2055年 12月22日(水)

第165話

 目覚めた時、夕焼けのような赤い光が差し込んでいた。水面のように内側に黄昏色の無数の光の泡を収める二つの瞳。

 時雨の上に覆い被さるように凛音がベッドに乗り上がり顔をじっと見つめているのだ。


「どうした?」


 ごく間近に迫る少女の面持ちに惑い起き上がることも出来ずに硬直する。固まっている声帯を無理やり震わせて問いかけるが、彼女はこちらを見つめたまま微動だにしない。

 大きな双眸すら揺れ動かず。どこか物思いにふけるような、ひどく暗鬱な淡い感情が赤の色の中に循環している。薄い色彩の唇がそっと開く。


「シグレはまだ眠っているのだな」


 ドクンと心臓が破裂しそうなほど脈打つ。早鐘のように震えたつ鼓動に併せ、悪寒が背筋を撫でた。緊張して喉がカラカラになる切迫した感覚。心の中をかき毟られるかのような激しい焦燥。

 底知れない緊迫感を醸す瞳から目を離すことができず、思わず生唾を飲み込む。

 なんだ、この感覚。普段見ている彼女の印象とは酷く異彩なアンビアンス。無感情で異質かつ無機質的な赤い塊の内側には、狂気に満ちた闇があった。

 瞳の表面に自分の顔が映り込む。そこに映る顔は困惑に満ち満ちている。


「どういう意味だ。俺は起きている」


 今にも震えを体感しそうな唇をきつく噛んで、できるだけ平常を装いながら問いかける。そんな時雨をどこか俯瞰するように見下ろしていた凛音であったが、徐々に眼球の内側に生気が宿り始める。

 やがて彼女は固まっていた頬の筋肉をほどいて、惑ったように瞬きを繰り返しながら時雨を見つめる。


「……シグレ? 何をしているのだ?」

「それはこっちのセリフだ」


 普段の声色に戻ったことに心の内側で安堵しながらもゆっくりと上体を起こす。

 引かれるように上から退いた凛音。彼女は本当に何が起きていたのか理解出来ていないのか、困ったように自分の手のひらを見つめている。


「なんなんだ本当……大丈夫か」

「大丈夫というのは、何がなのだ?」

「いや、まるで人が変わったみたいに……」


 ベッドから身体を降ろしながら何気なく呟いたその言葉。すんでで言葉を途切れさす。

 人が変わる。その言葉は今の凛音には極めて触れさせない方がいい禁句だろう。彼女は今、自分の中に自分ではない狂気的な冷酷で驕慢な別の人格に怯えているというのに。

 腫物を扱うようで気分はよくないが、凛音の精神状態を気遣ううえでは必要なことだ。


「それよりもう大丈夫なのか」

「正直、大丈夫ではないのだが……少しは落ち着いたのだ」


 ベッド上に足を崩して座っていた凛音は、表情を神妙なものに変えて目を逸らす。その挙動から察するに本当は落ち着いてなどいないのだろう。

 凛音が自身の混迷を取り繕わず、口にすることなどめったにない。胸の中に蟠る赤黒く染み付いたドスの効いた激しい衝動に、未だ翻弄されかけている。

 ただこれ以上心配をかけさせたくないが為に、それを凝り固まった心の内側に押さえ込んでいるのだ。それは酷く淡くて脆い。ちょっとしたはずみで簡単に氾濫を起こしてしまいそうなほどに。


「なぁシグレ、外に出ないか」

「外?」

「部屋の中にこもっていたから、なんだか少しモヤモヤがあるのだ。空気が吸いたいのだ」


 時雨が感づいていることも彼女は敏感に察しているのだろう。それ故なのかは解らないが笑顔を浮かべる。

 他の者達が見ればそれに違和感など誰も抱かぬだろうが、ずっと一緒に過ごしてきた時雨にはその僅かな異彩に自然と目をつけてしまう。

 どこか無機質な能面のような笑顔。誤魔化しの愛想笑い。それは自分の深奥に眠る、得体の知れないどろどろに塗り固まった衝動を見せぬ為の防護壁なのだ。


「ああ、そうだな」


 敢えてそれに触れることをしない。

 

