第175話

「はぁ」


 アウターエリアへの哨戒部隊から伝令された情報に目を通していた佐伯は、歯に物が挟まったような顔で至極面倒くさそうに溜息をついていた。

 一成はそんな彼の溜息に、これまで見たことのないものを見たようなそんな錯覚を憶えた。彼が溜息をつく様子など三日に一度くらいの頻度で垣間見てきたというのに。だのに今の彼の溜息には明確な疲労感が滲んでいるように思えたのだ。


「呼ばれて飛び出て、アダムム」

「呼んでいませんよアダム」

「僕なりに局長──今は省長だったね、まあ君の心労を和らげてあげようと思ったんだけどね」

「アダム、あなたの一挙手一投足が私の日頃の悩みの種なんですがね。これ以上防衛省の痴態をリバティ日報とやらでばら撒かないでほしいものですよ」


 普段ならば不敵な嘲笑で一成の発言を戒める所であるが、今の佐伯の声音には生気がない。これは並々ならぬ異常事態だと一成は本能的に感じた。


「それでどうしたんだい、局長。悩みの種でもあるのかい?」

「たった今その悩みの種に対して暴露したはずなんですがね。それから私は省長ですよ」

「細かいことは気にしないほうがいいよ局長。僕みたいな美肌を保つためには、無駄な悩みは極力排除すべきだからね」

「私はあなたの前髪生え際のような髪の悩みは無いんですがね」

「失礼だね。僕はあえて前髪を分けているんだ。完璧なるシンメトリーを築くために、僕は毎朝一時間以上掛けて一本ずつ選別し左右に分けているんだよ」

「そんなカミングアウトに需要はありません。はぁ……アダム、あなたと話していると、どうにも悩みの種が亜音速で芽吹き始めますよ」

「それは僕のバラのように、それはもう美しく凛々しき花弁を咲かせるのだろうね」


 一成は自身の胸元に刺されたバラを、あたかも殿が側室を寵愛するように撫で、愛でる。


「とはいえ今の局長の悩みは、僕に関することではないんだろうね」

「その心は如何に?」

「局長が僕の存在理由を否定するような思考回路を有しているはずがないし、そもそも今更そんな心労に翻弄されるほど、君は脆弱じゃないだろう?」


 知ったような口を利く、そう思ったものの佐伯はそれと同時にもっともな指摘であるとも考えた。

 自分が一成の部下であった頃は、上司である彼の挙動に拒否反応を常に抱いていたものだが。不思議と慣れてしまっている自分がいる。

 慣れというものは恐ろしいものですねぇと呟きつつ、佐伯は脇のコンソールに指を重ねた。


「またアメリカのフンコロガシ企業が、爆弾を転がしてきたようでしてね」


 コンソール上にはリミテッドのものではない立体観測情報が展開されている。

 太平洋海中だと思われる地点を何かが運航している表示。これが対艦ソナーであることを考えれば、その反応が如何なるものであるのか推察することは容易い。


「M&C社の潜水艦かな」

「ご明察。件のアメリカの独立民間軍需運送会社ですよ」

「また厄介なものを積んでいるのかな。でも、こんな些細な障害、局長が頭を悩ませるほどのものでもないだろう?」

「これまでのように、レジスタンスに対する武器弾薬やら物的軍事兵器やら、そのような目に見える脅威なら、どうとでも対処できたんですがねぇ」


 そこで再度、佐伯は疲労感を多量に滲ませた溜息を放出した。

 一成はその疲労を労ってやろうと肩を揉むべくそこに手を重ねるが、佐伯はデスクチェアを回転させ彼の手から逃れる。彼の反応に一成はやれやれと何かを悟ったように微笑で返し、再度背後に回ってその肩に両の手を重ねる。


「今度はどんな爆弾を転がしているんだい?」

「…………」


 佐伯は何かを答えようとしてはっとしたように口を噤んだ。普通ならば、彼が何かを言い淀んだことにすら気づけ無いことだろう。

 だが一成は普通ではない。人体改造を施され間隔が鋭敏化しており、いやそのような前提がなくとも、彼のような人間観察に長けている人間からしてみれば、佐伯が何かを隠そうとしたことは明白だった。


