第172話
しばらくジオフロントにて主要スタッフと話をしたが、結局当初の目的である漏出事故に関する情報は何も仕入れられなかった。防衛省に深くかかわっている人間がいない以上は当然なのことなのだが。
五里霧中な状況下に立たされて自分たちが情報面でどこまでも力足らずであることを痛感させられる。
ジオフロントから運搬用エレベーターを経て躍り出た外界。底冷えのする空間に留まることは肉体的に厳しく、旧東京タワー内部へと潜り込んだ。
「人脈から情報を追うことが出来なくなった以上、現時点で私たちが知り得ている事実から、新たなる可能性を導き出すしかありませんね」
導かれるように出向いた特別展望台にて、23区全域に広がる光のパノラマを見下ろしながらネイが呟く。
「でも私たちがすでに仕入れている情報は、全て吟味してしまっているわ」
「すべてとは言い切れませんがね。漏出事故もアニエス・ロジェに関することも。すべてが私たちの認識の外側で起こりえたことです。私たちはその外観から内側を想像しているにすぎません」
「とは言ってもその外観から想像できることは全て想像し尽くしたのではないの?」
「まあ確かに、それもそうですねえ」
真那の言うとおり、現状知り得ている情報から導き出せることを全て導き出したように思える。それでも理解はほとんど進展していない。
アニエス・ロジェの死去。それが想像の通り殺害だとして、手を下した人物もその目的も未だ不明瞭だ。
「であるならば、私たちが次にすべきことは何でしょうか」
「それが解っているなら、今こんな場所にはいないだろ」
「違いますよ時雨様。私たちにはまだ導が残されています」
暗中模索もいいところだと考えていたというのにネイはそう考えていないようだ。
この状況で一体何が出来るというのか。それを言及するべく視線で続きを促すが、ネイはその口を噤んで何も言わない。代わりに展望窓から下界を見下ろしている。
「何だよ、導って」
「その答えは、時雨様もこの光景に目を落とせば自然と見つかるはずです」
意味深な発言で言葉を濁すネイ。彼女の意志を読み取れず真那と目を見合わせるが、彼女にもその意はくみ取れなかったらしい。
致し方なく彼女に指示されるがまま展望窓に歩み寄る。
「今私たちが追い求めている事実、それはどこにあると思いますか?」
「漏出事故を起こした犯人の頭の中か」
「そんな不明確な返事が聞きたいわけではありません。場所です」
「……レッドシェルターね」
「ご名答」
間を空けて応じた真那にネイは満足そうな顔で応じた。
「高周波レーザーウォールという厚い防壁に囲われたあの空間に、全ての真相が眠っています。外観からはその内側を想像することしかできない。それならば、その内部を直接のぞき込めばいいのですよ」
「でも高周波レーザーウォールがある限り、私たちは内部には忍び込めないわ」
「何も領域内部に侵入する必要などありません。外部からでも、内部を覗き込むことは出来ます」
彼女は一体何を言っているのか。先ほど自分で、外部からでは想像することしかできないと言ったばかりではないか。
「レッドシェルターは確かに絶対的な防衛網を築き、内側を除くことなど到底できない状態にあります。ですがそれは、あくまでも正攻法で覗こうとした場合に限ったはなしです」
「ハッキングでもしようというのか? こんなことは言いたくないが、レッドシェルターの全セキュリティを管理しているLOTUSとネイでは……スペック的にも、きっと」
皆まで言わないでくださいと吐き捨てる。屈辱的に感じたのか。
「いいですか時雨様、別にセキュリティを突破する必要などないのです。何故ならば、私たちは最初から、暗幕に閉ざされた秘密の内側を覗き込む術を有しているのですから」
「どういうこと?」
「レッドシェルターのセキュリティなど関係ありません。私たちは防衛省に観測される立場にありますが、ただ私たちが防衛省を観測する立場に立つこともできるのです。防衛省は、頑固な鉄壁を築き自分たちの領域を確立させると同時に、自分たちの行動領域を狭めているのです。あたかも、小さな領域のなかで自分たちのテリトリーを確立しうる金魚鉢のように……そして私たちは今、その透明な鉢の内部を俯瞰しうる環境にいます」
「ソリッドグラフィね」
閃いたように真那が開口した。それを耳にようやくしてネイの真意に行き着く。
ソリッドグラフィはリミテッド全域を観測しうる立体型索敵機だ。どういう構造になっているのかは定かではないが、建築物や生命体の位置情報まで網羅できるハイテク機器なのである。
その観測が適用される領域はレッドシェルターも例に漏れないわけで。
「私たちは暗幕をも意に介さず、それを透明化することが出来る」
