼女は二年以上もの間、重責をその小さな胸の中に押さえ込み続けている。

 閉ざされた堅牢でいて脆く儚い南京錠を強引にこじ開けようとしてきた。彼女のことを考えるならば、その鍵穴に合った正確な鍵を探すべきだった。正しく手蔓を引く必要があったのである。

 クレアにとってそれは、今真那がそうしているように疑いからではなく信頼から自分に伸ばされた手にほかならない。


「……お話し、するのです」


 胸に抱くガスマスクに顔下半分を沈ませクレアはわずかにその身を震えさす。そうして何かを決心したように小さく息を吸い込んだ。


「あの事故に防衛省の人は関わっていないのです。だって、あの事故を起こしたのは……私、だからなのです」



 ◇



 気づいた時には既に遅かった。

 広大なNNインダクタ室との間に隔てられていた強化ガラスには亀裂が走り粉砕し、そこから無数の金属粒子が溢れ出してくる。

 目に見えるほどの素粒子の塊。砂漠の砂嵐にも見えるそれはその脅威性を遥かに凌駕していた。

 煙のように室内に充満し始める金属粒子を何も出来ずにただ傍観していたクレアであったが、生物本能的に危険なものであるということは理解できた。

 そして自分の触れているモニタを見つめる。そこには自分には判読不能な外国語が羅列されていた。警鐘のようなエマージェンシーコールがガンガンと脳みそを揺らす状況。間違いなく、自分の知的好奇心が家族を窮地に追いやったのだ。

 既に金属粒子が肉体全身に侵食を始めていた。全身の血管内に浸透しているのが解る。血流に乗って冷たい感触が全身を撫で回すような。


「ッ、クレア、凛音、かがんで口をふさぎなさい!」


 そんな状況でいち早く冷静さを取り戻したアニエスは、凛音とクレアにそう指示しセキュリティゲートに駆け寄る。そうしてコンソールに手の平を重ねる。


「ナノマシンの流出を観測。流出種別インフェクト型。状況危険指数220。施設の安全性を確保するため、セキュリティレベルを7に再設定します。管制塔B7を隔離しました」

「──クソッ!」


 悪態をついてアニエスがセキュリティゲートを殴打するが、堅牢な鉄の扉が開くことはなく。

 アニエスは数秒ほど悪態を撒き散らしていたが、はっとしたように凛音とクレアの存在を想起したのかとたんにその顔を蒼白にさせていく。

 

「ッ……二人共、口を塞いだままでいなさい」


 彼女は何が起きているのか未だに理解できていない凛音と、この状況を引き起こしたクレアの元に駆け寄ってくるなり、そのまま二人に自分の着ていた迷彩服を頭から被せる。

 そうしてそのままセキュリティゲート付近にまで引きずるようにして誘導し、そこに二人を座らせかぶせた服の上から娘達を掻き抱いた。

 視界が制限されていたが、クレアはアニエスが自分の身を呈して二人を助けようとしていることを理解する。


「わ、私……ご、ごめんなさ……ッ」


 危険な状態にあることが解って謝罪の言葉しか思い浮かばない。

 ちょっとした好奇心だったのだ。そのちょっとした好奇心がこの状況を作った。

 後悔とも戦慄とも取れる様々な負の感情が波のように押し寄せては消え、クレアは抑えきれない程の震えを身に体感する。

 金属粒子が全身に回り既に意識は薄れかかっている。それでも焼き付くような冷たい恐怖という感情だけは薄れない。そんなクレアの不安感と恐怖を抑えこませるように、アニエスの抱擁が強くなる。

 

「峨朗ファミリー教訓その四十二……また忘れたの? 『好奇心は猫を殺す』。だけどあなた達は猫じゃないわ。私の娘よ……絶対に死なせない。希望を持ちなさい」


 身を寄せ合うようにして縮みこまる姉妹。クレアは凛音の表情に明確な恐怖の色が滲み始めていることに気がつく。

 自分の行為が姉を殺す。母を殺す。そして自分自身を殺す。幼心では、自身の犯した大きすぎる罪の重さは計り知れなかった。



 ◇



 今にも消え入りそうな声で語られた真実。クレアがそれを語り終えるまで黙って聞いていたが、脱力したようにその場に膝を崩すのを気遣ってやることすら出来ない。

 代わりに真那が歩み寄りその肩に両の手のひらを重ねる。そうして自身の胸元にクレアの頭を引き寄せた。


「気づいたら、私は医療施設にいました」

「感染は……しなかったのね」

「……はい」


 クレアは今にも感情を全て吐き出しそうな顔で小さく首肯する。思い出したくない辛い過去を思い出させてしまった。


「私が感染しなかった理由は、これなんです」


 彼女は掻き抱いていたガスマスクをそっと差し出す。

 細かい傷跡が無数に点在するそれは、確かに金属粒子による風化が進行した状態にも思える。

 無数の赤錆や傷の刻まれたそれはアニエスの所有していたガスマスク。クレアが常に携帯している理由がわかった気がした。


「多分、お母様が被せてくれたのだと思うのです」

「野暮な疑問だとは思うが、ガスマスクでナノマシンの侵食を防げるのか?」

「今アウターエリアに出て被っても確実に感染するでしょうね。おそらく当時のデバックフィールドには、今とは違う性質のナノマシンが格納されていたのでしょう」

「今とは違う……?」

「当然ウロボロスではない。それと同時にノヴァとも違う。一口にインフェクト型と言っても、その種別は様々ですから」


 炭素を媒体に有機物を侵食する現行モデルであればガスマスクなど何の意味も持たないはず。しかし一概にすべてのインフェクト型がそうとは言い切れない。気道から侵入し、五臓六腑を介して体内に侵略するモデルがあっても何らおかしくはない。


