第164話

「これまで我々レジスタンスや革命活動に関与してこなかった一般人。そういった人間の中でさえ不満の種は蔓を伸ばし始めているのだな」


 高架停留所にて。モノレールから降りてきたスーツ姿の伊集院は、髭を手でさすりながら開口一番にそう呟いた。


「登場と同時に何言っているんでしょうかねこの老害は」

「状況は無線にて聞かされている……その上での考察だ」

「そもそもどうして伊集院様が台場に出向いているのでしょうか。変質的なクビレフェチの変態老骨男の出迎えをさせられる身にもなってください」

「ふ、ふむぅシール・リンクよ、私は被虐嗜好も少々嗜んではいるがな。それもクビレのある女性に限る。クビレが確認できず、ましてや実体すらない君に罵倒されても、全く興奮は感じられぬな」

「失礼ですね。これでもクビレはあります」

「そうか……失礼した。であるがクビレはそもそも観賞用ではない。自身の手をもって触り、その感触と起伏を感じ得てこそのクビレである。故に触れぬ君のクビレには根源的に価値がない」

「! ま、まさかそんな落とし穴が……悔しくはありますが、私の完敗です。伊集院変態野郎様。貴方のフェティシズムは非常に気持ち悪いですが、その貫禄すら感じるほどの在り様にはある種の清々しさまで感じますね」

「ふむ……君も実体があったのならば、実は相当魅力的なクビレの持ち主だったかもしれないな」

「茶番はそれくらいにしておけ」


 寒空の下、何故か意気投合している二人の会話に介入する。このような変態歓談をするために伊集院はここに来たわけではあるまい。


「失礼した。では目的の場所に急ごうじゃないか」

「そもそも俺たちは何で伊集院がここに出向いたのかもいまいち理解しかねているんだが」


 襟をただし無駄に紳士的な佇まいをする伊集院。彼は時雨の懐疑には応じることなく脇を通過して学生寮への帰途を辿る。

 学生寮に足を踏み入れるのが珍しいのか、伊集院は興味深そうに立ち並ぶ部屋を見渡す。


「ここがまだ成熟していない果実の瑞々しいクビレを栽培するための苗床か……非常に興味深い」

「一度現行犯逮捕された方がいいかもしれませんね」

「でだ、美クビレ少女二人を侍らせ、君のハーレム王国と化している部屋はどれかね?」

「人聞きの悪い言い方をするな」

「むむ、失礼ですね伊集院様。私だってれっきとした美クビレ少女です。三人ですよ」

「私としたことが失念していた。失礼した、シール・リンク」


 この男を自室に招くことには多少の抵抗感を禁じ得ないながらも、ここまで来て帰れともいえない。致し方なく、彼を背後に待機させたまま自室の扉に手を掛けた。


「お疲れ様です。時雨様、伊集院さん」


 同居している峨朗姉妹に加え泉澄、紲の姿も見える。おそらく凛音の一件があった後、誰かが呼び集めたのだろう。

 部屋の中には視認出来るのではと錯覚してしまうほどに澱みきった空気がまとわりついている。

 四人がけの机に腰掛けているのは真那だけだ。物思いに耽るように机の木目をじっと睨んでいる彼女の傍では、どう声を掛けたものかと悩むように泉澄が困った顔をして立っている。


「ぅぅ……」


 ベッド脇の床にはクレアが腰を落とし小さな胸にガスマスクをかき抱いている。クレアのことを気遣うように彼女の頭を優しくなでているのは紲だ。

 そんな彼女たちが見つめている先、ベッドの上には。


「どうやらすこぶる重傷であるようだ……一号のクビレに快活さが一切感じられん」


 溜め息と共に伊集院は深刻そうに眉根を寄せる。

 着衣した状態の相手のクビレの状態をどうやって観測しているかは解らないが、犯罪の匂いすら感じてしまう発言である。

 マットレスの上に膝を抱え込む形で屈みこんでいる凛音。紲か誰かにシャワーを浴びせられたのか、汚れは付着しておらず衣服も清潔なものに取替えられているが……。彼女を包み込む濁った空気は薄れることはない。殻に閉じこもるように彼女は沈んでいた。