「今更何を観測すると言うんだ? レッドシェルターの構造はもう嫌という程調べてきただろ。いまさら何か新しい情報が仕入れられるとも思えない」
「……それに、問題の化学開発プラントは爆破してしまっているのよ」
そのことを失念していた。アニエス・ロジェが死去した工場は元々レゾルシノールの製造を目的とした施設だ。緊急放出弁が誤作動を起こし、HCI蒸留塔の温調異常が生じ爆発した。
そもそもソリッドグラフィで観測を試みようにも、観測すべき施設がもはや存在していないのだ。
「爆発事故の後、防衛省がそのまま放置しているとも考えられません。その後の対応次第では何か分かるやもしれないではないですか」
希望的観測だと思えなくもないが確かに的を射ている。防衛省は爆発事故の際、ナノマシンに関する事実を伏せるべくデマ情報をマスメディアに流した。その過程で爆発した工場に何かしらの手が加えられていてもおかしくはない。
それにソリッドグラフィならば施設内部の観測もできる。新たな情報が捻出できないとは言い切れない。今はなしのつぶてなのだ。猫の手も借りたい状況である。
「また来たのか」
司令塔に足を踏み入れると同時、壁際に佇む妙齢の紳士がどこか嬉しそうにそう呟いた。
「先ほど抹消したはずなんですがね」
「君たちがこうして再度この司令塔に赴いた理由は解っている」
「どうせクビレの享受を求めてきたとか言おうとしているのでしょうが、先にそれは否定しておきます。違います」
「……つまらぬ冗談だ」
「事実です」
矢継ぎ早に吐き出されるネイの言葉に比例するように、伊集院の表情は徐々に曇っていく。どうやら本当に目的がクビレ知識だと勘違いしていたようだ。
彼は納得がいかないような顔で整えられた髭に手を添え、改まったように開口する。
「クビレ関係でないのならば仕方ない。結局のところ、君たちはいかなるフェティシズムを開拓するために私に会いに来たというのだね?」
「あなたに会いに来たのではないわ」
「…………」
「そこの変態髭紳士は放っておいて、さっさと目的を果たしましょう」
ネイに促されるようにして伊集院から目を反らす。実際問題今回は彼に会いに来たのではない。司令塔施設の中央に配置された立体型索敵機に用があるのだ。
真那は半透明なホログラフィ模型に歩み寄り索敵範囲を限られた区画に絞り込む。拡大されていく区画は、イモーバブルゲートに囲われた23区の中でも最も中央に位置する都心部だ。
このジオフロントの配置されている港区に面した千代田。そこに展開されているレッドシェルター。
大規模軍事機関としてリミテッドの中央に君臨するその領域は、通常外部からでは観察しようがない牙城である。高周波レーザーウォールは透視できるが、外部からではその本質を垣間見ることが出来ない。
このソリッドグラフィには、その常識を凌駕しうる探査機能が備わっている。あたかも人工衛星によって上空から観測しているように、余すことなくその本質に触れることが出来る。
実際レッドシェルターのみを索敵区画に狭めたソリッドグラフィは、レッドシェルターの構造を赤裸々に語っている。
「限られた領域とは言っても、実際かなりの規模ね」
千代田全域に広がる軍事発展区画を見て、真那は感慨深そうに呟いた。
それは自分たちが攻め落とそうとしている敵の圧倒的な規模を再認識し、苦渋したが故の感傷だったのかもしれない。
「23区のうちの一区なわけだからな。アイドレーターが拠点にしていた地下空間を一掃するのとはわけが違う」
「この中央の施設が帝城ね。これが医療機関、それからこれが唯奈の拘禁されていた隔離監獄施設かしら」
記憶に新しい建造物を真那が指差して示す。
唯奈奪還作戦の時経由した施設はデルタボルト、監獄施設そして帝城と、港区に面している東南東から中心部に連なる形で建立されている。
「問題の事故が起きた工場は、どこにあるのかしら」
千代田全域が摩天楼と言っても過言ではないような高層建造物密集地域。その中に真那は目的の施設を見出そうとしていた。
「工業地帯ではないでしょうかね」
「この背の低い工場が密集している所かしら……でも、事故が起きた工場は化学開発部門局なのでしょう? 民間軍需重工の工場群の中に建てられているの?」
「レッドシェルターにある機関は全て民間ではありませんがね。まあ確かに真那様の指摘は正しいです。化学開発部門はラグノス計画を第一線で蹶起した機関です。その他の重工業と同じ場所に施設があるとも考えにくいですね……」
正確な位置情報は取得していないのか。
「伊集院様から送られてきた資料には、配属は記されていても地点の表記はありませんでしたから」
