第158話

「では、お兄様の提示したもう一つの議題に関しまして。どうして防衛省は台場の被害が前提的に生まれると解っていて、あのような実験に及んだのか」


 改まったようにシエナは話の転換を図った。

 防衛省は卑劣な手段で世界の統一を目論んでいる。それ故に場合によっては無実の民の命を簒奪することも厭わない。


「リミテッドの住民はそうではない。如何なる非人道的な手段によって世界統一を成し得ても、臣民がいなければ国家は成り立たない。リミテッドの住民は反逆の術を持たない非力な存在だ。それ故にラグノス計画の成就には必須な駒であるはずだ」


 ルーナスの物言いは到底まともな人間の考え方とは思えないようなものであったが確かに正論である。

 ナノマシンによる恐怖政権によって世界統一を果たしても、すべての国が日本という国に統一されるわけでは無い。あくまでも日本の傘下に下る形になるだろう。

 したらば事実上海外諸国の人間たちは日本国民にはなりようがない。しかし政権には国家が不可欠である。その国家には臣民が必要だ。

 ただえさえ少ないリミテッドの住民の命を危険にさらしてまで、佐伯たちはなぜこのような凶行に及んだのか。


「ラグノス計画の成就を最終的な終着点と定めての行動でしょう。被害損失や成果を天秤にかけ統計学的数値に算出する。その結果、彼らは自分たちの計画に支障を来さない程度の被害を見繕った。それだけのこと」

「胸糞悪い話だぜ。住民の命なんてどうでもいいってのか」


 真那が淡泊に告げた推察に、和馬は苦虫をかみつぶしたような顔で苦言を漏らした。

 防衛省の非人道政策は今に始まったことではない。が確かに今回の様に大規模殺戮劇を厭わない姿勢には度肝を抜かれる部分がある。


「あながち間違ってないでしょ、それ。台場は工業地帯ということもあって住民という住民は第三統合学園の学生が大半。その他の一般市民なんてほとんどいない。学生たちなんてリミテッドにおいてまったく重要な立場にいないし。だからこそ台場が研究の舞台に抜擢されたんでしょ」

「……人の命の重みに数や立場なんて関係ないのに」


 唯奈の推察に対し、泉澄は憂愁の影を顔にさして寂しげに呟いた。その事実はレジスタンスとして革命運動を起こすたびに幾度となく痛感されてきたことだ。

 佐伯たちは躊躇などしない。自分たちにとって無益な存在であるのならば、その家畜の首を簡単にへし折ってしまう。


「つまり、この最悪の事態も見越していたってことっすか?」

「可能性としては考慮していたでしょうね。その時の被害を最小限に抑えるために台場を選んだ。確かに台場は有数の工業地帯だけれど、でもほかにも工業地帯はいくつか機能しているわ。一つ減ったところで致命傷には至らないもの」


 真那の言うように台場はあくまでもリミテッドにおける一つの工業地帯に過ぎない。それも唯一本島から切り離されている洋上フロートであるわけで。


「場合によっては台場そのものを隔離することで、被害範囲を広げなくする手段もこうじていたことだろう」


 ルーナスが真那の発言に補足を加えるのを片耳に挟みつつ、確かにそうだと実感する。

 台場は住民が少なくレジスタンスの根城というだけでなく、本島から切り離された孤立フロートだ。場合によっては切り捨てやすい環境なのかもしれない。


「ですがですよ、それなら防衛省のセンパイ方も、ウロボロスへの対抗策を何か用意しているんじゃないですか?」

「思慮を重ねれば、その発言がいかに愚考であるかは分かるはずだ。防衛省は通常のナノマシン出現による被害しか予測できていなかっただろう。あのウロボロスという個体は全くの想定外だったはずだ」


 月瑠と同じ思考に至っていたもののルーナスの言葉を聞いてそれが違うと判断する。

 そもそも防衛省が行っていた研究に伴う避けようもない被害とは、台場停電現象だ。

 デバックフィールドの制御のための機能を駆動するために、大量の電力を消耗した。それによって停電が起きることは予期されていたことだろうが、そもそも抑制機構は本来不備などには陥らないような厳重な体制を敷いていたはずだ。

