2055年 12月21日(火)

第162話

 翌日登校したキャンパスにて予測していたような最悪の事態は起こらなかった。

 それは昨晩凛音を排斥しようとした女子学生たちが和解を申し立ててきただとか、そう言う理由からではない。あの女子たちがこぞって欠席したのである。


「嫌な予感がするな」

「昨晩のこと大体把握しているわ。でも私たちが注視すべきは学生たちではない。外から襲ってくるかもしれない勢力によ」


 昼休みに差し掛かったころ真那が声を掛けてくる。確かに彼女の言うとおりだろう。あの女子たちが何かを企んでいるにせよ、少なくとも死者が出ることはあるまい。

 今の時雨たちにはそんな些末な企みに目を向けている余裕などはないのだ。もっと強大で残忍な敵がいる。外からウロボロスの襲撃があるかもしれない以上、常に注意を怠るわけにはいかない。


「凛音ちゃん、昨日のこと柊さんに聞いたよ……大丈夫だった?」

「勿論なのだ。リオンはちょっとやそっとじゃくじけない強靭なメタルストマックを持っているのだからな」

「それだと鉄の胃だよ……強靭な精神って意味なら、せめてメタルスピリットじゃないかなぁ」

「でもキズナ、リオンの胃は鉄でも消化できるらしいのだぞ?」

「そ、そうなの? それはすごいね……」


 脇目に凛音のことを伺うが、どうやら特別気に病んでいる様子もない。この様子なら彼女の心の傷の修復は時間が解決してくれることだろう。


「ねえ凛音ちゃん、私、何があっても凛音ちゃんの友達だからね」

「……ありがとうなのだ」

「私だけじゃないよ。レジスタンスの皆も、それに燎さんも。皆、凛音ちゃんのこと大切な友達だって思ってくれているよ」


 勘のいい紲のことである。凛音の心の病みを感じ取って、そんな彼女の心の傍に寄り添ってあげていた。

 そうだ。凛音にはレジスタンス以外にも真に友達と呼べる関係の存在がいるのである。


「そうっすよ~凛音センパイ。というか凛音センパイは贅沢なんですよぅ。あたしなんて、ついこの前まで友達なんて一人もいなかったんですからね。デイダラボッチの極みだったんですから。もういっそのこと、完全に極めてしまおうかと考えたくらいでした」

「リオンは最初からルルの友達だったぞ」

「……そうやって真正直に言われると、こう照れるものがありますね」

「友達という関係に意味を見出しても無意味。人間関係はそんな曖昧な言葉で表現できるほど単純なものではないもの。智略や見識、妥協があって、初めて人間関係は関係として成立するの」

「燎さん、それは消極的過ぎるよ……」

「そもそも友達という言葉の定義からして曖昧だもの。友達という概念が、志を共にする同等の相手のことを示すなら、そもそも天文学的な確率で友達という関係は成立しえない。何故なら、人間はそもそも同じ土俵に立つことがないんだもの。個人個人に特有の価値観があり、個人は詮衡せんこうされし役割として隔絶されている……同じ物差しで測ることが出来ない以上、同等という認識自体が間違っている」

「燎センパイ、そんな哲学はどうでもいいんですよ。友達と言うのはですね、理論では語りえない感情論的な物なんです。まあ、フレンドシップを極めたあたしでもなければ、この友情の神髄には辿り着けないでしょうけど」

「さっきデイダラボッチを極めたとか言っていた奴が良く言うぜ」

「和馬センパーイ、ガールズトークは男子禁制なんですよぉ? そんなことも知らないんすかぁ?」

「なんだろうな……そこはかとなく腹が立つぜ」

 

 まあ今は凛音のことは紲たちに任せておいていいだろう。あの様子ならば凛音が昨晩のことを思い返し感傷に浸る暇すら与えられなそうだ。


「最近凛音たちのことで手いっぱいだったが。他のことはどうなっている」

「他のこと?」

「ジオフロントのことや、他にも色々解らないことがあるだろ」

「それに関しては昨日、皇指令から伝達がありました」


 泉澄は何やらいくつかのファイルを展開しながら介入してくる。


「まずジオフロントの再興に関することですが。予定よりも早く復旧は進んでいます。おそらくあと半月以内に元の軍需機関は復活するとのことでした」

「その様子だと、M&C社からの物資支援は無事受けられているの?」

「はい。防衛省は洋上、航空の斥候を未だ強固な警戒網の下行っているようですが、潜水艦の察知までは手が及んでいないようです。現在は、バージニア級原子力潜水艦三隻にまで数を減らし、物資の運搬を行っています」


