2055年 12月20日(月)
第159話
ノヴァ騒動から四日が過ぎた。台場の施設的な損害は大したことがなかったため、一部の工業施設が復旧を必要としたもののすぐに工業地帯としての機能は復活していた。
早急に対策せねばならない問題としては地下ダムの決壊危惧で、それも迅速な修復によって収拾がついている。
ウロボロスによって地下ダム内に開けられた風穴は、そのまま太平洋に直通していることが判明した。それも水道系列の大規模な工事を早急に始めたため問題視することでもないだろう。
「問題があるとすれば……ここか」
目前にはスファナルージュ第三統合学園のキャンパスが聳えている。目視的な損害は一切ないものの感覚的な風貌は明らかなる変貌を遂げていた。
先日までは登校する学生たちによって賑わいでいたというのに、今や誰一人人影が見受けられない。眠ったように人気のないその閑散にはどこか不気味な印象まで抱かされる。
「まあ、二度もノヴァの襲撃を受けたのだもの……台場から出ていく人が続出すること自体は予想が出来ていたこと」
真那は人気のないアスファルトを傍観しながらしんみりと呟く。彼女の言うように先日の一件のこともあって学生の数は加速度的に減少していた。
アイドレーターの襲撃の際に学生の半数ほどが台場から離れたものの、残り半数は滞在していたはずなのだ。だが今や、このフロートに留まっている学生の数は僅か百数十名ほどしかいない。当然の結果だろう。
「仕方ないよな。こんな危険な場所、誰だって早急に出て行きたくもなる。一回目の騒動の時に半数も残ってたことの方が驚きだ。あの事件で数百人の民間人が死んだのに」
「正直、現状で未だにここに残っている学生の気がしれませんね。仮拠点を築いている私たちの言えたことではありませんけど」
「ま、逆に良かったのかも知れねえな。ここから居なくなってくれれば、連中が危険にさらされる心配もなくなる。俺たちの懸念も減るわけだしよ」
「でも……寂しいのだ」
和馬の言葉は正論ではあったが、凛音が哀惜を幼き顔に浮かばせているのを見るのは居た堪れない。
確かに住民がこの場に留まらないことは懸案事項が減ることに繋がる。だが凛音がこのキャンパスで普通の生活という物を体験していたことは事実だった。年相応な普通の生活を送れていたのに結果的にそれが徐々に普通ではなくなっていく。
ここが防衛省に見放された台場である以上、凛音が本当の意味で普通に生活できる環境になどもはやなりえないのかもしれない。
「……アンタらが気に病んでも仕方ないことでしょ」
「柊」
「それよりさっさとキャンパスに向ったら? 寒いだけでしょ、そんなとこに突っ立ってたら」
遅れて登校してきた唯奈は脚を止めず素通りしながらそう提案してくる。
最近はさらに冬も極まってきて、素肌を露出している部分から急激に感覚を失っていく始末だ。
あまりこの場にたち呆けしているのは体によくないだろう。そう判断し唯奈の背を追ってキャンパスへと足を踏み入れる。
「おはようなのだっ」
凛音は自分の教室の扉を開け放つなり快晴な笑顔で挨拶を振りまいた。彼女なりに教室内に取り巻いているであろう鬱蒼とした空気を払拭しようと考えたのだろう。
教室内の学生たちの誰もその挨拶に返したものはいない。
いやに静まり返った教室の中。学生たちの数は教室内に疎らに散る程度で十名ほどいる。その誰も言葉を発しない。代わりに向けられた視線は明らかに親しき者に向けるそれではない。
むろん彼らと仲良く振る舞った記憶などないがその視線は冷たく全身に突き刺さる。
これまで凛音に絡んでいた数名の女子たちも、こちらを伺ってはひそひそと何かを話すばかりで。
「り、凛音殿……ひぃっ」
そんな中唯一明智だけは凛音の元へと駆け寄ってこようとしていたが。他の学生たちの無言の圧力に黙らされていた。
「あんだよ、気味悪くなりやがって」