 それは優先して台場の総電力を独占していたことからもうかがえる。時雨たちの介入など防衛省も想定していなかったのだ。


「防衛省が暴走するウロボロスの対策を何もしていないとは思わないけれど……被害を完全に抑え込むことは難しいんじゃないかしら」

「デルタサイトの抑制機構が使えないとなるとな。並大抵の兵器も効果がないとくりゃ、核兵器でも持ち出すしかねえ」

「もはや核兵器を用いても、ウロボロスを完全に抹消することはできないでしょう。範囲が拡張しすぎています」

「何か解ったのか?」

「ええ。これを見てください」


 シエナはホログラムウィンドウを操作してそれを見せてくる。

 それは半透明の地球儀のようなものだった。図面からして世界全域を表示している物であることが解る。


「これはJAXAの地球観測衛星Aquaが観測している地球の様子です。たった今情報局からの伝令を受けたのですが、この海域をご覧になってください」

「海域……?」


 シエナが指差したのは日本列島から千キロ程離れた海域である。

 陸も何もないだだっ広い太平洋の一部になにやら赤い染みのようなものが浮かんでいた。

 直径数キロほどの島国ではない何か。その赤い表記に胸騒ぎを覚える。記憶が正しいのならばこの赤の色は今最も目にしたくない色となる。


「これ、もしかして……ナノマシン?」


 神妙な面持ちでシエナが首肯するのを見て皆の表情が改まる。

 世界中には本来平均して濃度1.2パーセントほどのナノマシンが溶け込んでいます。勿論デルタサイトによって守られている諸国を除いての話ですが」

「つまり常に限界までナノマシンに汚染されていたはずの海洋に、更に濃い濃度のナノマシン反応が生まれたってわけね」

「そうだ。ここまで濃度数値が高いのは、大気中に溶け込んでいるからではなく例のウロボロスが群集のまま移動をしているからだろう」

「待て、ウロボロスって……数キロほどの範囲に拡がってるぞ」

「見ての通りだ。その範囲に拡張できるほどの群集と化している」


 絶句した。何故ここまで規模が大きくなっているのか。

 NNインダクタを破壊した時点では精々数十メートルほどのサイズであったはずだ。それだのにどうしてここまで。


「なるほど……炭素ですか」


 何かが閃いたのかネイは思慮顔で開口した。


「炭素、ですか?」

「はい。少し気になっていたことがありました。ウロボロスは現世に顕現した時、何故かしばらく管制室内に留まっていました。あれだけの浸食作用を持ちながら、すぐさま壁を食い破って外に逃れようとしなかったことに、幾ばくかの疑念を抱いていたのです」


 言われてみればその通りだ。すべての物質を瞬間的にナノマシンに変質することが出来るのならば、そもそも一地点に留まる必要性がない。

 それなのにあの場に留まってU.I.F.たちを食らっていた理由。


「ウロボロスが典型的な自己複製型のナノマシンであると考えれば、説明が付きます」

「従来のナノマシンとは違うのか?」

「一概には違うと言い切れませんが、ここで重要なのは、その浸食性の度合いの違いです。ナノマシンがいかなるギミックで物質をナノマシンに変質させるのかは図りえませんが、そもそもナノマシンは医療用の機器です。人体に導入することを目的として開発されたものであり、人体の構成要素に影響をもたらす仕組みであるはずです」

「つまりどういうことだ」

「人間の体の構成元素はその二十パーセントほどが炭素です。そして、それは地球上に存在する如何なる生命体にも言えたこと。それが有機生命体である以上は、炭素は不可欠な構成要素なのです。鳥や犬、猫、魚……全てが炭素でできています」


 あいにく時雨には原子物理学の知識は皆無である。それを目線で示すとネイは一瞬呆れたような表情を見せたが、すぐに解説をしてくれる。


「つまりナノマシンはいかなる物質をも食らうわけでは無いのです」

「ナノマシンが食らう物、それが炭素ということですか?」

「おそらくはですがね。ただ建造物などを浸食せず人体を蝕むナノマシン。それを見ていればなんとなく想像がつきます。ナノマシンはおそらく炭素やケイ素と言った元素を主な存在にし浸食するのでしょう。それらを食らいナノマシンに変性させる……その海洋地点におけるナノマシンが加速度的に肥大しているのは、おそらく海中の有機生命体をことごとく食らっているからです」

