第161話

「時雨さん、聞こえていますか?」


 ビジュアライザーからクレアの声が聞こえてきた。


「どうした?」

「今凛音さんと一緒にいますか?」

「もしかして部屋にいないのか?」


 てっきり朝帰宅したまま部屋に籠っている物かと思っていたが。どうやらそう言うわけではないらしい。


「一時間ほど前にどこかに出かけてしまって……もう暗いので少し心配なのです」

「解った、俺の方で探しておく。クレアは心配しなくていい」

「お願いしますなのです」


 男子寮へと向かっていた足を翻し闇に飲み込まれている台場を見渡す。一体どこに出かけたと言うのか。


「ネイ」

「場所は特定できています。キャンパスですね」

「キャンパス? どうしてそんなところに」

「それに関しては何とも。ただ、屋上にいることは確かです」


 ネイのその言葉に半信半疑になりながらも、導かれるようにしてモノレールに乗り込んだ。

 数分でモノレールは台場公園に辿り着きキャンパスに足を踏み入れる。施錠はされていないようで特にサイバーダクトなどをする必要もなかった。まあそもそもキャンパスの正門にセキュリティなど掛けられているはずもないため、解除することすらできないのだが。

 屋上に出ると冷たい風が全身に吹き付ける。体の芯まで凍えさせるような冷気に耐えながら屋上を見渡し凛音の姿を探した。すぐに彼女の姿が視界に収まる。彼女は給水塔の上に膝を抱えて座っていた。


「何しているんだ」

「……シグレか、シグレこそ、こんな場所で何をしておるのだ?」


 彼女は給水塔の上に坐した体勢のまま、こちらを一瞥するまでもなく問い返してくる。


「探しに来た。クレアが心配している」

「それは、クレアに悪いことをしたのだ……」


 そう応じつつも彼女は立ち上がらない。屋上から見える台場の光景をじっと俯瞰している。その姿にどこか不安を駆りたてられる。

 無言で給水塔に梯子を経由してのぼる。そうして彼女の元にまで歩み寄るとその肩に乱雑ながらもコートを掛けた。


「リオンは寒くないのだ」

「それでもです。寒さは感じなくても心まで冷え切ってしまいますよ」

「だが……それではシグレが寒くなるのだ」

「そう思ってくれるなら、とりあえずここから降りて帰途を辿る努力をしてほしいものだな」


 ため息とともに凛音の脇に腰を下ろした。

 このキャンパスで最も高い位置にある屋上の給水塔上となれば、台場全域が一望できる。

 見渡せるパノラマ。台場の工業地帯はあたかも生きているかのように光を瞬かせている。工場の機械が稼働する重低音が風に乗って聞こえてきていた。


「それで、何をされていたのですか、このような寂れた場所で」

「何か目的があったわけではないのだ……ただ、ここから見える風景をもう一度見てみたかったのだ」


 彼女は普段の快活さを感じさせないしんみりとした面持ちで呟いた。

 台場を見下ろす彼女の大きな瞳は工場から漏れる光を反射して揺れている。それは彼女の内心を暗示しているようにも思えて。

 彼女はここから見渡せる風景に何を感じているのだろう。後悔か懺悔か、一抹の寂寥感か。少なくとも彼女が気に病んでいるのは、今朝ゼミ生達に異彩の目を向けられたからで間違いはない。


