第169話


「どうして、こんなものが……」

「考えたくはないですが、それを塗り潰した人物は、十中八九クレア様でしょう」


 その判断を問おうとするものの聞くまでもない。クレアは誰かに連行されたわけでなく能動的に失踪したのだ。

 凛音が自分の顔を塗り潰すことがない以上、これを行った人物は一人しかありえない。


「だが何故……」

「さぁ、何とも言えませんね。姉妹間に不和が生まれていたことは事実です。とはいえ、それは築かれた関係が一瞬にして瓦解する要因にはなりえないほどに些細な物だったはずです」


 ネイがいうようにここしばらくのクレアの様子は少しばかりおかしかった。しかしそれはあくまでもアニエス・ロジェに関することで、凛音に対する確執から来るものではなかったはずだ。

 であるのに、この写真の状態からは明確な嫌悪を感じ取らずにはいられない。

 そもそもクレアはこんなことをする少女だったろうか。誰よりも臆病で、それでいて誰よりも心の清らかな少女であったはずだ。

 その心に何かしらの苦哀を抱えていたにせよ、このようなことをする少女ではない。一体いかなる感情が彼女にこのようなことをさせたというのか。


「時雨様、色々と考えてしまう気持ちは解りますが、とはいえ今はそれよりもすべきことがあるかと」


 ネイは視線をバスルームに向けている。問うまでもなく彼女が気掛かりとしているのは凛音のことだろう。

 フォトフレームが起こされていたということは彼女はこれを目にしたということだ。その上で先ほどは何も意に介していないと言わんばかりの屈託のない対応をしてきた。

 これまでの経験則で語れば、凛音は裏のない性格の持ち主でありながら、その実誰よりも抱え込みやすい性格をしている。

 他者を慮り心配を掛けぬようにと重責を自身で抱え込む。そうして快活さで蓋をして取り繕ったように無邪気な笑顔を見せる。


「先ほども申しあげたように感情とは単純な物です。ですが単純故に、その解明を試みると一筋縄ではいかなくなる。プログラムとは違って単純は単純でも、単純であるからこそ何かに侵されやすいからです。憎悪、怨嗟、消沈、嫉妬、憤怒、悲壮、孤独、嫌悪、憐憫、自尊、焦燥、激発……他にも感情は様々な色に染まってしまうものです。それは浴室で身を清め汚れを落としても、到底払拭しきることのできない汚染となる……当然です、それは心の内側に染みつく負の念なのですから」


 どうすべきか。


「十代後半から二十代前半の男性を狙い目とした作品ならば、ここで時雨様にはいくつかの選択肢が迫られるところですね。浴室に入って行って、明らかなる故意のラッキースケベを試みる。もしくは傷ついたヒロインの心に漬け込み、その恋情を掌握する……ですが時雨様は主人公でもなければ、凛音様を攻略できる立場にもいない」


 そもそもとして時雨様にそのつもりがないようですがねと人工知能は珍しく茶化さずにいた。


「つまり……何もするなということか」

「指示は致しません。ただその立場は、時雨様が自分で見極めた場所にあるのではないですか?」


 その言葉に対し返答に窮した。ネイの言うとおりだ。確かに以前、凛音との間に線引きをした。

 それは自分が彼女という存在に、これ以上踏み込んでいいのか解らなかったが故である。無粋にも土足で踏み込んでいいのか。それが解らずに境界線を築いた。

 

「とは言え、時雨様は幾度となくその境界線を踏み越えた。いえ、というよりはつま先だけ覗かせたと言った方が正鶴を射ますかね。これは幸正様の謀略について探りを入れるために必要なことなのだと、そう自分の心に言い聞かせて」

「そうなる様に誘導したのはネイだろ」

「それでもですよ。時雨様はそのようなあやふやな心境のまま凛音様の心に触れてきたのです。そろそろ、けじめをつけてはいかがですか」

「けじめって何だよ」

「決まっているではないですか。凛音様のルートを選ぶかどうかってことですよ」


 シリアスな話をしていたのではないのか。ネイは冗談ですよ、と全く悪戯心すら感じ得ない面持ちで肩を竦める。先ほどその意思が時雨にないという分析を自身でしていたではないか。

 そろそろ決めるべきか。ルートだとかそう言う酔狂な話ではない。彼女とクレアの抱えている鬱屈とした何かに踏み込む蹶起を。

 

