第166話
地鎮・追悼を目的とした祭りと言っても、その実態は通常の祭りとなんら変わらないようである。
開催自体は一時間ほど前から行われていたようで、台場海浜公園についたころには数百人規模の人だかりが出来ていた。
その殆どがスファナルージュ第三統合学園の学生であることを示す制服を着ている。台場海浜フロートで行われる祭りであるのだから当然だろうが。
「凄い賑わいようですね……」
「本当に、台場海浜フロートで祭りを開催しているのね」
共に出向いていた真那と泉澄が、その人だかりに圧巻されながら驚嘆にその口を開く。彼女の言うようにこの祭りは台場海浜フロートで行われている。
電力供給はストップされているためアトラクションの類は機能していないが、どうやら屋台は本来レジャー目的で設置されている屋台を用いているようだ。無駄に広大な土地には所狭しと数々の屋台が設置されている。
時計の短針はいまだ四の字を示す時間帯だろうが、冬の先駆けであるこの季節では既にあたりは薄暗い。まばらに参列する屋台は仄かな明かりを灯し、見てくれは確かに通常の祭りのように思えた。
「それで、私たちはどこに向えばいいのかしら」
「昴さんがレジスタンスのスタッフを収集しているようです」
「それなら、そこに向かいましょう」
先んじて身を乗り出した真那の背中を追う。この来場客の中には、百数十名ほどレジスタンスの人間が混ざっているらしい。
それは有事の際に遊撃するための要員というわけではなく、単に彼らにも休息を与えたいという昴の気遣いから来るものであった。
招集されたのは静止したままの大観覧車のふもとだった。そこにはすでにレジスタンスの局員たちが待機している。武装こそしていないものの身にまとっている物は普段の戦闘服。
この場所には不釣り合いな物に思えたが、彼らとて完全に注意を抜くわけにもいかないのだろう。なおこの場所には屋台がないため一般市民は殆どいない。
「皆様、お集まりいただけたでしょうか」
大観覧車の前に昴の小柄な体が踊りでる。その傍には案の定酒匂泰造が控えていた。
「今回、この祭りを開催するに至った経緯は、単純に台場に蔓延する鬱蒼とした空気を払拭したいと思ったが故でした。それは、あなた方レジスタンス局員の心の平穏の獲得のためでもあり、一般人たちのストレスの解消のためでもあります」
唯奈の憶測は、どうやら正鶴を射る物であったらしい。
「この時期にお祭り、というのは不釣合かもですが……」
「冬に祭りをしていけないという法則はありますまい」
「ふふっ、そうですね」
そこで昴は一度言葉を噤む。そうしてその表情を少しばかり神妙な物へと切り替えた。
「ぼくたちは防衛省の目を盗み、肩身の狭い環境にて活動をしています。それ故に本来このような目立つ行為は慎むべきものでしょう……とはいえレジスタンスの皆さんは、ここ数ヶ月のうちに必要以上の血を流してきてしまいました。精神的にも肉体的にも、各々の疲労は限界にまで達しているはずです。そろそろ、ちゃんとした休息が必要なのです」
昴は慈しむように隊列を組む局員たちを見渡す。
「東はいい奴だな。防衛省の連中とは違う。個々人の利益や都合でものを考えてるわけじゃねえ。ちゃんと、一般市民のことも気遣えてるしよ」
「いいえ、当然のことをしているだけですよ……ぼくはリミテッドの現状を変えたいのです」
和馬の独り言はどうやら彼に届いていたようで、昴は小さく頭を左右に振るった。少しも恩着せがましい様子を見せることのない彼は、本当の意味でリミテッドの未来を担うに相応しい人材なんだろう。
少なくとも、現在人類の領域で徒党を組み牛耳っている防衛省、ラグノス計画の連中よりは。