「リオンを見る皆の目が、冷たかったのだ」


 彼女は歯の先から滴る雫のようにはかなくもろく紡ぎだす。


「皆が、凛音を責めるような目をしていたのだ」

「気のせいだ」

「そうであればよかったのだがな……リオンはそう言う目で見られることをしてきたのだ」


 気休めにしかならないと思いつつ発した言葉。気休めにすらなりえない。


「リオンは確かにみんなのために戦っているのだ。だが、リオンがしていることは、皆の生活を壊してしまうことにもつながっている……そうだろ?」


 その問いに返せない。確かにその通りだ。レジスタンスがレジスタンスである限り防衛省はこちらを迫害しようとする。

 結果レジスタンスがいる場所にその防衛省の制裁が降りかかる。リミテッドをより良きものにするつもりで、その実災厄を持ってくる疫病神なのかもしれない。


「そんなことは最初から解っていたのだ。解ってはいたがそれでも……胸が苦しいのだ。リオンは、このガッコーの皆と一緒にいることすら許されぬのか?」

「…………」

「リオンは、ここにいてはならぬのかな」


 哀惜の色をその幼き顔に滲ませて彼女は無限に広がる光景に視線を落としている。

 思えば、ここからの景色を見るのは何度目だろうか。前回は確か月瑠に遭遇しリミテッドを変えているなどという話をしたのである。場所は違ったが同じ台場からリミテッドの変わりゆく姿を鎖世と共に見たこともあった。

 レジスタンスの活動がどういう形でリミテッドに影響を及ぼし行くのかは解らない。現在進行形でどう影響を及ぼしているのか。

 総合的に見て正しい行動ではあるのだろうが、それによって排斥されし者たちも少なからずいるのではなかろうか。

 それは何もこの台場に関わる人間に限った話ではない。改革を企てることで普通との間にさらなる隔絶が生まれてしまう、レジスタンスの人間に。

 心の奥底で普通に憧れている凛音のような人間にとって、果たしてレジスタンスの行動は正しいものと言えるのだろうか。防衛省を正さぬ限り本当の意味での安寧は訪れない。それを考えれば愚問なのだろうが。


「解ってるじゃないの」


 黙秘していた時雨の代わりに凛音の呟きに応じたのは、あらぬ人物であった。

 はっとして振り返ると屋上には給水塔を見上げて立っている女子学生たちの姿がいくつかある。彼女たちの顔触れには記憶があった。凛音に親しく接していた学生たちである。


「おぬしら……」

「本当に来るなんてね、バカなの?」


 口ぶりからして、もしや凛音をこの場所に呼び出したのはこの学生たちであるのか。彼女たちは時雨の存在など気にも止めず凛音に声を投げかけ続ける。


「ま、バカ正直に来てくれたぶん、こっちから出向く手間は省けたからいいけどね」


 どこか偉そうにそう述べる彼女たちの声音はどこか刺々しい。少なくとも日常的に凛音のことを愛でていた者たちの発言であるとは到底思えない。

 不吉な予感が隙間風のように吹き込んでくるのを肌で感じながら、少女たちのことを黙って見据える。


「リオンに、何のようなのだ?」

「別に? ちょっと気に入らないから、説教してやろうと思っただけ」

「そんな場所に立って高みの見物? アンタ何様? 降りろよ」

「……解ったのだ」


 凛音は特に言い返すこともなく言葉少なげにその場に立ち上がる。給水塔の縁から身を投げ身軽に屋上に降り立った。


「要件はさっきメールで言った通り。アンタ、何様?」

「アンタ、レジスタンスなんしょ? で、あたしたちの場所を滅茶苦茶にしてんでしょ?」

「…………」

「黙ってはぐらかそうなんて、甘っちょろいこと考えてんじゃねーよ」


 途端に声に怒気を孕ませて女子学生は凛音に詰め寄る。彼女たちは凛音を囲むように距離を縮め、先ほどから率先して発言している人物が凛音の胸ぐらを鷲掴む。


「おい……何で止める」

「いいですから、今は手を出さないでください」


 暴力沙汰になりそうであったために立ち上がった時雨をネイが制した。非難の目を向けるがどうやら状況を楽しんでいるわけではいないようで。

 至極真面目くさった目で、ネイは凛音とそれを取り巻く学生たちのことを俯瞰している。

 彼女の意図は読めなかったが凛音が助けを求めて来ているわけでもない。勝手な介入は避けるべきかと判断し、立ち上がったまま彼女たちのことを見下ろす。


「なんとか喋れっての」

「ごめんなさい、なのだ」

「あ? 聞こえねーよ」

「ごめんなさいなのだ」

「謝ってどうなると思ってんの? 甘ったれんな」


 女子学生は凛音の鼻先にまで凄みを利かせた顔を接近させる。対して凛音は抵抗する様子も見せずただ成されるがままでいた。


「アンタたちが何をやってきたか、解ってんの?」

「レジスタンスだとか解放軍だとか。正直、そう言うのウチらからしたら迷惑なわけ。別に今の環境で迷惑していないって言うか? 逆にアンタらが変に騒ぎ立てるせいで、ウチら迷惑してるんだっつーの、ふざけんなよマジ」