 防衛省に察知されないことも重要だが、いつ外とのラインを完全に阻まれてしまうか解らない以上迅速な復旧が必要なのだ。


「なお現状、ジオフロントではA.A.の機構をモデルに二足歩行型無人兵器の開発を推進しています」

「二足歩行兵器? 軍事力の増強のためか」

「はい。度重なる強襲の末、我々レジスタンスはもはや防衛省に匹敵することなど到底できないほどの軍事力にまで追い立てられてしまいましたから。人員的な戦力の確保が望めない以上、機械に頼ることしかできないのです」


 今の状況を示すならば四面楚歌と言ったところだろう。本拠点の位置を特定されいつ強襲を掛けられるかもわからない情勢。

 窮地に立たされているのは火を見るよりも明らかだ。もし再度襲撃を仕掛けられたのならば孤立無援な戦いになるだろう。

 であるからして今、敵がこちらの様子見をしている間に可能な限りの戦力増強を試みなければならないわけだ。


「A.A.をモデルにと言っても、マシン知識なんて誰が有していたの?」

「大型歩行兵器の専門家はレジスタンスにはいませんが、構造データだけならば以前取得しているのです。時雨様が仕入れたデータです」

「ああなるほど、もしやそれは試作機のことですか?」

「はい、ネイ様の仰る通りです」

「何の話だ?」


 心当たりがなく問いかける。ネイが知っているということは時雨も知っていて然るべきことだろうか。


「唯奈様奪還作戦の際に、レッドシェルター突破のために時雨様が用いたA.A.の試作機ですよ。あの時、確かに試作機の構造データは取得していましたね。しかし、動力源はどうなっているのですか? A.A.は電力で稼働しているわけではないはずですが」

「それに関しては、防衛省が廃棄していたA.A.の旧式コアを用いています。防衛省がアウターエリアの核廃棄場に不要になったパーツを廃棄していることは解っていましたので」

「さっきから何の話をしているんだ。動力源? コア?」

「アンタそんなことも知らないの? ユニティ・コア。リミテッドの自立駆動型無人機には、全てこのインプラントが埋め込まれてる。U.I.F.のアーマーにもね」


 ユニティ・コア。記憶に新しい言葉だ。確かユニティ・ディスターバーの効果が発揮する対象物であったか。

 疑問の色を顔に張り付けた時雨を見て唯奈は呆れたようにため息をついた。


「リミテッドの無人機つまり探査ドローンや警備アンドロイド……もちろんA.A.も、全て独立した人工知能で行動しているわけじゃない。内部に埋め込まれたインプラントであるユニティ・コアが司令塔として、全ての機体に命令を送信してるのよ」

「つまりそのユニティ・コアがなければA.A.もアンドロイドも機能しないということか」

「そ。逆説的に言えば、ユニティ・コアが機能している以上は、私たちの介入は不可能と言うこと。外部からハッキングを仕掛けてもユニティ・コアの展開するセキュリティに弾かれる。前も言ったでしょ。ユニティ・ディスターバーはそのユニティ・コアの機能を不全にさせるEMPを発するわけ。U.I.F.やA.A.が行動不能に陥るのはそういう原理」


 A.A.の動力源などこれまで考えたこともなかったが。つまりはそのユニティ・コアがリミテッドの警備状況の均衡を保っているということか。

 そしてそのユニティ・コアをレジスタンスもまた用いているということ。ジオフロントの警備体制増強のために配備する二足歩行無人機に搭載し、動力源とするということだろう。