「何を隠しているんだい、局長」

「……これは、あまりアダムには言いたくないんですがねえ」

「御託はいいよ。何を積んでいるんだい」

「車載物に関しては、知らなく」

「LOTUSだね」

「……エスパーですか、あなたは」


 ヒントすら出していないのに一成はいとも容易く佐伯の隠匿しようとした情報を推当てみせた。


「M&C社は、よもや僕のイヴに手を出したというのかい?」

「アダムのものかどうかはさておいて、確かに、M&C社はLOTUSを積んでいますね」

「あの泥棒猫たちは今僕のイヴをあの潜水艦に拘禁して、辱めを与えているというのかい?」

「……こうなるから、言いたくなかったんですがね」

「局長、対潜艦の抜錨を承認してくれるかい」

「山本一成、君に軍艦の指揮権を与えたら、アウターエリアの海洋が全て蒸発しかねないねぇ全く」


 今にも佐伯に掴みかかろうとしていた一成を仲裁したのは、妃夢路だった。今しがた軍法会議室に出向いたのか、呆れ顔でコンソール台に寄りかかっている。

 電子タバコを指で回転させ弄ぶ彼女はゆっくりと時間を掛けて煙を吐き出し、やがて満足そうにサングラスを指先で持ち上げる。


「先ずはその変態的な前髪をただして、頭を冷やすべきだね」

「局長、君の髪型が酷く独創的だと言われているよ」

「十中八九、アダムの髪型のことではないですかね」

「……僕は常に冷静な判断で行動指針を定めているよ。今更何を冷却すべきだと言うんだい」

「いっそ山本一成自身が冷凍保存されて三世紀くらい冬眠してくれていれば、世界はいくらか平和になる気がするね。まあとにかくさ、今はまだ表立った行動はできないよ。これまでレジスタンスやM&C社が地下運搬経路を用いて外と内とを跨ぐのを容認していた理由を忘れてはいけない」

「それなら、イヴが米国人に辱めを受けるのを、指を咥えて見ていろというのかい?」

「そうじゃないさ。次期を見誤るな、と言っているんだよ」

「僕に言わせてもらえれば、今こそが好機さ。一分一秒でも長くイヴを連中の袂に置かせておくなど、僕は絶対に我慢がならないからね」

「黙って省長の命令に従ったほうが身のためだと思うけどね」

「まあ解ってはいるよ。確実にイヴを取り戻すためには、失敗は絶対にゆるされない。そもそも海中で潜水艦を沈めてしまえば、イヴは深海に沈んでしまうことになる。連中の汚い手で弄ばれるよりはいいけど、それでもイヴに会えなくなるのは最悪だ」


 変質的な事情で思考を切り替えることに成功したようで、一成はひとまずといった様子で腰を落ち着かせる。


「それで、どうするんだい?」

「詳細は後の軍法政策会議で伝令するので今は省きますが、簡単な流れくらいは説明しておきましょうか。妃夢路、お願いします」

「そうさね。M&C社の無線を傍受した結果、連中はこれまで通り台場メガフロートの海中貿易港を経由しての物資の運搬を計画しているようだね。今回の襲撃の肝は、M&C社がリミテッドに侵入してから行うということさ」

「どうしてだい?」

「積んでいるものが積んでいるものだからさ。レジスタンスの情報網から外にLOTUSの存在が漏洩されていることはほぼ間違いがないだろうけどね。それでも、何が起きるか分からない以上、私達の手の届く領域で行う必要があるのさ。それに……アウターエリアで襲撃を仕掛けた場合、レジスタンスが気づかない可能性もある」

「レジスタンス? 彼らに気付かせる理由はあるのかい?」

「防衛省転覆を企てているレジスタンスだ。当然セキュリティ管理を担うLOTUSを狙ってくるだろう。今回の襲撃はレジスタンス撲滅の為、獲物をおびき寄せる餌にも使えるんだよ。レジスタンスはM&C社が運び込もうとしているものがLOTUSであることも周知としているだろうからね。餌は可能なかぎり新鮮な方がいいじゃないか」

「言っておくけど、絶対にレジスタンスにイヴを横取りされるような体勢は築かないでくれよ。あそこには真の泥棒猫──いや、創世記風に言えば蛇かな、イヴを略奪する彼がいるからね」

「烏川時雨は嫌な意味で人気者だねえ。最大限の尽力は惜しまないさ。この襲撃、その後のレジスタンス相対には、A.A.とU.I.F.の兵士を多数投入する」

「……言うまでもないとは思うけど、一応指摘しておくよ。レジスタンスの手には、ユニティ・ディスターバーがある。A.A.とU.I.F.を主力として編成するのは問題があるんじゃないかい?」


 柊唯奈の奪還など、レジスタンスがユニティ・ディスターバーを用いて防衛省を出しぬいたことは幾度と無くある。

 そのたびに一成の計画はすべてが失敗してきた。同じ手ばかり食って出し抜かれ続けていては、成長の兆しすら見えないではないか。


「それでいいんですよ」

「は?」

「それでいいんです。その慢心を、レジスタンスに与えるための動員ですから。さて、これ以上の詳細はあとから話しますので、今は襲撃作戦の計画を建てようじゃありませんか」