「件の開発プラントは、E-13ブロックに位置している」
難航し始めた空気を見かねたのか伊集院が介入してくる。
「E-13ブロックということは、統制区画ですか」
曰く、統制区画とは帝城を始めとしたレッドシェルターの主要機関のことを示すらしい。千代田の中心数百メートル圏内のことだとか何とか。
「ここですね」
正確な位置情報の提示がなされたことで場所の特定が出来たのだろう。ネイが指し示した地点には確かに小規模な工業地帯が存在していた。現在進行形で稼働しているのか、ひときわ巨大な煙突状の建物からはスモッグが吐き出されている。
いかにもな工場が参列する地帯の中、目的の爆発事故が起きた工場を探し求めた。
「ここね……やっぱり、改築はされているみたい」
真っ先に見つけた真那の示す場所を伺うと確かに改築が済んでいる。少なくともこの場所で爆発が起きたことなど想像もつかぬような状態を維持されていた。
一般的な家屋くらいの大きさのタンクが並び、至る所にパイプが剥き出しになって伸びている。時雨の理解力では形容しがたいような用途不明な機材が紛雑にちりばめられていた。
「……不可解ですね」
その状態を目にしてネイは思案顔を浮かべていた。
「何か気になるのか?」
「あのタンクはガスや水を溜めるための物ではありません。ゴムなどの原料を貯蔵するための物です」
「それがどうかしたのか」
「ゴムの原料はレゾルシノールです」
「もともと化学開発部門の化学プラントは、レゾルシノール製造工場だったのでしょう? マスメディアにナノマシンの存在を察知されないようにするために、偽装を兼ねてレゾルシノールのタンクを改築したのではないの?」
「その可能性は捨てきれませんが、とはいえ爆発事故はもう起きた後なのです。偽装するにしても、今後は別の製造工場に切り替えてもおかしくはないのではないでしょうか。わざわざレッドシェルターの統制区画内で、ゴムの原料を製造する必要はないでしょう」
確かにそれもそうだ。曰く統制区画に限らず、先ほど真那が着眼した工業地帯にも用途を同じくした工場はあるようだ。つまり、わざわざ主要区画をそのような施設で削減するようなことをする必要はないということ。
勿論大々的にナノマシン研究をしているなど広報することは出来ないだろうが、それを水面下で進め表面上でも何かしらの主要な施設にすることは出来るのだ。
マスメディアにも不審がられない、かつ防衛省にとっても生産的な工場。それこそ軍需工場だったりするだけで、成果を伴う偽装と言えるだろう。何もゴム製造に固執する必要性などない。
「であれば、何故防衛省はこの工場を再建したと?」
「いくつか憶測は立てられますが……ただそれらの殆どの説が有力とは言えませんね」
「ほとんどということは、有力な説もあるの?」
「あくまでも、防衛省が現状でもなおレゾルシノール製造工場をこの場所に配置している事の理由として有力なだけの説ですが……ただこの場合、さらに防衛省の意図が読めなくなる可能性があります」
彼女は渋い顔をして、得心のいかぬように眉根を寄せる。
「前提として私達の推察は間違っている。そもそも、
「爆破されていない……?」
「はい、根本からして私達の認識が誤っている可能性。レゾルシノールにおける事故は爆発事故などではない、という事はありえないでしょうか」
「待て、意味が分からない。爆発事故じゃないなら一体何だと言うんだ。この工場でアニエス・ロジェは死去している。多大な犠牲者を出した事故として記録もされているだろ」
それに答えようとしたのかネイは一瞬返答を模索する素振りを見せるがそれに応じることはなかった。彼女自身、確信に至るほどの根拠は持ち合わせていないようで。
「でも、可能性としては捨てきれないわね」
「真那までか。根拠はないんだろ」
「ええ。でも、たしかにネイの言い分も分からないではないわ。防衛省がレッドシェルターの、それも中枢部に不要であるレゾルシノールの製造工場を改めて建て直す理由はないもの。こうして私達がこの漏出事故について調べて発覚したように、工場が健在であることを察せられて、何かしら勘ぐられる可能性があることも防衛省は理解していたはず。それだのに未だに中枢区画に存在している理由。それはそもそも破壊されていないから……ではないかしら」
ソリッドグラフィ内部に確かに存在している巨大な工場群。それを思案顔で俯瞰しながら、真那は口元に手を添え考察していた。
確かに彼女たちの言っていることも解る。そしてその可能性のほうが、改めて建て直したという説よりも的確であることも。
それでもそうなのかと単純に納得するには至らない。それらしい説が提示されると同時、新たな疑念が湧き出してきたからだ。
