第148話


「……くしゅっ」


 クレアという人間に関する過ぎた想察は愛らしいくしゃみの音で相殺された。


「寒かったか?」

「少し風邪気味なだけなのです」


 鼻を擦りながらクレアは再度くしゃみをした。


「風邪……そう言えばどこに行ってたんだ。そんな薄着で」

「お散歩なのです」


 部屋着ではないものの十二月も半ばに差し掛かったこの時期では明らかに薄着だと言えるだろう。

 前回と同じ返答。それが嘘であるのだろうなとだいたいの憶測は立ててみるものの詮索は避ける。これ以上の過干渉は身の程知らずと言ったところだろう。

 暖房を強くしコーヒーを入れるが、熱湯を注いだ辺りで彼女がコーヒーを飲めるのかどうか知らないことを思い出した。


「ココアの方がいいか」

「大丈夫なのです」

「そうか? じゃあミルクか砂糖は、」

「そ、それも大丈夫なのです」


 意外とビターな味覚なのだろうか。十三歳児には濃すぎるかと思ったが自分が飲むときと同じ濃度でドリップする。

 そうしてそれをベッドに腰を落ち着かせたままの彼女に差し出した。クレアはそれを受け取るなりしばらくその手を温めていた。

 揺れる湖面をじっと眺めていたかと思いきや思い切ったように口をつける。


「苦いのれす……」


 遅れて苦味がきたようでクレアは限界にまで顔を渋らせて見せた。どうやら虚勢を張っていただけであるようだ。

 わずかに涙目をする彼女の前に屈み口元を拭ってやると、お子様扱いされたと思ったようでクレアは羞恥に頬を朱に染める。


「飲めないなら言えばいいだろ」

「ごめんなさいなのです」

「カップよこしな。ココアに変えてやる」

「お、お願いしますなのです」


 遠慮がちにクーリング・オフされたカップをもって、シンクに煎れたばかりのコーヒーを流し捨てた。軽く水で濯ぎ改めてココアを濃いめにして淹れる。

 一体どうしてあんな虚勢を張ったものかと勘繰りつつそれを差し出すと、慎重に口をつけ火傷をしないように飲んでいた。


「……さっきはごめんなさいなのです」

「何故あのような見栄を?」


 時雨同様気になっていたのかネイが先んじて問いかける。


「折角ご厚意で淹れてくれたので断るのはいけないかなって」

「謙虚な性格ですね。時雨様も少しは見習ってもらいたいものです」

「今の世界、少しくらい図々しい方が生きやすいだろ」

「正鵠を射た指摘ではありますね。不服ではありますが」

「何であれ、こういう謙虚な姿を見てるとちょっと違和感まで覚えるな」

「違和感、ですか?」


 ふぅふぅと湯気を吹いて冷ましているクレアの様子を伺う。彼女は訝しそうにその真意を探ってきていた。


「クレアと凛音ってあまり似てないなとな」

「そう、でしょうか」

「凛音はその快活さが取り柄って感じの性格だ。対してクレアは比較的内気だし慎ましい。対極的だなとな。悪気はない」

「時雨様、便宜を図ったつもりでしょうが、その無神経な言葉はクレア様の心に深く突き刺さっています。慎ましいだなんて……クレア様も気にされているのです。いくらオブラートに包んだとはいえ、誰もが気付いているその事実に触れるなど……」

「え? ……ふぇぇ」


 しばらく熟考してその意に気が付いたのか、クレアは情けない声で泣きそうな顔になる。

 そう言う意味で言ったわけではないのだが。まあ確かに姉に比べて少々胸への栄養は行きわたっていないようだが。しかし十三歳児だろう、多感な時期だろうがそんなことを気にするとも思えないが。


