第182話
「起きて」
開けた視界の中に最初に飛び込んできたものは見慣れた水晶のような双眸。真那の物だ。
覚醒した意識に比例するようにじわじわと押し寄せてくる鈍痛は、右肩口から肩甲骨にかけての骨格の軋みが原因か。少なくとも五臓六腑が破裂しているだとか、裂傷した皮膚からへし折れた骨が突き出しているという様子はない。
一成による強襲に加減が施されていたのか、あるいは想定した五体不満足過ぎるそのような自体に瀕したものの、リジェネレート・ドラッグによる驚異的な治癒力で全てなかったことにされたのか。何れにせよ、肉体はまだ十分に動ける状態にあった。
視線を真那からそらし迅速に周囲に配る。すぐに状況把握に成功する。薄暗い通路の先に山積する瓦礫を見れば、先ほど一成による奇襲を受けた地点から殆ど移動していないことが解る。
直線距離で言えば天井に穿たれた巨大な穴までは数十メートルほどであるが、問題なのはこちらを囲うようにして十数名のU.I.F.、自衛隊員をともに含む部隊が展開されていること。
それぞれが一様にライフルを構え壁面に凭れ座る時雨と真那にその銃口を向けているのを見れば、抜き差しならぬ状況下に置かれていることは火を見るよりも明らかだ。
あまつさえ両の手を背中側で拘束されているとあれば、自力での打開はほぼ不可能であることが伺えた。
「無理よ。その手錠はただの金属じゃないわ」
両腕を力任せに引き離し錠を引きちぎろうと奮闘する時雨を横目に伺いながら、真那は少しの期待も含めぬ声音でそう断言する。
僅かに肩を傾け耳元付近で呟いたのは連中に気取られないようにするためか。そう察し極力視線を前方から逸らさず、U.I.F.や隊員に気づかれぬように再度手錠の破壊を試みる。
「熱伝導を一切していないところを見ると、絶縁金属であることは間違いありません。グラナニウムでしょう」
「グラナニウムといえば……A.A.の装甲に使われている金属か」
「U.I.F.のアーマーにもですね。たとえ時雨様が百パーセントの力を出すことが出来たとしても、ヒビすらはいらないことでしょう」
「……聞くまでもないと思うが、何がどうなった」
手錠を自力で破壊することが出来ないと理解し、藁にもすがる思いでホルスターに触れた指が空を掻いた後、状況整理に努めることにした。
「油断していたわ。敵が攻めてくるとすれば先回りされてターミナルから追いつめられる様な事態だけ……そう高を括っていた。それが私たちの敗因ね」
「あの機体は確かメシアだったか、あれで地下通路まで穴をほって開通させたわけか」
「東京湾海底にまで降下していたのならそれも出来なかったでしょうけど……まだ貿易港フロートの地点にいたから」
「で、そのメシアはどこに行ったんだ」
さり気なく包囲網を確認してはみるものの、A.A.の中にあの独特なフォルムのマシンは存在しない。
「山本一成なら私たちを捕縛した後どこかに消えたわ。さっき無線で連絡をとっていたのが少し聞こえたのだけれど……何を話していたのか要領はつかめなかったわ」
「どうして俺たちは生かされている?」
「それに関しても今はまだ推察の域を出ないわ」
尋問でもしてレジスタンスの情報でも焙り出すつもりか。
今更何の情報を求めるというのか。防衛省には妃夢路がいる。それだけでレジスタンスの尻尾を掴む十分な材料となりえるだろう。
あるいは捕虜にでもするのか。捕虜にした所でレジスタンスが降伏するとは思えないが。
「万事休すか」
「ネイが何とか気付かれずにHQに無線をつけたわ。私たちの状況を詳しく伝達してくれている」
「情けない話だが、後は強攻策頼りか」
「一体何を話しているんだい? 僕も混ぜてくれないかな」
「ッ!」
接近されていることにすら気づけなかった。
目の前に佇み、わざとらしく耳を傾けふむふむとでも声に出さんばかりに肯いて共感する素振りを見せる一成。
彼は時雨と真那の威圧と侮蔑の視線を一身に受け、少しも意に介していないように不敵に嘲笑を携えて応じる。
「本当に僕からイヴを盗み出せると思ったのかい? 時雨君」
「…………」