「…………」

「おぃ聞こえてんのかァ!?」

「リオンは、リオンは……」

「その自分のことリオンとか言うのマジきもいし? そうやってぶりっこしてれば可愛いと思ってんの? ヒャハッ、マジキモ。つかマジキチ?」

「沙江川、それは今関係ないっしょ」

「そうだったわ。てかそんなのどーでもいいし? まああたしら的に言わせてもらえればさぁ、アンタら超目障りなわけ。あたしらの生活ぶち壊してるだけっつぅか? 何様マジで」

「何と申し上げますか、非常にボキャブラリーの貧しい罵倒ですね」


 凛音を囲って言いたい放題文句を垂れる女子学生たちを見て、ネイが率直な感想を漏らす。その喋り方は茶化すようではあったが、彼女たちに向けられた視線には嫌悪にも似た侮蔑が感じられる。


「解ってんの? 迷惑なの、メ、イ、ワ、ク」

「愚連隊ごっこしたいならよそでやれって言うか? ウチらのエリアでそう言うのマジ勘弁、ホント困るっつか」

「だが、リオンは……」

「だからきもいって言ってんだろさっきからリオンリオンってさぁっ!」

「っ……!」


 女子学生は凛音のことを突き飛ばし冷たい屋上の床に叩き付ける。凛音にとってその衝撃など取るに足らない痛みであろうが、彼女の歪んだ顔を窺えばそれ以上の痛みに苛まされていることは明白だ。

 些末な女子学生たちの罵倒、批難。取るに足らない下らないその言葉も、今の凛音にとっては最大級の痛みとなりえる。


「あーもうウゼ、ホント死んでよマジ。あたしらの環境壊すなよホント」

「迷惑だよねまじで。マジ意味不。ウチらのため? ばっかじゃないの? ウチらにとってはマジでありがた迷惑って言うか? いやありがた要素ないし? アンタ生きてる意味ないって言うか?」

