第160話
「他にも時雨にコンタクトを図った人物がいたということ?」
「ああ」
救済自営寮にいたころの時雨について知りたいと申し出た真那。そんな彼女が珍しくも好奇心に満ちた目で見据えてくる。
今でもまぶたを閉じれば脳裏に蘇る。
半年間という長い歳月の果てに重く持ち上がった瞼。最初に視界に収まった物は鉛色に淀んだ二つの大きな眼球だった。
「琴吹波音、琴が吹くって書いてコトブキ、波の音って書いてナミネ、覚えやすいでしょ」
半年間の意識不明状態に落ちっていたこと、その間のケアを行っていたこと。その他云々の事情を割愛して時雨の顔を覗きこむ形でその男は自己紹介から始めたのだ。
「コトブキナミネ……聞いたことない名前ね」
「それはまあ仕方ないだろうな、俺が把握していただけでも救済自衛寮に入寮していた孤児は数百人といたんだから。ましてや真那は孤児と基本的に関わる機会もなかっただろ」
唇に手の甲を添えて小さくうなる真那に注釈を添える。
真那は救済自営寮を運営していた聖玄真の娘であり、自営寮で生活していたわけだ。
思い返せば時雨と真那が初めて会ったとき、彼女は時雨に対して変な奴だと印象付けていた。
実際大抵の虎児は度重なる失踪の対象に次は自分が抜擢されるのではないかとおびえ、そのほとんどが隔離室内にこもっていたわけで。時雨以外の孤児と面識がなくても何ら不思議はない。
「救済自衛寮が発足した2042年から廃止になる2052年までの十年間で、孤児として入寮した身寄りの無い子供の数は312人ですね」
「それでも、私は時雨とそこで知り合って常に一緒に生活していた……そうなんでしょう? それなのに、時雨の記憶にあるコトブキナミネという人間に関する記憶の一切が私から消えているのは奇妙な感覚なのよ」
「そもそも俺の記憶も無いだろ」
「それもそうね。それで、そのコトブキナミネという人間はどういう人となりだったの?」
琴吹波音は中性的な顔立ちが特徴的な少年だった。しゃべり方も声も、ややもすると女性だと勘違いしかねない特徴を秘めた少年だったのである。
「琴吹が救済自衛寮に入寮するきっかけは、俺と同じような関係だった。不慮の事故、あるいは人為的な事故だったのかはしらないが、両親も身寄りもなくして行く宛もなくなって救済自衛寮に閉じ込められたわけだ」
「救済自衛寮が入寮させる子供は、総じてそういった不遇な環境に置かれた、世間から必要とされない立場の子供ばかりだったのかしら」
「さあそれはどうだろうな。俺は琴吹以外の入寮者とは殆ど会話すらしたことがなかった。救済自衛寮は原則他の入寮者とのコンタクトを取ることを禁じられていたわけだからな」
「でもそれなら、どうしてコトブキナミネはあなたに干渉することが出来たの?」
「琴吹と俺が同居していたからだ」
他の入寮者がどうだったかは定かではないが、時雨のように半年間も半植物状態にあるケースは珍しい。そのため特別措置として、時雨の身体的ケアを図るべく琴吹が同じ部屋に住まわされた。
「琴吹の目は鉛色だった。コンタクトでも血筋によるものでもない。あいつ自身、よく解ってなかったらしいが。ただ入寮した時に変色したらしい」
「ギミックは図りかねますが、おそらくは聖玄真、あるいは倉嶋禍殃に何かしらの実験を施されたのでしょう。ナノマシンを眼球に注入されたか別の実験か。詳細は分かりかねますが、まともな実験でないことは間違いなさそうですね」
「僕、時々不安になることがあるんだ」
琴吹は事あるごとにそう言っていた。
「救済自衛寮の本質、聖寮長の考えていること、何もわからないけど……きっと僕たちの自立なんてちっとも促してくれるつもりはないよ」
そう呟いて時雨にまで不安の種を伝染させていた琴吹。今思えば、彼は失踪事件という噂が救済自衛寮に出回る前から、自分の置かれた環境を正確に理解していたのだろう。