「しかし改めて考えてみると危険なんじゃないか」


 ユニティ・コアは防衛省がA.A.を操るためのデバイスだ。そんなものをこちらの軍事に転用して問題はないのか。


「時雨の危惧は解るわ。確かにそのユニティ・コアを用いることは、敵の介入を許す要因になりかねない……でも棗のことだから、きっと対応策は用意しているはずよ」

「はい。今回ユニティ・コアを用いる理由はあくまでも二足歩行無人機の動力源確保ですので。通信命令機能は全てシャットアウトしています」

「まあ敵の兵器を使うわけだし、必要以上にセキュリティ掛けまくってるでしょうけどね。発信機能とかあったら問題だし」


 不安感は拭えないがA.A.に拮抗しうる軍事兵器がレジスタンスに加わるのは心強い。

 棗たちが警戒を怠ることはないであろうし、ユニティ・コアが原因で危険にさらされることはおそらくないだろう。


「次に、ジオフロント格納施設に存在していた未確認の機体に関してですが」

「キメラのことか」

「はい、倉嶋禍殃くらしまかおうが残していったA.A.です。あの機械構造は根源的に既存の軍用機とは異なるようで、未だに稼動すら出来ていないようですね」

「謎多き機体ですからねえ。何ゆえに倉嶋禍殃があれを放置したのかも、私たちには解りかねていますから」

「倉嶋禍殃と言えば、消息は掴めたの?」

「未だ何も。アイドレーターには元々複数の拠点はありませんでしたので。倉嶋禍殃がどこに潜伏しているのかも全く分からないのが現状です。僕に知らされていなかっただけ、なのかもしれませんが」


 アイドレーターを発足しノヴァを神の遣いとまで崇めた倉嶋禍殃。彼が何を目的としてあのような暴動を企てたのかは解らない。

 なんとなく彼が狂っているだけであるとも思えなかった。何か明確な目的意識を持ってあの暴動に乗り出したのではないかとそう踏んでいる。

 

「何であれ、倉嶋禍殃がこのまま何もせずになりを潜めているとも思えませんね。また極悪非道なことを画策している可能性もあります。警戒は十分に怠らない方がいいでしょう」


 ネイがいうように彼のひそんでいる場所は未知数だ。何も手がかりのない状況に着手することは、闇の中で何かを手繰り寄せるようなものだ。

 闇を照らす光源が顕れない以上は、目先の課題を片づける方が得策と言えよう。すなわち防衛省とウロボロスに関する問題だ。


「次は防衛省に関することですが……」


 表情から意図していることを読んだのだろう。泉澄は表情をわずかに改め話題を転換する。


「未だ、明確な動きは見せていません」

「そろそろ蹶起けっきしてもいい頃あいだと思うけれど……」

「慎重であるのか、あるいは状況を楽観視しているだけであるのか。もしくは、レジスタンスが弱っているこの好機を好機と見極められない阿呆であるのか。いささか判断しかねますね」

「いずれにせよ防衛省が動いていない間は、私たちも防衛網の増強に専念できる。事実連中が私たちの殲滅に乗り出したが最後、きっと私たちが全滅するまで闘争は収まらないでしょうしね」


 防衛省が何を目論んでいるのかは知らないが、猶予はもうほとんど残されていないと踏んで然るべきだろう。

 その猶予が防衛省によって与えられたものだということが気掛かりだが、もはや憂慮の余地などは存在しない。敵から塩を贈られているのだとしてもその塩を舐めるしかないのだ。


「ウロボロスについては、私が棗から報告を受けているわ」

「俺たちに火急の指示が飛んでいないことを鑑みると、少なくとも状況が悪化していることはないんだよな」

「ええ。前にシエナに見せてもらった太平洋一部の反応。あれが数値上では広がっている様子はないみたい」


 つまり炭素やケイ素を素材とした自己増殖は鳴りを潜めているということ。


「海中のナノマシン濃度が極端に増加した様子もないから、水面下で増殖が侵攻しているということもないみたい。勿論、地中に進出している可能性もね」

「そのことから考えると、やはり防衛省はウロボロスに関して全くの放任主義であるというわけではないようですね」

「何かしらの抑制が生じていることは明らかだな」


 デルタサイトの効能が機能しないと解って一時期は世界の破滅すら危惧したわけだが。

 防衛省もウロボロスが野に放たれた際の予防策は考案していたらしい。いかなる手段を用いて抑制しているのかは解らないが。


「LOTUSによる制御ってところかしらね」

「おそらくはノアズ・アークに事前にウロボロスの統制信号を送信していたのでしょう。それ故に、ウロボロスは事実上、完全に鎖から解き放たれていたわけではなかったということ。見えない鎖に枷を掛けられていたのですね」