「…………」

「図星過ぎて何も言い返せないって感じ? マジだっせー。人様に迷惑かけない人生送るべきだよねホント。死んでやり直せば?」

「…………」

「あーもうなんか飽きてきたわ。まじどーでもいいって言うか? もうヤっちゃわね?」

「ま、そうすっか。ケジメはつけさせないといけないしね」


 その発言を耳に流石に無干渉を貫き続けるわけにも行かず。ネイも止めることはなく数秒足らずで屋上に着地し学生たちに肉薄する。

 そうして今にも凛音の顔面に叩きこまれようとしていた爪先を、間髪入れずに手のひらで受け止める。危ぶまれることもなくその蹴撃の勢いを相殺した。


「流石に暴力はいけないんじゃないか」

「ウェッ、キッショ! 離せっての!」


 足首をひねり叩き伏せることも容易くはあったが言われたように手を離す。

 嫌悪感にその顔に歪めて時雨を見下ろす学生たち。時雨はため息と共に立ち上がると、膝をついたままであった凛音のフードを掴んだ。


「帰るぞ」

「……ああ、解ったのだ」

「は? 待てし、何勝手に帰ろうとしてんの?」


 手首をきつく掴まれ踵を返し損ねる。


「放課後学園から帰るのに、許可を取らなければいけない校則なんてあったか」

「何言ってんのコイツきっも」

「……どいてくれないか」

「どくわけないし? ソイツにウチらなりのけじめをつけなきゃ帰れないし?」

「つかあれでしょ、コイツもソイツと同じでレジスタンスのやつっしょ? 一緒にシバけばよくね?」

「それ名案、とっちめちゃえばいいんじゃね?」

「……抗弁の余地はなさそうだな」


 極力問題には発展させたくなかったがこの際致し方あるまい。暴力沙汰にしなければまあ大丈夫だろう。そう判断し牽制目的で女子学生たちに冷ややかな目線を向ける。

 自分なりに凄みを利かせたこともあってか、彼女たちは臆したように後ずさり手首を離していた。


「っ、そんなんでビビると思ってんじゃねーし!」


 弱みを見せたくはなかったのか沙江川と呼ばれていた学生は脚に爪先を叩きこんでくる。所詮は女子高生の蹴りで痛みすら感じないほどの貧弱な蹴撃であった。


「シグレは関係ないのだ……」

「ふーん、それならアンタが殴られなさいよ、あ?」

「……解ったのだ」


 付き合う必要などないというのに、凛音は素直に彼女たちの前に身を乗り出した。

 凛音が何を考え自ら理不尽な暴力を受けに行ったのかは解らない。彼女の後姿からは介入するなという気迫が感じられた。


「待つのでござる」


 何者かが凛音と女子たちの間に割り込む。

 第三統合学園の学生であることを示す制服を身にまとったその男は、あたかも凛音を庇うように立ち塞がる。


「凛音殿に手を上げることは、小生が断じて許しませんぞ」

「あ?」

「っ……しょ、小生、貴殿らのような器の小さき愚者の睨みなど、何も怖くはないのでござる! 件のババァのアブソリュートゼロな悪魔の蛇睨みに比べれば、逆に温かいのでござるよ」

「何コイツまじキモすぎなんだけど」


 臆しながらも凛然と立ち塞がる明智。普段は凛音に粘質に付き纏い、彼女のストーカーじみた言動を取る彼が。今だけはその背中に後光が差して見える。己が天命を果たすかのように、彼は全身全霊をもって凛音を排斥しようとする目前の脅威に立ち塞がっていた。


「どけよヲタク」

「ヲタクではないのでござる、小生は凛音殿にのみ忠誠を誓いし賢者なのでござるよ! つまりは、C.C.Rionを極めたマニアなのでござるっ」

「いいからうせろスネ◯プヘアー」

「どれだけ罵倒されようとも、小生、凛音殿を排斥しようとする輩を前に、背を向けることだけはしないでござる」

「どけ」

「どかないでござる」

「何コイツまじで気持ち悪いんだけど……」


 両の腕を広々と掲げ彼は絶壁と化した。眉間に限界までしわを寄せまぶたを見開き目を血走らせ。歯を食いしばり何故か涙を流しながら、彼は鬼気迫った形相で立ち塞がっていた。


「ここは、通さないのでござるッ」

「死ねキモいッ!」

「ぐふっ!?」


 自身を掻き抱いておぞましい物でも見るように明智を見ていた女子。彼女は我慢が出来なくなったように明智の顔面を蹴った。ゴキュッという嫌な音が寒空に反響するものの明智は一寸たりとも動かない。


「ふん……小生、日ごろからババァの踵の感触をこの身をもって覚えさせられてきたのでござる。その程度の奇襲、止まって見えるのでござるよ」


 明智は学生の靴を間一髪掲げた手のひらで受け止めていた。

 が、どうやら衝撃を殺しきれていなかったようで爪先は彼の頬に食い込んでいる。眼鏡には亀裂が走り唇からは赤い血が伝う。


「聞くがいいでござるっ」


 彼は鼻から鮮血を撒き散らしながらその足を振り払った。そうして四肢を金剛力士像のように構えさせる。


「貴殿らは、一体何の権限があって凛音殿にその手を上げるのでござるか」

「は? 権限? 何言ってんの? そんなの必要ねえし。まじうざいから教育してんの」

「ふ……愚者らしい、愚かな発言だとお見受けするでござるな」

「は?」

「小生、最初から貴殿らの冒涜を陰から伺っていたのでござる。貴殿らは貴殿らの愚痴を述べたいだけ述べていたでござるが、その発言のすべてに正当性が見受けられなかったでござる」

「ござるござるマジきもい」

「貴殿らは凛音殿の行動が迷惑極まりないと申していたでござるが、だが小生に言わせてみれば、貴殿らの発言こそ他に迷惑を押し付けているのでござる。凛音殿を含む革命軍の行動が貴殿らにとって不利益を呼んでいるなどという論は、そもそも間違っているのでござるからな」