よもやラグノス計画と呼称されるとんでもないプロジェクトの実験素材として抜擢されたことにまで気づいていたとは思わないが。
「ねえ烏川くん、いつかさ、一緒にここから出ようよ」
彼と出会って何週間目あるいは何ヶ月目だったか。いつの事だったかは覚えていない。
太陽のように晴れがましくもその影で毒々しく揺れる向日葵。その奥にそびえ立つ何かの施設を思わせる高い塀を俯瞰しながら、琴吹は度々そんな夢空言を垂れ流すのだった。
「あの塀を超えてさ、何にも縛られない世界に繰り出したいんだ」
「お前自身が、俺達の自立なんてここの連中は促してくれやしないって言っていただろ」
「いつまでも受け身でいるつもりはないよ。僕はね、きっとここから出て行くんだ。計画的な作戦を練って、誰にも気付かれずにここから逃亡する。行く宛なんて無いし、お金だって無い。でもここにいるよりはずっとマシだよ、そう思わない? 烏川くん」
普段は不安を背負って歩いているような超がつくほどの小心者であったはずの彼が、その時だけは自信に満ち溢れていて。
「救済自衛寮からの逃亡……そんなこと出来るのかしら」
「考えるまでもなく無理だ。所詮は未成年の考えることだ。何の計画性もない無謀極まりない作戦しか考えつかなかったさ」
そもそも時雨達は塀に重なるように赤外線レーダーが張り巡っていることや、それに接触したらどうなるかすら知らなかった。それがどういうことなのかを知ったのは、何もかもが手遅れになってからのことだ。
「その次の日から、琴吹の姿は見えなくなった」
「……もしかして、脱出しようとしたの?」
考えたくもない可能性に行き着いたのか真那は僅かに眉根を寄せて小さく尋ねてくる。それに頭を左右に振って応じる。
「そうかもしれないし、違うかもしれない。ちょうどその時期から、失踪の噂も流れ始めたからな。塀を越えるまでもなく連行されて実験体にされたか、あるいは真那の言うように越えようとしたか……まあどちらにしても、塀を越えて外の地面を踏むことはなかっただろうけどな」
踏めたとしても、もはや彼は地面の感触を感じることすら出来なかったことであろう。もし連行されていたのだとしてもまず助からなかったであろうが。
防衛省が救済自衛寮の入寮者に施していた実験は、おそらくリジェネレート・ドラッグの投与に関すること。人間との適合化に関する研究をすすめるために、孤児たちを湯水のように浪費したに違いない。
漏れず琴吹もその淡い生命を散らす結果になったはずだ。
「……嫌なことを思い出させたわ。ごめんなさい」
「いやいいんだ。救済自衛寮にいればいずれ皆死ぬ未来にあった。それが琴吹の場合、脱走だなんて無謀なことを考えたから真っ先に抹消された。それだけの話しだ」
久々に彼のことを思い出し、脳裏には彼の哀愁に満ちた表情が張り付いて剥がれずにいた。
「あの塀を超えてさ、何にも縛られない世界に繰り出したいんだ。ここにいるよりはずっとマシだよ、そう思わない? 烏川くん」
その問いになんと答えたのだろうか。それは思い出せなかった。
実現不可能な願望だと、無意味な思考だと笑い飛ばしたのだろうか。それともその作戦に賛同したのだろうか。記憶の深奥を手探りで弄っても、答えはやはり見つかりそうにはない。
「私たちが出会ったのは……何年後のことだったかしら」
真那は歯に物が挟まったような顔をしながらも、間を置いてから話題転換をしてくる。
黙りこんで物思いに耽る時雨を気遣ってのことだろう。彼女のありがたい気遣いに便乗することにした。
「俺が十七歳の時だ。年代で言えば2049年だな」
「それから三年間、一緒に生活をしていたの?」
「ああ、まあ前に話した出会い方をして、それからは普通に生活していたな……別たれた時の記憶は曖昧だが」