和馬は彼らの視線を全身に浴びながらも物ともせずに空いている席に向かう。そんな彼を見習うように真那と唯奈も歯牙にもかけずに着席した。
こうなる事態も予測できていなかったわけではない。時雨たちが先日の停電現象に関わっていたことは釈然たる事実だと言えよう。
それ故に異彩の目を向けられることにいまさら驚きも悔やみもしない。その目線に少なからず非難の色が滲んでいることにも。だが、
「…………」
扉を開け放った体勢のまま固まっていた凛音の姿を目に収めると、どうしても収まりが悪い。
凛音はゆっくりと掲げていた腕をおろしその場に立ち尽くす。居心地の悪さを感じたように、同時に一抹の哀愁に苛まされるように僅かに頭を項垂れさせていた。その手では小さな拳が握られ、彼女は行き場のない感情に翻弄されるように小さくふるえる。
明らかに変わってしまった環境に痛感したのだろう。自分がどちら側の人間であるかということを。
「おはよう、なのだ」
彼女は再度口ずさむ。もはや学生たちに聞こえるような声量ではなく、耳を澄まさねば聞き取れないほどに弱々しい声で。自分のことではないながら心臓を鷲掴まれるような感覚だ。
この場に紲でもいれば、彼女が凛音の傷心した心を癒してくれたことだろう。だが彼女は未だ登校していないようで。
「凛音、おはよう」
「っ……?」
その救済は思わぬ場所から差し出された。今登校してきたばかりであるのか、教室の外から中に足を踏み入れてきた鎖世が声を掛ける。裏の感情や偽りなど存在しない率直な挨拶。
「おはようなのだ、サヨ」
「……?」
凛音はきっと鎖世にそんな自分の姿を見せまいとしたのだろう。途端にその面目に普段の快活なそれを張り付けて振り返る。明達な鎖世の目は誤魔化せない。
「……どうしたの?」
「なにがなのだ?」
「悲哀の深奥に取り残されたような顔をしてる」
「それは、気のせいなのだ」
凛音に聞いても答えが返ってこないと判断したのか、鎖世は視線を時雨の顔へと移行させてくる。どういうことなのかと目線で問いかけてきた。
ただ眉を潜めて応じる。顎で教室内の学生たちを示すと鎖世は納得が言ったようにその表情をわずかに改めた。あまりにも希薄ではあるが憂愁の色を。
「人間関係なんて些末な因果の交差に過ぎない。いずれは廃れ失われていくもの……凛音が悔やむことではないわ」
彼女なりの励まし方だったのだろうが。他に何かなかったのだろうか。
「そうなのだな。リオンは最初から生きている場所が違ったのだ。これは仕方のないことなのだな」
ただ彼女は寂しげな色をその瞳に乗せたそんな笑顔を浮かべただけで。音もなく踵を返す。そうして背中を見せたかと思いきや廊下を歩みどこかへと姿を消した。
「凛音」
「待ちなさい」
追いかけようとするが唯奈に静止を掛けられる。彼女はただその頭を左右に振るっただけだった。今は一人にしておけということだろう。
一瞬躊躇うものの、追いかけたところで何をしてやれるわけでもないと気が付く。駆け出しかけていた足を抑え自分の席に着席した。
「あたしには、凛音センパイが何を悲しんだのかいまいち解らないですね」
「それは月瑠様が天性のボッチだからですよ。まあそんな冗談はさておき、凛音様にとってこの学園での生活はつかの間の安寧以上の物になり得ていたのかもしれませんね」
「安寧ですか?」
「普通であればそこにあって当然の環境が、凛音様には与えられなかった。凛音様がこれまで生きてきた環境とは、普通とは到底言えない苛酷な物ばかりであったはずですから。それ故に、その普通の環境に少なからず執着心などを芽生えさせていたのでしょう」
凛音は
「凛音様と普通とでは生きる環境自体の土台が違うのです。安寧を感じ得たとしてもそれはあくまでも一時的な物に過ぎない……皮肉な物ですね。安寧が逆に心を蝕む枷となるのです」
「凛音センパイにとって、あたしたちとのレジスタンスとしての日常は不幸せってことですか?」