「クレアはまだ寝ているみたいだな。起こさないでおこう」

「ずっとリオンに付き添ってくれていたからな……クレアは本当に優しい妹なのだ」


 凛音は乱れた毛布を引っ張り、すやすやと寝息を立てているクレアの首元まで掛けてやる。

 幼い体躯やあどけない笑顔や挙動からついつい小さな少女であると思いがちだが、凛音も立派な姉なのである。

 クレアにこうして接する姿はどこか気品があり包み込むような暖かさを感じる。年相応とは言えないあまりにも悲しい精神年齢の成す業だった。


「そう言えば、なんでクレアはガスマスクを手放さないんだろうな」


 毛布に隠れて見えなくなったがクレアが抱えているであろう金属の球体。ふと思考を掠めた疑問だった。

 初めて出会った時から今まで任務の時もそうでない時も、クレアはガスマスクを片時も手放したことはない。

 内気で人見知りな彼女が保身のために付けているものだと思っていた。その顔を隠すために。自分の内側を見られぬようにするために。だが心を許してくれているであろう今もなおそれを手放すことはない。


「どうなのだろうな。リオンはおねえさんなのに、クレアのことを何も知らないのだ」


 悲観しているわけでもないどこか歪な笑顔。彼女が何を考えているのかは解らない。


「クレア様にとって、ガスマスクは保身以上の意味を成しているのかもしれませんね」

「どういうことだ?」

「確かに他者に対する恐怖から来る保身の意味もあるでしょう。ただそれは、自身が好奇の目を向けられることに対する保身だけには留まらないように思えます。それ以外にも、必要以上な外界からの干渉を拒む防壁の役割を成しているのかもしれません」

「防壁……」


 先ほど凛音に感じたものと同じような物か。

 凛音はその快活な鮮やかな笑顔をもって自分の内側を包み隠す。対してクレアはガスマスクという物理的な壁をもって自身の内側を包み隠す。

 同じようでいて似て非なる性質だと言えよう。


「クレア様は、何か強迫観念にも似た使命感をその心に宿している。何かを隠していることは確実です。クレア様はその隠蔽せし何かを必死にガスマスクというベールで覆い隠し、私たちの干渉を拒んでいる……」

「それは、リオンにもなのだな」

「それは……」

「いいのだシグレ、それは分かっていたことなのだ」


 やはり彼女は笑顔という防壁で何かを隠す。彼女はそのまま自室から外へと連なる廊下に踊りでる。


「?」


 部屋から出ようとして、階別通路の末端から誰かの声が聞こえてきた。こんな夜中に一体誰が。開きかけていた扉を抑え僅かに開かれた空隙からその場所の様子を伺う。

 非常階段の傍の壁に背をつけ佇んでいる。暗闇に紛れその人物の素性は特定出来ない。次に発せられた声を聞いて、すぐにそれが幸正の物であることに気が付く。

 

「進捗状況は逐一報告しろ」


 誰かに話しかけているようだがその場には誰もいない。おそらくは無線で話をしているのだ。


「彼奴の状態は芳しくない。貴様、本当にあれは機能しているのか」


 彼奴というのは凛音のことだろうか。そう仮定すると、あれとはリジェネレート・ドラッグのことだと憶測できる。しかし通話の相手は誰なのだろう。


「凛音、中で待っていろ」

「別にかまわぬが、どうかしたのか?」


 明らかに不審な幸正の姿。通話の相手が防衛省である可能性もある。その可能性を消しきれない以上、凛音に聞かせるわけにはいかない。

 そう判断し彼女を部屋の中に押し込もうと試みた時、


「あ、起きてたのね……ってなにしてんの、アンタ」

「うにゃぁっ!?」


 不意に扉を外側から引っ張り開けられ、寄りかかっていた凛音が部屋の外へと転がりでる。尻餅をついた凛音の目の前、ドアの前には唯奈が佇んでいた。


「何やってんのよ……ほら、大丈夫?」


 彼女は通路壁に額を打ち付けた凛音を不審そうに見つめていた。小柄な体を引っ張り起こし額をさすっては心配そうな面持ちを浮かべた。


「ユイナ……どうしてここにおるのだ?」


 反射的に通路先の様子を伺うが幸正の姿は見えない。どうやら唯奈の登場に際してあの場から離脱したのだろう。ということは、やはり聞かれてはいけない会話をしていたということか。


