第176話

「ハッピーバースデートゥーミー、なのだ!」


 クレアの目の前でパーティー用のクラッカーが弾ける。

 周囲に散布した色とりどりな紙吹雪を踏みしだくようにして、凛音は奇々怪々な踊りと鼻歌で内心の興奮状態を表していた。


「お誕生日おめでとうなのですっ」


 十一歳になったばかりの自分の姉の興奮具合に気圧されながらも、クレアは精一杯の声量で彼女を祝う。

 姉の誕生日であるのに、祝う側よりも姉本人が自分を祝っていては問題がある。クレアは凛音同様にクラッカーを手に取ると垂らされた糸を引っ張る。凛音に向けて。


「ひゃぁぁあっ!?」


 噴射口は自分に向けられているわけで、中にこれでもかと言わんばかりにおしげもなくふんだんにつめ込まれた紙吹雪が顔面に噴射する。破砕音が鼓膜をアイスピックで突き刺すような鋭痛となってクレアを襲う。

 思わず尻餅をついた彼女に凛音が歩み寄ってきた。そうして妹の手を掴み、立ち上がらせる。


「何やっているのだ?」

「凛音おねえちゃんのお祝いなのです」

「リオンには今、クレアが自分をお祝いしているように見えたのだが」

「間違っただけなのです!」


 自分は姉にどれだけふてぶてしい妹だと思われているのかと不安になりつつも、スカートに付着した埃を払う。


「全く、クレアは常に気が抜けているわね」

「お母様……」


 姉妹の歓談を微笑ましい物を見るように見ていたアニエスは、呆れたようにそう呟いてクレアの乱れた髪をただす。

 クレアのそれよりも純銀に輝く長髪を束ね、外人特有のグラマラスでありながら流麗な体つき。優しげな瞳を携えて彼女はお転婆気味の二女に手を差し伸べる。

 普段から持ち歩いているガスマスクを脇に抱えているのは見慣れた光景だ。

 

「ほら、お祝いするのはいいけど、早くしないと送迎の車が行ってしまうわよ」

「なのだ!」

「なのだ! じゃないでしょ。峨朗ファミリー教訓その五十三『散らかしたものは回収すること』。忘れたの? ちょっとした痕跡でも、戦場ではその痕跡が命取りになることもある。敵に追跡されるということは、背後からの奇襲を誘うような愚行なんだから」

「五十三個も覚えられないのだ」

「何言っているのよ凛音、峨朗ファミリーの教訓は全部で六十七個もあるのよ。幸正は三日ですべて暗唱できるようになったわよ」

「…………」


 何故か自慢気に語るアニエスの脇に佇む巨漢の父は、いかつい顔にしわを寄せ明らかなる苦悶の表情を表明してみせる。

 幼いクレアにも、自分の父親が地獄のような個別レッスンを経てアニエスに認められるようになったことを察することが出来た。


「そもそもここは戦場ではないだろ? レッドシェルターなのだ」

「レッドシェルターの何たるかを理解していないようね、来る戦争に備えての防衛網、その布陣として築かれたのがこの防衛省の牙城。平和に思えるこの瞬間も、繰り返す戦争という歯車のうちの一つにすぎないのよ」

「意味はよく分からぬが、リオンは率先して覚えるつもりはないのだ」

「私の娘だとは到底思えないわ……まあ、そういうところも可愛いけれど」

「……ふん」


 幸正はこの時点で理解していた。アニエスの愛情が単なる家族愛と形容していいものには留まらないことを。彼女は愛ゆえに娘達を厳しく育てることだろう。愛ゆえに旅をさせることだろう。

 美しく妖艶なその銀色の頭髪もまた美しいだけには留まらない。それは獅子のたてがみにも匹敵する。獅子は子を崖から突き落とし成長させる。アニエスもまた、娘達の成長させるためならば多少の強要は厭わないことだろう。