「皆様、先日、本拠点における追悼式を行ったときのことを覚えていますか? あの時、皆様にその手で先立たれた勇敢なる兵士たちに手向けを届けていただきました」
彼が言っているのは慰霊碑を囲ったときの話だろう。酒匂が分配した戦死した局員のドッグタグを、一人一人が慰霊碑に嵌めこんだのだ。粋な演出だったため今でも鮮明に思い出せる。
「あれからしばらくが経ちましたが、仲間たちの尊き魂を送り届けることは出来ましたか? もし悔いなく決別が出来たのならば幸いです」
昴は前を閉じ華奢な胸元に手のひらを重ねて呟く。
「それでは今度は皆様が労われる番です。ささやかながら、ぼくの方で皆様に慰労の念を伝えるべく、今回は祭りという形で、この追悼・地鎮を執り行わせて頂きました。皆様、どうぞご遠慮のほどなく祭りを楽しんでください」
彼のその言葉に隊員たちは無言を貫いていた。しばしして少しずつ隊列が崩れ分散を始める。
皆も自身のこれまでの功績を労われてもいいと思えているのだろう。
「折角の祭りなんだしよ……楽しまなきゃ損だよな」
和馬が伸びをしながらそう口籠る。
そうだ、あまりにも沢山の命が失われる瞬間に対面しすぎたのだ。せめて今くらい存分に楽しんだっていいではないか。
「ぬっふぁっ! お祭りなのだーっ!」
不意に背中になにやら重量のあるものが飛び掛ってくる。
思わず顔面から倒れ込みそうになるのを抑えて振り返ると、大きな紅い双眸が時雨の目を覗き込んでいた。
「凛音か、びっくりさせるな」
「探したのだぞ、シグレ。来ていないのではないかと心配になったのだ」
「追悼の儀式を先に執り行うことになってたからな。一緒に部屋を出ただろ」
背中に手を伸ばし、背中に垂れ下がっているであろう特徴的な形状のフードを鷲掴もうとした。指は空を掴みあるべきはずのフードがないことに気がつく。
「なんだその服」
致し方なく首に回された腕をつかんで地面に下ろすと、凛音は普段の戦闘服とは違う衣装を身にまとっていることが解った。
厚手の浴衣を多少洋風にしたようなあまり見慣れない衣服。
「ユイナが貸してくれたのだ、なんでも祭りでは普通の服なのだそうだ」
振袖にも似たゆったりとした衣装でどこか偉そうに胸を張る。
「クレアとおそろいなのだっ」
「うぅ……」
思い出したように唯奈の背中に隠れていたクレアの手を掴む。
引っ張りだされたクレアは凛音と同じ丈の色の違う衣装を身に纏い、見た目の印象で言えばどちらも寸法が一寸違わない。
そんな彼女たちには紲と月瑠が同伴していた。月瑠が引き連れてきたのだろうか、絶対にこの場ではお目にかかれないであろうと思っていた人物がその後ろにいた。
「あの、その凛音さん……が、ガスマスクを……っ」
「いーやなのだっ、お祭りの間はガスマスク禁止なのだっ」
クレアの平常装備とも言える鉄壁の強化武装は、凛音に強奪されているようである。どうやらこの浴衣姿を他の者に見られるのが恥ずかしいのか、彼女は落ち着かない様子で体を縮こませている。
「柊、これは……」
「モフモフ一号も二号も、どっちも祭りは初めてって言ってたから。普段と違う衣装をすれば、少しは気を紛らわせるんじゃないかと思ったわけ」
「しかし今の時勢、浴衣などどこに販売されているのですか?」
「近くに貸し出し店があったから、適当に見繕って持ってきただけ」
二人の様子を微笑ましそうに眺めていた唯奈だったが、彼女は至極平静を装ってそう応じた。
「適当に見繕ったにしては寸法があまりにも正確すぎる気が」
「うっさいわねそんなの知んないわよ」
「そもそもこの衣装は通常の浴衣とは似て非なるものです。素材の強度もさることながら、この西洋風にアレンジされたデザイン。普通の量販店で貸し出しをしているとは思えませんね。そしてここまで入念に設定された寸法……明らかにこれはオーダーメイドです」