「……まあ、局長がそう言うならいいけどね」


 納得は行かないまでも、これまで佐伯の言葉に間違いを感じたことはなかった。


「やけに素直さね」

「局長に従っていれば、僕のリバティ・ロードは、確実にイヴと歩むヴァージン・ロードになるからね」

「気持ち悪いね」

「紛うことなく、気持ち悪いですねぇ」

「冗談ともかく、妃夢路くんの言葉よりは局長の言葉のほうが信頼できるからね」

「心外だね。私が山本一成の期待を裏切るようなことをしたとでも?」

「デルタボルトの発射をしなかったという事例がある。それだけでも、十分期待を裏切る行為であったと言えるけどね。まあもとより、僕はイヴ以外の女性に期待──というより興味は抱いていないけどね」

「やっぱり気持ち悪いね」

「気持ち悪いですねえ」

「しかし、たしかに今の妃夢路くんは信頼に足る存在と言わざるをえなくもある。最近の君の活動は、僕たちが君に求めている以上の戦果に繋がっているからね」


 レジスタンスのジオフロント襲撃やその他の干渉作戦。それらは全て妃夢路の企てた計画であった。

 レジスタンスから離脱し既にレジスタンスの内通をしていないにも関わらず、彼女はレジスタンスの次なる行動を、あたかも何度も読み古した童話の文章を暗唱するように読んでみせるのだ。

 そしてそれが面白いほどに当たる。あたかも彼女にはレジスタンスの作戦など、その概略が全て見透かされ筒抜けになっているように。


「何が口火になったんですかねえ」


 佐伯も一成のように妃夢路に対して瑣末な疑念を抱いたことがあった。

 織寧重工グループでの博覧回の時、妃夢路はなぜかデルタボルトの引き金を引くことに躊躇した。それが原因でレジスタンス撲滅の機を逃したのである。

 それ以外にも、レジスタンスに明確な損壊を与える作戦の時、彼女は何か別の理念に操られるように戸惑いを常に垣間見せていた。

 その彼女が今や何の躊躇も惑いもほころびも見せずに淡々とレジスタンス壊滅のための作戦の中核を担っている。一体、彼女の中にどんな変化が現れたのだろう。


「気のせいさ」

「気のせい、で片付けられるほど、これまでの君の失態は小さなものではなかったんだけどね」

「強いて言えば……ニコチンが、私にこうさせているのさ」


 妃夢路はいつの間にか電子タバコの煙が排出されなくなっていたことに気がついた。いつから止まっていたのか。

 億劫に思いつつも空になったカートリッジを排出し、胸元からニコチン毒素がふんだんにつめ込まれた新しい物を取り出した。

 それを電子タバコにつきこんで口に咥える。数秒と経たず、ニコチン特有の香水のような香ばしさが口内から喉の奥まで広がった。

 充満する毒素に、妃夢路は凝り固まった精神が柔和していくのを感じる。ごちゃごちゃに絡まりあった頭の中の何かがゆっくりと解れていく。

 堪らず溜め込んだ煙を口外に吐き出した。途端に悦声にも似た溜息が漏れた。悩みの種もニコチンさえあれば全て芽吹く前にその毒素が殺してくれる。


「既に薬物依存の末期患者じゃないか」

「空想の産物にイヴなんて名前をつけて身悶えている妄想依存前髪男に言われたくはないね」

「空想じゃないさ。イヴは存在しているんだよ。この世界中のどこにいても、僕はイヴのあの類まれなる独特な香りを嗅ぎ分ける自信が──」


 目をつむりニコチンに没頭することで、独自の世界にひたる一成の主張をシャットアウトする。

 頭の中に煙が充満する感覚。全てを覆い隠していく暗幕のような煙の中に、妃夢路は僅かの光を垣間見たような気がした。

 しかし顧みない。今更立ち止まる選択肢など彼女には残されていなかったからだ。その光から目をそらし妃夢路はゆっくりと瞼を押し開く。


「…………」


 足元には小さな筒状の物体が転がっていた。先ほど妃夢路が排出した電子タバコのカートリッジである。

 それを認識した瞬間に煙が晴れる。思考の片隅から差し込んでいた光が、少しずつ人型に変貌し始めた。

 見慣れた快活な彼がそこにいる。彼は妃夢路が捨てたばかりのカートリッジを片手に何かを訴えかけてきていた。


「だから、何だって言うんだい」


 それでも妃夢路は顧みない。自分が捨てた過去を、未来を切望することはしない。あの時引き金を引いた時点で、自分の命運は定められたのだから。


「やっぱり、私の救世主はニコチンだけさ」


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