「そのことから考えると、海中に生命体がいる限りウロボロスは拡張し続けるということですか?」

「海洋生命体に限らず地上の生命体も含みますね。勿論、人類も例外ではありません」


 想像するだけでも背筋が凍りつく話である。

 

「ただ、その性質が幸いしたともいえます」

「この上ない最悪の状況な気がするけどな」

「いえまさか、本来ならば制御の効かなくなったナノマシンに直面した時、私たちはもっとひどい状況に立たされていたはずですよ。今は有機生命体にのみその浸食の矛先を向けているからいいものの、その増殖が他の元素にも及ぶようになれば……幾何学級数的に、その個体数は増やされます。地球上に存在する物質、それは自然の物であろうと人工物であろうと見境なく変質させてしまう。結果、数時間と持たずにこの地球そのものが、ナノマシンの塊に変化してしまうのです」

「グレイ・グー、ですね」


 耳にしたことがあるような無いような名称が泉澄の口から発せられた。

 その意味を目線で問いかけると泉澄はしばらく考え込んでから叙説を始めた。


「ネイ様が言っている、地球がナノマシンの塊になってしまうという現象です」

「そんなことがあり得るのか?」

「この世に有機物無機物という概念が存在する以上、炭素を食らう今のウロボロスには無理でしょうが……いかなる元素をも変質させてしまうナノマシンが生み出されたのならば、あり得てしまうかもしれません」

「まあ、グレイ・グーの現象は絶対にありえないと唱える科学者もいますがね。細菌と同じで構成要素の有無でナノマシンの存在証明すら危うくなるという意見であったり、増殖も事実上不可能という論であったり。ただ現状ナノマシンが増殖を継続していることを見ても、それらの論は、この状況に置いては迷妄であると言わざるを得ませんね……まあ何であれ、現状ウロボロスにはその機能は備わっていないので、心配する必要はありません」


 そう言われても安堵など出来ようはずもない。たとえこの地球そのものが浸食されることはないにしても、有機生命体が存在する以上ウロボロスは拡大し続ける。

 そうなればウロボロスはいずれこの世界をも飲み込んでしまうような規模になるだろう。その次元に達してしまえば、もはや人間ではいかなる手段を用いたところで太刀打ちしようがない。


「心配そうな顔をしていますね」

「心配ないわけないだろ」

「時雨様の不安の意味も解りますが、申し上げます。その危惧はおそらく実現しえないでしょう」

「どういう意味?」

「世界地図をもう一度ご覧になってください」


 訝しむ時雨にネイは言葉を濁して閲覧を促してくる。彼女の真意を真鍮で探りつつも、指示に従った方が早いと判断して球体を眺めた。


「ウロボロスですが現状どうなっていますか?」

「どうって……かなりの規模に発展しているわ」

「はたして、それは本当でしょうか」

「何が言いたいの?」

「先ほどこれを確認した時点から、ウロボロスが拡張した形跡はありますか?」


 言われてみてそう言えばと考える。確かに殆ど大きくなった様子はない。

 もともと数キロほどの規模であったため、この球体の表面にはドットのような表示しかされていなかったが。それ故に視覚情報では判別しきれないだけか?


「これは前提条件ですが、そもそもナノマシンが増殖を始めた場合、通常もっと極端に拡張を始めます。グレイ・グーに関しては、自己増殖ナノマシンの拡散から約数時間で地球が壊滅すると言われているくらいですから」

「つまり、ウロボロスは今拡張を止めているということですか?」

「もしくは、かなり拡張の速度を減退させていると考えるのが自然ですかね」


 であるならばこの球体の表面に黒点のように染みついているウロボロスの反応は放置していてもいいということか。否そう言うわけでは無いだろう。ウロボロスが太平洋に乗り出し、無数の有機生命体を食らっているのには意味があるはずだ。

 その理由に自身が拡張するため以外の何があるというのだろう。


「ウロボロスの動向に関しましては東様の方に連絡を入れ、厳戒な警戒態勢を築いていただくことにしましょう」

「ま、防衛省がウロボロスの対応に出るのを悠長に待っていられる状況でもないしな」

「今回の一件からも解ることだが、防衛省はラグノス計画の成就のためならばリミテッドの住民の一部の命が失われることも厭わない。たとえ防衛省がウロボロスの浸食を阻む手段を有しているのだとしても、それが必ずしも私たちレジスタンスや、住民にとって良い結果を生むとも限らない」