「なんだそうなのか。しかし何故そんな手間を、」
「単純に二人のモフモフな浴衣を見たかっただけでしょう」
「んなわけないでしょ死ねば」
「そう言いながら俺の足を踏むな」
遠慮なしに踵が時雨の靴に食い込んでいる。ネイに物理的な干渉が出来ない以上仕方ないと言えるが、たびたび肉体的暴力を受けなければいけないのは、理不尽ここに極めりと言ったところだ。
「お祭りなのだ、お祭りなのだっ」
「ふふっ、凛音ちゃん、嬉しそうだね」
「当然なのだっ、お祭りには昔から興味があったのだ。ヤーマダー! って叫ぶのだろ?」
「凛音センパイ、ミーハーっすねえ。違いますよ、ヤーマダーではなくコージマーっす」
「お前らは電化製品量販店のステマでもしてんのか」
「む、そういう和馬センパイは、なんて叫ぶんですか?」
「普通はたーまやーだろ。というかそれは花火が上がった時に言うやつだ」
なるほど凛音と月瑠はその話をしていたのか。
「なぁなぁシグレ、シグレシグレっ」
「ど、どうした……?」
凛音の様子は少なくとも現状は、やり場のない不安感に押しつぶされそうという状態ではない。唯奈や皆の気遣いなどのおかげで彼女も落ち着いたのか。
「リオンははやく屋台とやらに行きたいのだ」
「そ、そんなに急がずとも、屋台は逃げて行かないのです」
「クレアもなのだ、なぁなぁはやく行くのだぁ」
「な、なのです……」
袖をぐいぐいと引っ張ってくる辺り、どうやら本当に楽しみにしているようで。
「クレア見るのだ、お水の中を風船がぷかぷかしてるのだぞ? これはどうやって使うのだ? 火薬を詰めてノヴァに投げるのか?」
クレアの手を引っ張って凛音は最初に目に留まった屋台に直行していた。
彼女は子供用の風船プールに浮かべられた無数の水風船を見てははしゃぎ回る。祭りには当然ある水風船釣りである故、それにここまで興奮できるのが珍しい。
「違うのです。それはその水が入っていて……えっと」
「水が入った状態で相手に投げて遊ぶのか?」
「違うのです……あ、違わないのかな」
どうやらクレアも用途に思い当らなかったようだ。凛音に祭りの経験がないということは、クレアもないと踏んで然るべきであろう。
年相応な認識とは言えぬ二人のことを少しばかり痛ましく思いながら眺めていると店主が凛音に声を掛ける。まあレジスタンスの人間なのだろうが。
「水風船は初めてか」
「水風船というのか? 初めてなのだ。どうやって使うのだ?」
「それは君の言っている通りで相違ないさ。対象目がけて投げて遊ぶんだ」
「なかなかにアクティブな遊びなのだ」
「というのが通常の祭りの屋台にある水風船の用途だが、これは違う。それに更なる応用を利かせた逸品でな」
「応用、ですか?」
「中に入っているのはただの水じゃない。C.C.Rionだ」
「C.C.Rion? 何故そんなものを入れているのだ?」
「遊びと言えど、投げ合い始めたらそれは戦争に発展しかねない。死者は出ずとも、喧嘩になり仲たがいの原因になりかねない。ならばその危険性を回避するためにはどうすべきか。そこで俺は考えた。体に着弾し割れても相手が怒らない中身にすればいい。そして浮かんだものがC.C.Rion。今や生活必需新ともいえるこの飲料水なら、びしょ濡れになっても切れたりはしないだろう?」
「て、天才的な発想なのだ……!」
「そうでしょうか……?」
炭酸水をぶっかけられれば余計喧嘩の種になりそうなものだが。というかその生活必需品の無駄使いだとは言えないだろうか。
「待つのだ。つまりそれが当たればC.C.Rionでびしょぬれなのだ~状態の陥るのか……?」
「C.C.Rionの公式CMで君がやっている奴だな。まあそうなるな」