 それを幸正は知っていた。経験者ゆえに語れるのである。彼女の愛の重さを。


「さあ片付けなさい。峨朗ファミリー教訓その二十二『上官命令には迅速に対応する』。戦場では、僅かの留意も命取りになりかねないんだから」


 アニエスは娘達にそう指示しながら、自身もまた路上に散布した花吹雪を回収する。凛音は路上でクラッカーを爆発させたのである。

 幸いレッドシェルターは現状何者の介入も赦さない覇権場、一般市民は入ることすら許されないため、先の炸裂音を爆音と勘違いして騒ぎ立てる者もいない。

 しかし巡回するアンドロイドに銃声と判断されれば最悪の事態にもなりかねない。

 素直に花吹雪の回収をする娘達。散らかしたものを全て片付けるなり、アニエスは娘達を送迎用の車へと誘導する。


「それにしても変な娘ね、凛音あなたは」


 アニエスはリムジンの車窓縁に肘をつきながら、対面座椅子に腰掛けクレアと戯れる姉を俯瞰する。


「何がなのだ?」

「軍人として必要なスキルを学ぶための峨朗ファミリー教訓。それを率先して覚えようとする気概はないのに、誕生日のプレゼントとして軍施設の見学がしたいだなんて」


 リムジンは今、レッドシェルターの中央部へと向かっている。

 そこにそびえ立つ帝城。そこから少しばかり距離をおいた位置に点在する工業地帯。そこにはアニエスが勤務するレゾルシノール製造工場がある。

 凛音は十一歳の誕生日を迎えるにあたって、プレゼントの代わりに職場の見学をしたいと言ったのである。


「だってあれなのだろ、そのレゾルシノルンとか言うとこではゴムを作っているのだろ? それはリオンの知らない技術なのだ。リオンはクレアのおねーさんだからな。クレアよりも沢山物知りでないといけないのだ」

「レゾルシノールよ。知識をひけらかしたいだけということか。けれど愚策と言わざるをえないわ。それならクレアを連れて来るべきではなかったでしょ」

「! それもそうなのだ。クレア、帰るのだ」

「お、横暴なのです」

「それに一応言っておくけれど、本当にゴムを製造しているわけじゃないわよ」

「どういうことなのだ?」

「言ったでしょ。私の職場はナノテクノロジーの開発・貯蔵を目的とした格納施設。レゾルシノール製造工場というのは名目にすぎないのよ」


 その一言を耳に幸正は反射的にリムジンの運転席に注意を向ける。

 運転手が何かしら不審がっている様子はない。それは当然だ。この送迎をしている彼もナノテクノロジーに関わる人間であるのだから。

 しかし問題はここからだ。この先をアニエスがうっかり口走ってしまうことでもあれば、最悪の事態に陥ることが確定する。

 アニエスは聡明な女性であり同時に軍人である。幸正の懸案など払拭するまでもなく、当然のように迂闊な発言をすることはなかった。


「……まあそういうわけで、見学しても何も面白い物なんてないわよ」

「なんだそれはつまらなそうなのだ」

「正直すぎるのも考えものね」


 遠慮というものを知らない娘の物言いに呆れ、座椅子に深く腰を沈めつつアニエスは尻目に幸正を伺う。

 幸正は丸太のように太く屈強な腕を組んで目を伏せていた。彼は今回凛音とクレアを製造プラントに連れて行く事に反対していたのである。だがアニエスが強引に凛音の要望を受け入れた。

 娘達にはリミテッドの現状を正確に認識させる必要があった。幼い彼女たちには酷かもしれないと思わなかったわけではない。しかし軍人である幸正とアニエスの娘で、かつレッドシェルター居住権を有している以上、遅かれ早かれ卑屈な現実に直面する事になるのだ。

 それならば、今のうちにナノテクノロジーの何たるかを言い聞かせておく必要がある。

 

「ついたわよ」


 通常レッドシェルターに居住権を有している人間は、レッドシェルター内部の施設の九十パーセント以上を無条件に利用できる。

 勿論帝城や監獄エリア、軍需プラントのような軍関係施設への立ち入りには一定以上の権限と理由が必要になってくるが。

 今回峨朗一家が出向いた場所は工業地帯であり厳密には軍需施設ではない。しかし、ここに入場するのにはかなりの厳密な審査を経て入場権を手にせねばならない。その体制がこの開発プラントがただのレゾルシノール製造工場ではないことを物語っていた。

 事前に部外者である凛音とクレアの入場を『関係者』としての立場を利用して獲得していた一行は、何の滞りもなくプラント内部へと入る。

 アニエスにとっては見慣れた作業空間であるが、凛音やクレアには過剰に異質な空間に認識されたらしい。現状ほとんどスタッフのいないその空間を興味深げに見渡しては目を爛々とさせる姉。