記憶が失われている時期、その間に別々の環境に配置された。
「防衛省にはどういう経緯で所属したの?」
「それが記憶にないんだ。気が付いたら防衛省にいた。真那は?」
「私も似たような物ね。上官には、お父さんのコネで入隊させられたと言われていたけれど……その時点ですでにお父さんは失踪していた」
「俺たちが防衛省に所属していたことも、解明すべき謎の一つなんだろうな」
これまで極端にそれを疑問視してこなかったのは、その環境が当たり前の物だと思い込んでいたからだ。
記憶の欠落は一時的な物とはいえ、急に生きている環境が変わったというのに。それを当たり前だと思い込んでいた自分の思考に違和感を隠しえない。
そう言った事実からも、第三者の手が加わっているのではないかと考えざるを得ないわけだ。
「そして……この腕も」
無意識的に自身の右腕を俯瞰する。現状生身に戻っているその腕。その本質はナノマシンを抹消しうるデバイス、アンチマテリアル。
これが何でどうして右腕に移植されているのか。様々な疑念が胸を突いてやまないが、その回答を有しているのであろう唯一の存在は口を噤んだままだ。
ネイは時雨の発言が聞こえなかったのか、あるいは聞こえているが無視しているのか一切の反応を示すことなく解析を続けていた。
「防衛省に所属してからのことは? 時雨がナノテクの実験体になったのはいつのことなの?」
「それに関しても記憶がない。気が付いたらすでに改造されていた」
「流れとしては、時雨を実験素体に運用するために防衛省が時雨を連行した。そしてその実験が成功し、時雨を防衛省の人間として、TRINITYのプロトタイプとして運用するため、疑心感を抱かせないように対策をした……記憶を抹消するという対策を」
「その説が有力だろうな。だが真那まで所属することになった理由には繋がらない。真那が救済自衛寮にいたのは、孤児としてではなく運営主の娘だったからだ」
この事実に関しては真那の父親が殺害されたことに繋がっているのだろう。
現状から憶測しうる可能性は、時雨を連行する過程で真那が仲裁に入ったなどであろうか。その真那を黙らせるために彼女の記憶を抹消した。
この可能性の場合、真那が防衛省局員になっている理由には繋がらない。父親が殺された理由にも。
何と言っても真那の父親である聖玄真は救済自衛寮の運営主なのだから。孤児たちを素体として養成していた第一人者も彼であったはずだ。
「そう言えば……ネイとはどこで出会ったの?」
真那はふと思いついたように疑問をぶつけてくる。
「ああ、話していなかったか」
「まあ時雨様も認識していない事実ですがね」
ウィンドウを参照しながらネイが一瞥すらせずに介入してくる。
「ネイとの出会いも記憶にないの?」
「いや、そうじゃない。ネイとの初対面の時のことは覚えてる。2053年の四月くらいだったか。俺のビジュアライザーにおかしなファイルがインストールされていることに気が付いたんだ」
そのファイルの存在に気が付いたのは全くの偶然だった。
防衛省からとある任務に関する伝令を受けた際、偶然見たことのないファイルを発見したのである。
「ファイル名はNano Evolutionaly Interfaceで。それで頭文字をとってネイと呼ぶことにしたんだ」
「ネイは時雨のビジュアライザーに寄生していたということ?」
「酷いですね真那様、寄生虫みたいな言い方しなくてもいいではないですか」
「あながち間違っていないだろ」
端末から出て行こうとしないネイ。以前アンインストールなどを試したものの、彼女を抹消しきることにはかなわなかった。ファイル自体は消去できたものの、N.E.Iという人工知能は依然として寄生し続けていたのである。
「ネイがどうやって端末に染みついているのかは、未だに解っていないな」