 明智は骨ばった顎から血を垂らしつつ割れた眼鏡を指先で押し上げた。

 その姿は、あたかも迷宮入りした事件の真相に辿り着いた名探偵のようで。どこか貫禄すら感じるほどの毅然さ。


「そもそもこの台場で起きた事件は、いずれも凛音殿たちが引き起こしたものではないのでござる」

「は? ふざけんな、ソイツが偽善者ぶって防衛省に反抗するから、あたしらマジメーワクしてんだよ」

「それこそが間違っているのでござるッ!」

「!?」

「凛音殿は、その諸悪の根源たる防衛省が目論む悪事を阻止したにすぎませんぞ。先日の停電現象もその前のノヴァ騒動も、全ては防衛省、そしてアイドレーターの引き起こしたことではないでござらぬか」


 ただのストーカーの割には中々に的確な着眼点である。


「そんなの、あたしはしらねえし」

「それが迷惑の押しつけだと言っているのでござる。貴殿らは日々の鬱憤を凛音殿にぶつけ解消しているだけなのでござる。ふ……小生に言わせれば、凛音殿よりもよっぽど貴殿らの方がクソなのでござるよ」

「この……ッ」

「であるならばっ、貴殿らは一体、何を理由に凛音殿を排斥するか!? 己が鬱憤を解消するために、誤った論を押し付けているだけにはござらぬか!?」

「っ……」

「貴殿らはただのエゴイスト。我儘で傲慢で不遜なのでござる。醜い限りでござるな」

「そーだそーだ。ちなみに現時点で『マジ』と発言した回数は十六回、『きもい』が六回になります。まずは語彙を増やしてから出直してくるべきですね」


 何故かネイが明智に便乗していた。やはり状況を楽しんでいるだけかもしれない。


「マジでうざッ、消えろキモい!」

「『マジ』が十七、『きもい』が七回に更新」

「しねっ」

「同じ手は通用しないのでござる」

「え――きゃぁっ!?」


 衝動的に繰り出された爪先を明智は流動的に転身し掲げた手で受け流す。そのまま蹴撃の勢いを減衰させることなく女子学生をその場に横転させた。


「おお……キレッキレな合気道ですね」

「小生、ババァ対策に合気道を極めている道中にござる。最大の壁たるババァをいなすことが出来ずに、凛音殿の元へはたどり着けないでござるからな」

「マジきも……もういい、コイツもボコればいい」


 転ばせられた女子は、地を後ずさるように這いながら明智との距離を空ける。それに代わるように他の女子たちが一斉に明智に蹴りかかった。


「ふ、合気道を嗜む小生に対し数を重ねたところで……いい痛いッ、痛いでござるッ!? か、関節はやめ――や、やめ! おねが……ひ、ひぎぃっ!?」


 明智の威厳などものの数秒で砕け散った。数の暴力にはかなわなかったようで、冬の寒空に情けのない悲鳴がこだまする。

 散々いたぶった挙句、女子学生たちは嫌悪感丸出しの顔で明智のことを睨んでいた。相手にするのもばかばかしいと踏んだのか、その視線は改めて凛音へと向けられる。


「あーまじ気持ち悪い。まあいいわ、邪魔もんは消えたし。じゃあさっさと教育始めるか」

「――凛音殿には、その汚指の一本たりとも、触れさせないでござる」


 再び明智は立ち塞がった。ぼろぼろの制服で青あざと腫れだらけの顔になり血まで吐きながらも。引くことを知らない。

 散々唯奈に痛めつけられながら、それでもなおその絶対的な牙城を崩そうとただひたむきにそれだけに努めてきた彼に、撤退の二文字はない。

 彼は凛音のためならば、たとえその身が朽ちようとも絶対なる障害となり続けることだろう。そんな覚悟まで感じさせる佇まいだ。


「……あーもうまじくだらな。帰るよ」

「え? 沙江川、いいの? 教育しなくて」

「目障りってか、マジきもいのいて不快だし、今日はもういいって言うか?」


 汚物でも見るような目で明智のことを睨んでいたが、彼女は逃げ出すように屋上からその姿を消した。他の女子学生たちも促されるようにして、屋内に入っていく。


「小生、天寿を全うしたのでござる」

