第147話

 放課後他の学生たちにシトラシアへ行く約束を取り付けられていた様子の凛音とは別れた。

 一人学生寮に戻った時雨は自室の扉が施錠されていることに気が付いた。


「クレア、いないのか?」


 中にはいるが防犯上カギを閉めている可能性もあるが気配を感じない。

 施錠を解除し室内に入ると部屋の中は異様に暗い。この時間帯に寝ているということはないであろうし、やはり外出中であるようだ。

 室内は酷く冷え切っていて暖房が付けられていた様子もない。クレアが出かけてからかなりの時間が経過していることが解る。

 照明をつけ暖房をつけるとコートを脱ぎすてることもなくベッドに横たわる。


「お疲れですか?」

「疲れてはいない」


 疲労は大して蓄積していない。しかし今は横になりたい気分で。

 色々と考えさせられる一日だった。真那とのこと。いや正確には記憶の中の真那の存在に関することだ。

 どうしてネイが夢の中で対面した時に真那が口にした言葉を知っていたのかはわからない。

 

「……さっきは悪かったな」


 そのことに関して問い詰めるつもりはもうなかった。

 

「なんですか藪から棒に。いえ、豚からシェパードに」

「言い直すな。意味わからないぞ」

「それで一体なんですか?」

「……さっきネイが真那の言葉を言ったとき怒鳴っただろ、クソ野郎って」

「そのことですか。確かにあれは謝られないと気が済まないような言われようでしたね」


 ああと思い当たったように柏手を打ったネイは急に厳格な顔をした。そうして抗弁垂れる鬼教官のように腕を組んだ。


「まったく、私は確かに人工知能ですが、性別という概念は存在するのです。私は女なのですよ? それだのに野郎だなんて……見当違いにもほどがあります。あえて指摘するならば、私はクソアマですよまったく」

「そう言う問題なのかよ」

「まあ正直、あのことに関しては、謝るべきなのは時雨様ではなく、私の方である気がしますが」


 その言葉に頭だけ動かしてネイのことを見る。

 卓上に置かれたビジュアライザー。そこから遠隔でアクセスしたのか、配置型投影機上に等身大で投影されているネイ。

 彼女は腕を組んで何やら考える仕草を見せていたが、やがて思いつめた表情のまま唇を開いた。


「先ほどは、私が時雨様を怒らせたのです」

「俺が勝手に怒っただけだ」

「いえ、そうではありません。時雨様が怒るように誘導したのです」

「……どうしてだ」

「正直私にもわかりかねます。ただ何となく、気に入らなかったと申しますか」


 何が気に入らなかったというのか。それを目線で問うが彼女は答えない。

 記憶の中の真那のことを少しでも忘れ始めていたことにか。あるいは今共にいる真那のことを受け入れ始めていることにか。それとも全く別の理由からか。

 何であ、彼女自身がその行動に理由をつけられていないようであるからして、考察したところで納得のいく回答は出てこなそうだ。


「それで、どうしてお前が真那の言葉を知っていたかだが」

「…………」

「それも秘密か」


 答える様子がないネイに見かね先にそう述べる。ネイはあたかも解っているじゃないですか、とでも言わんばかりの満足そうな表情を浮かべるばかりで。


「たとえどんなに知りたくても、知らなくていいことがあるんです」

「いつか話せる時が来たら話したいと思います。私について」


 アイドレーターの殲滅を行ったとき彼女はそう言った。まだ教えられないと。しかるべき時が来たら話すと。

 それに対し彼女のその在り方を肯定したのだ。さすれば必要以上に彼女に問い詰める資格はない。


「ただ、先ほどあんなことを言ったことに関しまして、少し伺いたいことがあります」

「なんだ」

「時雨様は真那様に好意を寄せているのですか?」

「……何だよ藪から棒に。いや豚からシェパードに、か」

「純粋なる好奇心です」


 不思議と動揺はしなかった。そしてネイがただ茶化すためでも好奇心から来る衝動からでもなく、何かしらの目的意識を持ってその問いをしてきたことは明確だ。

 ネイとはそう言う存在なのだ。普段からおざなりに見える性格も、その不敵な笑みの内側に何か裏を宿しているが故の目くらましに過ぎない。一体彼女は何を引き出そうとしているというのか。