「失礼ですね。私はまだぴちぴちです。染みなどを気にする歳でもありません」
「……こうやって誤魔化すから未だに何も解ってないんだよな」
これまで幾度となく彼女に彼女の正体を問い詰め続けてきた。その度にこうしてはぐらかし知らぬ存ぜぬを貫き通す。
そもそもどうして端末に寄生しているのかも解らない。彼女自体は他の端末へと移動が出来ない。これは幾度とない検証の末にたどり着いた結論であった。
しかし彼女は明らかにただのAIなどではない。とはいえこれを追及するのはもはや愚考だ。彼女が黙秘しているのだから、いくら問い詰めたところで厳重なセキュリティによって封をされている口を開けさせることなど出来ようはずもない。
「そもそもアンチマテリアルって何なんだ」
「なんですか今更、超常現象でいいじゃないですか」
「そんな風に片づけられるのは、アンチマテリアルがナノマシンを抹消する機構だと知らなければの話だ。自分の右腕が得体のしれない義手だったこっちの身にもなってみろ」
「とは言っても、考えても解らないことではないですか。そもそもインプットされていない情報をアウトプットしようとしたところで、捻りだせるわけもないですよ。ましてや時雨様のごく小さな脳内SSDであるならばなおさら」
「それを言っているのがネイなんだから、答えは目の前にあるはずなんだが」
勘繰るように目を向けるが、ネイは知らん顔でウィンドウの解析を続けている。やはり彼女から情報を捻りだすことは容易ではなさそうだ。
「でも確かに、アンチマテリアルの何たるかは気になるわ」
「答えは教えてもらえないがな」
「ギミック云々ではないの。どうして時雨の右腕だけがナノマシンを抹消する機構に変質するか、ということが気になるのよ」
言われてみれば確かに気になる。深くなど考えたこともなかったが、今触ってみた限りこの右腕は普通に生身だ。それは肉体の他の部位と同じで右腕だけ変質するというのも変な話である。
「なんですか時雨様。全身を金属体質に変えたいのですか。セルフ強化外骨格でも欲しいのですか? 構いませんが、そんなことをすれば外骨格に留まらず、肉体全てが金属になっちゃいますよ。死んでも構わないというならば検証してみる手もありますが、」
「しなくていい」
早口でまくし立てるネイを黙らせる。彼女が何かを誤魔化そうとしたのは明確である。
おそらく真那の言うように彼女は右腕しかマテリアライズ出来ないのだ。理由には一切心当たりがないが。
「さて、解析が終了いたしました」
「早いな」
小一時間はかかりそうだと踏んでいたのに。脅威の解析能力である。
まあ人間の技術では確実になしえない高度なセキュリティをも突破するネイ。ただの文献の参照とあれば時間は大して要さないのかもしれない。
「が、先ほど時雨様、真那様から入浴を誘われていましたね。おふた方の乳繰り合いを邪魔する気はさらさらありませんので、先に済ませて来ても構いませんが」
「乳繰り合いって……」
「まあ時雨様にそんな勇気などないでしょうし、本題に移りましょうか」
最初からそのつもりであったようでネイはいくつかのウィンドウを表示させる。
細かい文字が肉眼で難なく読める大きさにまで拡大されたホログラムが七つ。ネイが今の解析によって炙り出した情報であろうか。
「これは?」
「過去三年間の産業事故記録を検出しました」
「三年間? アニエスが死去したのは三年前ではないの?」
「クレア様の記憶が曖昧である可能性があったため、念のため算出したにすぎません。まあとは言え関係のありそうな事故は、ラグノス計画決行の成された2052年、つまり三年前に凝縮されていましたが」
ネイはそう言ってウィンドウを並び立つ時雨たちの前にまで移動させてくる。
「関連性のありそうな案件は七つ。いずれもラグノス計画の実験に伴う産業事故に関する情報です。うち四件が化学プラントにおける事故。その他は人身事故ですね」