「なるほど、一般市民の言葉が原因ですか」


 机を囲うように腰掛け無線機越しに昴たちに事のいきさつを話した。

 何が凛音をここまで追い詰めてしまっているのかは解らない。それでも民間人の言葉が凛音に突き刺さったことだけは間違いがない。あれがきっかけになったということも。


「心のない酷い言いがかりだよね。凛音ちゃんは皆のために頑張ってきたのに……」


 紲はデスクの表面をじっと見下ろしながらその不満を紡ぎだす。


「確かに無責任な発言ではありますが、とはいえ、それは嘆いても致し方ないことでしょう。何と言っても我々と彼女達とでは生きている世界が違うのですから。猜疑や懐疑、批難の目を向けられることなど、最初から解っていたことです。そして私たちはそもそもそのような非難に臆し、行動を制限されていい立場にはいないのです。もはや生きている土台が違う。それは私たちに必要以上の干渉をしえない存在であるということですから」

「そんなの悲しいよ。だって凛音ちゃんは、私たちよりも年下の女の子なのに」


 泉澄が容れたコーヒーに視線を落とす。張っている白い色が渦を巻き、あたかもこの場にいる者のとりとめのない心情を映し出している様に思えた。

 先程と全く変わらない体勢の凛音に何かをしてあげようとしているのか、立ち上がったクレアがあたふたとしている。何も出来ることが思いつかなかったのか、自らの無力さを痛感したように萎れながらこちらに歩み寄ってくる。


「凛音さんは、ずっとあのままなのです……」


 泉澄に促され椅子に腰を任せたクレアは、差し出されたカップを見つめながらぼそりと呟く。


「声をかけても、ずっと……」

「やっぱりその、化け物って呼ばれたのが胸に突き刺さったのかな」

「それよりも、ノヴァと呼ばれたことではないでしょうか……」


 それぞれ原因究明をしようと試みるが、彼女の心情が解らない以上は判断のしようがなかった。

 重苦しい空気が部屋の中に取り巻く。民間人のたった一つの言葉でここまで凛音の心が傷つけられるなどと誰の思いにもよらなかったからだ。

 静かな沈黙を破るように昴が唇を震わせる。


「世知辛い世の中ですからね。自分が望んだ環境ではなくとも、それは必然的に強いられるものなのです。あらがいようのない現実として」

「ですなぁ」


 それに相槌で返したのは無線機越しに聞こえる酒匂の声だ。


「我々のように元より軍人として生きてきた人種とは、凛音殿は違いますからなぁ。あくまでも自身の身の丈に合った生活のなか排斥を受ける。その憂苦は難儀な物。我々と程度が同等であると考えるのは、愚考以外の何物でもありますまい」

「レジスタンスである以上は、今後もこのようなことが起きてもおかしくはありません。それ故に凛音さんには克服を前提的に心掛けていただく必要があるわけですが」

「そんなの……悲しいよ。皆と打ち解けることが最初からできないだなんて。そんなの、希望も何もないよ」


 掴みどころのない悲哀にその胸を締め付けられるように、紲は胸元を抑えていた。あたかも自分の痛みであるかのように彼女は凛音の憂苦を体感している。

 それは単なる偽善などではないのだろう。紲の本当の優しさが彼女の心を蝕んでいるのである。レジスタンスと一般市民、その中間に立ち双方の世界を体験した彼女だからこそ実感できる遺憾だ。


「ええ。それ故に、凛音さんには時間が必要でしょう」

「時間、とはいかに?」

「最終的には一般市民と凛音さんが分かち合えることはないでしょう。ですがそれでも、必ずしも排斥し排斥されといった心憂い未来が待ち受けているわけではありません。分かち合えなくとも、共に共存することは出来る。同じ環境で、違う土俵の人間が共栄することは出来るはずなのです」

「希望論に聞こえなくもないですがなぁ……」

「そうですね。その共存は、あくまでも表面的な物にすぎませんから。有無相通と申しますか、真の意味合いでの相補的な関係は築きえないでしょうね」

「つまり、どういうこと?」

「真に心を通じ合える関係になることは出来なくとも、同じ環境すなわち一般市民の中で生きていくことは可能であるということです。そのためには、一般市民との過干渉は避けることが前提条件となるでしょうが……」


