2055年 2月11日(木)

第136話

 ベッドは遮光カーテンで覆い隠されていた。窓にも遮光カーテンが引かれ、輝度の調整された柔らかなLEDの光のなか触れた優姫の背中はしっとりと湿っている。

 陶器のように滑らかな素肌は以前までは健康的に色づいていたはずなのに驚くほどに白い。そこにはシミのひとつなく縫合痕すらない。本当に手術したのかと疑問が浮かんでくるほどだった。


「あれから、医者に何かされたのか?」


 部屋の壁際に据え置かれたベッドの上にぺたんと座っている優姫。形良く隆起した愛らしい肩甲骨に添うようにタオルで拭ってやる。

 彼女は心地よさそうな面持ちを浮かべながらもこそばゆそうに体をすくめる。


「和馬くん、前は自分で拭けるから」


 拭きやすいようにと胸の下着も外している。隠すように毛布で覆い隠された胸元に意識を向けないようにしつつタオルを肩越しに渡した。


「お医者さんには何もされなかったよ。心拍の安定とか、あと脳波の精密検査とか、そういうのを確認してもらっただけ」


 優姫が目覚めてからの五日間、彼女に面会することを禁止されていた。

 検査の妨げになるだとか詳しいことはよく判らないが。おそらくは再度昏倒してしまわないための検査が必要だったのだろう。

 その間にもまた優姫の身体にメスが入れられているのではないかとそわそわしていたのだが。どうやらその心配はなさそうである。

 そしてまた気になることがもう一つある。職務というのは優姫を目覚めさせることにあったはずだ。既に彼女が目覚めている以上もう会えないと思っていた。

 実際この五日間、いつ監獄に再びぶち込まれ無限の尋問生活が再開するのかと待ち構えていたというのに。だのにこうして今優姫に対面している。

 指名されたわけではないがナースがすべきである優姫の看護などもすべて和馬が担当しているのだ。さすがに入浴やトイレには同伴できないが。

 

「首に何か掛けてんのか?」

「……これ?」


 彼女の華奢な首には細い鎖のような物が掛けられている。それは胸元の方へと垂れていた。

 指摘された優姫は一瞬きょとんとした顔を浮かべた後、すぐに思い当たったのか毛布で隠した胸元からそれを引っ張り出す。

 そうして掲げた彼女の指がつまむ鎖の先には、傷ひとつない銀色の指輪が吊るされていた。中心に細い赤のラインが走る酷く無機質な。


「えっと……」


 彼女は返事に困ったように目を逸らす。その様子を見てこれ以上問い詰めるべきではないと判断した。

 昔交際していた男から渡されたものかあるいは両親の遺品か、それ以外か。いずれにせよ踏み込んでいい領域ではない。

 やましい感情が胸の中に彷彿とするのを感じながらも、無心になって彼女の背中を拭くことに専念する。


「…………」


 首元には小さな打撲痕と縫合痕があった。あの日全てがトチ狂ってしまった瞬間に和馬を助けようとした優姫が桐生に刻み付けられた消えることのない傷跡だ。決して忘れることの出来ない記憶。

 あの瞬間を想起しふつふつと憎悪と怨恨の念が煮えたぎっていくのを感じる。その状況を作り出してしまったのは必ずしもあの男たちだけに問題があるわけではない。自分にもまた彼女と関わってしまったという過ちがあった。

 それを再度痛感し唇を噛みしめる。彼女をこんな目に合わせてしまったのは自分だ。こんなことになるのならば、


「……和馬くん、もしかして、和馬くんと出会うことがなければ、私がこうして全盲になったりしなかったんじゃないかって思ってるの?」


 尻目にこちらを伺って悲しさと憂いをそそられるような目で見つめてくる彼女に何も応じない。

 瞳は以前の宝石のように透き通る茶の色と変わらないように見えて。だがどんよりと澱んだような色をしている。その瞳にもう光が宿ることはないだろう。

 以前から片目は盲目だったこともあって彼女はもう大分その環境にも慣れてしまっているようだ。かく言う和馬も、着替えなどがまだ一人でできない彼女の世話をすることに手馴れてしまったものだが。


「そんなこと、考えないで欲しいかな」

「……って言ってもな」

「どうせ年老いていけばいずれ全盲になるはずだったんだもん。それが少し早まっただけ。和馬くんと出逢えないくらいなら私は光なんて要らない」


 そう言って視線を前に戻す彼女。眼帯が付けられていないのは全面的に信用してくれているからだろうか。

 本当に失われた光に未練がないのか。ないわけがない。


「だから――――和馬くんも、私の光になってね」


 脳裏にはだれかの言葉が反響していた。

 そういう意味なのだ。光を失い暗闇に落ちた優姫を導けるのは和馬だけだ。優姫を照らし光のたもとに導かなければならない。

 痛ましい彼女の後ろ姿に気の利いた言葉をかけることがどうしても出来ない。ただ華奢な体を拭いてやることしか出来ず、自分の無力さと底知れぬ罪悪感だけに心を蝕まれる。


「でも嬉しかったな……」

「……何がだ?」


 背中を拭き終わり彼女が自分で体の前面を拭っている間、遮光カーテンの外で待機していた。

 意識していなければ聞き漏らしてしまうほどに微かな声。窓のカーテンの隙間から夕闇に沈みかけている窓の外の光景を俯瞰しつつ、気のないように問いかけた。


「和馬くんがこの病室に来てくれたこと。私は昏睡していた間、時間の経過を感じてはいなかったけど、長い間、私を待ってくれていたんだよね。ありがとね」

「お前、両親がどうなったのか聞いてるよな。あんま無理して冷静を保とうとしなくていい。俺のことはいいから」


 カーテンに手を掛けようとしてやはり止めた。

 

「優姫、これからしばらくの間はここに留まれる。本来あるはずもない仮釈放の延長期間みたいなもんだ。峨朗のじじいが気を利かせたのか、妃夢路のばぁさんがかは分かんねえけど……だから何かあったらすぐ呼べよ、俺はここにいてやっから」


 そう言って部屋の隅に置かれた座椅子に腰掛ける。

 感情の吐露を滅多にすることがない優姫。溜りに溜まったそのどす黒い感傷を吐き出せるのは一人でいられる時だけだ。

 彼女にとって和馬という存在がどれほどの意味を成すものなのかは解らない。愚痴を聞いていいのかも。傍にいていいのかも。まだ彼女が安らげる居場所になれていないことだけは明白だった。

 最も近い場所にいるようでどこかお互い余所余所しい。相手のことを心から信じることが出来ているにしても、相手を信じる自分のことを信じることが出来ていないのだ。

 彼女との合間に引かれたカーテンをじっと見つめる。それは全盲の彼女を気遣っての処置ではあったが。窓から吹き込んだ風に棚引くそれは、まるでお互いの揺れる難解な心を映し出しているようで────。


「なあ優姫」

「どうしたの? 和馬くん」


 邪推を振り払うようにポケットに手を突き込んだ。そこにあるべきはずのの感触がない。金属の冷たい感触が。

 ああ畜生、そうかよ。結局それを優姫に渡す権利も術も気概もないってことかよ。


「────いや、何でもない」


 掴みどころのない物を掴むように。きつく握っていた手をポケットから出した。こんな曖昧な心情のまま彼女にあやふやな感情を押し付けるわけにはいかなかった。

 二人の関係、優姫の精神状態、そしてこの世界の行く末。それらは改善していっているように思えて反対に改悪しているようにも思える。

 全ての歯車が少しずつだが着実に狂い始めていた。


  

  

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