「七件……多いな」
「そうですね。では時系列順に列挙していきたいと思います。まず5月19日、これは人身事故に当たりますね。科学開発局の機器が落下、それによって八名の死傷者が生まれました。落下の原因は設備不備、内三名が女性です」
「詳細は?」
「二名の社員の名前は上がっていますが、一名は記されていません。とはいえ、この社員たちに関しては正規雇用されていない者たちであったようなので、確実性は乏しいですね」
「次は?」
「6月22日、化学プラントにおける神経ガスの漏出事故。ただこれに関しては、研究員数名が軽い病状に陥っただけであるようですね。8月19日、これも似たような化学プラントにおける事故。ただしこれは被害者が一人もいなかったようです。関係なさそうですね」
ナノマシンの研究ということもあって色々と不祥事が付きまとうのだろう。
しかしこれだけの事故が起きていながらナノマシン研究が外部に一切もれなかったことは、防衛省の情報秘匿性の高さを感じさせられる。
「十月のうちに人身事故が二度起きています。ただこれらに関しては、被害者の名前が明記されているため、アニエス・ロジェの死亡には直接的な関与はなさそうです」
「これで五つか。他二つは十一月、十二月の事故か?」
「そのことに関してなのですが……この事件の後、2052年内に際立った事故は何も起きていないのです」
「それって、どういうこと?」
「残り二件の事故は、それ以降、つまり過去二年のうちに起きているということです」
それではクレアの言っていることと合わない。いやそれとも今あげられた五件のうちのどれかがアニエス・ロジェの死亡した事故であるのだろうか。
だが関係のありそうな事故は何もなかった。6月22日の神経ガスがどうのという事故における被害者、研究員数名。この中にアニエス・ロジェが加わっていた可能性もあるが、そもそもその被害者は死亡していないという。つまり無関係だ。
「考えられることは、クレア様が勘違いをしていたという可能性。まあそれ故に、過去三年分すべての情報を洗ったのですが」
「自分の母親が死んだ事故なのに……間違えるかしら」
「それに関しては何とも言えないですね。凛音様がアニエス・ロジェの記憶を失っていることを鑑みても、クレア様にも何かしらの記憶の混迷が見られる可能性はありますし」
残り二つの事故に関しては2053年つまり一昨年に起きているとのこと。ナノマシンが世に放たれた後のことだ。
「正確な時期と詳細を頼む」
「まずは可能性の低そうな方から。十一月中旬。化学プラントにおける事故です。これも神経ガス関係ですね。死傷者は四名。ただしこのすべてが日本人男性であることが明記されています」
「ということは無関係?」
「いえ、幸正様がバイセクシャルであり、アニエス・ロジェが男であったと仮定するならば……」
「それはないだろ」
彼女とてその線が薄い、というよりもゼロに近いことを理解していたのだろう。一瞬間を置いたのち咳払いをする。軽口を叩いている時でもないと判断したのかもしれない。
「こっちは関係がなさそうと言っていたけれど、最後の記録は可能性が高そうなの?」
「ええまあ限りなく。この年の5月16日、同様に化学プラントにおける人身事故が起きています」
「他の案件とは何か違うのか?」
「ええ。その事故に関してですが原因が解明されていないのですよ」
確かに怪しい。謎が多いアニエス・ロジェが関わっているならば、それである可能性が高そうだ。
「
「ナノマシンが関わっている事故だから、かしら」
おそらくはそうだろう。ナノマシンとノヴァの関連性の漏洩を成さないために虚偽の情報を拡散した。
しかしそもそもどうして
「科学事故なんて、いくらだって起こりえる物だろ? 実際他に六件も起きてるわけだし……何が起きてもおかしくない」