「でも、これで安心できるわけではないわ。佐伯・J・ロバートソンが省長の座に就いた以上、防衛省がどんな政策を推してくるかは解らないもの。もしかすればウロボロスをもって台場そのものを抹消してくるかもしれない」


 実際に台場が抹消されかねない状況を作った彼である。十分にあり得ることだろう。


「報告は以上です。補足することがあるとすれば……伊集院さんの言葉でしょうか」

「伊集院の言葉? 何に関することだ?」

「実は、伊集院さんから時雨様へ伝言を預かっているのです。どうやらレジスタンス加入前の峨朗一家に関することだとか……」


 もしやアニエス・ロジェに関する新たなる情報だろうか。昨晩の通話の時に話し忘れていたことでもあったのかもしれない。

 真那に目配せをして泉澄に伝言の内容を促す。


「では、伝言の内容をそのまま申し上げますね……『烏川、クビレの良しあしは女体の全体的なバランスによって決まるのだ。肉付き度合いや、ましてやウエストの細さなどで決まるのではない。そもそも女体の魅力はグラマーであるか否かで決まるという固定観念があるが、実態はそうであるとは言えん。どれだけ女体の象徴たる部位に豊満な肉がついているとしても、クビレがなければそれはただの肉塊にしか成り得んのだ。女体の魅力は肉の大小では語れん。大事なことはその起伏なのだ。つまりその起伏さえしっかりあれば、女体には根源的に魅力が生まれる。故に、アメリカンな体型であってもその逆であっても、クビレがあれば問題はないということだ。すなわち私は、クビレこそが女体の神秘だと考える』」

「そんな熱弁されても、反応しがたいですね」

「はぁ何故僕はこんな伝達を……」


 彼女の生真面目さゆえに伝言であったのだろうが、泉澄は遠い目をして窓の外を俯瞰していた。


「聞くまでもないと思うが、他に伝言は何もないか」

「はい、以上です」

「今の伝言のどこに、峨朗一家に関する情報があったのかしら」


 真那は思案顔で冷静に分析をしていた。いくら考えても有力な情報は導きだせない気がするが。

 

「アニエス・ロジェ、ね……」

「アニエスが死去した事故について、何か分かればいいんだけどな」

「死去した日付とクレアさんが持っていた写真の撮影日が、一致していると聞きましたが……」

「ああ、一年越しだが。偶然の一致にしては、確率があまりにも低すぎるし、どうしてどっちも5月16日なんだかな」


 泉澄や唯奈たちにも昨晩知りえた情報は伝達していた。時雨や真那だけでは真相を導き出しえないと判断したが故である。彼女たちが時雨以上に情報を手にしていることもなく、結局八方塞状態に陥っていた。


「ハゲダルマが防衛省に内通していることと、私たちが追っている謎に直接的な関係があるかは解らない。もしかしたら全く無関係なのかもしれない。でも関係のある可能性が少しでもあるのだから、火急速やかな解決が必要とされるわけ」

「この過干渉が邪推につながる可能性も無くはありませんがね。私たちが行っていること、それは善意でも何でもありませんから。幸正様、そしてクレア様が築いてきた仮初の安寧に軋轢を生もうとしている……一生舗装など出来ないかもしれない。亀裂を」