「もう無粋だとか、そんなことは言っていられないな」

「ですね。凛音様は今、落ちるところまで落ちてしまっていますから。このままでは、その呪の深奥から這い出せなくなってしまうかもしれません」

「凛音を助けるためには何が出来る?」

「助ける? 思い上がらないでください。時雨様程度の家畜に、人間様の救済など出来ようはずもないではありませんか」


 蹶起を打ち砕くようにAIは罵声を浴びせてきた。まったくこの人工知能は動いてほしいのかそれとも立ち止まってほしいのか。


「しかしながら家畜と言えども、全くの無能というわけではありません。家畜にもいろいろいますからね。ただ非常食になるために肥えるだけの家畜がいれば、物を牽き畑を耕す家畜もいる。時雨様は後者になりて、少しでも凛音様の引く荷車の重みを背負ってあげればいいのです。くれぐれもその荷に乗せられドナドナすることにはならないでくださいね」

「……で、どうすればいい」

「結局できることは、陰から凛音様を支えることくらいでしょう。直接的に凛音様の心の鬱蒼としたものを払拭しようとしても、表面上の蟠りくらいしか拭ってやることは出来ませんから。第三者の立ち位置にいる時雨様は、新たに内側の蟠りが生まれぬように奔走するしかない」


 情けない話だが、まったくもってネイの言うとおりだと言えるだろう。

 彼女たちに介入する蹶起を抱いたのだとしても、これはあくまでも峨朗一家の問題なのだ。できることなど限られてくる。


「その上で、時雨様が凛音様のためにできることと言えば……まず、クレア様と凛音様との間に刻まれた軋轢の原因を探ることです」

「原因……か」


 手に持ったフォトフレームを見下ろした。凛音の顔を塗り潰す軋轢は消えない。クレアがこのような行動に走ったのには明確な理由があるはずだ。


「もしかすればそれはクレア様が封印し続け、誰の手も触れられないようにと取り計らってきたパンドラの箱かもしれません。開ければ取り返しのつかない事態に陥るかもしれません。けれどもパンドラの箱を開けなければ、陰鬱な蟠りが解消されることはありません。箱の中に留まったまま凛音様の、かつクレア様の心を蝕み続けることでしょう」

「パンドラの箱か……それに手を掛けろということか」

「箱を開けるための鍵はクレア様でした。ただそのクレア様がいない以上は、ピッキングを試みるしかありませんね」


 つまりは自分で情報を探れということだろう。ゆっくりと深呼吸をすると頭の中を整理する。まず現状で解っていることを纏める必要がありそうだった。

 バスルームからシャワーの音が漏れ出していることを確認する。

 

「まず、この件に関わる人間の立場を明確にしたいところだが……」

「それが第一歩でしょうね。現状立場が明確と言える人物は幸正様、アニエス・ロジェくらいでしょうか」

「峨朗に関しては、まず東を襲撃した犯人として一番有力というところか」

「正直、その事実に関してはそこまで重要視しなくてもよいかと思います」


 意外な返答が返ってきた。先ほどの無線で話し合った感じ重要な案件であったように思えるが。


「どうにも気掛かりなことが多いのです」

「気がかり?」

「はい、唯奈様の言っていた懸念事項もありますし、昴様を襲撃した犯人が幸正様であるのかすら怪しいところです」

「とはいっても、一番可能性としては峨朗が怪しいだろ?」

「まあそうではあるんですがね」


 しっくりこないとでも言わんばかりの顔でネイは眉根を寄せている。どうにも納得がいかないらしい。


「まああの犯人が幸正様であったにしても、この峨朗一家の諍いには関係のない話に思えます」

「関係のないって……」

「だってそうでしょう? 昴様の襲撃はレジスタンスの足掛かりを瓦解させることが目的でした。とはいえこれまで探ってきた峨朗一家の軋轢に関して、そうした防衛省の策謀的な一面が浮上したでしょうか?」


 言われてみれば確かにそうである。襲撃者が昴を狙ったのは、あくまでもレジスタンスの革命活動を妨害する目的でしかない。その妨害が凛音たちに取り巻く因縁に関係があるようにも思えなかった。

 つまり話は原点に戻るわけだ。


「そうですね、私たちが注視すべきは、あくまでもアニエス・ロジェに関する事実です。5月16日にアニエス・ロジェが死去し、それがきっかけで何かが狂ったことは事実なのですから」

「それを前提的に考えると、峨朗の立場は峨朗一家の大黒柱ということか」

「それはあくまでも峨朗家の中での立場です。事件に関係することではありません。ここにおける幸正様の立場とは、すなわち事件に関わっているか否か、ということでしょう」


 それはつまり幸正がアニエス・ロジェ殺害に関与しているかどうかということか。まさか、自分の妻を手に掛けるとも思えないが。


「正直現状では何があったのか判断しようがありません。故に、全ては憶測の域を逸脱しえませんが……可能性としては幸正様がアニエス・ロジェ死去の原因を作り出したという可能性があります」