「もしこれが本当は爆発していなかったとして……それなら何故防衛省は爆破記録を残した」
「何かを隠匿することが目的であることは間違いないわね」
「隠匿……防衛省はレゾルシノール製造工場における事故の本質を書き換えようとした。その目的は事故の概要を隠匿しようとしていたからだと、そう考えられはしないか」
「事故の概要……爆発事故ではなく、実際に生じた数多の作業員を死に至らしめた事故の内容ということね」
それに相槌で応じると真那は内なる声に耳を傾けるように目を瞑った。
防衛省の考えていることは甚だ不可解である。何を考え事故の内容を偽装したのか。
この事故は単なる人的被害を出しただけには留まらない。レッドシェルターの中枢区画で生じ、最大規模・未曾有の被害を叩き起こした。
更にアニエス・ロジェという所属も詳細も不明な人間が巻き込まれ、死去している。彼女の死が防衛省の策謀の上に成り立ったものであると仮定するならば、この事故の偽装も彼女の死去の隠匿に関わる目的であるとは考えられないか。
そう考えると、逆説的な視点で見れば一連の防衛省の情報操作は全てアニエスの殺害を掩蔽するために仕込まれたものだと推察できる。
「……そうでしょうか」
しばらく黙って考え込んでいたネイが、合点の行きかけていた時雨の思考に水を指す。
「何が疑問なんだ?」
「時雨様の思考のことに関してですよ。本当に防衛省の不可解な一連の行動は、アニエス・ロジェに関する目的が故のものなのでしょうか」
さり気なく思考を的確に読んでくるネイ。この人工知能はセキュリティにとどまらず人間の思考まで解析できるのか。全く末恐ろしい。
「その心は?」
「正直最初から不可解な点は幾つもありました。アニエス・ロジェの死去に関して追っていた時も、防衛省の思考が読めなくなることがありましたし」
「何が言いたいの?」
「平たく言えば、防衛省が今回の中枢区画におけるレゾルシノール製造工場における事故を捏造した話に関しまして、その捏造の目的には一切アニエス・ロジェが関与していないということです」
思いがけない発言だったと言えよう。ずっと今まで追ってきた事件の真相には、アニエス・ロジェの存在がつきものであると考えてきたのだから。
防衛省の目的は常に不鮮明だ。何を考え情報操作をしているのかは甚だ理解に及ばない。しかし、それはアニエスが一切関与していないという理由には成り得ない。そうでもなければ防衛省が何のために情報に介入しているのか理由を付けられなくなるからだ。
「根拠が無いだろ」
「ふぅむ」
一蹴しようとした時雨に応じたのはネイではなく伊集院だった。彼は何やら歯の奥に何かが詰まったような顔でヒゲを擦る。
「シール・リンクの言うとおりかもしれんな」
「ヒゲに同調されるとは思いませんでした。しかし、どうしてそう判断したのですか」
「私が防衛省にいた時代、というよりもロジェが生きていた時代、私はロジェがラグノス計画の幹部級の人間と接触した所を見たことがないからだ」
「でも、それならどうして伊集院さんはアニエスと知り合いだったの?」
「私に関しては個人的にロジェに関わっていただけだ。いや、その言葉には語弊がある。そもそもロジェは私のことなど知らんだろう。私が一方的に監視し、そのクビレを観測・観察していただけであるからな」
「とんでもないストーカー野郎でしたよこの老骨」
どうしてこう伊集院がその口を開くと、彼の性癖に関する新情報ばかり出てくるのだろう。
とは言え今回は一概にも無能とは言い切れない。今の発言の中から性癖に関する情報以外を抽出した場合、有力な情報が観測できるからだ。
「アニエスは幹部級の人間とか関わりがなかった……それは、当時ナノテクノロジーによる世界統一を最前線で進めていた佐伯・J・ロバートソンや、山本一成もふくめて?」
「そうだ。そもそもロジェは確かに一等陸尉の峨朗の嫁ではあるが……峨朗の嫁……く……!」
「何自分でダメージ受けているんですか」
「あの神に与えられたのではないかとも錯覚させられるような完成されたクビレを、峨朗が一人で堪能していたのかと考えると禁断症状が出かねん」
「アニエス・ロジェがどれだけ魅力的な女性であったのかは知りませんが、少なくとも第一にクビレに欲情するのは貴方ぐらいしかいませんので安心してください」
「……でだ。あくまでもロジェは陸自の階級持ちの配偶者であるという点でしか、防衛省に関わりはなかった。その時点で、佐伯等に目をつけられる理由はなくなるわけだ」
「アニエスは凛音の母親だ。
「凛音様が
その説で考えると前提からして覆さなければならなくなるのではないか。そもそも凛音が