 つまりは二重の意味で油断大敵ということだ。ウロボロス単体でも脅威であるのに防衛省の出方によっては退路も断たれるわけだ。強大な敵二勢力に挟み撃ちにされているようなものだろう。八方塞とはこのことか。

 会合はそれにて終局を迎えた。色々な懸案事項はあるが皆にも休息が必要だという計らいあっての解散である。

 皆が部屋から立ち去っていくなか唯奈と真那は部屋の中に残っていた。彼女たちの意図は聞くまでもなく明白だ。


「クレア様、凛音様、もう夜も更けてきました。遅くなる前に入浴されてはいかがですか?」


 彼女たちの考えを汲んだのだろう。さりげなくネイが凛音たちにこの部屋からの脱退を促す。

 

「ああ、もうすぐ十時なのだ……ユイナも久々に一緒に入るのか?」

「生憎だけど私はまだ用事があるから。アンタたちだけで入ってなさい」

「解ったのだ。クレア、お風呂に行くのだ」

「な、なのですっ」


 案外すんなりと凛音は受け入れ、クレアの手首を掴んでバスルームへと連れ込んでいく。彼女たちが出てこないのを確認し目線で唯奈に報告を促した。


「長居するつもりはないわ。端的に言うと……今回、筋肉ハゲダルマはおかしな行動には及ばなかった」


 唯奈が残った理由は他でもない、彼女に監視を任せていた幸正に関する情報の伝達のためである。

 防衛省と何かしらの形で接点があることは間違いがない幸正。彼が今回の台場停電現象に関わっていない保証はないため、唯奈には彼の監視の任についてもらっていた。これは棗の指示でもある。


「幸正のおじさんの行動を詳しく教えて」

「特に説明するような不審な行動はなかったけどね。まあいいわ。アンタたちと別れてから、私は遠隔でハゲダルマの監視の任に就いた。ハゲダルマの担当は霧隠月瑠や和馬翔陽と同じで、遊撃部隊の指揮。停電現象が起きてからノヴァの出現まで特別怪しい動きは見せなかった。ノヴァの鎮静後は、率先して住民の護送とその後の洋上警戒の任務に取り組んでたし。今はどうだか知らないけど」


 その話を聞く限り特別怪しい様子はない。しかし彼が防衛省と接触していたことは事実であるのだ。何かを目論んでいることは明白であるし諜報員という可能性も薄れるわけでは無い。

 

「今回は峨朗の出る幕がなかったってことか……」

「それはどうかしらね。ただ言えることは、筋肉ハゲダルマも私たちに監視されていたことに気が付いていたかもしれないっていうこと」

「この間の追跡に気付かれていたから?」

「そう。私たちがハゲダルマのことを警戒するように、私たちもまた警戒されてるかもって話」


 もし感づかれているのならば幸正も迂闊な行動には出ないであろう。しかしそう言った前提があるということは、彼の悪逆を暴くきっかけもつかめなくなるということ。


「まあ、そのうちボロが出るでしょ」

「そうはいっても常に監視なんて出来るはずもないだろ。出来たとしても峨朗も必要以上の警戒は怠らないだろ」

「その均衡状態によって幸正様の犯行が妨げられるというのならば、それでいいではないですか。問題は起きなければ問題になりえないんですよ」

「そんな極端な……」

「冗談で言ってんでしょシール・リンクも。まあ心配しなくてもいい。それに関しては既に対策済み」


 唯奈はそう発して何やらトランシーバー然としたものを手に取る。何かの着信機であろうそれには見覚えがなかった。

 通常ビジュアライザーを介して無線を取り合うのである。このような端末を用いることは多くない。


「筋肉ハゲダルマに発信機と盗聴器を仕掛けてる」

「用意周到だな……ばれないのか?」

「筋肉ハゲダルマが避難誘導をしている間、ビジュアライザーの内部に仕込んでおいたから。流石に気付かれないんじゃない?」


 おそらく避難誘導に際してなにかしらビジュアライザーを幸正が外す機会があったのだろう。その機会が訪れることなど予期していたはずもないわけだが唯奈の周到ぶりには貫禄すら覚えさせられる。これが人間観察に秀でたスナイパーの観察眼と言ったところか。