「しかして、確かにこの違いは気になりますね」

「対極的と言うか表裏的というか、」

「アニエス様はかなりのホルスタインダイナマイトでしたようですので、凛音様の方が母型の遺伝子を受け継いでいるのでしょうか」

「その話まだ続いているのか」

「しかしそう考えるとクレア様は母型というよりは父型に……まさかクレア様は将来、幸正様並みの筋肉体型に」

「うぇぇ」


 そんな嫌そうな声出すなよ。仮にも父親だぞ。普通は嫌だろうが。


「それだけではなく将来その頭も幸正様に似て無毛地帯に……」

「っ……!? それは最悪なのです」

「本人がどう願おうと遺伝というものは残酷なのです。時に僅かに時に激しく、その毛根を消耗させていく……」

「い、嫌なのです!」

「冗談です。クレア様の頭髪はお母様によく似ているので、禿ることはないかと」

「よ、よかったのれす……」


 クレアは頭を抱えながらべそをかいていた。

 ネイの悪質な冗談にも問題があると思うが、しかしてクレアの純粋さにも少しばかしの不安を拭えない。こんな性格では本当に髪が抜けやすくなりそうだ。


「それで話を戻しますが、クレア様と凛音様にはかなりの差異がありますね」

「似てるのは身長くらいだな」

「そうですね。体格的な相違点もさることながら、時雨様の言うようにその性格の対極性は火を見るよりも明らか。どうしてこう同じ環境で育ったはずのお二人の間に、ここまで差が出るのか」

「え、えっと……」


 視線を受けてクレアは惑ったように言葉を濁す。

 そうしてガスマスクを胸に数歩後ずさると、ベッドの存在を失念していたのか足を躓かせて仰向けに横転した。


「この間の抜け方も凛音からは全く感じられないな」

「凛音様は時折阿呆な発言を致しますがね」

「アホウとは失礼なのだ」


 たった今帰宅したばかりなのか開かれた扉の向こうには凛音が佇んでいる。


「リオンは一応オオカミなのだぞ。鳥ではないのだ」

「おそらくアホウドリのことを申しているのでしょうが、私はそのような抽象的な表現をしたつもりは毛頭ございません。単純に凛音様が愚昧であると申しました」

「愚昧とは何なのだ?」

「ぼんくらという意味です」

「ひどいのだリオンはぼんくらではないのだっ」


 彼女はむっとしたように頬を膨張させ穴でも開いたようにそれもすぐに萎んでいく。そうして普段よりも心なしか重たい足取りで室内に入ってきた。


「疲れ気味だな」

「ゼミの者どもに色々と連れまわされたのだ……」


 彼女は女子たちに放課後も絡まれていたようだ。救済を求めるような目で時雨を見ていたが、シトラシアに行くという話になっていたため見て見ぬふりをして帰宅したのである。

 彼女が普通の環境で普通の生活を少しでも送れるというこの状況。これも長くは続かないことだろう。それならば極力彼女の私生活に介入しないべきだ。レジスタンスが傍にいては彼女は精神的にも肉体的にも休まらないことであろう。


「でも、どうしてそんなに疲れているのです?」

「ゴザルのやつが尾行してきていたのだ」

「懲りない奴だ。撃退はできたのか?」

「何故か襲われる前にゴザルのやつが転んだのだ」

「転んだですか?」

「うぬ、どこからか飛んできたガッコーの椅子が着弾してな」


 どうやら過度な干渉は控えつつも、常に凛音を尾行しているストーカーがもう一人いたらしい。

 まあ直接的にかかわっていない以上、得に凛音に意識させることはないと思うが。実際その椅子の出所に見当はつけていないようであるし。


「そんなことよりシグレ、とーさまを見てはおらぬか?」

「……見てないぞ」


 幸正に関する供述。それが凛音の口から出て反射的に身構える。

 

「幸正様がどうかされたのですか?」

「とーさまに会おうと思ってな、帰りにとーさまの部屋によってきたのだが。誰もいなかったのだ」

「あ……」


 凛音のその発言を聞いて何か思い当ったのかクレアが息を漏らす。何か知っているのかと横目で彼女の様子を伺うがどうやら発言の意志はないらしい。

 凛音はクレアのその反応には気が付かなかったようで、腕を組んでう~むと唸りつつも大きく伸びをして見せた。


「……疲れたのだぁ」

「ショッピングはそんなに疲れるものなのですか?」

「うむ、商品を見て回るのは疲れぬのだがな。ゼミの者どもが沢山歩き回るのだ。それについていくのが一番疲れるのだぞ」

「女子高生と言えばショッピングとなるとやたら歩き回りますからね。普段は『そんなアウトドアなことには興味ない』オーラを出して和馬様に清純派アピールをする女子も。男の目がなくなればあたかも鍵の壊れた檻の中のニワトリのようにあっちやこっち、無尽蔵な活力で歩き回りますよね」