しかしアニエスの死去が防衛省の目的でなかったとすると、アニエスは単に事故に巻き込まれただけの被害者になってしまう。
この場合、彼女が特別視される要素はなくなるのだ。何と言っても件の事故における被害者の数は数十という値にまで達しているのだから。
「母親の死去の真相にたどり着いた凛音の記憶の抹消。それは、アニエス殺害のために故意に引き起こした事故でなくとも有り得る話ではあるわ。でも……だからと言って、ただ事件の真相を知り得ただけの凛音を
「結局、アニエスを殺害することが目的ではなかったのなら、防衛省が事故を引き起こした目的は何だ。そもそも事故の概要は何なんだよ。爆発事故じゃないなら、一体……」
「失念されているようですね時雨様。私は最初に言ったはずです。あの工場で起きた事故は、化学物質の漏出によるものであると」
結局はその原点に回帰するのか。しかしそれでは説明がつかない。何と言ってもネイ自身が言ったのだ。
「それに関しては私も少々疑問を持っていたのですがね。そもそも一酸化炭素を含まないガスが漏出したところで、人は死に至りません。ましてや炭素などと言えば、有機生命体の構成要素の大部分を占める物であります。それがいくら充満しても、簡単に人が絶命することはないでしょう」
と。
「分からぬことばかりですね」
「こうした考察が、私達の理解の幅を狭めているような気分になるわ」
「間違ってはいないでしょうが、とは言え考察せずに結論に辿り着くことなど出来ません。これは避けては通れぬ道。幾多の試行錯誤が意味をなさぬものであるにしても、私たちは足掻くしかないのです。真実の糸を掴むことが出来るまで」
彼女の言葉は抽象的だったがその通りだと言えよう。与えられているものは十分な情報ではない。唯一考えるだけの猶予だけだ。
「何であれ、今後は別の着眼点からロジェの足跡を辿るしかないだろう」
「別というのは、防衛省の行動原理を理解するわけではなく、ということか?」
「連中が何を考えているのかは知らんが、これだけは自信を持って言える。ロジェを監視していた人間は私以外にはいない」
「それは所謂、ストーカー心理の口実ですか」
「私はストーカーではない。どちらかと言えばオブサーバーである」
「意味合いを変えたつもりなのでしょうが、その中身が変質的な性癖を極めたヒゲ老骨であることに変わりはないので、結局意味に相違はありません」
「何であれ、ロジェの足跡をたどることに関して私の右に出るものはいない」
「やっぱりストーカーじゃないですか」
この二人の些末な問答は軽く聞き流し、思考する。
防衛省の視点から物事を観測するのではないとしたら、果たしてどの視点からアニエスの足跡を手繰ればよいのだろう。
ネイの言う真実の糸が目の前に垂れるどころか、視界は光の一切差さない暗闇に飲まれている状況だ。どこから着手すれば良いものだろうか。
「……そんなこと考えるまでもないか」
「アニエスの死去に関して探るとすれば、アニエスと関わりのあった人物に当たるしかない。でもこれまで彼女について調べてきた情報から、彼女に関係している人間を割り出せるとすれば、防衛省、フランス軍、それから……その家族だけ」
前者二つは論外だろう。防衛省は現状関係がないと判断したわけであるし。
フランス軍に関してはそもそもリミテッドに入れない。アニエス死去に関わっているとは到底考えられない。であれば消去法的に残るのは彼女の家族だけだ。
「クレア様がアニエス・ロジェに関して何かを隠匿していたことは間違いようのない事実でしょう。無論幸正様に関しても。そしてあの二人はきっと、真相をその内に宿している」
「峨朗とその娘が防衛省に内通しているという前提で考えれば、やはり何かしらの形で防衛省が関与してそうな気もするが」
「実際無関係ではないでしょう。レッドシェルターの中枢区画工場で死去しているわけですし。ただ、死去の直接的な原因には関与していないと考えられます」
その原因とやらがクレアや幸正にあるというわけか。
いやそれだけには留まらない。記憶を無くしている凛音に空の記憶領域が存在する以上、無関係だとは断言できないのだ。とは言え凛音が何かを知っている様子はない。クレアとその父親も絶賛失踪中であるし、如何ともし難い状態だとはいえまいか。
「一概にそうとも言えないわ」
表情から思考を読んだように真那は開口する。
「時雨、確か凛音はアニエス・ロジェのドッグタグを持っていたのよね」
「ああ、首にかけているのを見た」
「そのドッグタグには何が書かれていたの?」
「確か……フランス陸軍時代の階級的な何かだ」
「Aviation / OR-9 / Major Agnes Loger (Jeudi/15/Avril/1989)」