「そう言うわけではないでしょうが。本当の意味で心を落ち着かせることが出来る場所では無いのかもしれません」
その言葉にクレアがいると言いかけ口を噤んだ。隠し事が生まれている以上そこに本当の意味での安らぎは存在しない。ましてや父親が敵勢力と繋がっているとあれば。
その事実を認知していなくても平穏にほころびは必ず生じてくるのだ。
◇
結局その日一日、凛音が教室に戻ってくることはなかった。クレアからの伝達によれば学生寮に戻っているとのことで、あえて連れ戻す必要性も無かったわけだ。
時雨に関しても真面目に授業などを受けていたわけではない。時間が惜しく幸正に関する情報を探り続けていた。
現に帰宅している今もモノレールの座席に身を沈めながらネイに現状報告をさせている。四六時中幸正を盗聴し続けているわけだが、しかし何か不審な行動などをとっている様子はないという。
「何と言いますか……幸正様はこんなにも単調な人物であったのですね」
「どういうことだ?」
「個人的に幸正様の日常生活に興味があったのですが。普通にレジスタンスとして活動していますね。今のところ防衛省の人間に接触した様子もありません」
盗聴に気が付いているのか。気が付いていないのか。どちらにせよ何も裏がとれない以上は彼の裏切りを確信するだけの材料にはなりえない。
「正直、盗聴を続けても証拠を押さえることが出来るとも思えないですね」
「昨日自分でいつかボロが出るって言っていたじゃないか」
「それでもです。起きるかすらわからない事態を期待するのは希望的観測、いえ天文学的数値で野暮なことだと言えるでしょう。そうであるならば、目の前に見えている糸を手繰り寄せることの方がよっぽど効率的だと言えます」
「糸?」
「時雨様が気になっている、あれのことですよ」
ネイは『あれ』という部分だけやけに強調して言ってのける。それだけで彼女が何を言わんとしているのかを判別できた。
どうにも踏み込みかねている凛音とクレアの抱える何か。それに介入し、委細構わずに根掘り葉掘り調べつくすしかないのだろう。
「そんなことをすれば……きっと何かが壊れる」
「時雨様はレジスタンスなのですよ。レジスタンスは結局改革者に他ならない。築き上げられてきた環境を壊さずに改革など出来るはずもありません。何かを成すためには失うべきものも存在するのです」
「それに、壊れてしまうと決まったわけではないわ」
それまで黙って話を聞いていた真那が介入してくる。
「そうですよ、時雨様は一体、何を恐れているのですか?」
「それは俺にもわからない」
「根拠のない懸案に行動を制限されるなど、形のないものを掴むような物です。足踏みし、それで手遅れになってしまっては元も子もないのですよ」
そんなことは解っていた。結局彼女たちのことについて調べなければならないことも。
幸正が予測のつかない行動に出て取り返しのつかない状況に陥ってしまう前に、彼について調べる必要がある。それにはクレアが隠していることの解明もおそらく必要となってくるだろう。
ゆっくりと息をつく。湧き出してくる躊躇いを唾と一緒に飲み下した。
「アニエス・ロジェについて、どうすれば情報を仕入れられる?」
「やっとやる気になりましたか。ただ、ついてしまいましたね」
出鼻をくじかれるようにモノレールは寮の前の停留所へと到着していた。車内から降りると同時冷たい空気が頬に突き刺さる。
「どうするか……流石にこの話を部屋でやるわけにはいかない」
「昨晩のように、運よく聞かれずにすんでいたなんてことが何度もあるとは思えませんしね」
「とは言えこの寒空の下、長時間留まるのもな」
「時雨様はどうせそのうち非常食になるので、冷凍保存事前体験をしておいても無駄にはならないと思いますが。しかし真那様はそうも言っていられませんしね」
「それなら私の部屋で話せばいいわ」
「……流石にそれは」
「どうして?」
不思議そうに問いかけてくる真那に返答に詰まる。