「それでどうなのですか? ともにレジスタンスとして戦い、同じ苦難に対面してはそれを乗り越えてきた仲。時雨様の心境に何かしらの変化があったのも、記憶の中の人格を忘れてしまいかけているというよりか、今の真那様の存在が大きくなっているからではないのですか?」

「さぁな。確かに真那は大切な仲間だ。もしかしたら特別な感情も寄せているかもしれない。だがそれは好意だとは思わない」

「どうしてですか?」

「それは……」


 二の句を紡げなかった。ネイに指摘され脳裏にかすめたのは幾ばくか年若い真那の姿だ。

 今の彼女からは考えられないほどに純粋な無垢なる笑顔。向日葵みたいな晴れがましい笑顔。


「それでは、質問を変えます」

「?」

「時雨様は救済自衛寮時代の真那様に好意を寄せていたのですか?」

「……さあ、どうだろうな」


 それにも回答を濁しただけであった。

 若き彼女の存在を欲するならばおそらく今の真那のことを見失う。かと言って今の真那を受け入れれば、記憶の中の人格を否定することになる。

 

「ふふっ……ジレンマですね」


 どこか面白がるように人工知能は対岸の火事を笑った。


「二つの人格、一つの真那様という器の中に納まっている正反対の存在。しかしそれは同時に成り立つことはありえません」


 常にどちらかが明るみに出るときもう片方は闇の中に閉ざされている。あたかもコインの表裏のように。

 どちらかを選べば、必然的にどちらかは闇に埋もれ消えていく。


「これはある種の最大の選択と言えるでしょう。美少女を攻略するだけのゲームの主人公のように、時雨様は今選択を迫られているのです」

「……他人事みたいに」

「他人事ですから」


 ほくそ笑む少女。ああくそ、無性に腹が立つ。


「さて、これを話した上で再度聞きます――時雨様は真那様のことが好きなのですか?」


 どちらの真那のことか、それを定めてくることはなかった。


「そんなこと」

「はぁ……優柔不断もここまでくれば感極まりですね。それでは少し助言を致しましょう。時雨様、とある修道女のMother Teresaをご存知ですか?」

「Mother Teresa? 外人の偉人なんか知るわけないだろ」


 ネイは飽きれた様に額に指先をつけ、どう説明するか悩む様に瞳を閉じた。


「この修道女によって述べられている『好きの反対は無関心』。今の世代、こういう言葉が周知されていますが。この考え方は正しいようでいて、一面的な考え方でしかありません」


 一体何が言いたいのか。


「そもそもこの考えで述べられている『好き』という感情は、『好意』というよりは『興味』という意味を多分に含んでいるのです。『興味』を持っていない対象に対して抱く感情はそもそも存在しない。だから『無関心』。それは相手に対する物ではなく、そもそも興味さえないという感情」

「はぁ」

「しかし、全ての『好き』にその解釈が当てはまるわけではありません。場合として、いえほとんどの場合は、それは『好意』という感情に解釈されます。そうなれば、もう『好き』の反対は『嫌い』でしかない」

「哲学には興味がない」


 これは感情論ですよ。とネイは肩をすくめてみせた。何故AIに感情論を説かれなければいけないのか。

 

「むしろ哲学とは全く正反対の物。『好き』と『嫌い』は全く逆の存在。先程も上げたコインの表裏と考えてもいい。ですが、それが暗示している様にその二つは全く逆の存在でありながら常に同時に存在し、個々では存在し得ない物なのです」

「俺にも理解できる言語で解説してくれ」

「これは日本語ですが。さすがは鳥頭の時雨様ですね」


 見下したように告げた。彼女は腕を組みしばし熟考する仕草を見せていたが、やがてつまりと唇を動かす。


「誰かを『好き』になればなるほど、その相手の異なる一面が多々見えてきてしまうということです。『好意』を寄せれば寄せるほど、自分のみたくない相手の『嫌い』な面をみてしまう。それと同じことですね」