「そうだとして、どうしてクレアは凛音を煙たがるようなことをした」


 写真を伺いながら問うた。


「クレア様の行動原理に関してはここではノータッチです。あくまでも幸正様の行動に関してのみの供述と考えてください」

「それは分かったが……だがどうしてそう言える」

「まず注視すべきは写真の背景です。タンクやコンデンサ、タービンが配列されていますね」


 指摘されて改めてみてみる。どこかの工場然とした内装がバックに映っていた。

 これを見て、一家団欒の風景を写真に収めるには少々無機質すぎる光景ではないかと思ったものである。


「その場所について考察してみたのですが、もしかすれば、それはアニエス・ロジェが死去した化学開発部門局ナノゲノミクスの工場ではないでしょうか」

「化学開発部門局……化学物質が漏洩したと言うあの事故のか」

「はい。背景のタンクを見てください。画質の問題で少々見え辛くはありますが、Cと書いてはいませんか?」

「書いてあるな。その隣のは……Siか」

「そう。Cとは元素記号で炭素の意、そしてSiはケイ素のことです」


 炭素とケイ素と聞いてすぐにネイの思考に行き当たる。


「ナノマシンか」

「少しは理解が早くなってきたではありませんか」


 ネイはどこか満足そうに不敵な笑みを見せた。


「ナノマシンの構成物質は解りませんので、正確にはナノマシンの増殖に必要な化学物質と言えますが」

「つまりこのタンクが中の物質を漏出させて、アニエス・ロジェを死に至らしめたということか?」

「そうである場合、幸正様の犯行の線が色濃くなります。この一年後にこの場所でアニエス・ロジェが死去していることを鑑みても、アニエス・ロジェを殺害するために、ここに一度来させていたという線ですね」

「だが殺す対象を一年も前に連れてくる理由は何だ」

「さぁ?」


 どうやらそのあたりの根拠は何もないらしい。あくまでも可能性と言ったところだろう。


「凛音様の立ち位置に関してですが、彼女は被害者側の立ち位置にいると言えるでしょう」

「その心は?」

「伊集院様の発言を覚えていますか? アニエス・ロジェの監視をしていた彼は、アニエス・ロジェの死去以降、凛音様の姿が見えなくなったと言っていました。アニエス・ロジェの死が凛音様に何かしらの影響をもたらしたことは事実です」


 凛音の姿が見えなくなった正確な時期は解らないが、伊集院の発言からしてアニエスの死後間もなくのことなのだろう。


「次にクレア様ですが」


 自然と神経が研ぎ澄まされる。彼女の立ち位置に関してが一番の謎だ。


「果たして、クレア様がどちらの立場に立っているかは判断しかねますね」

「どちらの側って……加害者側か被害者側ということか?」

「はい、勿論そうです。それ以外に何の区別がありますか」

「待て。クレアがアニエス殺害の犯人だと言いたいのか?」

「そこまで言うつもりはありませんが、時雨様とて少々気になることはあるのではないですか? クレア様と幸正様の関係について」


 気になること、と言われて咄嗟にどういう意味なのかは判別しきれなかった。

 

「時雨様はそもそも、クレア様の行動原理はいかなるものであると考えておりますか?」

「……臆病さじゃないか」

「そう言う意味ではありません。幸正様に指示され、あたかも強迫観念に突き動かされるように、抵抗の色を見せることもなく付き従うクレア様。その姿にどういった印象を抱かされますか? 私には、ただ幸正様のことを畏敬し、従っているようには見えません」