「何よこしまなこと考えてるんですか、脳内破廉恥時雨様」
「いや考えていない」
「特に見られて困るものはないわ」
まあ真那のことだ、どうせ生活感のない部屋なのだろう。変に意識しなければいい話だ。腹をくくって真那のご相伴に預かることにする。
「予想はしていたわけだが……本当に生活感がないな」
訪れた女子寮の真那の部屋は想像以上に生活感がなかった。不要な家具などはすべて排除され、ただ就寝するためだけの部屋と言った風情だ。時雨の部屋ともさして変わらず、目についた相違点と言えばベッドが一つしかないということだけだろう。
真那は自室に足を踏み入れるなり暖房をつけそのままベッドに腰掛ける。手持ち無沙汰にその場に立ち往生していたが、そう言う遠慮が逆によこしまに思えて黙って床に腰を落ち着ける。
「時間が惜しいわ。話を再開しましょう」
コートを脱いで足元に畳んで置いていると真那が急かしてきた。
「アニエス・ロジェに関する情報ですかね」
「ええ、今は完全に手つかずだから」
「そうですね、まずはアニエス・ロジェの経歴から探るべきでしょう。現状わかっていることは出生がフランスで所属は海兵隊ということですね」
「海兵隊? そんな情報どこから……」
彼女の所属など聞いたことがなかったような気がするが。
「個人的に前もって調べておいたのです。時雨様がいつまでも女々しく優柔不断にも決断を渋っていたので」
「でも調べたって、どうやって?」
真那が抱いている疑念はすなわちどこから仕入れた情報であるかということ。
現状リミテッドには海外のネットにつなぐルートが存在しない。唯一ワールドラインTVなるものが存在するが、それはあくまでも動画投稿サイトであって情報を抜き出すことなどできないだろう。
「織寧重工で行ったオペレーション・バラージ。その際にM&C社に連絡を付けた後、レジスタンスはアメリカの独自回線を用いて連絡を行ってきました。それに介入し世界のネットワークにちょっとアクセスしただけですよ」
「流石はハイテク人工知能ね」
「えへん」
偉そうに無い胸を張るネイ。
「どうしてフランス海兵隊の人間が日本に?」
「それに関して詳細は図りかねますが、どうやら国外派遣という形で日本に上陸したようですね。アニエス・ロジェが二十四歳のころ、2038年……十七年前のことのようです」
「凛音とクレアの年齢を考えれば……一致するな」
「流石にフランス軍のセキュリティは破れないため、アニエス・ロジェが経由したと思われる運輸会社などを手当たり次第に調べました。その中で一番信憑性のある情報がこれでした。まあこれはあくまでも航空会社の記録ですので定かではありませんがね」
「フランス航空会社と日本の航空会社のアニエス・ロジェの利用日時、時刻は一致しているの?」
「はい。それに関しては。まあ偽装などされていなければの話ですが」
アニエスは何のために日本へと渡ってきたのだろう。十七年前となれば当然ノヴァの出現などしていない時代だ。亡命という線はない。
「これは憶測にすぎないけれど……アニエスが日本に来た理由はラグノス計画に参加するため?」
「おそらくはそうでしょうね」
「ラグノス計画は日本の計画だろ? 海外の人間が知っているはずが……」
「海外にも、ラグノス支部はあるはずですよ。考えても見てください。月瑠様はアメリカで改造されTRINITYとなったのです。諸国に、ラグノス計画に関わっている人物がいたとしても不思議ではありません」
確かに言われてみればそうだ。それがアニエス・ロジェであった理由は分からないが。
「他に分かっていることは何かある?」
「日本に上陸してからのことは、民間会社の情報をリークしても調べられそうにはありませんね。それは、昴様が持ち込んだ防衛省の企画表から憶測立ててみましょうか。それはさておき、他に分かっていることと言えば……アニエス・ロジェはすでに死去していること。クレア様の発言から死因は三年前、ラグノス計画のとある実験によって生じた産業事故に巻き込まれたこと」