 それに対し妹の方は何処か怯えたように萎縮し、そわそわと奇々怪々な機材を眺めている。


「なあ、どうして他に人がいないのだ?」

「基本的に稼働する必要が無いプラントだからよ」

「ナノテクノロジーとやらは、お手入れしなくてもいいものなのか?」

「むしろ人の手が加われば加わるほど、悪化していくものだと言えるわね」


 興味津々といった様子で機器に触れては感嘆の声と挙動を顕す姉。そんな彼女に引きずられるようにして、クレアもまたどこか目の届かない場所に姿を消す。

 そんな彼女たちのことを尻目に伺いつつ、アニエスはゆっくりとため息を付いて意識を切り替えると、脇に佇み一言も言葉を発していなかった幸正に目で合図を取る。彼はそれに言葉や首肯などで応じることはなかったが、アニエスよりも先に歩を進める。

 彼の広々とした絶壁とも言える頑強な背中に次いで、アニエスはプラントの中を抜けていく。目眩のするような蛍光色のライトが無機質的な壁面や通路を照らし、得体のしれない研究施設へと二人を誘う。

 彼らを囲うように広大な通路に配置されている奇々怪々な機材たち。明らかにゴム製造のための機材でないそれらは、超素粒子金属を生成するためのマニュファクチャー。ナノテクノロジーの進歩に欠かせない物ばかりだ。


「まさか簡略化した手続き一つで、ここに足を踏み入れることが出来るとはな」


 周囲に誰も居ないことを確認した幸正は、アニエスの一歩斜め前を先行したまま突然そんなことを呟いた。


「防衛省の管理体制は厳重その物。ましてやそれがラグノスの肝となるナノテクノロジーに関わることであれば尚更ね。だけど関係者であれば話は別。その近親者のある程度の干渉も許される……杜撰なものね」


 先が見えないほどに長く続いていた通路も中間地点に差し掛かり、暗い空間の最奥部に壁一面を覆い隠すようなセキュリティゲートが確認できる。

 そこからゲートまでは無言で歩を進め、やがて達したゲートにてアニエスは三段階のセキュリティを関係者権限で解除すると、幸正と共に内部に足を踏み入れる。

 それと同時、薄暗い視界から一転、アニエスは目のくらむようなブルーライトに視界がくらむ感覚に陥った。何度体験してもこの光はどうにもなれない。物理的な障害にとどまらず、精神的にも形容しがたい不快感を与えてくる。

 幾つものシステムコンソール機器の連なる室内、その中間地点に強化ガラスを隔てて広大な空間が広がっていた。こちら側の数十倍ほどの容積のある機械仕掛けの空間だ。

 左右の壁にはいくつものアーム型クレーンが設置され、それらが接続されている壁は核シェルターもかくやと言う堅牢さ。実際に爆弾を用いても煤程度しか生じさせられなそうな。

 その広袤内部を縦横無尽に飛び交うものは探査ドローン。それらはあたかも中央部に配置されているいびつな形状のコンデンサを防衛するかのように絶え間なく移動している。


「これが、デバックフィールドか」


 言葉には動揺を表さなかったが、幸正の内心からは叩きつけるような警鐘が響きつけてきていた。

 初めて目にしたその奇怪なコンデンサ。そしてその中間部に渦巻く歪んだ空間。一目見てまともな機構でないことに見当がつく。ましてやそれがナノマシンを生み出すための空間に物理的に直結しているという予備知識を事前に有していれば。

 屈強かつ強靭な精神を研鑽し身につけている幸正であっても、本能的な恐怖という感情を押さえつけることが出来ない。


「正確にはこれはデバックフィールドではないわ。それを制御している状態にあるといえる。もしこのコンデンサが電力の供給を停止させたら、あるいは故障でもすれば、デバックフィールドが出現する……そうなればレッドシェルターが陥落すること間違いないわね」

「……ふん」


 そんなものを開発しようとする化学開発部門の人間の思考は理解しかねたが、敢えてそれを口にしようとはしない。

 常軌を逸し精神的に狂乱に陥った人間でなければ、そもそもラグノス計画なんてものを始動することもなかったからだ。


「忌まわしいな」

「十四年間このプラントに作業員として努めて、大体の構造とデバックフィールドの原理は理解した。でも、物理的にこのゲートを抹消させる手段は未だに見つかっていないわね」