 それに関しては妥協せざるを得ない条件だと言えるだろう。凛音が一般市民と深く交わることがあれば、おそらくまた同じ道を辿ることになる。

 凛音がこれほどまでに傷心してしまったのは、彼女が一般市民との間に共通意識のようなものを見出してしまったがためだ。

 そもそもとしてそのような意識を抱かなければ、ここまで傷つけられることもない。まったくの無傷というわけにはいかないだろうが、少なくとも今ほど深刻な状態に陥ることはないだろう。


「なぁ……」


 不意に凛音の声が部屋の中に染み渡る。依然として膝に顔をうずめたままだが聞き間違いではない、凛音の声だ。

 クレアは立ち上がりベッドに静かに歩み寄る。凛音のことを慮ってか他の者たちは席を立っていない。


「大丈夫なのです? 凛音さん」


 ベッドの脇に屈みこみクレアは彼女のことをじっと見つめる。

 薄暗さの中でそっと顔を上げた凛音は、大きな瞳でクレアのことを直視する。その瞳からは心做しか普段の彼女にある過剰なまでの生気が感じられない。


「さむい、のだ」

「寒い? 暖房は効いているんだがな」


 震える彼女の声を聞いて、クレアは畳んであった薄手の毛布を彼女に被せる。そもそも彼女は体感的な寒暖を感じないのではなかったのだろうか。

 

「風邪でも引いているのかもしれませんね。そうです、体調がすぐれないから、きっと色々不安になってしまうのです」

「……ちがうのだ」


 耳を萎れさせ弱々しくクレアのことを見つめていた凛音だったが、不意にクレアの袖をきつく握りしめる。唇を噛みしめ激情を押し殺すように目頭に悲哀を溜め込む。

 

「ここがさむいのだ……」


 もう片方の手で彼女は自らの胸元に爪を立てる。小さな肩を震わせ、今にも消え入りそうな声で悲しみを伴う崩壊感覚に怯えていた。寒々とした寂寞感に侵され自身の居場所を失ったように虚無に覆われている。

 

「凛音さん……」


 掴まれた手で掴み返し何も声をかけられずにいたクレア。


「凛音にはクレアや他のレジスタンスの皆がいる。お前が何を恐れてるのかは解らないが、それを取り除いてやることは出来る」


 凛音の脇に歩み寄り重苦を緩和してやろうと小さな肩に手を重ねようとし、直前になってその手を降ろした。彼女が抱えている重責をそのような言葉で中和できるはずなどないと痛感したのだ。

 力なく垂れている耳は、漠然とした悲しみにその心が限界にまで沈み込んでいることを表しているようで。どうやらこんな気休めの言葉では気休めにすらならないらしい。


「リオンは、バケモノなのか……」

「そんなわけはありません。凛音様は凛音様です。私達と同じ人間です。まあ私は人工知能ですが。そもそも凛音様がバケモノだだと言うのならば、時雨様だってバケモノです。改造人間ですしね」

「違うだろ……リオンは実験体アナライトなのだ。シグレとは違って本物のナノマシンで改造されたのだ」

「連中の言葉なんて気にするな。身も蓋も、心も何もない言いがかりだ」


 どこまでも闇の深奥に沈んでいきそうな彼女を繋ぎ止めるべく、頭に手を置くことを試みる。

 柔らかい髪をクシャクシャにして心配を振り払ってやろうとするが、やはり彼女の表情は晴れない。クレアの肘あたりを掴み項垂れたまま首を振る。


「ちがうのだ……リオンは、あの者たちの言葉だけが怖いわけではないのだ」

「それって……?」


 意図が汲み取れなかったのか、クレアが問いかけ直そうとした時。凛音に力強く引っ張られ彼女はベッドに倒れ臥しそうになる。

 凛音の額が胸元に押し付けられ身動きが取れず。どうすればいいか判断が付かず硬直している様子のクレア。そんなの硬直を解いたのは凛音本人の震える声をだった。


「リオンは、思ってしまったのだ」

「何を、思ったのです?」

「クレアを奪われると思ったら心が、ここが突然ぎゅっとなって……それであの者を許せなくなって、それでリオンは……っ」


 胸をきつく掻き抱き、得体の知れない感情を吐露するように凛音は体を震わせる。

 彼女が言おうとしたことは何となく憶測できる。極限の状況に陥り彼女は自らの力のセーブが出来なくなった。それと同時に溢れ出すどす黒い感情をも抑えられなくなったのだ。

 クレアを、実妹を殺害しようとしている対象に対して勃発的に陥落を始めた理性。凛音は明確な殺意に任せあの女子学生を抹消しようとした。その命を奪い去ることによって。

 