「盗聴なんてしていても、常にリアルタイムで聞き耳立てておくわけにもいかない。録音しようにもブランクが空きすぎる。問題が起きてから言質を抑えても何の意味もない」

「まあそれはアンタの有能な人工知能が何とかしてくれんでしょ」

「投げ槍ですね。ただ有能という点に関しては激しく肯定いたします。道理をわきまえている唯奈様の御願いとあっては、私としても引き受けないわけにはいきませんね」


 ネイは鼻を高くしたような声音で偉そうにそう言ってのけた。

 どうにも月瑠におだてられて居丈高な態度を取る凛音にどこか似ているように思える。さといネイと言えど相手の思惑を正確に読み取れないこともあるという話だ。


「私がリアルタイムで常に幸正様の周囲の音源を観測します」

「そんなこと可能なの?」

「ええ。私は時雨様のように脆弱な家畜ではないので、睡眠という欲に駆られ惰眠を貪ることもありませんので」


 それだと睡眠を必要とするすべての生命体が家畜の扱いになるが。


「それなら、ネイに任せてもいいかしら」

「ええ。お任せください。何かしらの動きがあった場合、早急に我が養豚場の家畜を一匹報告に上がらせますので。時雨和豚を。あ、でも豚足なので、きっと情報が伝達されるころには覆水盆にかえらず状態かもしれませんね」


 一体どういう罵倒の仕方なのだろうか、次元が三段階くらい超越しすぎていて理解不能であった。

 

「ま、筋肉ハゲダルマの監視は任せたわ」

「唯奈様方もそろそろ女子療に向われた方がよろしいかと。あまり長時間ここに滞在し、幸正様などに勘ぐられては元も子もないので」

「峨朗の裏切りに確信を持てるまではこっちも最大限警戒して――」


 その時何かが床に跳ねる音がした。金属製の重量のあるものが落ちたような鈍い落下音だ。次いで開き戸を勢いよく閉じるような音。

 はっとして振り返る。そこには誰の姿も見当たらない。代わりに浴室の開き戸の前にはガスマスクが転がっていた。


「あらら、やってしまいましたね」


 残された痕跡を確認してネイは後味悪そうに気を咎める。今は閉ざされている浴室の扉。たった先ほどまでそこに誰かが立っていたのだ。

 迂闊にも彼女たちに聞かれてしまうという可能性を熟慮していなかった。入浴している間ならば聞かれることはないと。

 警戒は怠れないなどと豪語しておきながら、こんな簡単にボロが出た。


「クレアかしら」

「あるいは、どちらもですかね」


 引き戸の前にまで歩み寄った真那は落ちているガスマスクを手に取り立ちあがる。彼女はしばし神妙な面持ちでそれを眺めていたがやがて静かにため息をついた。


「ひとまず今日は解散しましょう。これ以上刺激する結果になっては元も子もないから」


 浴室との境に築かれた引き戸を一瞥するも、その奥にいるであろう少女に声を掛けることはしない。ガスマスクをベッド脇に置き、黙って部屋の出口までを辿る。そうしてハンガーにかけていたコートを身にまとうや室外へと出て行った。


「こうなったからにはもう仕方ない。私も帰るわ」

「柊まで」

「アンタが何とかしなさい。同居人なんだから」

「そんな無責任な……」


 非難の目で訴えかけるも唯奈は意に介した様子もなく真那の背中を追う。彼女同様コートで身を包ませ靴を履き帰宅の準備を始めていた。

 悄然と立ち尽くし扉のノブに手を掛けた唯奈を傍観していると、彼女はそこで視線だけ振り返らせる。


「これでよかったのかもね」

「え?」

「どうせいつかは直面しなきゃいけない現実よ。だってハゲダルマが防衛省の人間と接点を有している以上、私たちの間に和解の選択肢なんてないし」

「…………」

「それが少し早まっただけ。私たちが介入してもしなくても、きっと未来は変わらない」


 意味深にそう呟いて唯奈は後ろ手に扉を閉めた。再び室内は外界から閉ざされ、だが今度は酷く冷たい静寂に包まれる。音という音がなく、誰もいないのではないかという不気味な静けさが部屋の中に充満していた。