「例えがひどいな」

「でもちょっと楽しそうなのです」


 クレアはそんな凛音のことを微笑ましく見守っていた。

 苦悩ばかりにまみれる環境の中で少しでも凛音に与えられたその普通の生活を喜んでいるのか。姉を見つめるクレアのその瞳は妹のそれだった。


「クレアもいきたいのか?」

「いえ、そう言うわけではないのです」

「ならば行きたくないのか?」

「そう言うわけでもないのです」

「なんだ、行きたいのではないか」

「いえ行きたくなんてな……あぅ」


 堂々巡りに至っていることに気が付いたのかクレアは言葉を失う。


「私はお父様に外出を禁じられていますので……」

「そうなのか?」

「はい。学生ではないお前は原則部屋にいるように、と」

「それは酷いのだ。とーさまに抗議してくるのだっ」

「ま、待ってくださいなのです!」


 踵を返して部屋から出ていこうとする凛音にクレアが静止をかける。


「何故止めるのだ、このままではクレアがニートになってしまうのだ。クレアの引き籠り街道はリオンお姉さんが揉み消さなければいけないのだ」

「ニートではないのですっ……私はいいのです。私はこの部屋に籠っているのが好きなのです」

「……なら、いいのだがな」


 珍しく自分の意志を貫き通そうとするクレアに面食らったのかもしれない。凛音は納得いっていない様子ではあったが、渋々とこちらに向き直る。


「どちらにせよ幸正様は部屋にいなかったのです。今向かっても、いない可能性の方が高いでしょうね」


 幸正という名前に先ほどのクレアの発言を思い返す。

 彼女は幸正に命じられ部屋から出ないようにしていると言っていた。だがこの部屋に時雨が戻ってきた時点で出かけていたわけだ。

 先ほどは散歩と言ってごまかしていたわけだが、クレアが幸正の言いつけをしっかり守っていると仮定すると、彼女の出立先は大方絞られる。父親のもとに出向いていたと考えるのが自然だろう。


「むぅ……だがクレア、おぬしはショッピングに興味があるのだろ?」

「なくはないですけど……」

「やはり納得がいかないのだ」


 凛音は腕を組んだままその眉根を寄せる。以前この部屋に居住していた時も、彼女は今と同じようにクレアの境遇を気にしていた。

 学生でないため極力この部屋から出ることが許されないクレア。以前は凛音が勝手についてきてキャンパスに潜入してしまったため監視役として動員された。

 今回は状況が違う。そもそも学園に通うことが出来ない彼女をここに連れてきたことに意味など必要なのか。


「そうはいっても峨朗の言いつけだ」

「だが……」

「本当にいいのです。大丈夫なのです」


 それと同時に凛音の腹部からくぅと腹の虫が鳴く。


「……お腹減ったのだ」

「もうそんな時間か」


 時刻を確認してみればすでに八時を回っている。以前は帰宅時に何かしらの食料品を仕入れていたが今回は久々であったため失念していた。

 凛音の様子を見ても、シトラシアに出向くだけ出向いて食事はしていない様子であるし、クレアも同様だろう。


「何か買ってくる」

「待つのだ」


 コートを手に立ち上がる時雨の裾を凛音が掴み静止させる。

 

「今日はお外で何か食べたいのだぞ」

「外でって……歩き回って疲れたんだろ」

「いいのだ。お外で食べたい気分なのだ」

「いいではないですか時雨様。外食を致しましょうよ」


 ネイが制する。

 