「情報仕入れるチャンスが」

「情報……?」

「問題ありません。お忘れのようですがしっかり盗聴はしていますので」


 そうだった。


「何意味の解らないことを喋って……盗聴?」


 訝しむような顔をしていた唯奈であったが不意にその表情を改める。

 そうしてああそう言うことと呟くと脇を素通りして室内に入ってくる。彼女は家主の時雨のことなど気にすることもなく、無造作にベッドに腰掛けた。


「邪魔するわね」

「もうすでに邪魔しているがな」

「は、はぅ……?」 


 唯奈の乱入によって目を覚ましたのか、クレアが困惑したようにガスマスクで口元を隠していた。


「何しにきた」

「第一声に何しに来たはご挨拶ね……理由もなしに会いに来てはいけないの?」

「いやそんなことはないが目的なしに来たのか」

「アンタ馬鹿? なんでアンタなんかに意味もなく会いに行かないといけないのよ。暇だとしても、そんなことに時間を割くくらいなら、ミジンコの生態記録をつけてる方がまだマシよ」


 いつになく理不尽な物言いに反論する術もなく黙り込む。どうやら唯奈は何かを紛らわそうとしているようにも見える。


「ユイナ、もしやリオンに会いに来てくれたのか?」

「べ、別にアンタに会いに来たわけじゃ……なくもないわね」


 反射的に否定しようとして唯奈はそっぽを向く。腕を組んでなにやら言い辛そうにちらちらと凛音のことを伺っている。

 そうして腕をゆっくりとほどき、向かいのベッドに足を投げ出している凛音の頭に手を伸ばそうとしては、やめた。


「何してる」

「う、うるさいわね……一号の様子を見に来ただけよ」


 不審な行動を訝しんでいると、唯奈は吹っ切れたように凛音の大きな耳に手を触れさせた。

 こそばゆそうに上目遣いで見つめてくる凛音にだらしなく鼻を伸ばしながらも、唯奈はどこか安堵したように息を吐き出した。


「アンタが精神的にヤバイって聞いたから来たんだけど……そうでもなさそうね」

「シグレたちがずっと一緒にいてくれたのだ。皆優しくしてくれたのだ」

「ずっと一緒に、優しくしてくれて……! アンタ……ッ!」 

「勝手に妄想を膨らませるな」


 凛音の返答を耳にして時雨を射殺すような鋭い目線で睨めつける。しかし自分の誇大妄想であると考え直したのか、般若みたいな顔から憤怒を緩和させる。


「ま、アンタが落ち着いてるなら良かっ……む、無駄足だったわ、ああもうなんで私が……」


 崩壊しかけている自身の表の顔に自分自身戸惑いを隠せぬように。唯奈は頬を引き吊らせながらもあくまでも無関心を装う。

 

「心配してきたのか」

「いや別にアンタの為じゃなくて、ソイツの為……ってソイツのためでもない! 暇だっただけ」

「さっき暇でもここには来ないと」

「うっさいわね……っ」


 飛来してきた枕を反射的に回避しつつ唯奈の姿をじっと眺める。


「それで、どうしてこのような遅い時間帯に?」


 それが一番の謎である。窓の外は既に、冬の宵のしんしんとした凍てた空洞のような静寂に飲まれている。時刻は午前二時と言ったところだろう。


「ここ男子寮だし。あまり人目につく時間帯に来るわけにもいかないでしょ」

「いまさら何言っているんだ。真那も風間も、紲さえ普通に来ていたぞ」

「だって他のやつがいたら看病できないし……看病なんてするわけないし!」

「唯奈様は口を閉じていた方がまだ凛然として見えますね」


 キッと唯奈がこちらを睨む。とばっちりである。


「それで、看病目的で来たのですか?」

「……もういいわ。まあ、その通りよ」

「デレましたね」

「ユイナが看病してくれるのか? 多分あれなのだ。ユイパイマンをもにゅもにゅすれば一発で治るのだ」

「治るわけないでしょ……まあその目的もあるんだけど、他にも用事があって。アンタが消沈してるなら、祭りに連れてって元気ださせようと思ってたのよ。でもその必要はなさそうね」