 ネイの懸念は皆の心中に拭い去れない可能性として色濃く染みついている物だろう。

 だがもはや誰しも目を背けることはしない。たとえこの謎を解明することによって、誰かが不幸になるのだとしても。

 もはや目を反らすことが出来る場所になど立っていないのだ。幸正が何かを目論んでいるのならば、それを未然に防がねばならない。

 たとえ、それによって凛音の心の傷を、更に深く抉ることになるのだとしても――。



 ◇



 結局その日一日、特に不安を駆りたてられるような事態に発展することはなかった。凛音の心に植え付けられた火種がそれが発火することも、誰かに薪をくべられることもなく。

 昨日あんなことがあったのだ。それ故に正直狐に抓まれた気分であった。


「シグレ、提案があるのだ」


 何も起こらないことに対する君の悪さを肌で感じつつ帰宅していると。凛音はモノレールの停留所にて車体が回ってくるのを待ちながら裾を引っ張ってきた。


「提案?」

「あの遊園地に、リオンはそろそろ行きたいのだ」


 凛音が見据えている先には台場海浜フロートが見える。


「約束しただろ? あの時我慢したから、リオンはクレアを連れてあそこに行ってもいいのだろ?」

「そう言えばそんな約束したな。だが残念ながらそれは無理だ」

「んな……何故なのだっ」

「あれを見てみろ」


 耳を逆立てて今にも抗議してきそうな凛音を制す。彼女の頭を掴み、視線を再度台場海浜フロートへと向けさせた。

 先日までは鮮やかな色彩の光を撒き散らしていた大観覧車。それは寝静まったように鳴りを潜めている。回転している様子もなく機能が停止していることは明白だ。

 ここからでは工場群が遮蔽物になっていて定かではないが他のアトラクションのいくつかも機能していないことだろう。


「この間の停電現象。あれが収まった後いくつか問題が起きた」

「どういうことなのだ?」

「台場全域への電力供給機能は復活したが、長時間それがすべて停滞していたことには変わりがない。町の主要機能全部が止まっていたわけだから、情報統合設備とかも不全になっていた」

「それによって様々な副次的被害が勃発し、台場セキュリティの不調が続出しました。それ故に電力の供給をセキュリティ管制塔に多く回しているのです。結果、台場の運営に不要な設備への電力供給が塞き止められました。中でも無駄に電力を消耗する台場海浜フロートを筆頭とした娯楽設備ですね」

「あんまりなのだぁ……」


 凛音はその大きな耳を萎れさせ絶望に打ちひしがれたような顔をする。遊園地に行けなくなったくらいでそこまで消沈することもないと思うが楽しみにしていたのかもしれない。

 約束した手前落ち込む彼女の姿を見ているのは少々遺憾に感じなくもない。


「セキュリティの不備がなくなれば、供給も再開される」

「仕方ないのだな」


 そんな懸案を存外素直に納得して話を打ち切った。そんな彼女の反応に苦慮しつつも、モノレールが到着してしまったため話題をぶり返すこともままならない。

 モノレールは桟橋を越え学生寮のある地点へと差し掛かる。停留所に降り立ち、寒空の下長居するのは愚考であったためそのまま自室へと急いだ。


「電気が消えているのだ」


 自室の扉に手を掛けた凛音はそこで動きを止める。曇り戸越しに光が一切漏れ出していないことに気が付いたのだろう。


「出かけているのか」

「だが、鍵はかかっておらぬのだぞ」


 そう応じられ半信半疑になりながらもノブに手をかける。確かに施錠されている様子はない。


「あの慎重なクレア様が鍵の閉め忘れなどするでしょうか……」

「気が抜けている所はあるがな」

「クレアは鍵の閉め忘れはしないのだ。リオンはいっつもクレアに注意されているからな」


 そもそもクレアが外出などめったにある話ではない。彼女は幸正によって外出を禁じられているし、幸正に強迫観念にすら似た畏敬を抱いている彼女がその言いつけを破るとは思えない。

 外出することがあるとすればその幸正に呼び出された時くらいだろう。


「靴は……あるのだ」


 音を立てないようにしてドアを開けた凛音。薄暗い玄関にはクレアの靴がない。廊下の先を見据えても電気の類が付けられている様子は一切なかった。


「私たちが帰宅する時間帯は解っているはずですが。外出するならば、あのクレア様のことです。連絡の一つは寄越すものかと思いますが」


 凛音のその言葉に胸のざわめきを禁じ得ない。何となく、よからぬことが起きているのではないかとそんな憶測が頭の中に駆け巡る。

 さまざまな思考が脳内に駆け巡るのを感じながら靴を脱いで室内に上がった。ダイニングにまで達すると、暗闇のなか手探りで蛍光灯のスイッチに触れる。


「!」


 照らし出され明らかになりその異常性に戦慄を覚えた。

 部屋中が荒らされている。家具が至る所に散乱し見るも無残な光景が広がっていた。書類が床全体に撒き散らされ椅子が横倒しになっている。

 クレアが帰宅に備えて沸いていたのか、横転した電気ケトルから溢れだした水がカーペットに浸透していた。

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