「その他の事故とは違います。何と言っても、この化学物質漏出事故が起きた場所は、ナノマシンに関わる機関として最も重要な化学開発部門局なのです。このような事故など、あっていいはずがありません」
確かにネイがいうように管理がずさんである気がする。
世界統一を目論んでいた防衛省が、自分たちの不備のせいで綻びを許すなど考えられない。何か予測不能な事態が生じたということか。
「事故の明細は?」
「詳細は省かれていますね……解ることは被害者数が十数名と規模の大きなものであったことと、化学物質の漏出事故であるということ。ただ、この化学物質というのが少々不可解ですね」
「何か気になるのか?」
「ええ。この事故によって漏出した物質は、炭素やケイ素と言った有毒性のない物ばかりなのです」
ネイの不明瞭としていることはつまり、十数名という人間を死に追いやらせた化学物質が本来人を殺せるようなものではないということだ。であるならば何故被害者たちは死に至ったのか。
「漏出したことによって化学反応を起こし、窒息死したという線がないとは言い切れませんが……その可能性は乏しそうです」
「そう言えば炭素ケイ素と言えば、」
思案するネイのことを黙って見つめていた真那であったが、ふと彼女は何かに思い当たったかのように開口する。
「この間、ナノマシンは炭素やケイ素を素材に増殖するって言っていなかった?」
「……なるほど、その可能性は高そうですね」
「つまり漏出した化学物質はただの元素ではなくナノマシンだということか?」
「可能性の話ですがね。それならば、局員が死に至った理由も解ります」
ナノマシンが人体に入り込めば肉体の構成要素は著しく変質させられる。つまりは製造中もしくは保管中ののナノマシンが漏出したということか。
元素でナノマシンが構成されているわけではないためあくまでも増殖の一要因になっただけの可能性が高いが。
「そのナノマシン漏出に巻き込まれてアニエスは死去した……ということ?」
「その可能性が最も高いでしょうね。ここにおいて未だに判明して異なことを列挙すれば、まず何故この漏出事故は生じたのかということ。次に、この事故によってアニエスが死去したと仮定して、何故クレア様は凛音様にアニエスの存在を隠していたのかということ」
「隠していたわけではないんじゃないかしら。だって現時点では、クレアはアニエスの写った写真を凛音に見せているのでしょう?」
「そうですね……ではあの写真を隠してきた理由ですかね」
「その事件に答えがありそうだよな」
とはいってもこの状況では詳細は分からない。事件に関する情報は、今取得しうるものはネイが選り分けてきたこの履歴しかないだろう。
であれば他の場所から情報を探る必要性がある。
「厳重なセキュリティのかけられているであろうナノマシンプラントにて漏出が起きた。レッドシェルターの内側である以上、レジスタンスやその他の革命軍が起こしたテロという線も薄そうです。考えられるのは、防衛省内部で何者かが故意に漏出事故を引き起こしたということ」
「……伊集院さんなら、何か分かるんじゃないかしら」
「それだ」
元省長の彼ならば全く知らないということはないだろう。ネイが手際よく彼との無線を繋いでくれる。
「どうした、烏川」
何か作業でもしていたのか、しばらくしてから繋がった。
「アンタに少し聞きたいことがある。何か取り込み中だったか?」
「いや、大丈夫だ」
「ひ、ひくっ……親父、電話か?」
無線越しに棗のだらしのない声が響いてきた。どうやらぐでんぐでんに酔っぱらっているようである。親子で酒でも飲み交わしていたのかもしれない。
「烏川からだ」
「……ふむ」
途端に棗の声音が真面目になる。部下に情けのない姿を見せられないという心意気からだろうか。