 なるほど、考えた挙句やはり意味の解らない言葉が出てきた。

 

「そこにある感情は何も『嫌い』という物だけではない。時には拒絶反応を抱くことだってありますし、その嫌悪をきっかけに逆に強く執着することもある。嫌いである様に振る舞うのもその一環と言えますね。人間の感情という物は、単純な様でいてとても壊れやすい物ですから。そのことに関して例を挙げるならば、ツンデレの唯奈様とかですかね」

「その例のせいで余計難解になったな」

「あくまでも例なので深く考えないでください。つまり私が言いたいことは、時雨様が直観的に相手の印象を決めたとして、それが必ずしも正しいとは限らないということです。時雨様は自身にすら嘘をつき欺こうとする……そう言うものですから、人間というものは」

「つまり、どういうことだ」

「聞かなくても解っているはずですが?」


 ネイはほくそ笑みながら顔を見上げてくる。この人工知能は、あるいは時雨以上に時雨の考えをつぶさに認識しているのかもしれない。

 完璧すぎるのも考えものだった。


「俺は自分の感情くらい正確に理解している」

「そうですか。それで、その上で出した結論をお聞きしても?」

「それなら俺はここで黙秘権を行使する」

「馬鹿の一つ覚えというやつですね」


 彼女は追及する気はないようだった。ただ不敵にほくそ笑み腕を組んで傍観している。お前の考えていることなんて全部お見通しなんだと。そう言わんばかりに。

 そんな彼女の視線に気持ちわるさを感じて静かに体の向きを変えた。

 ベッドに横たわったまま壁側を向く。そうして壁のシミを目で追いながらふと考え込むのだ。本当に自分の気持ちを正確に認識できているのかと。



 ◇



 また夢を見た。夢を見るたびにここに訪れている気がするが、どうしてかその光景には懐かしさを隠しきれない。

 灼熱の照りつける真夏の空。まばゆい光が迸り思わず目を伏せた。下げた視界に映り込むものは無限に広がる向日葵の監獄。

 また来てしまったわけか。ここに来たということは彼女もいるのだろう。

 視線を振り向かせる。先ほどまでの度重なる葛藤など忘れ、記憶の中の彼女の姿を確認したくて。


「やあ、ギルティの使者、時雨くん」

「っ……何でアンタが」


 だがそこに佇んでいたのは待望の彼女の姿などではない。

 絶対にお目にしたくなかった白いスーツ姿。悪趣味な赤黒いバラを胸に刺したその男は、無い前髪を掻き上げながらそこに佇む。

 

「第一声に何故と言われてもね。僕としては、またこの場所で君に会えることに高揚を隠せないというのに」

「ここにいるはずが……!」

「どうしてだい? 君はここが、君と君の愛しのリバティだけの空間だと思っていたのかい? 何たる愚の骨頂か。ここはリバティに至るための架け橋を養成する天下の救済自衛寮だよ? 当然、関係者もまたここに集まるのさ」


 彼はそう嘯いて脇を通過し軒下から足を投げ出す。そうして薔薇を手に取ると、花弁に鼻を埋めてその匂いを大げさに堪能し始めた。


「ここはいいね。イヴの香りが充満している。たまらないなぁ」

「……ここは俺の夢の中だ」

「あれ? そうなのかい? 僕はてっきり現実だと思っていたけど」


 冷やかすように彼は肩をすくめて見せた。


「まあそんなことは関係がないのだよ」

「俺にとっては関係大ありだ」

「何故だい? せっかくこのアダムが君の夢の中にまで会いに来てあげたというのに。本来ならば感極まって神に感謝を述べるべきではないかな。あ、神は僕だけどね」

「……何なんだお前、どうして俺の夢なんかに出てくる」


 今目の前で起きている事態を正確に判別できず、混乱しつつも疑念を口に漏れ出させる。

 それに対し一成は何とも応じない。ただ薔薇の匂いを嗅ぎ続け、しばらくそのまま軒下にて余暇を過ごしていた。

 何をすることもできずにそんな彼のことを(不本意ながらも)見据えていたが、彼はそんな時雨を気にするそぶりすら見せない。

 彼が何を考えているのか。そもそもどうして夢にこの男が現れたのか。その疑念に名前を付けることが出来ず、身の危険だけ感じて腰に手を伸ばす。そこにアナライザーはなかった。それにしてもなぜ今日に限って真那がいないのだろう。