「おぬし……」

「皆まで言わずとも解っているでござるよ」


 その場に膝をつき脱力した明智。凛音が心配そうな声を掛けるが、それを彼は背を向けたまま手を掲げて遮る。


「確かにこれまでの小生の凛音殿への接し方は、度が過ぎていたのかもしれないのでござる。であるが今、小生は確信したのでござる。凛音殿を護ること、そのために凛音殿の従者に成り、凛音殿にC.C.Rionをぶっかけ続けること……それこそが、小生の天命であったのでござる」

「その発言がなければ、あるいは恰好が付いたかもしれませんね」

「……であるが、」


 明智は時雨と凛音のことを顧みながら、今にも消え入りそうな声で口火を切る。


「今は、小生の出番はないようなのでござるな」


 空を仰ぎ、どこか達成感に満ちたその顔で一滴の雫を流しながら。彼は何かに深く感じ入るように呟いたのだった。


「――烏川殿、後は貴殿に任せるのでござる」

「は?」

「小生、所詮出来ることは凛音殿にぶっかけるか、この身を呈して物理的な迫害を防ぐことだけなのでござる。この状態では、その役割すら務まらないでござるからな」


 彼は煤けた手のひらを見つめながら、無力感に苛まされるような表情を浮かべていた。それでいてどこか誇り高くもあり。


「どちらにせよ、凛音殿のことを真の意味で護ることが出来るのは小生ではないのでござる」

「お前……」

「それでは後は任せたのでござるよ。凛音殿の、心の支えになってくれなのでござる」


 彼は眼鏡を押し上げそう言い切るなり時雨の肩を手に置いて踵を返した。振り返ることもせずにただ凛然として立ち去っていく。

 暗雲に飲まれていた空から月が顔を出す。闇を突き抜け差し込んだ月光は離れ行く彼の背中を照らしだした。あたかも彼を祝福するように。

 その骸骨のように細く貧弱な、それでいてどこか頼もしい背中に無意識的に感服していた。やがて彼は扉を開け屋内に身を潜める。


「気持ち悪くはありましたが、何故か称賛を送りたくなりますね。気持ち悪くはありましたが」

「そう言ってやるな。まあ日頃の行いが原因してるんだろうが」

「さてまあ時雨様、またあの女子高生たちが戻ってくる前に退散した方がよろしいのではないですか?」

「そうだな」

「…………」


 何も言葉を紡ぐわけでもなくただ立ち呆けている凛音。そんな彼女の肩を軽く叩いて歩かせる。

 こんな寒空の下、いつまでも留まっていれば身も心も冷え切ってしまう。今の凛音には休息が必要だった。


「おかえりなさいなのです」

「ただいまなのだ」

「? 何か、あったのです?」


 普段の敏活なる挨拶ではなかったためか訝しんだのだろう。クレアは不審そうに凛音のことを眺める。凛音は小さく『なんでもないのだ』と答えて彼女の脇を素通りした。

 クレアは困ったように顔を窺ってくる。それに対し何と伝えたものかと迷う。結局何かを伝えることが出来たわけでもなくその場は流れた。

 クレアが浴槽に湯を張ってくれていたようで凛音が先に入浴することになった。肉体的な疲労が蓄積していないにせよ、体を温めることはきっと心を落ち着かせることにも繋がる。


「そう、だったのですか……」


 彼女が入浴している間、クレアに事の顛末を話し聞かせた。

 大体予測は出来ていたようで、クレアは哀惜をその幼い顔に張り付けてバスルームの扉を見やる。その先にいるであろう凛音の気苦労を体感するように。


「でも……その学生さんたちも酷いのです」

「まあそうだな」

「だって凛音さんは、皆さんのために頑張って活動しているのです。それなのに、そんな恩を仇で返すようなことを……」

「明智の言う通り、アイツらはきっと日々の鬱憤を俺たちにぶつけているに過ぎない。ノヴァとか防衛省の策略とか。色々な出来事に翻弄され辟易しているのかもしれない。だが、そもそも俺たちは生きている土台が違う。俺たちの目線で物を語れと言っても無理な話なのかもしれないな」