「遂に、症状が現れ始めたわけか」

「っ、お、お父様……っ?」


 部屋の入り口付近にはその場にいなかったはずの人物が佇んでいる。熊のようなガタイのスキンヘッド。幸正は頭側面に刻まれた醜い傷に更に幾重にもしわを重ねて、その表情を懊悩の色に歪めていた。


「症状……? 幸正のおじさん、どういうこと?」

「発症、ですな」


 真那は幸正にその意味を訊いたのだろうが、返事をした人物は彼ではなく無線機の向こう側にいた酒匂だ。


「発症? なんだ、それ」


 その言葉の意味を組み取れずに問い返す。


「生身の人間に生ずる人体のナノマシン変性のことを示す発症でしょうか」

「いや、そうではないですな」

「ならばここにおける発症という物は、いかなる症状なのですか?」


 酒匂はしばらく返答に窮していたようだが改まったように話し始めた。


「私も詳しいことは解りかねますがな。防衛省に所属していたころ、実験体アナライトに関して査察をしたことがあるのですぞ」

「それに関しては僕が指示を出しました。防衛省の画策するラグノス計画に関し、少しでも情報を収集する必要がありましたので」

「そうでしたな昴様。しかして、情報収集のために参席した軍法政策会議では、特別それらしい情報は得られませんでしたがな」

「ふぅむ……私は実験体アナライトに関しては殆ど理解を持っていなかったからな。佐伯は私の知るよしとしない場所で、実験体アナライトなる研究を促進させていたのだろう」

「したがって、私は別の手段で情報の収集に当たったのですがな。結果、実験体アナライトには獣化に伴う副作用が確認された、という供述を見つけまして」


 副作用だと。そんな話は聞いたことがない。

 つまり要約すると凛音は獣化するたびにその副作用を被っていたということか。一体その副作用とは何なのか。


「その副作用って……どういう症状なの?」

「凛音が今後経験するかもしれない、と推測されていた症状だ」


 説明を酒匂に任せていた幸正が紲の疑問に答える。


「獣化を繰り返すことで彼奴の肉体は少しずつ変化してきている。外見的な印象は変わらぬが。獣化は体の各部位の構成要素を、金属因子に再構築している。当然影響がないわけがない」

「おいそんなこと何も……」

「貴様の了承など必要としていないからだ。俺達がそれを理解していたにせよしていなかったにせよ。どちらにしても、発症は未然に防ぐことが出来ぬ症状だった」


 幸正は屈強な上腕を組ませ厳格なこわもてのままそう断言した。


「ふざけるな、防ぐことは出来たはずだ。いや違う、そもそもとしてその症状を促進させたのは俺達だ」

「発言の意図が解らんな」

「とぼけるな。そもそも獣化はリジェネレート・ドラッグを投与しなければ起こりえない。つまりドラッグを使わなければ発症なんてしなかったということだ。それなのに、お前たちは自分たちの都合で、凛音に投与を強いてきた。戦力になるからとそんな理由だけでだ」

「それは違いますよ、烏川さん」


 否定してきたのは昴。


「……どういうことだ」

「言葉通りの意味です。リジェネレート・ドラッグが獣化を引き起こしているのではありません。獣化はそもそも、何かしらの薬物を投与せずとも生じる現象なのです」


 その言葉に耳を疑った。認識が間違っていたというのか。


「だが前に聞いた時、リジェネレート・ドラッグが獣化を促していると……」

「私もそう認識していたけれど。違うの?」


 どうやら認識を誤っていたのは時雨だけではないようで、真那は戸惑ったように時雨の疑問に次ぐ。


「はい。獣化を生じさせるトリガーは、凛音さんの精神状態に起因します。凛音さんの血中を循環し、体内を駆け巡るナノマシンは凛音さんの精神状態の変化に伴う肉体変化に応じて、その活動を躍進させるのです。激情に突き動かされたり心が乱れたり。脈拍が上がると、それに伴って血液温度が上昇する。それが原因となって脊髄に混入するナノマシンは、凛音さんの肉体全体に浸透し、構造を一時的に変質させるのです……皆さんが獣化と呼んでいる状態に」