「話してみろ」
「いや、今回は伊集院に用があって……」
「そうか。では親父、任せる」
「む、むぅ……棗よ、アブサンは一気に煽るものではない」
「何言っている親父、一気しなくて何が酒だってんだ……くかぁ」
酒瓶が割れる音が聞こえた。どうやら泥酔したようである。
「まったく……以前は酒など飲まぬ良識ある子だったのだがな」
「伊集院様があまりにも放任主義すぎたため、ぐれたのではないですか?」
「む、むぅ……」
伊集院は気難しげに唸っていた。まともに父親を演じたことがないのかもしれない。
「まあいい、それより用事は何だね」
「伊集院さんに聞きたいことがあるわ。あなたは元々省長だった。それなら、防衛省内部で起きた出来事にも精通しているはずよ」
「ふむぅ……」
「お伺いしたいのは化学開発部門局で生じた事故に関することです。一昨年の5月16日、そこで起きた化学物質漏出事故に関して、何か知っていることはありませんか?」
「すまんが、私はあまりナノゲノミクスに関することには疎くてな……省長だけに防衛省の象徴だったからな!」
真那はビジュアライザーに対し白い目を向ける。こんな低能な親父ギャグが出てくるとは思いもしなかった。
「……さて、場も暖まったところで、その質問に答えようではないか」
「逆に急激に冷え込んだ気がしないでもありませんがね」
「5月16日の漏出事故と言えば、防衛省内部で生じた事故で最も規模が大きかった事故であると記憶している」
「記録には、確かに最大人数の犠牲者が観測されていますね」
「被害はナノマシンの漏出による物だ」
どうやらネイたちの憶測は間違っていなかったようである。
「その事故の原因に心当たりはないか?」
「ふむ……一般にはゴムの材料の漏出による爆発事故と広報されていたがな。実際、原因は定かにはなりえなかった」
「ならどうやって、その事故は収束したんだ」
「佐伯局長が現場監督をし、私の介入が妨げられていた」
「省長なら、状況の収束と事実確認のため監督に立ち会うのが普通だと思いますが」
「む、むぅ……私はナノテクノロジーに関することなど、さっぱり解らんからな」
「役に立たねえですね」
遠慮などなくネイは本音を漏らす。伊集院はそれを意に止めることもなくもう一度唸った。
「しかし何故、その事故に関して聞いてきた?」
「今、アニエス・ロジェという人物について調べているのよ。その女性について調査を進めたところ、この事故に行き着いたのだけれど……」
「ふむ、ロジェか……懐かしい響きだ」
「もしかして知っているのか?」
思わぬところで情報が入り込んできた。アニエスについて知っているのならば、この漏出事故を追うよりも早急に結論に辿り着けるかもしれない。
「ああ、いいクビレの女だった」
「死ねばいいと思います」
それは率直すぎやしないだろうか。異論はないが。
「まあ私が手を出すよりも先に峨朗一等陸尉が手籠めにしてしまったようだがな。むぅ……あの陶磁器のようななだらかなクビレが忘れられんな。私の脳内には古きアルバムが明瞭に保存されている」
「その変態発言を実の息子の前で恥ずかしげもなく行える潔さには感服します。貫禄すら感じますね」
「ちなみに言えば、霧隠のクビレもなかなかにアメリカンでだな」
「それは犯罪だ」
聞かなかったことにしておこう。
「アニエス・ロジェに関する情報を教えてくれないかしら」
「ふむ……上から順に86、61、83」
「スリーサイズなんて聞いていませんよ。聞きたいのは人となりです」
「ふむ? そうだな……わけ隔てのない良いクビレの女だった」
「誰にでも親切ということか?」
「それもあるが、誰よりも良識のある言い母親だったと言えよう」
その言葉に神経を研ぎ澄まされる感覚を覚えた。伊集院はアニエスの母親としての姿を目にしたことがあるのか?