 バスルームからは少女たちの賑やかな談笑が一切聞こえて来ない。息を潜めたように、時間そのものが停止してしまっているかのように。嫌な汗が首筋を伝っているのを感じていた。

 唯奈はなるようにしかならない的な発言をしていた。しかしこの事実は幼い少女にはあまりにも苛酷すぎる。

 本当ならば然るべき時に然るべき方法で教えるべきだったのだ。彼女たちが壊れぬよう最大限気を遣って――――。


「気持ちのいいぬくぬくお風呂だったのだ」

「ぬくぬくなのです」


 そんな憂慮など無為な物に思えるような滑らかな笑声が空気を振動させていた。あまつさえ凛音は呑気に鼻歌まで歌っている。ひどく音痴だったが。


「シグレ、ユイナたちは帰ってしまったのか?」

「ああ……」


 呆気にとられ曖昧な返答しか返せない。そんな時雨を訝しく伺う様子もなく凛音は鼻歌を再開させベッドに飛び乗った。

 

「お冬のおふとんさ~んは、なんだかとってもふっかふかなのなのだ」

「あっ……髪を乾かさずに横になってはいけないのです」


 メロディも何もない歌詞を口ずさんでベッド上をバウンディングする凛音を困ったようにクレアが窘める。いつも通りの光景だ。おかしなほどにいつも通りの。

 まさか先ほどの会話は聞いていなかったのか。何かの拍子にガスマスクがバスルームから落下しただけなのか。


「リオンはドライヤーが嫌いなのだ。頭があっつくなるのだ」

「それは凛音さんが不慣れだからなのです……私が乾かしてあげるのです」

「別にいいのだ」

「よくないのです」

「めんどうなのだ」

「面倒ではないのです」


 クレアは面倒くさそうに返答する凛音に根気よく応答をしていた。

 彼女はドライヤーを手に凛音の元まで歩み寄るとベッド上に乗りあがり、凛音の長い髪に風を送り込んでゆく。


「確かにリオンが自分でやる時よりも気持ちがいいのだ」

「なのです」

「クレアはてくににゃんなのだ」

「……えへへ」


 姉に褒められ気を良くしたのかクレアはだらしない顔をする。仲睦まじくじゃれ合う幼い少女たちの姿を伺うたびに、彼女たちが姉妹なのであると再実感させられる。

 凛音の耳を覚束ない手つきながら優しく触って彼女の髪を乾かすクレア。凛音はどこかこそばゆそうに抵抗する様子もなく。心地よさそうにまで見える面持ちで、足を組んだまま陽気そうに鼻歌を奏でていた。


「……思い過ごしだったか」


 この様子だと彼女たちのどちらか、もしくはどちらもが何かを気負っているという様子はない。先ほどの会話は聞かれていなかったということか。

 一抹の安堵に見舞われながら彼女らに気付かれぬよう内心で深くため息をついた。

 今後はもっと気を配った方がいいだろう。彼女たちは浴室にいたとはいえ、今回のように早めに出てきたりなどという展開はいくらでも起こりえる。時と場所をわきまえて行動すべきだろうな。


「クレアの手つきは、かーさまみたいにあったかいのだ」

「ッ!?」


 極冬を報せる冷気の予兆のように和やかな空気は吹き散らされた。

 電源が入ったままのドライヤーがクレアの手から滑り落ち、ベッドにはじけ床に着く。温風が吐き出される規則正しい風音に晒されながら、取り落とした本人はそれを拾い上げようとはしなかった。否、拾い上げようとすら出来ないかのように硬直していた。


「ど、どうして……なのです」

「クレア、どうしたのだ?」

「どうしてお母様のことを……」


 クレアの震える声には明らかなる動揺の色が見て取れる。取り乱し八幡のやぶに紛れ込んだように惑い、その双眸を大きく見開かさせる。

 対し凛音に関しては特別動揺している様子も、焦燥に駆り立てられ落ち着かない様子もない。


「リオンはただ、かーさまならこんな手つきなのだろうか、と考えただけなのだぞ」

「っ……そ、そうなのですか」


 クレアは反射的に安堵の色をその顔に浮かべ、やがて自分の迂闊さを悔いるような顔をして見せた。

 