どうやらネイの脳内SSDにはその詳細が記録されているらしい。無駄に流ちょうに、というより機械的な音声でフランス語が並べ立てられる。
「生年月日などですね」
「そう……役に立つ情報はなさそうね」
何か別の要素を期待していた様子で、真那は起伏の少ない顔に落胆の色を浮かばせる。
「いえ、そうとも言えないです」
しかし今度はネイがそんな真那の発言を否定する。
「そもそも凛音様はあのドッグタグを、一体どこで手にしたのでしょうか」
「凛音にはアニエスの記憶が無い。それなのにドッグタグを持っているのはどういうことなんだろうな」
「…………」
ネイはそれに答えなかった。何も知らないと言うよりは、あえて口にしなかったようにも思える。
「まあ何であれ、このドッグタグの存在は非常に有力だといえます」
「なにか役に立ったのかね」
「はい。アニエスが死去するまでこれを所有していたことが、ですね」
「どういうことだ?」
「リミテッドが建設されこの土地には新法が確立されました。それに伴い、基本的にアウターエリア外の人間はIDを発行することで、リミテッドにおける居住権を獲得できます」
簡単には発行できないという前提があって、亡命者は四苦八苦するものである。
「リミテッドの居住権を取得しているとして、基本的にその在日外人は不自由なく生活することが出来ます。それでもとある環境においては、必ずしもそうは言い切れないのです」
「とある環境?」
「レッドシェルターですよ。もし死去した場合、在日外人はレッドシェルター居住権を有していても、その区画内の墓地に葬られることはありません。一般市民エリアの墓地に入れられます」
「それは……海外諸国に対する権威の主張的なものか」
「そうですね。新法には明確にそう記されています。つまり、アニエスはレッドシェルターの住民でありながら、その外に葬られた可能性があるわけです」
「つまり、彼女の墓を見つけられるかもしれないということ?」
ネイは小さく首肯した。しかし墓など見つけてどうするというのか。まさか掘り返してアニエスの骸に対面するわけでもあるまい。そもそも火葬しているであろうが。
「何のために墓地に行く必要があるのか、という顔をしていますね」
「実際そうだろ。出向く理由がない。お前が言ってたろ、死人に口なしって」
「果たしてそうでしょうか。私は彼女の葬られた墓地に出向けば、何かしら発見があるのではないかと考えています」
「私もシール・リンクに賛同する。もしかすればロジェの骨盤あたりの遺骨を入手できるかもしれんからな。あの完成されたクビレの秘訣を解明できるやもし」
伊集院の言葉はそこで途絶えた。彼の姿を探すが会議室内には観測し得ない。大方ネイの管理人権限でも発動したのだろう。留意するほどのことでもない。
「まあ……どうせ他に当たれる場所なんてないしな」
「ネイ、正確な墓地の場所は特定できたの?」
「一般市民エリアの墓地計三十二箇所の内、所属不明の住民が納骨しているケースが八あります。その中からアニエス・ロジェに関する情報を照会し、場所を割り出します」
ネイはそこで言葉を区切り特定を始める。彼女ならば大して時間を要さずに回答を導き出すことが出来るであろう。
真那は凛音に連絡をつけていた。すべきことが定まり始めているがゆえに、彼女をこの場に呼び出しているのであろう。
その間に混雑する思考を緩和させるように、ため息を付いて頭を休ませる。いろいろな情報がインプットされては抜けていく。何が正しくて何が誤っているのかもわからない。
「雲をつかむような気分ね」
「不鮮明なことばかりだからな……」
「そもそも私達は今何を解明しようと四苦八苦しているのかしら」
「何だ今更、アニエス・ロジェの死去に関する事実の解明だ」
「それも変な話。アニエスの死去について探る中で、その家族の糸を手繰るだなんて……」
「峨朗一家は曰くつきの家庭だからな。あまり考えたくはないが、最悪の事態だってありえるんだ」
クレアが何かを隠していることが明白な以上、その最悪な事態を想定せずにはいられない。
つまり加害者側に彼女たちが立っているという可能性だ。あのクレアの性格からして、それは無さそうではあるが。
「そんな事態、想定したくもないわね」
「家庭内でのいざこざなんて極力首を突っ込みたくないしな」
「違うわ。もしそうだった場合、凛音にとってこの現実がさらに過酷なものに成り果ててしまうもの」
その意は確認するまでもなかった。
「可怪しいですね……」
「どうした?」
ホログラムウィンドウを捌いていたネイが不意に不審げな声を漏らす。
その顔には納得がいかないと言わんばかりの表情が張り付いている。そこから想像するに目的の墓地は特定できていないらしい。