「三年前と言えばノヴァが活動を始めた時期でもある。それに関係のある実験ということだな」
「ノヴァを世に出すにあたって、必要な工程だったのかしら」
「そうですね……防衛省の企画書を見てみましょうか」
ネイはそう応じてウィンドウを操作し始める。ネイの言う企画書という物は、防衛省を離脱する際に昴が持ち出してきた記録である。先日のSLモジュラー打ち上げに関しても、それを予測できたのは記録があったからという理由も大きい。
「でも、詳細まで記されているのかしら」
傀儡政権の事実上の傀儡に過ぎなかった彼には、ラグノス計画にアクセスする権限などなかったことだろう。
故に、その情報は陸上幕僚長であった酒匂のアクセスできた範囲の物であるはずだ。あまり期待はできないかもしれない。
「ふむ……大まかなラグノス計画の時系列くらいならば確認できますね」
どうやらその懸案はいい意味で裏切られたようで。ネイはウィンドウを拡大し二人が見える状態に展開する。時系列順に企画が羅列しているようだ。
「2036年、ラグノス計画考案……二十年も前から計画されていたのね」
「ナノマシンの開発ともあれば、どれだけの天才が挑んだとしても、莫大な年月を要することでしょうからね。まあ、旧
倉嶋禍殃は三十代前半と言ったところだろう。二十年前からナノマシンの開発に着手していたとしたら、十代前半の時点から研究を始めていたことになる。流石にそれは考えにくい。
「2042年、救済自衛寮発足……時雨が救済自衛寮に入所したのは発足してから五年後だったかしら」
「俺が十五の時だったから、そうだな」
「2042年には、救済自衛寮以外にも海外にて養成施設がいくつも設けられたようですね……救済自衛寮と同じく、人体実験の素体にするための人材を養成していたのでしょう」
「霧隠も、そこに入所していたのか」
「そればかりは何とも言えませんが……そうかもしれませんね」
月瑠には明日にでも聞けばいいだろう。
「2049年、帝城建設。2050年、デルタボルト建設。2051年、ナノマシン開発に成功……この時点でナノマシンは生み出されていたのか」
「翌年のイモーバブルゲート建設の必要があったから、まだ計画の始動はできなかったのね」
2052年の欄にエリア・リミテッド設立と記されている。対外的には諸国の核実験対策として、という名目で為された東京都都市化計画。
これを実現しなければ、ナノマシンが世に放たれた時、東京23区すら危険な状態に陥ってしまう。ラグノス計画の実行にはイモーバブルゲートの建設が最優先事項であったわけだ。当然だが。
「さて、それではアニエス・ロジェの関係する出来事に関して、時期を絞っていきましょうか」
「アニエス・ロジェが死去した時期か?」
「と言っても大体の時期は絞れていますが」
「クレアが三年前、と言っていたからね」
「クレア様の勘違いである可能性も払しょくしきれませんでしたが、クレア様が保管していた写真には2052年5月16日と記されていました。そこから考察して少なくとも過去三年以内の死去であることは確実です」
「そう言えばそうだったな」
撮影日時が2052年。あの時点ではアニエス・ロジェは生きていた。凛音も
つまり少なくとも2052年の5月16日より前に、アニエス・ロジェが死ぬ原因となった産業事故は起きていないということ。
「資料を漁ってみるとしますか」
ネイは2052年のファイルをタップする。それと同時に膨大な数のウィンドウが出現した。
「まさか2052年の企画の資料か?」
「そうですね」
「多いなんて次元じゃないぞこれ」
ウィンドウ自体は四桁近く表示されている。しかもそれ一つ一つに膨大な文字が埋め込まれ、その情報量の
「この量は流石に私でも骨が折れますね……解析にしばらく時間を要します。その間、くつろいでいてください」