「それともあれですか、金がない金がないと言いつつ遊廓や賭博場で散財したことを押し隠そうとでもしているのですか? しかし隠しても無駄です。時雨様が日ごろから他ヒロイン攻略にうつつをぬかし、そのための選択肢を選ぶか否かと足踏みしていることは、記録係の私にはお見通しなんですよ」

「何の話だ」

「まあこの作品選択肢ないですけどね」


 どうにもネイのその脈絡のない発言には裏があるように思えて仕方ない。

 目線で彼女の真意を探ると、ネイはいつくしむような目で凛音のことを見つめていた。その凛音はクレアのことを流し目に何度も見ていて。


「なぁシグレ、だめか?」


 視線を移行させその妹を見やる。クレアは困ったように指先を触れあわせ言葉を選んでいるようであった。


「ですが、お外には出られないのです」

「それはとーさまの命令だからなのだろ?」

「は、はい」

「クレアはリオンの妹なのだ。そしてリオンはクレアのおねーさん。妹はおねーさんの命令に従わなければならぬのが鉄則なのだ」


 断ろうとするクレアに有無を言わさず凛音はその手首を手に掴む。そうしてクレアを立ち上がらせると彼女のコートを手に取った。


「よいだろシグレ」

「俺に確認取らなくても」

「幸正様に後ほど便宜を取るのは時雨様ですので、この確認は意味のあることかと」


 あの幸正にどう説明したものかと考えあぐねるが不思議と凛音を止めることはしない。

 突然外食をしたいなどと言い出したのは、決して贅沢をしたいという豪遊欲からではない。彼女なりのクレアへの気遣いによる物なのだろう。クレアもそれは理解しているからなのかきっぱりと断りきれずにいるようだ。


「で、でもお父様に怒られてしまうのです……時雨さんが」

「俺が弁解するのはもう決まっているのか」

「よいではないか、そんなことは些細なことなのだぞ」

「確かに些細だが完全にとばっちりだ」

「うるせえですよ解消無しぐれ様」


 納得はいかないが、まあここは口を挟まない方がいいだろう。


「で、でも」

「でもも何もないのだ。クレアはおねーさんと一緒に外食をしたくはないのか?」

「えっと、私は……」


 返答に窮したクレアに視線で助け船を求められる。だが時雨は知らぬ存ぜぬを貫いてコートに腕を通した。

 

「というわけでニート生活もおしまいにするのだ。リオンはクレアの将来が心配でならないのだ」

「凛音様の心配はそう言うことなんですか」

「違うだろ」

「分かったのです……」


 致し方なくといった様子でクレアは首肯する。嫌々といった様子でもない。内心では外に出たいという願望もあったのだろう。

 どうしてか極端に幸正の言葉に翻弄されがちのこの少女。少しも抵抗するという選択肢を見出してはいないが、さりとて全く欲がないわけではないのだろう。クレアも年頃の中学生なのだ。

 女子学生とショッピングをする姉(飛び級もいいところだが)を見て、自分もそう言った普通のことをしたいという願望も少なからず芽生えていて然るべきと言える。

 凛音に引かれて外に出たクレアの背中を追い時雨もまた室外へと踊りでる。


「何が食べたいんだ」

「リオンたちが選んでもいいのか?」


 とりあえず目的地も定めずに放浪していては体が冷えるため、シトラシアに向うことにする。その道中リクエストを募集すると真っ先に凛音が食いついた。


「クレアの行きたい場所を選んだ方がいいんじゃないか」

「それもそうなのだ。クレア、ユイパイマンがある場所で、どこか行きたいところはあるか?」

「謙虚な妹とは違って凛音様は遠慮というものを知らないようですね」

「折角の御出かけなのだ。この機会にクレアにもユイパイマンを布教しようと思ってな」


 凛音が食べたいだけの気もするが。


「ユイパイマンの布教活動に関しては私も賛成いたします。ユイパイマンには膨大なトリアシルグリセロールが含まれています。あの資源は本来観賞用に留まらず、新たなる化石燃料として運用すべきなのです……話が膨らんでおりますね、胸部だけに」