「ならどういう風に見える」

「能動的に、そうあるべくして自身から付き従っているように見えます」


 ネイは神妙な面持ちのまま告げた。

 そうは思えない。もしそうであるならば何故クレアはあそこまで幸正に対して怯えた表情をするのか。

 確かに感情を自身の中に押し隠し、表には笑顔を見せることに長けている凛音の妹ではある。しかしクレアが周囲を欺くためにあえて臆病な演技をしているとは到底思えない。


「その顔は納得がいっていないという顔ですね」

「……ああ」

「まあ私としてもどちらが正しいのかは正直判断しかねています。ただ何であれ、クレア様の行動原理は、ただ単純な臆病さから来るものだけではないと考えています」

「今回峨朗と一緒に姿を晦ましたのも、クレアの意志ということか」

「断言はできませんがね。ただそれを裏付けるものが、その写真に刻まれているようにも思えます」


 ネイがいうのはこの塗りつぶし跡のことだろう。確かにその説は否定しきれない。


「さて、以上が関係者の立場ですかね」

「待て、肝心のアニエス・ロジェが抜けているだろ」

「正直アニエス・ロジェに関しては立場の特定はしかねますので。そう言えば、凛音様がアニエス・ロジェのドッグタグを持っていましたね」

「そう言えばそうだったな……どうして持っているんだ」


 彼女はアニエス・ロジェが自分の母親であるなどということは、つい最近まで知らなかったはずだ。

 そもそもアニエス・ロジェという名前にすら心当たりがなかったように思える。記憶の損失といい凛音にも不可解な点が多々存在していた。


「以上の提示から、事件までの大まかな流れを推察してみましょうか」

「……事件が起きたのは、2053年の5月16日だな」

「はい、その写真が撮影された日からきっかり一年後ですね」

「そして事件の日にアニエス・ロジェは死去した。伊集院の言葉から察するに、その事件以降、凛音の姿が見えなくなった。他には何かあったか」

「大まかな流れはそんなところですね。まず、凛音様に関して考えてみましょう」


 ネイは人差し指を立てて教壇に立つ教授のような顔をした。


「事件以降凛音様が姿を見せなくなった、という曖昧な情報に形をつけたいと思います」

「見えなくなったと言うのは、つまり峨朗一家の自宅にいなくなったということだよな」

「伊集院様が盗撮……ではなく監視していたのは自宅であったはずなので、それで間違いはないかと」


 それは、母親が死んでショックで家出でもしたということか。


「あの凛音様が、ショックによる突発的な衝動で家出などするとも思えませんが……それよりも有力なのは、凛音様も第三者の介入を受けて失踪したという線でしょう」

「第三者……」

「考えても見てください。アニエス・ロジェの死去から期間を空けずに幸正様たちは防衛省を離脱したのです。つまり、その短期間の間に、凛音様は実験体アナライトになったということ」


 そう言えばそうだ。つまりアニエスの死去と、凛音の実験体アナライト化は直結しているということか。


「どう関係がある?」

「はぁ……その頭は本当に空っぽなんじゃないでしょうか」


 ため息までついて呆れを表明する。


「いいですか、この漏洩事故のおきた場所は化学開発部門局なのですよ」

「そう言うことか」


 そこまで言われようやくして理解する。アニエス・ロジェが死去した漏洩事故に、凛音も接触していたという可能性。


「考えられる案としては、凛音様がアニエス・ロジェの死去に関して、何かを目撃してしまったという可能性」

「事故がただの事故ではなく事件性のあるものだと気づいた」

「きっかけは解りませんがね。何であれ、ナノマシンはラグノス計画の骨組みと言っても差し支えない重要な要素です。それについて一般人である凛音様が何かを知ってしまい、防衛省が口封じとして、アナライトプロジェクトの被検体として凛音様を用いた」

「もしかして、アニエスの記憶が凛音にないのも……」

「可能性としては有力でしょうね。アニエス・ロジェ殺害の記憶は、凛音様のラグノス計画、というよりもナノマシンに関する記憶を想起する要因になりかねない。それ故に、体内にナノマシンを組み込むことによって、記憶の末梢を図ったとは考えられないでしょうか」


 確かにそれは考えられる話だ。凛音の記憶喪失がショックから来る症状という仮説も捨てきれないが、だが防衛省が関わっているとあれば話は別だ。

 アニエス・ロジェに関する記憶だけが凛音から失われていることも頷ける。ラグノス計画に関する情報の漏洩を防ぐために、防衛省が凛音の記憶に干渉した。彼女を実験体アナライトにすることによって。


「ラグノス計画の陰謀の漏出を防ぐために、凛音の記憶を弄った……?」

「ただ、防衛省が何を目的としてアニエス・ロジェを殺害したのかは解りかねますがね」

「そもそもアニエスを殺害することがラグノス計画の一環なのか? 漏出事故自体は単なる偶然で、それによって死者が出たことを隠蔽しようとしたという説は考えられないか」

「十分にあり得ますね」


 自ら自分たちの環境を削るとも考えにくい。ましてやそれがナノマシンを貯蓄している場所とあればなおさらだ。

 彼らにとってラグノス計画の柱となるナノマシンを明るみに出すとは思えないし、その正体が露見する原因になるような事故を起こさせるとも思えない。


「目撃者は全てその事故に伴って殺害という手段を取ったのならば、なくもないでしょうがね。とはいえこの考えだと、凛音様のようなイレギュラーが存在しているわけです。そもそも人を殺害するだけならば、何もナノマシンを用いて危険を冒さずとも、人の手一つで事足りるのですから」