「まあ、そうはいってもあそこまで腐った感性の人間が、果たして普通なのかどうかは定かではありませんがね」


 彼女たちが単なる八つ当たりで凛音を苛めていたことは明白だ。少なくとも革命運動を続けることを妨げる要因にはなりえない。

 それでも彼女たちの冒涜はきっと凛音の心を限界にまで傷つけた。いかなる肉体的な損傷を受けても、きっと凛音は今ほど疲弊することはないであろう。そう感じる。


「立ち直るのには、今しばし時間を要することでしょうね」

「今回の一件で、凛音は自分が連中とは違う環境に生きていることを、改めて痛感させられた。それは覆しようのない在り方だが……心得ておかなければいけなかったことではあるんだが」

「凛音さんは、学生という環境に未練を残してしまったのでしょうか……」

「生まれた環境も生きてきた環境も、凛音様は普通ではありませんでした。ですがそれ故に、その普通という物に過剰に憧れてしまうものなのです。人間だれしも自分の持ち合わせていないものに惹かれ固着するもの……その未練が大きければ大きいほど、現実を突き付けられた時の反動は大きくなる。であるならば、最初からその場所に愉悦など感じなければいい。とはいえ、そう思い通りにいかないのが人間の心という物なのです」


 私には甚だ理解しかねますがねとネイは肩を竦めて見せる。

 凛音はきっと学生生活に彼女なりの幸福を見出していたのだ。普通の同世代の人間と触れ合い、策略に翻弄されることもいがみ合いも何もないただ純粋な人間関係を築くことに愉しみを覚えてしまった。

 心のどこかで自分もまたこの輪の中に入っていけるのではないかと、そう思い込んでしまっていたのだろう。

 それ故に自分の置かれている環境が原因でこうしてその輪から疎外され、彼女はこの上ない苦悩に苛まされる結果となった。レジスタンスに所属する以上これは順当な結果と言えるだろう。卑屈な話だが。


「悲しい話なのです」

「凛音は孤独なわけじゃない。普通の生活は送れなくても闘争の渦の中で生きているんだとしても、凛音にはレジスタンスという居場所がある」

「くさいですよ、時雨様」

「そう言われるとは思っていたさ。それでもだ、レジスタンスは凛音にとって多分……」

「凛音さんも今は気が動転してしまっているだけなのだと思うのです。すぐにいつも通りの笑顔を取り戻してくれると思うのです」


 いつも通りの笑顔。それは果たして彼女の本当の表情なのだろうか。

 彼女が時折見せる悲壮感漂う哀愁の顔。あれを思い返すたびに、裏のないはずの凛音の本心が靄に隠れて見えなくなる。彼女の考えていることが解らなくなる。もしクレアがいうように、凛音がいつも通りの笑顔を取り戻したとしてそれは本当に彼女にとって良いことなのだろうか。

 凛音は色々と謎多き少女だ。彼女が実験体アナライトになった経緯も、彼女が記憶を失っている所以も何も解らない。

 真実は常に靄の中なのだ。否、靄というよりは金庫か。高度なセキュリティのかけられている金庫にその真実は閉ざされている。時雨にはその金庫を開けるための鍵がない。

 いや鍵がないわけではない。金庫を開けうるだけの情報という名の鍵はすでに手のひらの中にある。だが鍵を挿すための肝心の穴が見つからない。暗中模索とでも言ったところか。手探りで穴を探し見つけられずにいる。