「どうかしたのか?」

「い、いえ、何でもないのです」


 クレアは間を置いたのち目を反らしそう答える。彼女が何かを隠しているのは明確だった。

 

「そうか、それならばよいのだが」


 それに凛音は何も追求しようとはしない。その顔に不思議そうな色を張り付けたまま、ドライヤーを黙って取り上げただけであった。


「今度はリオンがクレアの髪を乾かしてあげるのだ」

「ありがとうござい――あつッ!?」

「ぬぁ? ごめんなさいなのだ」

「い、いえ……ッ、あ、熱いのですっ」

「むぬぅ難しいのだ」

「それよりドライヤーを離してくださいなのです――――!」

「急激な熱による影響で髪がすべて抜ければ、幸正様と仲良くお揃いになれますよ」

「ぜ、絶対に嫌なのですっ!?」


 クレアは何かを気に病んでいるようだが凛音はそれを気にさせる暇すら与えない。涙目になって逃げだそうとするクレアを拘束して、その髪を乾かそうと躍起になっていた。

 なんとなく凛音のその行動に別の目的があるように思えた。何かを抱えているクレア。彼女が隠している何かの重みを払拭すべく、話を大きく反らさせたのだと感じた。


「リオンボディブローなのだっ」

「ヘアブローなのですっ、熱いのれすっ」

「リオンヘアブローなのだっ」

「ぅぇぇぇぇぇぇぇっ!」


 妹を苛めるその姿を見ていれば、そんな意図などないように思えなくもない。これも思い過ごしなのかも知れないが。

 ベッドから飛び降りて鬼ごっこを始めた少女たちの姿を、ぼんやりと目で追いながら頭の中で思考を紡ぐ。

 クレアが抱えている秘密とは一体何なのだろうか。彼女が凛音に対して何かを隠し、それについて感づかれぬように取り計らっていることは火を見るよりも明らかだ。それがおそらく彼女たちの母親に関する話であることも。


「アニエス・ロジェ……謎多き女性ですね」


 ネイのその言葉に促されるように卓上に伏せられていたフォトフレームに手を掛けた。セピア色にくすんだガラスに隔てられた内側には変わらぬ四人の男女が佇んでいる、

 実験体アナライトになる前のころの凛音とクレア。戯れる二人を挟む配置で佇む彼女たちの両親の姿。相も変わらず仏頂面の幸正の反対側にはクレアによく似たプラチナゴールドの頭髪の女性。アニエス・ロジェ。母親だ。


「クレア様の言質によればすでに死去しているようですね。原因はとあるプロジェクトにかかわったこと。その実験における産業事故に巻き込まれたことが直接的な原因となった……」

「ラグノス計画関係で間違いはないだろうな」

「気になりますか?」

「……どうだろうな」


 試すようなその問いかけに言葉を濁した。気にならないといえば嘘になる。だがこれは家庭内の問題だろう。関係のない話だ。

 

「そうやって目を背けてもいられない状況になってきましたがね」

「……どういう意味だ」

「アニエス・ロジェの死亡、これは幸正様の背信行為、それに何かしらの関係があると考えて然るべきでしょう。幸正様の行動に監視の目を向けるのならば。凛音様、そしてクレア様の間に取り巻く蟠り。それに足を踏み入れざるを得なくなるのは必然なのです」


 机上の空論というわけでは無いだろう。確かにネイの言うとおりだ。クレアが抱えている何か、そしてアニエス・ロジェに関すること。凛音がアニエス・ロジェの記憶を失っていることに関してもそうだ。

 幸正が防衛省に加担していることに何かしらの形で関係していると考えてもおかしくはない。おそらく接点がある。

 踏み込むしかないのだろうか。あえて避けてきた彼女たちの心の闇に、不躾にも介入しなければならないのだろうか。

 心のどこかでなんとなく戦慄に似通った予感を抱いていた。もしこの様々な状況の入り乱れた交錯に足を踏み入れてしまったら。きっと取り返しのつかない事態に陥ってしまうのではないかと、そう――――。


  

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