 

「どうして彼女がいないのか……そんな顔をしているね」

「…………」

「その答えは簡単さ。僕が連れ去ったからさ」


 音もなく立ち上がり彼は踵を返す。そうして目の前にまで歩んでくると、薔薇の花弁を顔面に突き出した。


「君も僕のように匂いに敏感になればいいよ。イヴは素晴らしくいい香りをしているからね。荒野に実るアカシアのような……ああっイヴ、僕のイヴっ」


 彼は一人悶えその体勢で硬直する。数秒体をよじらせ全身の筋肉を弛緩させるなりふと顧みる。


「君にはもう好き勝手はさせないよ」

「…………」

「イヴは……僕の物だ」


 視界が暗転した。ぐらぐらと思考が明転する感覚。たった先ほどまで目の前に広がっていた一成の能面のような顔は消え去る。

 見開かれた視界に映ったものは自室の天井。


「……嫌な夢を見たもんだな」

「おはようございます時雨様……と言ってもまだ数十分しか経過していませんが」


 上体を起こし周囲を見やるも、そこに広がっているのは学生寮の個室に他ならない。救済自衛寮でもなければ真夏の炎天下でもない。

 まだ凛音もクレアも帰宅していないようで、腹の底から押し寄せてきた気持ち悪さをぐっと飲み下しながら再度枕に頭を落とした。

 どうして一成の夢など見てしまったのだろうか。気持ち悪すぎて鳥肌が全身に立つ。無意識的に体を掻き抱きながら身体を転がして顔を枕に埋めた。


「時雨様、また就寝になられるのですか?」

「休息のつもりが、どこぞのTRINITYのせいで余計疲労感が増したからな」

「そうですか。それはそれで構いませんが、そろそろ凛音様方がご帰宅される時間帯なのでは?」


 指摘を受けて時刻確認すると確かにもうすぐ夕刻だ。窓から差し込む光は街灯の物ばかりで、すでに月明かりすら出始めているようである。

 重たい体を持ち上げてベッドから体を降ろした。それと同時ベッド脇の卓上にフォトフレームが置かれていることに気が付く。昨晩クレアと凛音が眠りにおち、それを手にしていた時雨が置いておいたままの配置であった。

 それを手に取り額縁の中に視線を落とすと昨晩と同じ光景が広がっている。写真なのだから同じなのは当たり前なのだが。

 

「しかし考えてみればわかることだが、凛音にもこんな時期があったんだな」

「齢十歳前後の少女の姿を見て感慨にふけるのはやめてください。幼児性愛の犯罪者予備軍みたいですよ」

「そう言う意味じゃない。実験体アナライトじゃない凛音という意味だ」


 クレアに伸し掛かる凛音。その小ぶりな頭にはあの大きな獣耳が無く、今は溢れんばかりの髪も比較的短い。

 勿論凛音特有の旺盛さは健在であるが、よく見ればその瞳は今とは違って赤くない。

 つまりこの頃の凛音はノヴァ抗体生成実験の非検体ではなかったわけだ。すなわち人間だった時代の写真ということになる。


「日付は2052年の5月16日……三年前の半年くらい前か」


 写真下部に印字された日付を確認する。この時期はまだノヴァが世界全土に出現する以前であったはずだ。すなわちラグノス計画が実行に移される前。

 