「いけないなぁ、実にいけない、何たるギルティだろうね」
一成は胸元から抜き取った血色のバラ、その花弁を時雨の顔面に垂直に向け、そのまま口元に押し付けてくる。
彼はそのまま上体を乗り出し時雨の口にバラを据えたまま、超至近距離から目を覗き込んできた。
「いけないね、イヴは僕のものさ、イヴは僕のものなんだよ、時雨君」
あたかも暗示でもかけるように、一成は何度もイヴとやらの所有権を主張してきた。
一成のその発言の意図が読めず、だがこちらの油断を煽るための手口であるかもしれないという危惧もあったため、何も言葉を発さずにただ睨み据えた。その反応に一成は不服だったのか、あるいは満足したのか内心の読みとれない表情のまま後退する。
「さて、罪深き君をどう裁いたものかな」
「あなたに裁かれる謂れはありませんがね」
「イヴは僕の所有物だよ。それを盗もうとしたんだから、れっきとした窃盗罪じゃないか」
物理的に拘束していることからくる慢心か。彼は背を向け肩を竦めてみせる。
両の腕を背中側で拘束されているとはいえ、立ち上がれないほどの重拘禁を受けているわけではない。彼の反射よりも迅速に強襲をしかけ、その首をへし折ることも不可能ではないだろう。
勿論、彼を殺害した所でこの状態から離脱できるわけではないし、むしろそんなことをすれば問答無用に銃殺されることだろう。
とにかくそれくらい無防備に背中を晒しているのだ。
「しかし、これはまた珍しい光景だね」
踵を返しこちらに向き直った一成は改まったように呟く。彼の視線は真那に向けられていた。いや真那の持つ発信機にか。
「こんな形でイヴが完全なる形になるなんてね」
「何ですか一成様、あなたの言うイヴとは戦隊物のロボか何かなのですか。てっきり私はイヴとは空想上の存在とはいえ人間の形をした存在かと思っていたんですがね。まあ細胞分裂するアメーバ的プランクトンをイヴと呼んでいる、という可能性も否めなかったですが……しかしまさか合体する技巧を有した無機物であるとは。流石に理解し難いフェティシズムだと言えます」
「心にもないことを言うね……僕はこうして完全体に相まみえたことに、高揚を隠せずにいるというのに。どうだい、この滲みだすような芳しき芳香は。堪らないだろう」
「臭いなんて感知できませんがね。まあ私は五感を有していないですけど」
「脱線したね、さて……どんな罰を与えたものかな」
突然口調を改めた一成は、先程までの道楽のような表情を一変険しきものに急変させる。
途端、体の内側を氷で撫でられたような悪寒に見舞われた。彼の鋭い眼光の中に、こちらを射殺すことなど容易いことであるのだと主張する絶対的な自身と気迫を感じ取ったのである。
「正直僕としては散々コケにされてきた鬱憤を晴らすためにも、時雨君には恥辱の限りを尽くした体験をして貰いたかったんだけどね。どうやらその時間もないようだ」
「時間……?」
「君たちの仲間がこの地点の直上空で何やら不審な行動をしているようだからね。雀の涙程度の奇襲ならいいけど、それが糞に変われば僕たちとて多少なりとも損失を被ることになる。つまり爆撃だとか、そういう事態さ」
どうやらステルスヘリに関しては感知されていたようだ。しかし彼がいう糞というのはおそらく爆撃のことであろう。であればレジスタンスの作戦は完全には読まれていないということになる。
その事実は不幸中の幸いであったが、さらなる不幸に直結もしていた。
ステルス機に感づかれていて、かつそれで時間がないというのであれば、彼が何を考えているかは明白である。航空支援部隊が何かおかしな行動に出る前に処分を決めてしまおうと言う算段だろう。
「どうするつもりだ」
「局長には捕縛して連れ帰れ、と言われているんだけど。でも僕的には、イヴを汚い手で触れようとする害虫の君を颯爽に駆除してしまいたい所なんだ。だから悩んでいるんだよ。よし、君に選択させてあげよう」
一成は何かを思いついたように柏手を打って再度踵を返した。そうして離れていった彼の背が薄暗闇に紛れ完全に見えなくなってから数十秒と経たず、何やら腹の底に響くような駆動音が反響してくる。