「あくまでも事故に見せかけるつもりだったという可能性は」

「有力な説ではありますがそれにナノマシンを用いる必要はありません。他の産業事故のように機材の落下でもさせればいいのですから」


 現状では謎ばかりだ。謎が事実の上に靄のようにかかって思考をそこからシャットアウトさせようとする。

 何かを見落としているかのような何かを勘違いしているような気がしてならない。何の根拠もないわけだが。


「次に探るべきは、防衛省の目的か」

「そうですね。アニエス・ロジェ死去の漏出事故。これがいかなる原因で引き起こされたのかを探る必要がありますね」

「……どこから情報を集めればいいんだ?」


 パンドラの箱を開けるための鍵は幸正とともに姿を晦ました。パンドラの箱の中身は、依然としてその姿かたちすら憶測を立てられない始末だ。

 鍵がないならばピッキングするしかないがそれには鍵穴の内部構造を正確に認識する必要がある。だがそれをなすには少々情報が少なすぎると言えるだろう。


「事件が起きた場所に足を運び、その目で調べることが出来れば良かったのですがね」

「その場所って」

「はい、レッドシェルターの内側です」


 写真の背景の工場は化学開発部門のものだ。すなわちナノマシン研究を行っていた中枢施設であり、高周波レーザーウォールに囲われた敷地の中にあるということ。

 容易に侵入できる場所でないことは、これまでの経験則から痛いほど身に染みている。


「関係者から探りを入れるしかないですかね」

「関係者……アニエス・ロジェか」

「死者に何を問うつもりですか。流石に私でも、生ける屍とコミュニケーションをとることは無理です」


 ばかを見るような目で彼女はため息をついた。


「私たちは墓を掘り返すような死者を冒とくする行為をする人間ではありません。たとえ掘り返したところで、そこに眠っている物は何も語らぬ遺骸だけでしょう。死人に口なしとはこのことですね。私たちが出来ることは未だ生きている情報の意図を手繰り寄せ、辿ることだけ……」

「生きている関係者は、姿を晦ましてしまったじゃないか。伊集院からはあれ以上情報を引き出せそうにない。防衛省の人間に真偽を確かめることなんて出来やしない」

「……何を言っているのです。手繰るべき明確な糸は、ずっと時雨様の目の前に垂れ下がっているではありませんか」


 彼女の発言の意図を認識できなかった。だがその向けられた視線を辿れば自ずと解釈は出来てくる。

 開けられた浴室の扉、そこから身を乗り出してきた少女に視線は集中した。まさか凛音に問い詰めろとでもいうのか。


「出たのだぞ、シグレ」


 湯上りゆえかその頬は僅かに上気し、乾かしていないのか長い髪はどこか重たげに揺れている。

 何よりその大きな双眸が重たく沈んでいた。快活な、純粋な光に満たされていた瞳に闇がさしている。それはあたかも彼女の心境をありのままに体現しているようで。


「そんな格好でいたら風邪ひくぞ」


 歩み寄り乾いたバスタオルでその髪を拭ってやる。ある程度は身を拭いていたようだが、それでも衣服は湿り地肌が透けている。


「何か、おかしかったか」

「指摘するまでもないだろ」

「リオンにはよく解らないのだ」


 上の空と言った様子で返答してくる彼女。

 そんな凛音のことを痛ましく思いながらも手首を引っ張ってベッドに座らせる。そうしてドライヤーを放った。


「リオンはそれが嫌いなのだ」

「乾かさなきゃならないだろ」

「いつもはクレアがやっていてくれたからな……リオンは一人では何もできぬのだ」

「髪の乾かし方くらい、ちゃんと覚えておけ」


 致し方なく彼女の前に屈んでその髪に温風を吹き付ける。

 女性の髪の乾かし方など、ノウハウの一つも会得していないが致し方あるまい。このままでは本当に濡れたまま寝てしまいそうだったからだ。

 凛音は凛音で文句を言うわけでもなくされるがままにされていた。そのどこかマリオネットのような機械的な彼女に、湧き上がる動揺を禁じ得ない。


「シグレは、へたくそだな」

「悪かったな」

「クレアの方がよっぽどうまい。だがシグレの手には嘘がないのだ」


 その言葉を発した凛音の心境は計り知れなかった。何を考えているのかも理解が及ばない。

 ただ解ることは、彼女の心は様々な負の念で汚染され彼女だけでは払拭しきれなくなっているということ。


「やっぱりリオンは、誰にも必要とされていないのだな」

「まだいうか」

「だってそうだろ? リオンは一番近くにいたはずのクレアにも、必要とはされていないのだ」


 されるがままに髪を弄られている彼女は、表返しにされ卓上に据え置かれたフォトフレームをじっと眺めている。そこに刻まれたクレアの意志表明。それは視認する度に凛音の心を蝕んでゆく。