「該当する墓地が存在しませんでした」
「それって、アニエスの眠っている墓地が見つからなかったということ?」
「はい、性別やその他の要素で探してみましたが、全てリミテッドの元住民の者です。外人の物は存在しませんでした」
「ということはレッドシェルター内部か?」
「先程も申し上げましたが、原則在日外人はレッドシェルター内では納骨されません」
「でも、アニエスは幸正のおじさんとの間に凛音とクレアを授かっているわ。結婚すれば国籍も日本になる。もしかすれば、もう在日外人という扱いではないのかもしれないわ」
「それはあくまでも元々の日本国憲法において定義されている物です。リミテッドに於いて日本国憲法は二の次です。全ては新法こそが重要視される……それは、防衛省の徹底した態勢を鑑みれば間違いが無いでしょう」
確かに警備アンドロイドの銃殺権限などは、元々の日本では考えられないことだ。
たとえ罪を犯したとして死刑になるとしても、そこには裁判やら判決やら様々な過程が必要となる。それを全て省略してその場で銃殺執行など、日本国憲法をないがしろにしているとしか考えられない。そんな政策を築いている防衛省だ。新法を再優先することだろう。
「であれば、一体ロジェはどこに葬られたというのだね。否、私のための骨盤を略奪した不届き者は誰だ」
「アニエス・ロジェの骨盤は伊集院様の所有物ではありませんが。というかどこから湧き出してきたんですか。抹消したはずなんですがね」
「ふん。クビレ崇高の神が言ったのだ。ここで背信する定めではない、と」
「私はこの世界における、いえこの小説における全権を担う管理人権限を執行したはずなのですがね」
そんな管理者権限は存在しない。
「私のクビレ教への信仰心が、管理人権限に勝ったということだろう」
「そんな邪教根絶されるべきではないですかね。まあいいです。アニエス・ロジェがどこに葬られたのか、という疑問に関してですが……結論から言います。おそらく彼女の遺骨は、どの墓地にも収められていません」
「納骨されていないということかね」
「おそらくは」
彼女が断言する理由は先ほどの前提があるからだろう。新法が絶対である以上、彼女がレッドシェルター内部で納骨されているという線は薄い。
そして一般市民エリアの墓地に収められている可能性もない。であれば納骨されていないと考えるのが筋だろう。
「でもそれなら、どこに彼女の遺骨はあるというの?」
「正直定かではありませんが、もし私の考えが正しいのならば、前提的に考えを改める必要がありそうです」
てっきりいつもどおり『さぁ』と我関せず顔で返されると思っていたため、こうして可能性の提示をしてきたことに驚く。彼女はすでにアニエスの遺骨の所在に感づいているのであろうか。
「……どこにあるんだ」
「まだ言えません。時雨様や真那様よりも先に、伝えねばならぬ相手がいますから」
「誰だ?」
「もうすぐこの場所にやって来るはずです」
彼女のその抽象的な回答の解は確かにすぐに訪れた。
会議室の扉を押し開けて内部に入ってきたのは小さな少女だ。彼女は真那との無線でこれまでの会話を聞いていたのか、時雨の前にあよみ寄って来るなり開口する。
「それはリオンのことか」
「ええ。これは第一に凛音様に話すべき説だと考えましたので」
「話して欲しいのだ」
「分かりました。まず申し上げておきますが、あくまでも私の憶測の域を逸脱しない説であるということを理解してください」
「解っておるのだ」
ネイの念押しに凛音はくもりのない顔で応じた。覚悟はできていると言わんばかりの彼女の後ろ姿に、僅かの不安を隠し得ない。
ネイがこのようなお膳立てをするということは、それすなわち認識を大きく覆す発言をしようとしているということ。鬼が出るか蛇が出るか。いずれにせよ、状況が好転することはないだろう。
「単刀直入に申し上げます。おそらくアニエス・ロジェは……
空気が凍りつくのが解った。彼女の発言の本意を汲み取れず、誰もが熟考し、そしてその言葉を言葉のままに受け止めたのだ。
「それは、どういうことだね」
「そもそも前提からして間違っていたのです。アニエス・ロジェは死去していない……防衛省が隠匿しようとした事実は、きっとそこにあります」
「ちょっと待て、意味が分からない。例のレゾルシノール製造工場で起きた事故は、数十という人的被害を出したんだろ。それだけの数の人間が死去した。その前提が間違っているというのか?」
「いえ、実際に数多の死傷者が出たのでしょう。ただその死因は、爆発に巻き込まれたが故でも、ガス漏出による窒息でもない。おそらく……発症による崩壊現象です」
崩壊現象だと?