「まさか今から解析するのか?」
「思い立ったが吉日ですよ」
ネイは面倒くさがる様子もなく無数のウィンドウに着手をし始める。
かなりの速度でウィンドウが解消されていくがそれでも後が絶たない有様だ。これは数時間単位で時間を要すると思っておいた方がいいだろう。
「時雨、お風呂入る?」
「……本気でくつろぐつもりだな」
「とれるうちに休息を取っておかなければいけないもの。体を休めることも必要なこと」
その言葉に一抹の違和感を抱いた。初期のころの真那であれば休息に重要性など見出さなかったことだろう。
以前棗に初の休暇を与えられたとき真那に外出を促したことがある。棗とともにすべき任務が残っていると言って聞く耳も持たなかったというのに。
「……そう言えば、真那はどうして皇に出会ったんだ?」
思考を巡らせた結果、新たに芽生えた疑問を紡ぐ。
「私が防衛省を脱退した時期は2053年の初期。お父さんが遺体になって見つかった後のこと」
「そうだったな」
「棗はその前から防衛省に対するデモ運動をしていたの」
「ということはノヴァが出現してから一年以内か……そのころからすでにレジスタンスの活動を始めていたのか」
「活動とは言っても、レジスタンスとは言えないくらい小規模な団体だったのだけれど」
時雨が入隊した時点でレジスタンスは限定的ではあるものの数か国の支援を受けていた。
むろんM&C社の支援を受けられたのはここ数か月以内のことではあるが、それ以前から軍需大国である諸国からの支援は受けていた。それはこの三年間の間に培ってきた関係だったのだろう。
「しかしその時期からとなると、事前にラグノス計画の真相に行き着いていたのか」
「私も棗がどうして蜂起を企てるようになったのかは知らないけれど……多分、伊集院さんが関係しているんじゃないかしら」
「まあ、そうだろうな」
先日の調布市JAXA本社の作戦を決行するまで、彼らの関係など微塵にも知らされていなかった。
実際今であっても彼らがどうして対立関係にあったのかは聞かされていない。大体の予想は出来るが。
「伊集院は防衛省長だったわけだしな。皇は親父の悪事を阻止しようとしていたのかもしれない」
「棗は厳格に見えて、そのじつ家族思いなのかも」
「想像できないな」
「理由なんて言及するつもりはないけれど……いかなる理由であれど、それがリミテッドのためになることなら、正義を執行する理由には十分なりえるわ」
結局はそう言うことだろう。家族の問題から発展した蜂起だろうと防衛省を潰すことに発展したことに変わりはない。
すでに棗の目的は果たされてしまったと言っても過言ではないが、彼とてこの情勢のまま高跳びだなんて無責任なことは考えまい。レジスタンスという団体を立ち上げた以上は最後までやりきる。きっとそういう男だ。棗は。
「真那は……おっさんの死因を探るためにレジスタンスに入ったんだよな」
「ええ。お父さんが何かしらの口封じ目的で殺されたことは間違いないもの。防衛省内部でおかしな実験が行われていたことは薄々理解していたし、私が脱退する理由としては十分だったわ」
「……おっさん、何で殺されたんだろうな」
「私たちが2052年末期から翌年の頭までの記憶をそろって失っていることに、きっと関係している。そのことを探れば、お父さん殺害の真相にも辿りつけるかもしれない」
どうしてこう、時雨たちの周りにはおかしな案件ばかりが付きまとうのだろう。そうあって生まれてきたのだから、その現実を受け入れるほかないのだろうが。
それでもあまりにも防衛省の策謀が周りに収束しすぎな気がしないでもない。
「……真那、おっさんのことだが」
「気を遣わなくてもいいわ、お父さんは何かしらの研究に接触して殺された。私にとっては、その解明が今の生きがいでもあるのだもの。別の道を歩む選択肢だってあった。その上で私はこの道を歩むことを決めた……いまさら後悔も何もないわ」