 黙れよ。


「近年ではメタンハイドレートやバイオマスといった新エネルギーの開拓も進んでいました。が、ノヴァの出現によってそれらの主な産出地にも出向くことが難しくなりましたよね。ならば一家に一台ユイパイマンが設備される時代が来れば、いずれ来るであろう第二の氷河期に備えることが出来るのです。無限のエネルギーによって」

「唯奈さんは肉まんに留まらず、家電業界にも進出中なのです……?」

「ちなみにほかの目的でも活用することが出来ます。ユイパイマンは一家に一台レベルの需要になりえた時、その真価を遂げるのです。消費者の暖欲に限らず、その情欲すらも満たす器としてその豊満なトリアシルグリセロールを」

「そこまでにしてくれ頼むから」


 第一暖を取るために燃焼していたら、すぐにそのトリアシルグリセロールが焼失してしまうではないか。いや何真面目に考察しているのだ。


「ユイパイマンのあるお店、なのですか」


 いまだに幸正の言いつけを破っていることが気がかりなのか、落ち着かない様子のクレア。だが彼女は観念したように考え始める。


「そもそもユイパイマンは売店にしか売っていない気がするのです……」

「そうなのか?」

「それなら売店なのです」

「それだと外出した意味がないだろ」

「た、確かにそうなのです」


 そんなことを話しているうちに目の前にはシトラシアが迫ってきていた。店内に足を踏み込むと途端に生温い空気にさらされる。

 適度な暖房の効いた店内にはかなりの人だかりができていた。そのうちの殆どが学園の学生ではあるが、あまりクレアや凛音、無論時雨も人目に付かない方がいいのは事実だ。

 凛音のフードを彼女の大きな耳を隠すように被せる。早急に目的テナントを決めた方がいいだろう。


「行きたいところはないのか」

「無くはないのです」

「そうなのか? ならばいってみるがいいのだ」

「で、でもいいのです……」


 クレアは遠慮を決め込む。普段から遠慮がちな性格の彼女であるが、今回は謙虚さからくる遠慮というわけでもない。

 じっと二人して見つめているとクレアはどこか照れくさそうにその指先を触れあわせる。そうして気まずげにその唇を開いた。


「とんこつラーメンが食べたいのです」

「なるほど、確かにそれは申し上げにくいでしょうね」

「ラーメンなんて女子も普通に食べるだろ。それよりも、たくあんばかり食べている霧隠の方がよっぽど精神年齢が」

「ユイパイマン教を信仰していながら、そのトリアシルグリセロールではなく、豚の骨脂などに現を抜かすなど……信仰者として名折れの行い解せませんね」

「そう言う問題か」

「しかして、時雨様もそう言う意味では邪教信者と言えるでしょう。何と言っても脂を垂れ流す豚そのものなのですから。その時雨様が傍にいては、クレア様のその背信行為も、さして問題視はされませんね。ラーメン屋へと行きましょう」