「最新のフランス軍の要請は?」

「レッドシェルターには高周波レーザーウォールがある。それ故に強攻策でここに部外者が攻め入るのは現実的に不可能……結果、内部工作員がデバックフィールドへのゲート末梢の責務を果たす必要がある……とか何とかね」

「つまりお前か」

「責任重大ね。肩の荷が重くなって仕方ないわ」


 十四年前2038年、アニエス・ロジェはフランス軍から日本に派遣された。

 当時リミテッド建設企画案や、北朝鮮の核ミサイル実験対策のナノテクノロジー推進案などを国連に提出していた日本。その動向には明らかなる不審点があった。

 織寧重工という国営重工業によるアメリカからの高周波システムの漏洩。それ以外にもナノテクノロジーの研究や目的不鮮明な防衛省人事異動なども重なっていたために、何かしらの軍事的開発を推進しているのではないかと勘ぐられることとなった。

 結果フランスをはじめとする日本を除いたG7が日本のナノテクノロジー研究に関する指針を見定めるために、数名の軍人を日本に派遣させた。

 内部からラグノスと呼ばれる計画について調べ、それが国連思想の領域を逸脱する非人道的な、あるいは災害的なものであれば未然に問題を排除するためである。

 その代表として、アニエスを始めとするフランス軍人数名が抜擢されたのである。


「お前と共に派遣された諜報員はどうした」

「前も言ったように、私は他の諜報員が誰なのかを聞かされていない。私の諜報活動に気付かれて尋問された際に、全て吐き出されては計画が水の泡になるためよ」


 つまりアニエスは捨て駒ということ。もしアニエスが諜報活動に失敗すれば、新たな人間が動員されるだけだ。

 その立場に不満を抱いたことはない。アニエスは軍人の家系として生まれ軍人として育った。駒として使われることには慣れている。


「デバックフィールドへのゲートを破壊するための段取りは、まだしばらくは定かにならないはず。これを破壊するために必要な条件を満たし、可能な限り有利な立場についてから行動に移す必要があるわね」

「言うまでもないだろうが、その作戦を決行すれば、成功しても失敗しても、お前は防衛省から追われる身となるだろう。最悪の場合、レッドシェルターから離脱することすらままならないはずだ」

「それでも構わない。私はそのために派遣されたスパイなのよ」

「……ふん」


 納得がいかないまでも、幸正はあえてアニエスの頑強な決心に口出しをするつもりはなかった。

 例え幸正が何を言ったとしても涙しながら縋ろうとも(そんなことは幸正のプライドが赦さないだろうが)、アニエスは断じて己の意思を曲げる女性ではない。それを理解していたからこそ幸正は彼女に惹かれたのである。

 例えアニエスがこの作戦の末に死の淵に立たされようとしても、その時彼女の側に立ち共にその死の縁から身を投げる覚悟ができていた。

 

「けれど、思い残すことはあるわね」

「そういう発言は死の直前に言うものだ」

「それもそうね……凛音とクレア、あの子たちを残して逝くことになるかもしれない。そうなれば私は後悔することになるのでしょうね。無責任にもこの残酷な世界に彼女たちを産み落としたことを──」

「なぬぁ!? かーさまはリオンたちを残してどこかに行っちゃうのか? ずるいぞ!」

「な、なのです」

「! あなた達、いつの間に……」


 製造プラントに残してきたはずの娘達がいつの間にやらこの管制室にいた。二人の少女を視界に収めて、ようやくアニエスは自身の迂闊さが身に染みる。

 せめてセキュリティゲートのロックを閉めておけば、ここに彼女たちが立ち入ることなど出来なかったはずなのに。


「それにしても何なのだこれは」

「なんだか、不気味なのです」


 彼女たちは強化ガラスに手を付けインダクタに魅入っていた。

 厚さ数十センチ程度のガラスを隔てただけの先に、縦横無尽に駆け巡る探査ドローン。そしてコンデンサ間に渦を巻く空間の歪み。

 齢十歳を迎えたばかりの少女たちの好奇心を煽るには十分な奇怪さであったようだ。


「なぁなぁ、何なのだ?」

「…………」


 好奇心旺盛な目で見上げてくる姉にアニエスはどう答えたものか迷った。

 いずれは彼女たちにラグノス計画の何たるかを知らす必要が出てくるだろう。アニエスがG7の計画を実行すれば、否が応でもその娘達も現世の地獄というものに直面することになる。それ故に教える必要はあった。