「リオンはどうして生きておるのだろうな」

「…………」

「誰にも必要とされずに、どうしてここにおるのだろうな」


 彼女の声は次第に萎んでいった。普段の快活さなど一切感じさせない深い憂鬱感に苛まされているような。彼女のトレードマークである大きな耳も力なく垂れ活気が一切感じられない。

 静かにドライヤーの電源を切る。そうして彼女の肩に掛けられたバスタオルで、乾かしたばかりの髪をくしゃくしゃにした。


「ぬぁっ、何するのだっ!?」

「いつまでも落ち込んでんな。こっちまで調子狂わせられる」

「は、離すのだっ」


 抵抗する凛音の頭をバスタオル越しに拘束し逃さない。彼女はしばらく抵抗を続けていたがやがてそれも収まる。


「普段の旺盛さはどうした、今の凛音は全く凛音らしくないぞ」

「それはただ、取り繕っているだけなのだ」

「どうして取り繕う」

「リオンが喜べば皆が喜ぶのだ。でもリオンが落ち込めば皆も落ち込んでしまうのだ……だからリオンは笑うのだ」

「ならどうして今は笑っていないんだ? そう言うなら、今だって笑っていられるはずだろ。その笑顔で周りを欺けばいい。笑顔で自分の内側を押し隠せばいい」

「だって、今はシグレが相手なのだ」


 彼女は弱々しくそう呟く。自信も何も感じさせない、ただ儚く脆いそんな印象。

 これ以上刺激すれば簡単に崩れてしまいそうなほどに。だからこそあえてその傷跡を抉る。


「そんな特別扱いはごめんだ。俺にも、その表面上の取り繕いを見せろ」

「っ……!」


 バスタオル越しに彼女が小刻みに震えたのが解る。

 父親にも妹にも見放され、孤独の渦中を彷徨っている。

 そんななか最後の居場所として彼女がすがりつけるレジスタンス。その中でも比較的近しい位置にいる時雨にこんなことを言われれば、当然傷口は拡がる。


「それが出来ないなら、もう取り繕うな」

「……?」


 彼女は消え入りそうな声を絞り出した。顔を上げようとする彼女をバスタオル越しに頭部を抑えて留まらせる。


「完璧に取り繕えないなら、もう自分を偽るのはやめろ。少しでも心の隙間が生じれば、きっとそこから慢性的に内側の蟠りが溢れ出す」

「それは……シグレは迷惑しておるということか?」

「違う。最初から最後まで徹頭徹尾、心の中に抑え込めるならそれでもいい。だが客観的に見て凛音は抑え込めていない。自分の感情を制御しきれていない」


 その口火が最近の凛音の情緒不安定さに直結する。

 これまで完璧に取り繕われてきていたはずの心の中の鬱蒼とした負の感情が。少しずつ溢れ出してきているのだ。

 ときに弱音を吐くようになり、ときに感情面の苦悩が肉体に現れる。彼女に発症の発端が顕れたのも、そうした感情面における不安定さが起因しているのだろう。


「なら、リオンはどうすればよいのだ?」

「凛音様の心は今、様々な葛藤や蟠りなどで、いっぱいいっぱいになっているのです。一人で抱え込んできて支えきれなくなっています。時雨様に対し表面上の取り繕いをしなくなったのも、その前触れではないでしょうか。負の感情を凛音様が抑えられなくなっているのでしょう」


 それに彼女は応じない。図星だったのか、あるいは単純に何を言っているのか判別できなかったのか。それは分からないがバスタオルをほどいて拘束から解放した。


「このままだとお前の精神がパンクする。一度全部放出させる必要がある」

「だがリオンが弱音を吐けば、リオンが悲しめば……皆が悲しくなるのだ」

「それでいい」

「よくないのだ。リオンは皆が悲しむ顔を、これ以上みたくはないのだ」

「それなら聞きますが、私達が凛音様が一人で抱え込む姿を見て、少しも悲しまないと思っているのですか?」


 まったく意図していなかったわけではないのだろう。それ故に彼女は二の句を紡げない。喉の奥まで出かかった感情に塞き止められるように、何も言葉が出てこない。


「皆、凛音様が一人で抱え込んでいることの方が辛いのです」

「そんなことはないのだ。誰だって、自分に迷惑を掛けてほしくはないはずなのだ」

「ならば凛音様はクレア様が追いつめられている時、助けたいとは思わないのですか? 自分にとって迷惑だからと見て見ぬふりをするのですか? 黙って指を咥えているのですか?」