「待て、どういうことだ。発症だと?」
「はい、おそらくレゾルシノール製造工場ではナノマシンが漏出し、数十の人間が発症したのです」
「待って、でも前に、レゾルシノール製造工場はあくまでも開発プラントであって、製造されていた物はナノマシンではなくその増殖要因だと言っていなかった?」
「そう、あの工場には炭素とケイ素を始めとしたナノマシンが自己増殖するための素材が存在していただけでした。それ故に、ナノマシンその物が出現したという線は薄いです。ただ……事故の概要が爆発でないとするならば、それしか考えられません。なんといっても、沢山の人が亡くなっているという事実があるのですから」
「でも……」
「いまいち納得がいかないのはわかります。ただ全く根拠の無い説ではないのです」
「その口振りからして、その結論に至った理由があるの?」
「はい。時雨様、例の写真は持っていますか?」
「写真? ああ、悪い、部屋に置いたままだ」
「写真なら凛音が持ってきているのだ」
凛音は見覚えのあるフォトフレームを取り出した。そうやら取りに戻る手間は省けたようである。
彼女が手に持ったその写真の中、凛音がいたはずのその場所には、顔を覆い隠す形で黒マーカーの跡が刻み込まれている。それはあたかも凛音の顔を塗りつぶそうとしたかのように、幾度と無く。
「凛音様、それを渡していただけますか。見てください」
凛音から手渡されたそれを真那と伊集院の前に翳した。
「凛音様やクレア様の背景には、どこかの工場内部と思われる機器がいくつも配置されています」
それは前から理解していたことだ。タンクに炭素とケイ素を示す元素記号が記されていたため、これが件の漏出事故の起きた工場内部であるとも判断した。
「この場所、なにか見覚えはありませんか?」
「見覚え?」
指摘され改めて見直す。いくつも配置されているタンクやタービン、いびつなクレーンのようなものが配置され、
「クレーンじゃ、ない……」
そのクレーンには見覚えがあった。正確にはクレーンであると勘違いしていた物体と言えようか。
いびつな形状のアームが組み合わさって形成された機構。どこかで見たことがある。
「インダクタ……?」
思い出した。これは水底基地に出向いた時、見たことがある。歪なアーム状のコンデンサ。写真のフレーム内に収まっていないが、おそらく対面する形で同形状のアームが設置されていることだろう。
間違いない、これはデバックフィールドへのゲートを形成していたコンデンサだ。
「だが、何故これが……」
「おそらくこの工場でも、コンデンサを用いたナノマシンの開発をしていたということでしょう。いえ正確には、ウロボロスの開発といったほうが語弊はないでしょうか」
「つまり……この場所で、あのデバックなんとかのゲートが開いたということなのか?」
「それは分かりかねますが、ナノマシンが出現した可能性は大いにあります。結果、全ての人間が発症した」
「それが、この事故の本質……?」
今の話から憶測するに、防衛省が隠匿しようとしたことはアニエス・ロジェの死去ではなく、ナノマシンによる事故が起きてしまったことか?
ナノテクノロジーが一切関与していないという風に示すために、マスメディアには爆発事故だと報じさせた。
「では話を戻します。アニエス・ロジェに関してですが生きている保証はありません。もしかすれば、崩壊現象が進み、すでに影も形も無くなっている可能性はあります。ですが希望的観測で憶測するならば……まだ生きているかもしれません」
「かーさまは……どこにおるのだ?」
凛音は慎重な声音でゆっくりと開口する。死去したと思っていた母親の健在。確実性はないとはいえ、彼女にとっては衝撃の事実だろう。
凛音はどこか落ち着いているようにも見えた。あたかもこの事実を見越していたように。型に嵌まったように神妙に。
「リミテッド新法において、発症した人間に対する法的処置は限られています。警備アンドロイドによる銃殺執行。もしくは……」
「隔離施設への隔絶……」
織寧智也の隔離されていた施設を思い出す。
過剰なまでに分厚いガラスで仕切られた吹き抜けの巨大な培養槽空間。培養槽内部の人間たちは皆が発症し、肉体各部が崩壊を始めているような有様であった。あの場所にアニエスがいるというのか。
「待て、隔離施設は柊奪還の時にU.I.F.に……」
「確かに逃亡を図った時雨様を追走してきたA.A.、U.I.F.に破壊されましたが、隔離施設は何も港区だけに存在するのではありません。私の知る限り23区各区に設けられています」
「アニエスはどこの隔離施設に?」
「先の時点で、可能性の有りそうな場所を探っておきました。アニエス・ロジェが隔離されている可能性があるのは中央区の施設です」
「隣接している区だから、向かおうと思えば今からでも可能ね……ただ、」
真那はそこで言葉を噤んだ。彼女の考えていることは明瞭に察することが出来る。そこに出向くということはすなわち事の真相に一歩踏み出すことと同義だ。
すべての視線が黙って話に耳を傾けていた凛音へと集中する。
「リオンは知りたいのだ」
「覚悟はできているのですか?」
「出来ているのだ。もしかーさまが生きておるのなら、リオンは……」
次ぐ言葉が発せられることはなかったが、彼女の意思は表明された。
真那と視線を交わし互いに小さく頷く。ネイの言うように動かなければ何も進展しない。どのような現実が待ち構えているにせよ、現実に対面しなければならない。
結果として凛音にいかなる影響を及ぼすにしても────。
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