「でもそれなら獣化する際にドラッグを摂取しているのはどうしてなの?」

「それは凛音の獣化現象をある程度操作するためだ。もともとの凛音は、今ほど獣化を使いこなせていなかった。一度獣化した凛音が理性を保てず暴走したことがある。それを契機に、凛音にはメンタルトレーニングが施され、ある程度ナノマシンの活動を抑制することに成功した。だがそれとて確実ではない。故にリジェネレート・ドラッグと呼ばれるナノマシンの抑制・制御を担う薬物の投与が考案された」

「獣化をコントロール出来ているとは言っても、万が一のことがありますからね。獣化する際には、リジェネレート・ドラッグを投与するようにしているのです」


 そうだったのか。つまり、ここにおけるドラッグの投与の目的は認識とは正反対であったということだろう。

 時雨のような改造人間がリジェネレート・ドラッグを打ち込むことで人外的な修復作用が生ずるのも、そう言う理由なのかもしれない。


「それで、その症状っていうのは結局どうなることなの? 変化っていうのはいったい……ノヴァになるわけではないよね?」

「当然だ。その危険性があるのならばこれ以上の獣化はさせん」


 その発言から鑑みても獣化のタイミングなどは凛音がコントロールできているのだろう。


「症状は凛音の中にあるナノマシン因子のプログラム信号が、凛音の脳波に色濃く滲みだしてしまうことだ」

「プログラム信号という物は?」

「ナノマシンの機能に基づくプログラムだ。ナノマシンには増殖システムがプログラムされている」

「ノヴァによる物質浸食も、その影響によるものだな」

「そうだ。増殖機能はすなわち他を抹消し取り込むことを意味する。それが人体に作用した時、人間の脳はナノマシンプログラム信号をとある感情と同等のものであると認識する」

「とある感情……?」

「殺意だ」


 なんとなく納得した。


「ナノマシンのすべてを浸食し消失せしめる機能は、人間の感情の中でも最も熾烈たる殺意に酷似している。おそらくナノマシンのプログラムは、人間の脳では正確に識別しえない複雑な情報なのであろう」

「それって……殺戮衝動を抑えられなくなるということ?」


 真那は神妙な面持ちでその顔をわずかに歪めながら問う。対し幸正は何も応答しない。その沈黙が是を表明していることは誰もが理解できた。現実は何と卑屈なものなのか。


「生ずるかもわからない不確定な症状でありましたが……その片鱗が鎌首をもたげてしまった以上、リジェネレート・ドラッグの投与頻度を増やしたほうがよさそうですね」

「凛音様の内側に住み着きし獣。それを呼び覚まさぬためにもそうすべきかもしれません」


 それはつまり獣化する時以外にもリジェネレート・ドラッグを投与するということか。それを確認しようとするが、その前に幸正がその回答に当たる発言をする。


「一日に一度、投与すべきだな」

「時刻を決め、定期的な投与を続けてみるのが吉でしょうな」

「この実践でも効果が見込めぬ場合は、さらに頻度を増やすことになるだろうが……」

「少し不安は残るけれど仕方ないわね」


 薬物投与で精神安定など薬物中毒患者のそれに他ならない。倫理観的にも情緒的にもあまり同意はできないがそれしかないのだろう。


「クレア、貴様が投薬をしろ」

「わ、私なのです……?」

「貴様が凛音に最も近しい存在だ。凛音の生体状況を把握しているのもの貴様だろう」

「わ、解りましたなのです」


 クレアは腰が引けたように慎重姿勢に変わるが、やがて真剣な表情で小さく頷いた。凛音の命運にかかわる大役は弱腰な彼女には多少荷が重くも思われた。

 しかしこれは凛音の妹であるクレアがやるべきだろう。クレアならば凛音のことを誰よりも理解しているであろうし、凛音も安心して自身のケアを任せられるはずだ。それを立証するように、クレアは物怖じしつつも篤実な表情で凛音を見据えている。