「祭り? お祭りがあるのか?」

「え、ええ……東・昴が企画した地鎮・追悼を兼ねた小規模なものだけど……」

「リオンはそのジチンツイトーのお祭りに行きたいのだっ」


 先までの儚げな様子はいざ知れず、すこし興奮したように唯奈に詰め寄る凛音。


「今のご時世、祭りですか」

「気楽なもんよね。まあ祭りがおこなわれる時間には、レジスタンスの警戒網を敷きはするみたいだけど」

「祭り開催の目的は、凛音様関係でしょうか」

「さぁ? でも違うんじゃない? 単純に台場の住民の精神状態を憚ってのことでしょ」


 祭りを開催して、少しでも張りつめた精神を和らげようという魂胆か。元皇室ながらも俗世に通じた昴らしい発想だ。


「そ。実際にモフモフ一号と二号に対して学生が暴力沙汰に及んだ。これは明らかに精神状態の乱れが原因してるでしょ」

「今後こういうことを少しでも減らすためにも、必要なことかもしれませんね……」


 楽天的過ぎると思わなくもないが、確かに台場の住民の精神が常に針詰まったものであり続けるのは不穏因子である。

 少しでも凛音排斥の線を無くすため、いやそれだけにはとどまらず、住民による暴力事件などを抑制するためにも。彼らのストレスを解放してやる必要が大いにあるだろう。


「その祭りというのは、いつ、どこで行われるのでしょうか……」


 興味があるのか、クレアが控えめに唯奈に問う。


「明日の夕刻から。場所は台場海浜フロート」

「あの遊園地でか」

「そ。知っての通りあそこへの電力供給は今遮断されてる。レジャー施設としての機能は死んでいるけど、でも祭りを開催するにはそれなりの土地面積を有するから。無駄浪費されている土地を有効活用するってわけ」

「まあ台場海浜フロート自体には、何も仕掛けられていないことが解っているし……大丈夫か」


 水底基地攻略の後、レジスタンスは大規模な捜索を台場海浜フロートにて行った。

 防衛省が台場海浜フロートを設立したのは、水底基地における実験によって台場に電力がシャットダウンしてしまうことを見越した目くらまし効果を見込んだが故の物だろう。それを立証するように、台場の電力が落ちたのはあのレジャー施設がオープンしてすぐのことだった。

 それ故に目くらましに過ぎない台場海浜フロートには何もしかけられていないこと自体には不可解さも何もなく。


「よしシグレ、お祭りに行くのだ」

「病み上がりだぞ」

「解っておらぬな。リオンは床に耽って体を休めても少しも症状はよくならぬのだ。リオンが元気になるのは楽しい時なのだからな」


 無駄に説得力のある発言だ。


「なぁいいだろ? 結局あの遊園地には行けなかったのだ。ならば、その遊園地でやるお祭りには参加したいのだ」

「一応言っておくが俺はお前の保護者じゃない。俺にはお前の外出を禁ずる理由も資格もない」

「やったのだっ、クレア、明日はお祭りなのだぞっ」

「で、でも私は、お父様に外出を禁じられているのです」

「それは気にしなくてよいのだ。何と言っても、とーさまはシグレが説得してくれるのだからな」


 そう言えばそんな約束をしていた。安請け合いしてしまったものである。


「峨朗、赦し出してくれるのかね」

「シグレは最強の猫シエーターなのだ。余裕だろ?」

「ネゴシエーターの間違いですね。まあ、確かに時雨様の手にかかれば楽勝ですよ。現状複数の美少女を攻略中なのです。はげの一人攻略するくらい、朝飯前ですね」

「言っていることの意味は理解しかねるが、まあ、約束したしな」

「いいのでしょうか……」

「いいんじゃない? 面倒事はその烏川時雨が全部解決してくれるだろうし」

「…………」

「請け負った約束くらい、果たしなさいよ」


 対岸の火事を笑う唯奈に非難の目を向けるが、彼女は我関せずと言った様子で肩をすくめて見せた。


「それじゃ私は帰るわ。看病の必要はなさそうだしね」

「あ……」


 静止を掛けようとして唯奈に目でそれを制される。静止の目的は先ほど聞き耳を立てていた幸正に関することであったが、唯奈はそれについて解ってはいるようだ。

 彼女が一瞥した先には明日のことについて歓談している少女たち。この少女たちのいる場所で話し前と同じ過ちを犯すつもりなのかと、そんな非難を感じ取る。

 唯奈はそのまま足を止めることもなく部屋から出て行った。


「いいのか」

「気になさらなくて大丈夫です」

「え?」

「現在進行形で盗聴を継続中ですが、特別、急いで時雨様たちが確認せねばならないような発言はされていません。というよりも何も聞こえません。まあさっき盗聴を開始した時点で通話が終了していましたが」


 盗聴というのは幸正をということだろう。ネイがそう言うのならば深く考える必要はなさそうだ。

 肩に凝り固まっていた倦怠感と焦燥感を、ため息と共にゆっくりと吐き出す。そうして明日に備え再び眠ることにした。

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