音の正体が視界内に収まるより前にその正体に検討をつけていた。闇の中から進行し目前で静止した巨体は紛れも無くメシアのものである。特徴的な四足歩行型兵器は、展開された機銃の照準をこちらに向ける。
「僕のメシアのリバティ・ブラスターで粉粒状に撒き散らされるか、アダムリライトミサイルで粉砕されるか、どっちがいいかい?」
「どっちもお断りです。解放してください。てか解放しろ拉致監禁変態野郎」
今本音が出たような気がした。
「返事がないのはどっちでもいいということかな。それなら僕が選ぼう」
「ちょっと待ってください。どこぞのグラサン男も三分間は待ってくれるんですよ。それだのにあなたは三十秒も待てないんですか。おもちゃを目の前にした子供ですか」
「言っただろう。時間がないんだよ」
メシアのチェーンガンが駆動音とともに空転を始める。一成がトリガーに触れれば、その瞬間に時雨らは蜂の巣と化す。それを証明するように、囲っていたU.I.F.や自衛隊員たちもまたアメーバのように散らばり始めていた。
だがチェーンガン口が火を噴出することはなかった。それよりも先に地下運搬経路全域を揺るがすような大震が到来する。
「これは……」
爆音は一度。相次ぐ炸裂音は到来しない。しかし地下運搬経路に走る震動は鳴りを潜める様子などなく、それどころか更に横揺れの幅を拡張させ続ける。
「始まったか」
振動をその身で体感し何が生じているのかを肌で感じた。強行手段。最悪の事態に備え用意された強引極まりない計画。
「何が起きている!? 報告せよ!」
「原因不明! 爆源もまた不明です!」
絶え間ない振動と衝撃に囲っていた包囲網が徐々に瓦解していく。地に膝をつく者たちも増え、同様に時雨や真那も堪らずその場に崩折れた。
「リミテッド外周区に異常現象発生! 台場フロート海中貿易港防壁が一部損壊しています!」
無線を拡声しているのか、ここにいるのではないおそらくレッドシェルターにいるであろう人間の伝達が反響する。
「貿易港だと?」
「ソナーを用い特定海域に所属不明の潜水艦を一隻補足しました! おそらくハープーンによる弾着です!」
「だがイモーバブルゲートは対艦ミサイル程度で破壊されるほど脆弱ではない。そういう設計だろう」
「確かにシミュレーション通りであれば、イモーバブルゲートの損壊は免れたでしょうが……爆撃地点は海中です、水圧による負荷がかかりゲートが破壊されました!」
「予測される事態を演算しろ」
「およそ一分以内に膨大な値の海水が雪崩れ込みます!」
明らかなる動揺が見て取れるその拡声音を耳にして、敵陣に狼狽の色が浸透する。
そんな不安を煽るように激震は徐々に接近してきていた。地下運搬経路を経由して、マシンですらいとも容易く圧壊できるほどの海水が急接近してきているのだ。
「小賢しい作戦を練ったものだね。君たちもあまり取り乱すものではないんじゃないかい」
一切の動揺の色すら見せず一成のノイズがかった沈声が浸透する。
更に継がれた彼の叱責が地下運搬経路内部に反響する。平坦な声音であったが、恐怖心やら不安感などを一切合切払拭してしまうほどの強制力がある。
しんと静まり返った通路内。すぐに冷静さを取り戻した指揮官と思しき人物が全体指示を飛ばす。
「総員、直ちに地上へと離脱せよ」
車両のエンジンが点火し、それらは脇目もふらずに通路の奥の闇へと消えていく。おそらくはターミナルを目指してのことであろう。
四輪車両と違って前後左右以外に上下を含む無作為方向へ縦横無尽に移動できるA.A.は、ターミナルなど経由する必要はない。甚重な見た目に似合わぬ俊敏な跳躍で、次々とA.A.が天井に突貫された陥落に姿を消す。先ほど一成が貫通させたものだ。
「さて、君たちも上に上がったほうがいいよ」
一成がそう告げた相手は床に臥せった時雨や真那ではない。激震にさらされてもなお一切姿勢を崩さぬU.I.F.の兵士たちに向けての言葉である。
「それから、そこに転がっているギルティの産物君たちも、地上に連れ出しておいてくれるかい」
「承諾」