「確かに、俺達は凛音とは血も繋がっていない赤の他人だ。ただ革命軍という同じ目的意識の共同体に属する者同士でしかない。だからクレアと凛音と、俺達と凛音とではその関係に雲泥の差があるかもしれない……それでも運命共同体だ」

「血が繋がっていなくとも、私達には同じ人間の血が流れています。凛音様を支えて上げることは出来るのです……私に血は流れていませんが」


 彼女の肩が震える。胸の深奥から様々な感情が溢れだしてくるように。きっとその感情は彼女が抱え込んできた負の念ばかりではない。


「……頼ってもよいのか?」

「当然です。これ以上、自分で抱え込むことに意味なんてありませんよ」

「そうか……」


 その言葉が少しでも彼女の琴線に触れたのかは解らない。だがそれを言葉にして言及する必要はなかった。

 振り返った彼女の浮かべる面持ちは、嘘偽りなど存在しえない純粋で無垢な、そんな笑顔だったから。


「ありがとうなのだ」

「お互い様です」

「でもなのだ……リオンとシグレとでは全然違うのだ」

「その心は?」

「ネイはさっき同じ人間なのだと言った。でもリオンはもはや人間ではないのだ。何故ならリオンは……」


 哀惜のままに弱音を吐く彼女にため息を禁じ得ない。純粋であるからこそ、凛音はこうも得体のしれない感情に翻弄されやすいのだろう。


「私たちは本当の意味での凛音様の家族ではありません。きっと、凛音様の不安を取り除いてあげることは出来ません」


 凛音に返答を求めたわけではない。それを理解しているのか、単純に会話する気力がないだけなのか。凛音は何も答えない。


「ずっとバケモノを見るような目で見られてきたと仰っていましたね。確かに、そういう目で見てられていたのかもしれません。しかし皆が皆、そう言うわけではないのです。中には、凛音様のことを大切に思って同じ人間として接してくれた人も沢山いたのではないですか? 私も、作られた意識ではありますが、凛音様のことは大切な仲間だと思っています。あのような未だ乳臭い女子学生が何を言おうと凛音様はは人間です。バケモノでも、ましてやノヴァでもありません。私たちの大切な仲間です」

「論理的な人工知能様にしては、珍しく叙情的な発言だな」

「私にもそういう嗜好はあるのです。きっと今の凛音様に必要な物は、このような表面上だけの薄っぺらい言葉などではありませんね。凛音様、あなたが求めている物は何ですか? 何があればその錯綜を取り除けますか?」


 ネイと目が合い凛音は一瞬目を逸らそうとして、しかしもう一度ゆっくりと見つめ返す。

 部屋の中をしばらく静寂が支配していた。エアコンから噴出される温風の音ばかりが互いの聴覚を刺激する。

 じっとネイの目を見つめていたかと思ったら凛音は少しばかり俯く。


「リオンを大切にしてくれる家族がいてくれるのならば……もう何もいらないのだ」

「もういるだろ。お前を大切にしている家族は」

「シグレたちか?」

「俺はお前の家族じゃない。こういったら悪いが他人だ。解っているだろ。誰がお前のことを一番理解しようと努力して支えようとしてくれてきたのか」


 凛音はしばらく無言を貫いていた。彼女はきちんと解っているのだ。

 これまでに生まれてしまった軋轢はあれど、彼女に最も近しい場所にいた少女こそが一番の理解者であると。


「自分のことをバケモノと思って自分を閉ざしていたら、クレアだって戸惑う。クレアはお前に近づこうとしていた。あの人見知りで臆病者のクレアが、凛音のために出来ることをしようとしていた」

「だがクレアは……っ」

「確かに峨朗と一緒に消えた。だがお前たちの絆が失われてしまったわけじゃない。クレアがこれまで頑張ってきた理由、それはお前のことが大切だからじゃないのか」

「……わから、ないのだ」


 膝の上できつく拳を握りしめ凛音は不安に染まった双眸を揺らす。

 その表情には明らかな焦燥と狼狽、恐怖や悔恨、様々な感情が現れ始めていた。


「どうやって接すればよいのかわからないのだ。これまでは、とーさまの言うように元気を演じてくればよかった。でもクレアはリオンの心の中を覗き込んでくるのだ。だからリオンはどうすればよいのかわからなくて……っ」