「そもそも、どうして凛音なんだ」

「抗体生成実験の実験体が、ですか?」

「ああ。たとえば俺みたいに救済自衛寮で養成されていた孤児なら解る。何といっても救済自衛寮はそのために建設された施設だったわけだからな。だが凛音は防衛省の人間の峨朗の娘だ。それだのにどうして狙われた」

「幸正様の娘だったからではないのですか。断言はしかねますが、ラグノス計画に携わる幸正様の近くにいる存在であったからこそ、ラグノス計画にも近しい位置にいた。それ故に凛音様は実験にその素材として運用された」


 あり得ない話ではないがそんなことよく幸正が許したものだ。

 確かに彼は厳格かつ冷酷でおまけにレジスタンスを現在進行形で欺いているような男だ。

 それでも彼は凛音の父親なのである。それだのに彼女が実験体にされることを指を咥えてみているだけだったというのか。


「幸正様がいまだに防衛省と繋がっていることを見ると、その仕打ちに耐えられず防衛省を裏切ったという線はありませんしね。凛音様を実験体アナライトに変えた防衛省と未だに結託しているという事実……何かありそうです」

「具体的に、凛音が実験体アナライトになった時期が解ればいいんだが」


 そうはいっても手掛かりはこの写真しかないのである。クレアが鞄の奥深くに仕舞いこんで誰にも見せようとしていなかったこの写真。

 ここに置かれたままであることを鑑みれば、もはや隠しても意味はないと判断したのだろうか。

 何であれこの写真から読み取れる峨朗一家の背景像はそう多くはない。写真だけ見れば円満な家族の一家団欒写真と取れるだろう。この団欒が崩壊してしまったきっかけは一体何なのだろう。


「いや、そもそも崩壊はしてないのか」

「現状、幸正様やクレア様そして凛音様がお互いにいがみ合って生きているような印象は抱かされませんが。とは言え幸正様のクレア様に対するアタリの強さは、凛音様に対するそれと比較し極端すぎる気がしないでもないですが……昨晩のクレア様の挙動を見れば、何か私たちの予想だにしない蟠りがあることは確かです」


 凛音に対しこの写真を隠そうと躍起になっていたクレア。あの動揺の仕方は感情的なクレアにしてもただ事ではないだろう。

 そして何より気になることはこの写真を目にした凛音の発言だ。彼女はおそらく彼女たちの母親であろう女性を誰であるのかとクレアに問うていた。

 確かに凛音はこれまでも自分の母親の顔を見たことがないと言っていた。しかしこの写真には確かに彼女たちがともに映っている。配置からして偶然一緒の写真に写っただけということはありえまい。


「記憶の欠落か」

「時雨様の周りでは、うっかり記憶をどこかに置き忘れる方が異常に多いですね」

「俺自身もだな」


 2052年末から翌年年始にかけての記憶がごっそり抜けおちている。真那曰く彼女もそうだとか。明らかに人為的な記憶の欠落のように思えるが、凛音にも記憶の欠如が生じているなどとは考える由もなかった。

 

「以前、記憶喪失の原因について話してたな」

「ストレス性の記憶喪失ですね。人間の脳は知性という電子信号によって操作されています。もしその知性思考構造に何かしらの強烈な負荷がかかれば、脳の一部が圧迫される可能性はある。それによってそれに関わる情報が閉ざされているという可能性」

「つまり母親の存在をぽっかり忘れてしまう程の、母親に関するショッキングな出来事があったということか」

「そう言うことになりますね。昨晩のクレア様の反応から憶測して、おそらくクレア様がこの写真を凛音様から隠そうとしたのは、この写真に何か見られたくないものがあったからだと思われます。最初は実験体アナライトになる以前の凛音様の姿だと思っていましたがどうやら違うようですね」

「母親……アニエス・ロジェの存在か」


 そうだとして何故クレアはその存在を凛音から隠そうとしたのだろう。

 

「実を申しますと、なんとなく私はその解答には行き着いている気がします。問題となっているアニエス・ロジェ。その存在がどうなったのか、それについての知識は既に蓄えられているからです」