U.I.F.の兵士は一成の命を受けるなり時雨らの元へと音もなく歩み寄る。抵抗の可能性を危惧してか銃口をこちらに定め近づいてくるU.I.F.に対し、少しの動作も気取られないようにする。
代わりに真那に対し動くなというアイコンタクトを送る。この状況下で抵抗すれば即殺害されるだろう。そのことに真那も考えを行き着かせていたのか、無言でU.I.F.を睨み据えている。
U.I.F.に乱暴に抱えられながらも、尻目に先まで目の前に仁王立ちしていた巨体の姿を探した。メシアは既に背を向け瓦礫を足場に身軽に地上へと飛び出す。それを確認しU.I.F.に感づかれないほど静かに安堵の息をつく。ひとまず第一段階はクリアだ。
これまた人間が内部に入っているとは思えぬ跳躍で、U.I.F.は十数メートルほどもある鉄筋コンクリートを登っていく。U.I.F.の足がコンクリ壁を蹴り飛ばすたびに、傷口に突き刺さるような鈍痛が走った。
地上に舞い出た瞬間、暗闇に慣れた虹彩が破裂するような光を真正面に受けて震える。今は深夜帯であるはずだ。まだ太陽が出る時間ではない。
咄嗟のその疑問もすぐに解消される。コンクリート製の路上にぶち開けられた巨大な穴。その側に平伏す時雨と真那を大地に押さえつけるU.I.F.。
それらを囲うように、敵陣営の大軍勢が絶壁の包囲網を築きあげていた。
掲げられた各銃器のマズルは全てサークルの中心部──すなわち時雨らに向けられ、今にもマズルフラッシュで新たな光を迸らせようとしている。
目視だけでも三十近いU.I.F.、自衛隊員に加え、地下で観測していた二十ほどのA.A.の殆どもまた包囲網に加わっている。
爆発的な光源はA.A.の放つフラッシュライトだ。聳えるほどの巨体の肩口からは短砲身が覗き、グレネードを放擲するための擲弾発射器が展開されているのが伺えた。
「総員、構えッ!」
司令塔の拡声音とともに全ての武装が完全展開される。
「クソ……!」
状況を正確に把握し、両の手を背中側に押さえつけているU.I.F.の拘束から逃れようとした。うつ伏せの体勢ではまともに力など捻出できることは出来ず、ましてや拘束しているのが人間を遥かに超越したU.I.F.の膂力とあれば、脱出は不可能だった。
このままでは確実に処分される。拘束するU.I.F.の手に掛かる力は一切緩まない。
直ぐ側で、同様に拘束されていた真那がナイフを抜刀しようとし、額を地面に叩きつけられるのが伺えた。
アスファルトに赤い色が浸透し真那は動かなくなる。気を失っているだけであると解釈したいが……U.I.F.がもし手加減していなかったのならば、最悪の事態になっている可能性もある。
「っ……U.I.F.ごと殺る気か」
司令塔の指示があれば包囲網は一切の躊躇など見せずにトリガーを引く。もし誰かが躊躇ったとしてもこの数だ、そうなれば確実にその瞬間が最期となる。
唯一の逃走経路である今登ってきたばかりの突貫を脇目に伺う。そんな希望的観測も地下を濁流のようになって流れ進む海水を前に全て洗い流される。
もしU.I.F.の拘束から逃れられても、地下に飛び降りれば確実に溺死するだろう。
「水圧を利用した水攻めか……作戦としては悪くなかったね」
包囲網から一歩踏み出した存在があった。確認するまでもなくメシアであろう。搭乗者たる一成は高みの見物でもするように、淡々と告げる。
「僕たちは地上に離脱せざるを得なくなった。でも、結果的に海中貿易港を破壊したことが君たちの首を絞めることになったね」
「山本
「社交辞令くらいいいだろう。このギルティ君たちは今から断罪を受けるんだ。少しくらいリバティロードの切符を発券してあげてもいいだろう? 勿論、片道切符だけどね……さて、そろそろ断罪劇と行こうか」
声音は変わらぬまま時雨らの状況だけは確実に悪変していた。今にも一斉射撃が繰り広げられそうになっているのだから。
しかし、またしても事態は急変する。
「上空から複数の襲来物確認!」
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