「……よろしくなのだ、クレア」

「は、はいなのです」


 凛音も異論はないようでクレアに弱々しい笑顔を見せた。彼女に心配を掛けたくはないという姉としての意地なのかもしれない。

 どこか安心したように伊集院はため息をつく。


「何であれ、しばらくは様子見だな」

「ふん……これ以上、俺達に迷惑をかけるな」

「そ、そんな言い方はないのです……」

「黙れ」

「ひぅっ……!」

「私としても、そのような張りのないクビレは見ていたくないからな……早く元通りの魅力に満ち溢れたクビレを取り戻しロジェの面影を感じさせてくれ」

「……貴様」

「!?」


 幸正が手に持っていたビジュアライザー。それが一瞬にして破片となって砕け散る。


「私としたことが、迂闊だった……」

「…………」

「峨朗一等陸尉よ、今のは聞かなかったことにしてくれたまえ」

「黙れ」


 声音は常の彼のもので特別憤怒が感じられるわけでもない。その静かさゆえの威圧感。物質的な観点で言えば、数百トンほどもありそうな物体に押しつぶされるような錯覚まで覚える圧迫感。

 流石の伊集院も委縮したようで、顔面から冷や汗を滝のように流しながら必死に目を反らしている。


「ふん……」


 幸正は厳粛な面持ちのまま踵を返す。そうしてダイニングから廊下に連なる扉に手を掛け、その奥に姿を晦ます。


「愚考だ。アニエスの魅力はクビレだけには留まらん」

「!?」

「だが……クビレも確かに魅力的だった」


 自分の耳が正常に機能しているのか、それに自信を保てなくなっている間に扉は閉まった。周りの連中の驚愕に強張った顔を見れば、この耳がおかしいわけではないらしい。

 

「……今後の身の振り方は考えねばならぬだろうが、一号には今後獣化は極力控えさせた方がよいだろう」


 伊集院は到来した氷河期に終止符を打つように話題の転換を図る。


「そうなりますね……もし僕たちの活動領域が戦火に飲まれたとしても、凛音さんにはなるべく戦場に出てもらわない方がよさそうですね」

「そもそも、戦争などこれ以上起きないに越したことはありませんがなぁ」

「そうですね酒匂さん。ですが、そうも言っていられないのが現実ですから」

「……皆、ごめんなさいなのだ」


 黙って討論を聞いていた凛音が今にも消え入りそうな声で謝辞を述べる。皆の視線が集中するなか彼女は大きな瞳に哀惜の色を浮かべ発言を継いだ。


「リオンのことで沢山迷惑をかけてしまっておるのだ。とーさまの言うとおりだな」

「そんなこと気にしても仕方ないわ、こうなる可能性があったのに、これまで看過し凛音に戦わせてきたレジスタンスに問題があるのだから」

「だがリオンは戦えなければ、皆の重荷になってしまうのだ」

「少しくらい私達にも重責を背負わせて。第一にこれまでがおかしかった。凛音には本来、戦争だとか、そんなものとは無縁な環境が与えられるべきだったのよ。だから気にしても無意味」

「そうだよっ、聖さんの言うとおりだよ。凛音ちゃんはこれまで精いっぱい頑張ってきたんだよ。少しくらい休んだっていいじゃない」

「……だが、」


 何かを言おうとして彼女は二の句を噤んだ。大体彼女が言いたいことは解る。先ほどの女子学生たちによる排斥や、これまで痛感してきた一般人とレジスタンスとの相違点。

 どれだけ取り繕っても決して補いえない溝がそこにはあるのだ。その溝は今から埋めようとしても簡単に埋まるものではない。いまさら凛音が一般市民の中の普通の環境に身を投じようとしても、叶うはずがないのだから。

 こうして何度も痛烈に思わせられる。凛音は最初からこちら側の人間なのだと。


「とは言え、しばらく学生たちとの接触は避けた方がよさそうですね」

「そうですなぁ。またひと悶着あっても不思議ではありますまい」

「それに関しては棗から伝言を預かっている。君たちの学園への潜入は、継続の必要がないとのことだ」


 それはつまり今後は学生に扮して学生生活を送る必要はないということか。

 まあ台場にいることは、先日の水底基地破壊によって防衛省に断定させられただろう。もはや一般人に偽装して隠れ蓑にする意味はないということか。


「そう言えば、結局伊集院は何をしに来たんだ」

「決まっている。ロジェの生き写したる一号のクビレの様子を見に来たのだ」


 そんな理由かよ。帰れ。


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