 しばらく彼女の言葉の意味は解らなかったが彼女がウィンドウを操作し始めたことで理解する。

 おそらく昼間やったように何かしらの音声ログを再生する気なのだろう。その目的はアニエスに関する誰かの発言が記録されているから。


「そう言えばクレアは母様の顔を見たことがあるのか?」


 ビジュアライザーから流れ出たのは凛音の声。そのバックグラウンドでは何やら水の跳ねる音が聞こえている。

 

「これ、例の盗聴していたやつか」

「はい、アイドレーター殲滅戦線の直後ですね。女子陣のみで出向いた銭湯におけるガールズトークになります。時雨様も一度一部始終を聞いたはずですが」


 確かに覚えている。そう言えば確かにこの時クレアはアニエスに関する話をしていた。

 この時は凛音の発言を聞いて彼女とクレアは別の環境で育ったと思っていたものだが。どうやらそうでもないようで。


「お母様のこと、お話ししますか?」

「教えて欲しいのだ」

「……とても素敵な人でした」


 そういう切り出しからクレアの始めた話。それらを繋ぎ合わせて知りえた情報は彼女の出生など。

 旧名はアニエス・ロジェ────どうやら元々はフランス軍人であったとか。何らかのプロジェクトに参加するために十六年前に日本へとやって来たらしく、そこで峨朗幸正と結婚した。

 

「ですが三年前に……そのプロジェクトの一環で不慮の事故で亡くなりました」


 押黙るクレア。何かを後悔するかのような声音にはどんな感慨が潜んでいるのだろう。


「三年前……またか」

「ラグノス計画始動の時期。幸正様が防衛省と未だに接点を持っていることを鑑みても、クレア様の言うとあるプロジェクトというのはラグノス計画で間違いはないでしょう」

「不慮の事故か……」


 アニエス・ロジェが死に至った事故、おそらくはそれが峨朗一家の団欒を崩壊せしめた原因の一端なのだろう。

 この前提から憶測できるのはアニエスの死による幸正をはじめとした峨朗一家の閉塞化。それによって順風満帆と思えた安寧が終焉を迎えた、と考えるのが筋だろうか。


「まず疑問点として提示できることはアニエス・ロジェの死因がラグノス計画に関する事故であるとして、どのような出来事であったかです」

「ラグノス計画は平たく言えば防衛省の政策だろ? ラグノス計画の詳細は、つまりは防衛省によるナノテクノロジーを用いての世界征服……事故と言うのは何だ?」


 考えられるのはナノマシンの研究機関における公害事故。他にはナノマシン感染者に関する問題か。とはいえそもそもナノマシンは感染しない。確かに発症という現象はあたかもノヴァィルスの伝染病のように認知されている。

 発症とは人体の体細胞をナノマシンに浸食され変質された状態のことである。

 デルタサイトによって護られているリミテッド内部であれば、そもそも体外にナノマシンが排出されることはない。よって感染の可能性も無いため、感染者による事故という線は薄そうだ。


「まあそもそもこの事故に関して、深く考える必要があるのかどうかすら定かではありませんが」

「どういうことだ?」

「趣旨を見失っているようですので指摘させていただきますが。そもそもこれは峨朗一家の問題であり、赤の他人である時雨様にはからっきし関係のないことなのです。その内輪の案件に介入しようとするのは、無粋な行為ではないでしょうか」

「俺は、クレアや凛音が何を抱えているのか」

「それは気遣いでも思いやりでもありません。良く言えばただの好奇心、突き詰めて言えば悪質な偽善心です。野次馬……いえ、野次ガラス様」


 ネイのその言葉は確かに的確だった。究明しようとしていたことは何もレジスタンスが関わっている課題ではないのだ。

 廃絶すべきラグノス計画の関わってくる事案ではあるだろう。しかし根源的に見て、これは峨朗という血筋の中で起きた諍いに過ぎない。それに首を突っ込み過干渉することはネイの言う無粋に他ならない。

 返す言葉を持たず曖昧な心情のまま手元に視線を落とす。フォトフレームの内側に広がるセピア色の空間は時雨の手の届かない場所にあるのだ。というよりは自身がこの光景を俯瞰する立場にいる。