「いつも思うが、お前かなり脊髄で生きてるな」


 単純に罵倒したり状況を混乱させるために話の腰を折ることが多い。ネイはなんのことやらとでも言わんばかりの表情でその肩をすくめて見せる。


「よしそう言うことなら、ラーメン屋へと急ぐのだ」


 異論はない様子のクレアが率先してテナント群へと足を運ぶ。

 道中にはいつしか見た寿司屋の看板があった。そう言えばあの大将、旧東京タワーにてバーテンもやっていたが、あの騒動に巻き込まれていたりはしないのだろうか。

 カウンター席に着き手早く注文を済ませる。客層は薄く、すぐに注文の品が並べられた。


「いただきますなのだ」

「い、いただきますなのです」


 クレアの声は何故かノイズがかっている。どうしたものかと視線だけ向けると、いつの間にやら彼女はガスマスクを装着していた。


「待て何故それをつける必要がある」

「お母様の言いつけだからなのです」

「前もそんなこと言っていたな。どんな言いつけだ」

「何を話しているのだ? 麺が伸びてしまうのだぞ?」


 麺をすすりながらかけられた凛音の指摘に促されクレアが器に向き直る。バイザーの透明部分が曇ってその顔はよく見えない。

 ガスマスク左右のフィルターの間のハッチを開くと熱気が排出され、同時に彼女の口元が露出した。彼女は箸を手に取りラーメンに手を付ける。


「ずぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ」

「ふぅ、ふぅ」

「ずぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ」

「なんだこのそこはかとない既視感。とりあえずネイやめろ」


 重力という概念すら超越しているのではないかと錯覚するような跳麺。

 あたかも砂塵を振りまくトルネードのようにスープを辺りに散らし、回転しながら麺がガスマスクに吸い込まれていく。

 なるほど、確かにこの現象はあまり人に見られたくはない食べ方かもしれない。

 

「新型クリーナー・サイクロンデラックス」

「待てそれは禁句だ」

「気密性を向上することにより圧力を高めています。上昇気流を発生させることにより、吸引力を最大限にまで向上」

「どうせまた一家に一台置いておきたいとか言い出すんだろ。テキスト考えるのが面倒だからといって、これ以上既出分をコピペされてたまるか」

「時雨様もなかなかにメタ発言スキルが向上してきましたね、関心物です」


 誰のせいだと思ってる。


「安心してください、収録する際には音声規制を掛けるか、この尺そのものを抹消しておきますので」

「そんなこと言って、どうせそのまま世に出すつもりだろ」

「はっはっは、まさかそんなこと微塵にも考えていますんよ」

「今肯定しただろ、おい」

「おぬしらは一体何を言っておるのだ?」

「ずぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞぞ」


 些末な茶番など意にも介していないようにクレアは黙々と麺を吸引していた。

 みるみる麺がガスマスクの内側に吸い込まれていき、やがて彼女はその頭を上げる。

 ふぅと息を吐き出した彼女の器にはどういうことかスープすら残されていなかった。


「マスク部分曇っているが……よくそれで食えるな」

「何も見えませんが、ラーメンはそもそも見て食べるものではないのです……感じるんです、麺の脈動を」

「どこの黄色い衣装の人ですかね」


 クレアは完食しきってガスマスクを外した。かなりの熱気が籠っていたのか僅かに上気した彼女の素肌が露出する。

 熱いくらいなら最初から外せばいいと思うのだが、言いつけは絶対であるらしい。幸正の言葉は絶対遵守であることを見ても、どうにもクレアは極端すぎる性格に思える。


「リオンもお腹いっぱいなのだ」

「やっぱりお店で食べるとんこつラーメンは格別なのです」

「外食してよかったろ?」

「はい」


 罪悪感はまだ隠しきれていない様子だが素直に満足した様子である。凛音はそんな彼女の返事に満足したのか嬉しげに満開の笑みを咲かせて見せた。


「ならば、また一緒に食べに来るのだ」

「でも、もうこれ以上言いつけを破ることは……」

「何を言っておるのだ、一度破った時点でもう同じだろ? クレアは既に犯罪者なのだ」

「自分で誘導しながら凛音様、中々ゲスの極みですね」

「ゲスではないのだ。リオンは既成事実を作っただけなのだ」

「意味は履き違えていますが、しかしてクレア様ももう少し柔軟な考え方をした方がよいかもしれませんね」

「柔軟……?」


 訝しげな顔をするクレア。

 

「クレア様が何に対し、その強迫観念にも似た抑制に囚われているのかは解りません。ですが、そうして他者の言葉にばかり行動を制限されていては、自身の身が持ちません。たまには少しくらい羽目を外した方がいいのです」

「でも、お父様は許してくれないのです」

「許しを乞わなくてもよいのです」

「でも……」


 歯切れ悪くクレアは言いよどむ。やはり何か思い悩む原因でもあるのかもしれない。こればかりはそう簡単に変えられるものでもなさそうであった。


「まあ仕方ないのだ。その慎ましいところも、リオンは姉として誇らしくはあるからな」

「凛音さん……」

「だがため込むのはいけないのだ。何かあったらリオンに頼れ。何と言ってもリオンはおねーさんなのだからな」


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