「あなたは、アニエスの家庭のことを知っていたの?」
「ああ、知っていたとも。峨朗一等陸佐と契りを結び、あのクビレが私の物ではなくなった時の絶望は……いまでも忘れられんな」
棗が防衛省を離れてレジスタンスを立ち上げた理由が解る気がしてきた。
「それなら、昔の凛音やクレアのことも何か知っているの?」
「ふむ。勿論である。あの姉妹はなかなかにいいクビレをしているな。ロジェの生き写しと言ってもあながち間違いではないような、だ」
「そんなことは聞いていない。その時の峨朗一家について知りたいんだ」
「流石に家庭内の私生活については何も知らんがな……まあ、ロジェの観察をすべく、彼奴の自宅に仕掛けていた隠しカメラで知りえた情報ならばあるが……」
どうやら未遂ではなくすでに犯罪者であったようだが、この男を通報している余裕などはない。しようとしても通報する先すらないが。もしこの男を連行しようものなら行先は間違いなくレッドシェルターの監獄だ。
「その当時の峨朗一家について聞きたい。何か、おかしなこととかなかったか?」
「これと言ってはないな。ごく一般的な家庭であったと言えよう」
「それは事故が起きるまでの話ですね。アニエスが死去した事故の後、峨朗一家はどうなったのでしょうか」
「その後のことは、私も把握してはおらんな」
「何か問題でもあったのか?」
「ロジェのクビレが見れなくなった以上、監視の意味はあるまい」
この男から有力な情報を引き出せると期待する方が間違いなのかもしれない。
呆れかえっていた時、不意に伊集院はその声音を神妙な物へと豹変させる。
「冗談だ。私が監視を止めたのは、そもそも監視の対象がいなくなったからである」
「アニエス・ロジェのことじゃないのか?」
「それもだが、峨朗一家すべての人間が、自宅での生活を行わなくなったのだ。詳細は分からんが、防衛省の宿舎を使っているという記録は見受けた。なお事故の直後、峨朗凛音の姿を確認できなくなり、峨朗クレアは人の後ろに隠れるような臆病な性格になった。ガスマスクを携帯するようになったのもその頃からだ」
そんな情報が聞きだせるとは思っていなかった。これは想像以上の収穫だと言えるだろう。
「それ以降のことは、私も解らんな」
「いや、正直助かった」
「では謝礼と言っては何だが、どうだ烏川、今度私とクビレの良さについて語り合おうではな」
そこで無線が遮断される。ネイが気を利かせたのだろう。
「凛音とクレアの情報まで手に入るとは思わなかったわ」
「さっきの話からして、アニエスの死が凛音たちに少なからず影響を与えたのは間違いなさそうだな」
「凛音の姿が見えなくなった、と言っていたけれど……あれって」
「おそらくは、凛音様が
つまりアニエスの死が、凛音が
記憶が正しければ、幸正がクレアと凛音を連れて防衛省を脱退したのは凛音が
「ここから推測できることは……アニエス・ロジェが死去した漏出事故と、凛音様の
そもそもアニエスは殺害されたのか? とそう指摘しようとして口を噤む。
もっとも重要な機関で事故が起きたのだ。人為的な事故であることに間違いはない。その事故を契機に峨朗一家に致命的な亀裂が走った。となれば事故の目的はアニエスの殺害で間違いはない。
「凛音のアニエス・ロジェに関する記憶が何も残っていないのも……その第三者の策謀のうちなのかしら」
「そう考えるのが妥当でしょうね」
「でも何が目的で、誰がそんなことをしたというの?」
「さぁ……まあ現状から憶測だてるとすれば、
佐伯・J・ロバートソン。あの男の研究は不可解な物ばかりだ。そもそも
ノヴァが防衛省の手駒にある以上は、ナノマシン対策にナノマシン化した人間を生み出す理由はない。それだのに
結局、今夜の会合はここで暇とすることになった。何かしら新しい情報が入るまでは、あくまでも憶測は憶測の域を出ないだろう。
「色々と不明なことだらけだな……」
「鎖世様風に申し上げれば、どのような事象も、海水のようにいずれ同じ場所で巡り合うものなのですよ。今は解明しきれず謎であることも、もしかすれば時雨様が追い求めている事実に直結する架け橋なのかもしれません」
「……その架け橋は、無暗に渡っていいものなのか」
と言いますと? と不審げな視線を人工知能は流してくる。
「なんとなく嫌な予感がする。凛音たちの間に渦巻く謎を解明すれば、きっと取り返しのつかないことが起きてしまう。そんな予感がある」
男子寮までの道を歩みながら、名前のないその予感を弱みを吐くように漏れ出させる。何の根拠もない不安ではある。それでも全くの見当違いではないのではないか。
「何であれ、私たちが動かなければ、幸正様が取り返しのつかない時点に発展させてしまう可能性もあるのです。何もせずに後悔するよりは、何かをして後悔して方がいいのではありませんか?」
ネイの言う通りなのだろう。それでも足元がおぼつかなくなるような不安感は拭えない。
手繰るべき糸の先に何があるのかが解らない。功を奏すものに繋がっているのか、あるいは……。
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