真那は抑揚なく決意を感じさせる眼差しでそう断言する。無論父親の死亡に全くの悲しみがないというわけではあるまい。だが彼女はレジスタンスの人間だ。それ故に嘆いても状況は覆しえないことを理解している。
真実を暴き悪を断罪するためには、等しく自分たちが正義を成すしかないのである。
「……時雨、私、あなたのことも知りたいわ」
「え?」
「前にあなたが救済自衛寮にいた時の話は聞かされたけれど……でも、その時期のことしか知らないもの。それからのこと。防衛省に務めてからのこと。教えてくれないかしら」
彼女の声音は懇願するようなものではないが使命感を駆り立てられる。
記憶を失っている以上、時雨の人生にも何か鍵が隠されているかもしれない。が真那の瞳の中には、そう言った義務感以外にもどこか好奇心を感じさせられる。
躊躇したものの特に隠すことでもなかったために開口した。
「特別面白い話なんてないぞ」
「解っているわ。そもそも他人が面白いと感じるような人生を歩んでいる人間なんて、全人類の中で数えるほどしかいないんじゃないかしら」
「生きるのが途端に面倒になる発言だな……何から話せばいい」
「そうね。なら、私に会う前のあなたのことを」
真那の言う私というのはレジスタンス所属後の真那のことではあるまい。もっと昔、救済自衛寮にて初めて出会った時の真那のことだ。
彼女の記憶にはない出会い。おそらく自分でそう発言しながら、その言葉に違和感を抱いてはいるのだろうが。
「俺は最初から孤児だったわけじゃない。もともとは普通の生活を送っていたんだ」
「家庭があったの?」
「ああ。もともとは田舎に住んでいた。普通の家庭で普通の生活を営んでいた。だがちょっとしたはずみで事故が起き、結果両親がどっちも死んだ」
「……事件性のあること?」
「ただの交通事故だ。これに関しては本当に偶然のことだった。幸い俺は殆ど外傷なく病院に搬送されて、そして気が付いたら救済自衛寮の塀の中さ」
その時のことは鮮明に覚えている。親戚と呼べる親戚が殆どいなかったため身寄りがなくなっていた。祖父母は両方ともすでに死没していたし知人という知人もいなかった。結果、居場所のない行き場のない孤児になったわけだ。
「防衛省の連中からしてみれば、身寄りのない子供なんていなくなっても誰にも認知されない子供という認識に変わりない。勿論、親戚関係には俺が都心部の孤児院に引き取られたって伝達されたらしいが。その孤児院が、赤外線センサーとタレットで囲われた絶対不可侵の研究機関だなんて誰も知る由はないよな」
事実上救済自衛寮は孤児院などとは到底言えないような施設であった。孤児を自立の道へと養成するのではなく、外界から完全に隔離し研究素体へと要請させるための、法もへったくれもないとんでもない機関であったわけだ。
他の入居者たちも大体がそんな境遇の子供たちだったのだろう。
「正直あまりその頃のことは覚えていないんだが、俺はどうやら半年ほど意識昏迷状態にあったらしい。それが十五のころだ」
「救済自衛寮が発足してから五年後のことね」
「ああ。意識昏迷状態にあった俺はそのまま施設内で療養されていたわけじゃない」
「それは医療機関での療養を受けていたわけではない、ということ?」
「ああ、外的損傷は殆ど無かったからな。ただ俺が半年もの間目を覚まさなかったのは、精神的なショック症状があまりにもでかかったからだ。だが半年間たって目が覚めた時、俺は何も肉体的なペナルティを受けることはなかった」
通常半年間も意識不明状態にあれば、目覚めた時筋肉が衰退して歩いたり出来ないものだ。だがそうはならなかった。それは自身ではなく第三者によるケアが継続的に行われていたが故である。
「救済自衛寮という環境の中で俺が最初に出会ったのは、真那じゃないんだ」
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