「……峨朗ファミリー教訓その42『好奇心は猫を殺す』。必要以上に物を知ろうとするとその身を滅ぼされることになる」


 だが彼女たちは幼すぎる。まだこの重苦を背負うにはその肩はあまりにも華奢だ。


「リオンは猫じゃなくて人間なのだ。だから関係ないのだろ?」

「あくまでも揶揄表現よ。あまり質問ばかりしないで自分で考えることも身に着けなさい」

「だが峨朗ファミリー教訓その33に『ショードーに従え』とあったはずなのだ。だからリオンはショードーに従ってガトリング質問を試みるのだ」


 教訓を殆ど覚えていないはずの彼女が覚えているのは、自分に取って有利な状況を作り出すのに便利な教訓であるからだろう。


「もういいでしょう、帰るわよ」

「なぬぁ、それは問題発言なのだ、リオンはまだ答えを教えてもらっていないのだ」

「教えるつもりはないわ」

「け、けちすぎるのだかーさまは!」

「峨朗ファミリー教訓その十三『非煩悩であれ』。欲に満たされるよりも、満たされないほうが人生は色づくものよ」

「誕生日くらい欲まみれでいいではないか」

「そういえばそうだったわ」


 デバックフィールドのことばかり頭に渦巻き、凛音の誕生日であることを失念していた。

 ここに彼女を連れてきた理由は、誕生日プレゼントの代わりに職場見学をしたいという意見を踏んだためではない。最悪の事態に発展した時のために、一度彼女たちの目に化学開発プラントを焼き付けておこうと考えたためだ。

 しかし母親として娘の誕生日の頼みくらい聞かねばならないのも事実だ。


「あなたはまだ幼すぎる。だから今は教えてあげられない」

「何なのだ、あんまり子供扱いするななのだ!」

「でも、来年あなたは小学六年生になる。一段階大人に近い中学生に上がるための階段の一歩手前に足をつけることになるわ。だから来年の誕生日にまたもう一度ここに来ましょう。少しフライングになるけれど、一年早く、大人だから知り得ることを教えてあげるから」

「むぅ」

「後一年待てば、凛音はクレアよりも二年早く大人になれるのよ。姉として誇り高いことだと思わないかしら」

「姉として……し、仕方ないのだ。凛音はおねーさんだからな。一年待つくらいどうってことないのだ」


 姉という言葉を使ったのが功を奏したようだ。凛音はどこか誇らしげに胸を張る。

 うまく丸め込まれていることに気がついているのは妹の方だけのようで、実際精神的にどちらが年上かと問われれば迷うことなく妹に天秤が傾くことだろう。


「とはいえ、それだと今年の誕生日もおあずけ、みたいになるわね。仕方ない、別にもう一つお願いを聞いてあげるわ」

「なんだかーさま意外と太っ腹なのだな」

「ムチばかり打っていても日本人は靡かない。適当なアメも必要ということ。それは生粋の日本軍人さんにいろいろと教えてもらったからね」


 俺は軍人ではない。あくまでも自衛隊だ。と幸正がどこか不服そうにつぶやくのに対しアニエスはほくそ笑むように口角を吊り上げる。


「私は別に幸正という名前を出した覚えはないけど」

「……ふん」

「それで、何でも聞いてくれるのか?」

「あくまでも常識の範囲内でなら、という条件付きの何でもと解釈していいなら構わないわ」

「それなら、そのマスクがほしいのだ」

「……え?」


 思わず耳を疑った。思いもよらない要望が凛音の口から出たことにだ。

 マスクというのはアニエスが常時携帯しているガスマスクのことで間違いない。もっと彼女らしい要望が出てくるかと思っていたのに、よもや日常生活にすら役立たないこんなものを欲するとは。