「思ったように行動すればいい。衝動に従え。峨朗の言葉だ」

「無責任なアドバイスですね……」

「とにかくお前が困っているなら皆で助ける。もしお前が道を踏み外しそうになっているなら、お前に手を差し出しその道を修正してやることが出来る」


 彼女がその身にかかる重責に耐えられず立ち止まってしまっているのならば、誰かが脚になってやればいい。凛音にはまず歩み出す蹶起が必要なのだ。


「本当に、頼ってもよいのか?」

「愚問だ、当然だろ。むしろ中にはお前に頼られたくて仕方ない奴までいる。禁断症状起こして脳天に風穴空けられる前に、散々頼ってやってくれ」

「ありがと、なのだ」


 僅かにだが彼女の瞳には活気が戻ってきていた。

 垂れていた大きな耳も今はその頭を上げている。この様子ならば大丈夫だろう。そう判断してドライヤーとバスタオルを手に立ち上がる。


「それから、その、観覧車では突き飛ばそうとして悪かったのだ」

「気にするな。逆に凛音のエルボーを定期的に鳩尾に貰わないとこっちが不安になりそうだ」


 実際の所は普段のエルボーよりも強烈な圧力に肋骨が数本逝きかけていたが。

 そんなことを考えていると背中から彼女の両の腕が伸ばされた。それは首に掛かり、そのまま背中側に引き寄せられる。

 絞殺でもされるのではないかという危機感が脳裏によぎったが、拘束は羽交い絞め以上には発展しない。どこか満足そうに、背中に密着したままふんぞり返る。

 何度目か解らないため息をつきながら再度立ち上がった。それに引かれるように首にしがみついたままの凛音も持ち上がる。


「苦しいから離れろ」

「お断りなのだっ、とーさまの亡き今、リオンはシグレとーさまにいっぱい甘えさせてもらうのだからなっ」


 無邪気に首を軸に周囲を旋回する凛音。万有引力など意にも介さぬとでも言わんばかりの、物理法則を無視しきった回転だった。


「ハムスターならぬ、オオカミの大車輪なのだっ」

「死ぬ……っ」


 首の皮が引きちぎれる前に首に掛けられた凛音の腕を振りほどく。遠心力を殺しきれなかったのか、凛音はそのまま吹っ飛んでいく。


「ぅにゃぁっ!?」


 そうして背中から戸棚に激突した。衝撃で棚の中に収納されていた物が周囲に散らされる。

 

「い、痛いのだ……」

「悪いとは思えない」

「酷いのだっ、先ほどシグレはリオンを支えてくれる的なことを言っていたではないかっ」

「抽象的表現であって、物理的に支えるという意味じゃない」

「遊び道具になってくれると言ってくれたではないかっ」

「それは言ってねえよ」


 頬を膨らませ両腕を振り乱して抗議する凛音。それに構ってやる必要もないかと額に手を当てベッドに腰掛けようとする。その拍子に爪先が何かを弾き飛ばした。


「……リジェネレート・ドラッグか」


 先ほど凛音が棚に衝突した際に撒き散らされたものだろう。専用のケースから吐き出されたようで床中に金属の筒が散乱している。

 ケースは蓋が開いた状態で部屋の隅に転がっていた。


「お片付けしなければならぬのだ」

「クレアが戻ってきたときのためにな」

「クレアはお部屋を散らかしていると、すぐに怒るからな」

「……ん?」


 凛音と共にリジェネレート・ドラッグを拾い集めているうちに、かすかな違和感が胸中に芽生えるのを感じていた。

 

「どうしたのですか?」

「いや、なんかこのインジェクター……おかしくないか?」

「おかしいとは?」

「いつも俺が投与している物と違う気がする」


 手のひらに持っているその金属筒をじっと見据える。大きさも重量も見た目も何も変わらない。普段服用しているドラッグで間違いはない。

 なんだろうかこの違和感は。手術用手袋で胸の内側を無造作に掻き乱されるような焦燥。


「……何も、おかしくはありませんがね」

「そうか」


 訝しげに応じるネイ。彼女が言うのならばそうなのだろう。先ほど感じ得た違和感も今は何事もなかったかのように鳴りを潜めている。

 ただの思い過ごしか……? 思い過ごしではない気がした。

  


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