「っ、にゃ、にゃらばそれは最悪の発想なのだっ!」
凛音は途端に顔面蒼白になって屋台から距離を取る。大方、明智によってC.C.Rionをぶっかけられまくった嫌な記憶がぶり返したのだろう。
「これは雲みたいなのだ、おぬし、なんなのだこれは?」
凛音は別の屋台に体を突っ込ませては経営主に問いかける。
「お、嬢ちゃんいいもんに目を付けたな。これはわたあめと言ってだな、こうくるくるーっと」
「雨なのかっ? これが降ってくるのか? ……なるほど分かったのだ、これはあれなのだな、水を含んで固くなるのだろ? それで敵の頭をかち割るのだな」
「違うぜ嬢ちゃん、これはこう舐めて楽しむもので」
「楽しむのか? それは驚きなのだ……あ、あれなのだな、おぬし父様が言っていた、ドエスっていうフェチなのだな! でも敵は舐めてかかっちゃいけないのだ。どんな時でも気を抜いたら死んじゃうのだ」
理不尽なフェチ認定をされた挙句、説教を食らっている中年のレジスタンス局員。
「とりあえず食え!」
「ぬぁっ!?」
誤った認識のままではいけないと考えたのか、彼は一瞬躊躇した挙句凛音の口にわたあめを突っ込む。とりあえず食べ物であると認識させたかったのだろう。
「び、びっくりするではないか……? なんだか甘いのだ」
「おうそうだぜ嬢ちゃん。それは甘いもんなんだ。女の子は皆甘いもんが好きだろ? 俺はカワイイ女の子が喜ぶのを見るのが好きだ。嬢ちゃんたちみたいなカワイイ子には沢山」
「クレア、こやつヘンタイなのだぞ」
「えっ? え……?」
美味しそうにわたあめを舐めるのを見て誤解が解けたと安堵したのだろう。額の汗を拭いながら別のわたあめをクレアに経営主が差し出した瞬間、凛音が引きつった声を上げる。
「じょ、嬢ちゃん俺は変態じゃあ」
「父様が言っていたのだ。女を甘いもので誘惑し喜ばせようとする男は皆ヘンタイなのだと。それにリオンやクレアにそれをやったらロリコンらしいのだ。つまり、こやつはヘンタイでロリコンなのだ」
「ちょ、嬢ちゃんあんまりそういうワードを人ごみでだな……って、そっちの嬢ちゃんは解ってくれるよな?」
「変態で、ロリコン……っ」
「で、おぬし、ヘンタイやロリコンとはどういう意味なのだ?」
公衆の面前で謂れもない言いがかりを連呼され経営主は半分涙目になっている。クレアに至っては小さな体をガタガタと震わせながら、凛音の背中に隠れてしまっていた。
ああ何たる不憫な経営主か。後日、幸正に呼び出され折檻を受けるのは間違いない。
「も、申し訳ありません……っ」
余りにも理不尽な物言いに経営主が不憫で仕方なくなったのだろう。泉澄が二人の元に駆け寄って行って経営主に平謝りをしている。
「しかしまあ、祭りですらあんな風に考えちまうのは……境遇が問題なんかねぇ」
そんな光景を黙って眺めていた和馬が不意に核心に触れた言葉を漏れださせた。
凛音の境遇。
本来楽しむべきものを目にした第一印象が武器であるというのは、十四歳の少女には本来あるまじきことである。
「なるほど食べて楽しむ場所なのだな、イズミ、クレア、あっちも行くのだっ」
泉澄に祭りの醍醐味を教えられたのか、納得したように凛音は頷き別の屋台へと向かう。
あの様子ならば少なくとも今は心配いらなそうだ。むしろ時雨たちの方が彼女のことを過剰に心配し過ぎていたのかもしれない。
凛音が気を遣わせぬ様に我慢していると思っていたが、例えそうなのだとしても、それはこちらが安易に懐柔していい問題ではないのだ。凛音は自分で乗り越えようとしているのだから。
「……歪ね」
そんな少女たちの姿を遠巻きに俯瞰しながら最後の同伴者がそう呟く。
「そう言えばどうして燎がここに?」