「医師の診断では、ある程度体内に浸透はしていましたが、致発量ではないとの事でした。でもお母様と凛音さんは……」


 それ以降は紡がれない。敢えて発言させるまでもなかった。


「私は自分のことが許せないのです。私の迂闊な、絶対に許されない軽率な行動が原因で皆を危険に晒したのに……その私だけが感染しなかったのです」


 クレアは小さな手のひらをきつく握りしめて内心の自責の念を強く噛み締めていた。 わずかに目じりには後悔がにじみ握った小さな拳と華奢な肩は震えている。


「私は怖かったのです。凛音さんに知られてしまうことが。それにお父様のことが……私は最低なのです。自分が必要とされなくなることが怖くて、現実からずっと逃げてきたのです……ッ!」


 クレアがその事故について凛音にずっと隠してきた理由が解った。

 記憶を失った凛音に全ての真実を伝えてしまったらどうなるか全くの予測がつかない。

 母親が死に至る、そして凛音がアナライトになる原因を作った自分のことを許してくれるとは思えず恐怖してきたのだ。

 己の記憶に蓋をして、絶対に凛音に知られないようにしてきた。幸正に対するすさまじい引け目もあったことだろう。

 この事故によって幸正は妻を失い順風満帆な家庭が崩壊した。罪悪感ばかりが湧きだしてしまっても当然だ。


「待って、それならどうして、凛音はアナライトになったの?」


 その疑念が残る。アナライト化するには、アナライトプロジェクトの手順を踏んで直接体内にインフェクト型を注入する必要がある。

 たとえどんなにナノマシン濃度の濃い空間にいてもアナライト化はしないのだ。身体がナノマシンに順応する前に、皮膚細胞から筋皮質にかけて細胞乖離を先に起こしてしまうがためだ。


「俺がアナライト手術をさせたためだ」

「! お、父様……?」


 誰も彼の存在に気がついてはいなかった。宵闇の中から姿を表した幸正は、いつもの鉄仮面をその顔に貼り付けたまま腕を組んでいる。


「盗み聞きですか趣味が悪いですね」

「どうして、ここにいるんだ?」

「アニエスのためだ」

「……っ」


 脈略のない理由を述べ幸正はクレアを見据える。彼女は蛇に睨まれたように萎縮していた。


「それで、幸正のおじさんがアナライト手術をさせたというのはどういうこと?」


 さり気なく幸正とクレアとの間に身を割り込ませつつ真那が脱線しかけた話を元に戻す。


「凛音は発症寸前だった。彼奴を生き永らえさせるためにはアナライト手術が一番合理的だった。それだけの話しだ」

「合理的って……娘の命が関わる話だろ」

「時雨、気持ちはわかるけれど幸正のおじさんの言葉も一理あるわ。クレアとは違って凛音はガスマスクをつけていなかった。発症するのは間違いなかったでしょう」


 真那のその言葉に幸正を擁護するつもりがないという意思は垣間見える。そうはいっても素直に素晴らしい娘思いな父親だと感心できるだけの寛容さは時雨にはない。


「アナライト化なんて、成功の見込みはほとんどゼロだったんじゃないか?」

「そうね。アナライト化には危険がつきまとうわ。実際、私は凛音に出会うまで、アナライトプロジェクトの実験体になって六百秒以内に崩壊現象が発生しなかった人間を見たことはなかったから。でも、凛音はその時特殊な環境下にいた。これまでの健常者と違って既に発症寸前だった」

「凛音の状態は奇跡に近しい物だった。通常なら発症していてもおかしくなかっただろう。だが奴の肉体は抗体を形成し始めていた」


 つまり健常者よりもナノマシンを受け入れやすい体質になっていたということか。そして幸正の目論見通り凛音は発症を免れたわけだ。更にナノマシンに親しい存在になることで。


「本当に、人為的な事件ではなかったのね」

「そうだ。部外者の貴様らがコソコソと嗅ぎまわったがために、レジスタンスの俺に対する不信感も倍増していたようだな」

「実際に防衛省と繋がっていたのですから言えた口ではないですけどね。まあいいでしょう、防衛省の手が加わっていないことは分かりました。つまり私たちは完全に部外者なわけです。それどころか立場を弁えず図々しくも家庭内の問題に首を突っ込んだ野次馬だったわけですが……ここまで来たら、もはや無関係を装うのも私の信念が許しません。クレア様、どうするおつもりなのですか?」

「私は……怖いのです」


 ガスマスクを抱きすくめる彼女は俯いたまま身を震わせる。

 これまで心の奥底に抑えこんできた秘密を表面上に出すこと。それがどれだけ困難なことなのかはクレア以外にはわからない。

 凛音に決別されてしまうのではないかという底知れない恐怖が彼女を襲うのだ。

 

「怖いのです。とても怖いのです……でももうこれ以上、私自身を嫌いになりたくないのです」

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