「どうしてこんなものを?」

「駄目なのか?」

「駄目ではないわ。予想外の要望に面食らっているだけよ」

「だってあれなのだろ、かーさまはリオンたちを置いてどこかに行っちゃうのだろ? だからリオンは、かーさまがいなくなっても寂しくないように、かーさまがいつも持っているそれがほしいのだ」


 どうやら先程のアニエスの発言がよっぽど心理的影響を与えていたらしい。

 もはや形見感覚でガスマスクを欲しがっているようではあるが、だが母親として自分の存在を必要とする凛音に、アニエスは慈しみを禁じ得ない。

 このガスマスクはフランス軍人として日本に派遣される際、同僚に渡されたものであった。愛着があったわけではないが、十四年間何となく肌身離さず携帯していたのである。

 凛音からしてみれば、アニエスにとって自分の分身とも言えるような存在に見えていたのかもしれない。

 こんなものを誕生日の贈り物にあげていいものかと一瞬の躊躇が湧きだすものの、彼女が欲しいと言っているのだからその期待に沿わない理由もない。

 

「やっぱり凛音は変な娘ね」

「ぬはは、見るのだクレア、リオンはクレアよりも早くかーさまに近づいたのだ。これでかーさまみたいなカーパイマンになれる日もそう遠くなくなったのだ」

「カーパイマン?」

「かーさまの肉まんみたいなおっきなお胸のことなのだ」

「……近々小学園の教育方針の改善を図る必要がありそうね。全く、レッドシェルター内部の規律正しい学園だのに、なんて下劣な教育を子供に対してしているのかしら」

「いいだろクレア、おねーさんの称号に相応しい勲章なのだ」


 内心新たな懸案が生まれ溜息をつくアニエスのことなど他所しれず、凛音はガスマスクを掲げてクレアに自慢していた。

 どうやら先ほどの理由など即席の上っ面で、実際の理由はクレアに対して姉としての威厳、というより優越感を得るためであったらしい。

 そもそもガスマスク=姉の威厳という方程式が成立すること自体がおかしいが。


「帰るぞ」

「待つのだとーさま」


 あまりこの空間で長話をするのは監視体制の中では愚行といえる。そう判断し背を向けた幸正を凛音が呼び止める。

 彼女はビジュアライザーを展開させ撮影ソフトを立ち上げると、手首から外したそれをコンソール上に据え置いた。

 

「折角なのだ。写真を取らないともったいないお化けが出るぞ」

「何のための写真だ」

「記念写真なのだ」


 何を記念する写真なのかと問おうとして、凛音の無邪気な笑顔を見て愚問だと考えなおす。

 この娘は自分を含む家族とともにいるだけで何事も幸せに考えられるような少女だ。そんな彼女の純粋さを汲んでやらないのは父親として問題だろう。柄にもない思考だと自分のことをあざ笑いつつ、幸正はクレアを挟んでアニエスの脇に立つ。

 セルフタイマー設定をしたのか、凛音はビジュアライザーから離れ、そのまま勢い良くクレアに跳びかかった。


「ふぇあ!? な、何するですか凛音さんっ」

「リオンがまた一歩分クレアよりもおねーさんになった瞬間なのだ。その瞬間を写真に収めるのだから、それが解るような構図にしないといけないだろ?」

「だからって……重いのですぅ」


 超難解持論を展開させて凛音がクレアに馬乗りになり羽交い締めにする間に、シャッター音と僅かの光が室内にあふれる。


「一年後に、また皆でここに来るのだっ」



 ◇



「…………」


 時計の針がきっかり一秒ごとに僅かの機械音を奏でる。

 時雨とクレアのかすかな寝息がしんと静まり返った室内に浸透し、何者の介入も赦さぬ静かな平和に満たされている。

 そんな室内で凛音は毛布に頭まで潜り込み、手のひらの中の冷たい感触のみを感じていた。

 同じダブルベッドで眠るクレアのことを毛布の隙間から伺いながら、手に持つ小さな金属のプレートをじっと見やる。

 そこに刻まれた文字は日本語ではない異国語だ。ネイはたしかこれをフランス語と言っていたか。凛音にはその文字を読むことなど不可能だったが、そこに刻まれている物の意味は理解に足る。

 

「……かーさま」


 人知れず発せられたその言葉は、ただ静寂の中に紛れて消えた。

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