先ほどは凛音の介入を受けて聞き逃していた。
「凛音に呼ばれたから」
「まあそうだとは思った。だが正直意外だ。燎が呼ばれたからといって、祭りに来るとは思わなかったが」
正直鎖世がこういった俗世の娯楽に興味があるとは思っていなかった。
実際に以前凛音に台場海浜フロートに誘われた時も、興味がないと断っていたはずだが。彼女が能動的にここに出向いたとは考えにくい。
「私も、意外」
「なんだそれ」
「どうして足を運んだのかは解らない。でも来るべきだと考えた……の?」
「何故疑問形なんだ」
「レジスタンスの活動の一環として、この祭りは開催された。そのことは一般市民も周知の事実。その上で彼らがどのような行動に出るのか、興味があったのかも」
どうしてこう鎖世は時折自分の行動に疑問を抱いているような発言をするのだろう。
「今の台場の住民が
「意味はよく解らないけど……でも折角来たんだもん。楽しまなきゃ損だよ?」
「
「ど、どうなんだろう……でもそうだね、私は楽しむべきだと思う」
「そう。それなら、どうやって楽しむのかを教えて」
正直鎖世のその返答は意外だった。彼女が娯楽などに興味を示す日など来るとは思っていなかったから。
「任せて、霧隠さんも一緒にまわろっ」
「え? あたしっすか?」
「お祭りはね、皆で一緒に過ごすとそれだけで楽しくなるものなの。私は燎さんとも霧隠さんとも仲良くなりたいな」
「こ、これはあれですかね。あたしのフレンズリストにまた一人フレンズが増えたってことでいいんですかね」
「私としては、最初から友達のつもりだったんだけど……」
「っ、超グラッドな気分っす。ぜひまわりましょう」
「友達……」
どうやら彼女たちは意気投合を始めたようだ。
正直あの三人の組み合わせは予想していなかったが。まあ紲は誰に対してもわけ隔てのない性格をしている。彼女がいれば、交友関係に一切の興味を示さない鎖世も、自称デイダラボッチのプロフェッショナルである月瑠も、自然と輪の中に入れるのかもしれない。
「時雨、少しいいかしら」
しばらく凛音たちに屋台を連れまわされたのち真那に呼び止められる。
屋台の密集していない比較的人気の少ない場所にまで真那は時雨を誘導する。何事かと惑いながらついていくと、そこには腕を組んだ唯奈が待機していた。
「こんな場所でで悪いけど。夜中のこと、聞かせてもらおうかしら」
「夜中?」
「私がアンタの部屋に行く直前のこと。ハゲダルマの不審な言動でも目撃したんでしょ」
そう指摘されて彼女の意図に気が付く。そう言えばあの時は凛音とクレアがいたために、盗聴の内容は伏せたのだ。
まあ伏せたとは言ってもその内容は一切既知としていないのだが。
「そのことに関してですが、時雨様には申し上げましたが特別報告するような内容でもありませんでした」
「相手は誰?」
「おそらくはレジスタンスの人間です。凛音様の監視を仄めかすような発言をしていましたね」
つまりそれは獣化による発症が今後どのような影響を凛音に与えるか解らないため、様子を見ておけという指示だろうか。あの時間にあんな場所で連絡をしていたために過剰に不審がってしまったようだ。
「そう……それなら、特に留意する必要はないのかしら」
「ただし、少しばかり気になったことがあります」
「気になったこと?」
「昨晩、あの通話の後のことなのですが、幸正様の端末に遠隔でアクセスし音声ログを辿ったのですが……何者かに送られた無線が記録されていました」
「誰に対してだ。それにいつの記録だ」
「凛音様が消沈し、皆が部屋に集まる前のことです」
緩和しかけていた注意の糸を再び引き締める。
「相手に関しては判別不可能でした。声の質を数値化して、私の認知しているレジスタンススタッフとの照会を試みてはみましたが……一致する人物はいませんでした」