 あくまでも傍観者にすぎない。それでもああそうですかと簡単にこの好奇心を払拭することはできなかった。

 写真のなか仲睦まじく絡み合う二人の少女。今でこそこの姉妹は仲良く互いのことを必要とし合い生きている。

 だが違うのだ。この写真の中の彼女たちと今の彼女たち。それらは似ているようでどこか違っている。傍観者の立ち位置から俯瞰しそんなことを考える。


「――時雨さん」


 いつからそこにいたのか誰もいないはずの室内にクレアは佇んでいた。

 ベッドの脇に据えられたデスク上のフォトフレームを前にする時雨を彼女は少し後ろから見上げている。

 その手には彼女の小顔には少し余るガスマスクを抱き揺れる瞳で。


「帰っていたのか」

「はい、たった今……その写真なのですが」


 彼女は気付いてもらえたことを認識するなり歩み寄ってくる。至近距離から困ったように手に持たれたフォトフレームを見つめていた。


「返すよ」


 それを手渡すと彼女は無言でそれを受け取る。そうして額縁の内側をしばし俯瞰していたと思われた。

 不意にその幼くも端正な面持ちに進退極まったような目つきを携えさせた。悲しげな色を浮かべる瞳は、憂いと同時に怯えたような印象をも醸している。

 彼女が見詰めている物はその額縁の内側の誰なのか。明晰ではなかった。


「大丈夫か」

「……はい、ごめんなさいなのです」


 そっとまぶたを閉じ華奢な肩から力を抜く。

 数秒して再度まぶたを押し開いた彼女は少し逡巡した挙句、その額面を返してくる。


「……いいのか?」

「なのです」


 反射的に受け取ってしまったがクレアはこれを返して欲しかったのではないのか。


「時雨さんに持っていて欲しいのです」


 普段の不安と怯えが背広を着て歩いているような彼女らしくない。感覚的な物ではあるがすこし芯の入った声音だった。

 鬱悶の色をその瞳に宿しながら彼女はだが直視してくる。


「何故だ?」

「時雨さんが一番凛音さんのことを理解してくれそうだからなのです」

「俺よりよっぽどクレアの方が凛音のことを分かっているだろ」

「……そんなことないのです」


 一瞬の間。


「俺には少女の気持ちなんか解らない。凛音のことは、ずっと一緒に生きてきた本当の妹のクレアの方が沢山知っているはずだ」

「そうかも知れないですけど……でもそれじゃだめなのです」


 淡い哀愁を漂わせながら彼女は緩い笑みを浮かべる。似合わない笑顔だ。

 そんな笑顔にかぶさる物言わせぬ懇願にも似た意志を感じ取る。これ以上詳しくは聞かないで欲しいと言っているかのような。


「……解った」


 致し方なく手にした額縁を再度卓上に据え置いた。

 凛音の目に付く場所に置いておくのはまずいかとも思ったが、クレアは特別それに関しては指摘してこない。

 昨晩はあれだけ凛音に見られまいと必死にしていたのに今は構わないのだろうか。彼女が何を考えているのか一切見当もつけられない。

 クレアは何かを知っている。知っていてその上で凛音に何かを隠している。それは一体何なのか。彼女は実の姉に何を隠しているというのだ?

 いやその探究心は無粋だとさっき気づいたばかりではないか。彼女たちの抱えている物に触れる権利もなければ、くちばしを入れる権利もない。何と言っても昨晩凛音との間に線引きをしてしまったばかりなのだから。

 そんなことを考えれば考えるほど邪推は進行していく。その線引きの時、凛音が浮かべた惑いの表情が脳裏に張り付いて剥がれない。

 凛音にはクレアがいる。そう言った時雨に凛音は曖昧な言葉で茶を濁しただけで。

 この姉妹は幼くして、はるかに重い物を抱え込んでいるのかもしれない。その華奢すぎる小さな体では抱えきれないほどの重責を。

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