「?」


 いや違う。介入すべき穴は最初から目の前にある。この少女こそが鍵穴だ。金庫そのものと言ってもいいかもしれない。この少女は時雨の知らない何かを知っている。


「クレア……アニエスについて教えてくれないか?」


 気づけば内心に蟠るその疑問点を問いとして紡ぎだしていた。彼女が答えることなどないと解っていながらも。


「時雨さんは……お母様のことについて調べているのです?」


 クレアの反応は予想していたものとは大分違っていた。

 普段の彼女ならば動揺し誤魔化そうとしていたことだろう。だが今の彼女はあたかもその問いかけをすることが解っていたかのように、冷静に分析をしてくる。


「調べていると言ったら、どうする」

「どうもしないのです。ごめんなさいなのです……私は、何も言えないのです」


 静かに彼女は目を反らした。予想とは違った反応ではあったが、結局クレアが示したものは拒絶。指先に触れかけていた鍵穴の感触がふとした拍子に離れてしまった。

 凛音の様子を見てくると言って姿を消したクレア。取り残されたような気分になりながらも、ベッドに腰をおろし何気なくフォトフレームを手に取った。

 額縁の内側には、変わらぬ峨朗一家の団欒が記録されている。よどみのない本当の意味でのまぶしいくらいの笑顔。それが凛音の今よりも幼い顔に咲いていた。彼女が今後、またこんな年相応な笑顔を浮かべることはあるのだろうか。


「……?」


 一方的に妹にじゃれついている姉の姿を微笑ましい気持ちで眺めているうちに、ふととある違和感を胸中に抱いた。

 写真の右下に刻まれている日付。それに頭の裏側が熱くなるような既視感を覚えさせられる。


「5月16日……この日付、どこかで」

「アニエス・ロジェが死去した原因の漏出事故。たしかあの日も5月16日であったはずです」


 それだ。どちらも5月16日なのだ。これは偶然の一致か? それとも、そうあるべくして重なった必然なのか?


「日付の一致……一年越しではありますが何かが引っ掛かりますね」

「これはただの家族集合写真だ。事故に何か関係があるとは思えない」

「ふむ……確かにそれもそうですね」


 やはりただの偶然だろうか。偶然に過ぎないと片づけるにはこの一致は低確率過ぎる。一体どんな関連性があるというのか。


「なぁなぁシグレ、その写真、凛音たちはどこにいるのだ?」


 いつの間にか風呂から上がっていたのか、肩越しに凛音が写真を覗き込んでくる。

 問われ写真を確認するが、彼女たちの背景に見えている物は工場の内壁のような物ばかりである。巨大なタンクのようなものが立ち並び、巨大なクレーンやコンデンサのような物がいくつも配置されている。


「どこかの工場か何かか」

「どうしてリオンたちはそんな場所で写真を撮っているのだ?」


 素朴な疑問ながら確かに言われてみれば気になる。彼女たちの背景には物々しい機械ばかりが立ち並び、家族の集合写真を撮る場所に適しているとも思えない。

 彼女たちが並んでいることから考えても、この写真は集合写真を撮るべくして撮られたものであることに間違いはない。何故幸正やアニエスはこんな場所で写真を撮ろうと考えたのか。


「むむぅ……リオンが覚えていればよかったのだがな。この時のことは何も覚えておらぬのだ」

「そうか、というか、もう大丈夫なのか」


 先ほどまでのように、気に病んでいる様子などが感じられず問いかける。


「うむ、もう気を取り直したのだ」

「落ち込んでいただろ」

「ショックではあるがな。だが、リオンは最初からこっち側の人間なのだ。あの者たちと相いれないことなど解っていたのだぞ」


 凛音は取り繕ったような笑顔で旺盛に述べた。嘘の笑顔であることなど解っていたがあえて指摘はしない。何かを言った所で凛音の心の傷が癒えることはないだろうから。

 その傷は長い時間をかけて自然に治癒させるしか治しようがないのである。


「ではリオンはそろそろお休みするのだ」

「早いな」

「今日はおサボりしてしまったからな、明日はちゃんと登校するのだ」

「……本当に登校する気か?」

「当然ではないか。おサボりはいけないのだぞ」


 凛音は腰に手を当てて指先をこちらに突き付ける。そうして教鞭をふるう厳格教師のように説教を垂れてきた。この様子だと明日は本当に登校するつもりであるようだ。

 偉そうに振る舞う凛音の姿に愛着を抱きながらも、一抹の不安感を感じ得ずにはいられない。

 もう学園には、行かない方がいいのではないか。そんな強迫観念にも似た思考が頭の中を駆け巡っては、消えた。

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