「なら相手は……」
「ただその会話の内容は、凛音様のリジェネレート・ドラッグの発注に関することでした。特別不審な内容などもなく、単純に今後の投与回数を増やすため発注する数も増やすように、などという指示でしたね」
「怪しい点はないわね……でも、ネイの知らない人物との会話だったのでしょう?」
「私とて、レジスタンススタッフ全ての声帯情報を把握しているわけではありませんから。下級構成員への連絡だったのかもしれません」
腑に落ちない点に釈然としないながらも、あえてそれについて言及しようとはしない。
幸正の言動に胡乱な様子が見受けられたのならば、ネイは見過ごすことなく報告するだろう。だのに何も提示しない辺り、幸正に怪しい点はなかったということだ。
「ま、そう言うことならいいわ。シール・リンク、今後も盗聴を継続しなさい」
「四六時中というのは厳しい……いやネイなら可能か」
「年中無休ですか。はぁ、こんなブラックな企業、普通ならばストライキが起きてもおかしくありませんね。私も時雨様の端末から、真那様の端末にでも転職すべきでしょうか」
「転職可能ならこっちからクビにしてる……まあこんな厄介な居候人工知能、間違っても真那に押し付けるわけにはいかないが」
彼女はどういうことか時雨の端末以外には棲みつけない。通信機能がある端末であってもだ。
彼女がこうして所持品に寄生虫のごとく染みついている間は、時雨の生活に休息なんて訪れることはないのだろう。いまさら望みもしないが。
「それにしても、一号の様子、どう思う?」
改まったように唯奈はその表情を改めた。
「どうというのはどういう……って聞くまでもないか」
「私が昨晩アンタの部屋に行った時点で、再起不能なほどに陰惨を極めているってわけではなかった。けど、あの一号が弱音を吐くなんてよっぽどのこと」
「そうね。少なくとも、しばらくの間は普段の快活さはおろか、平常心を保ててすらいなかったわ」
「だけど今は、享楽に身を投じているようにも見える。でもそれは取り繕った外面ではないのか……って疑問」
唯奈は遠巻きに群集にてにぎわう人ごみを眺めていた。その瞳には、慈しみとも哀惜とも取れない複雑な心境が反映している。
人口密度の過多ゆえに凛音の姿は見受けられない。あの雑踏の中きっと仮初の愛嬌をふりまいているのだろう。他の者たちの心配を駆り立て無いために。
「確かに完全に吹っ切れてなんていないだろうな。だがきっと大丈夫だ。凛音は強い心の持ち主だ」
実際にそうやって仮の表情で本心を包み隠せるようになったのも、彼女がその苦難を乗り越え始めた証拠だろう。
身体能力的な意味だけでなく、凛音は年相応とは到底言えない強靭な精神力の持ち主だ。その精神は、人間の死や防衛省の非人道的すぎる策謀と言った悪しき物にばかり接してきたからの物だと言える。
皮肉なことに凛音をこのような苛酷な境遇に陥れた環境こそが、その中でも生活できる強い心を養わせたのだ。
「そう……かしらねぇ」
唯奈はどうにも蟠りを払拭しきれないとでも言わんばかりの顔でその眉根を寄せていて。改めて認識を確かめてくることはしなかった。
「まあいい。少なくともこの祭りが、一号の精神状態に悪影響をもたらすことはないだろうし」
「納得いっていなさそうだな」
「そう言うわけでもないけど。これ以上考えても仕方ないし。何と言っても一号の考えていることなんて一号しか解らないし」
まあその一号自身も解ってないかもしれないけど。そう付け加えて唯奈は肩を竦めるのだった。
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