2055年 2月6日(土)

第135話

「優姫、今日は何曜日だっけか……ここにいると曜日感覚がなくなるな」


 静かに眠り続けている少女をじっと見つめる。きっと優姫が目を覚ましていないから感覚がマヒしているのだ。彼女はこの人生におけるコンパスみたいな存在だったから。


「ああそういや、お前に再開したのが一週間前だったから……土曜か」


 レッドシェルター内部の居住権を得てから早一週間が経過していた。その間一度として支給されている住宅に赴いてはいない。優姫の部屋から出ることもほとんどなかった。

 この施設では面会時間というものが設けられていない。そもそも本来レッドシェルター内部にあるこの施設に入院する患者は限られる。レッドシェルター居住権を有している人物か、もしくはここでしか治療できないほどの致命傷を負った患者くらいだろう。

 故に本来ここに面会に来るものは多くない。それ故に面会時間が設けられていないのか、もしくは最初から面会という制度がないのか。

 どちらにせよ和馬は特例も特例なのだろう。ただの一般人に過ぎない和馬をレッドシェルターに住まわせているだけでも奇妙なのだ。

 監獄からの仮釈放という特典まで付属し、防衛省は一体何を考えているのか甚だ理解に苦しむ。


「俺が優姫に接触したからって、何が変わるってんだよ」


 おとぎ話ではない、これは現実なのだ。こうして目覚めることのない優姫を目の前にするたびに痛感する。

 防衛省は昏睡している優姫を目覚めさせるために和馬を仮釈放させた。だが実際できることなどたかが知れている。最新鋭の医療を尽くして目覚めない人物を、和馬がどうこうして目覚めさせられるわけがないじゃないか。


「ならなんだ? まさか俺におとぎ話を演じろとでもいうのかよ……」

「それも、手かもしれないけどねえ」

「っ!?」


 誰もいないと思っていた室内の中から誰かの声が聞こえた。振り返ると視界に真っ赤な色彩が浸透する。見たことのない女が壁に寄りかかって電子タバコをふかしていた。

 明色の丸いサングラスを煩わしそうに持ち上げつつ、特徴的な赤い頭髪を揺らしながらニコチンを口から排出した。

 推定年齢は二十代後半か三十代前半といったところか。ダークグリーンの軽装な軍服の胸元には電子タバコのカートリッジが数箱突っ込まれている。そこから無類のタバコ好きであることが推定できた。

 かと言ってヘビースモーカーの象徴とも言えるヤニ臭さはなく、その肌は年齢相応ではあるが艷やかだ。タバコをうまそうに蒸す姿はどこか妖艶で蠱惑的。


「眠り姫に熱いベーゼを交わしてその姫を眠りの呪縛から解き放つ……なんてロマンチックな話じゃないか。和馬翔陽、君は罪人から姫を目覚めさせた王子様になりあがれるね」

「なんだアンタ……いつからそこに。っていうかなんで俺の名前を知ってる」

「まあ、そんな非科学的なことはあり得るわけもないけどね」


 その女は不敵に笑って和馬の元へと歩み寄ってくる。煙草をくわえたまま間近で和馬の顔を無遠慮にのぞき込んできた。


「ふむ、弄りがいのありそうな顔をしているねぇ」

「…………」

「はっはっは、冗談さ。私は機械の方を弄るのは得意分野だが、人体を弄り回すのはめっぽう苦手でね。あのメスの感触が嫌いなのさ」


 乾いた笑い声を静かに上げて電子タバコをペンを回すように指で弄ぶ。


「いい加減に答えろ。アンタは何もんだ」

「そうだねぇ、これは失礼したよ。私は準陸尉、兼レッドシェルター化学開発部門ナノゲノミクス顧問補佐、妃夢路恋華ひむろれんかさ」


 聞きなれない部門と役職。おそらく前者は陸上自衛隊の階級、後者はレッドシェルターにおける部門などの管轄名だろうか。


「君は甲斐甲斐しく毎日のようにそこの葛城優姫の面会に来ているのかい」

「そうだとして……なんか問題でもあるのか?」

「いや、問題はないさ。そもそもそれが防衛省の上の連中の意向だからねえ。君の職務はそういうことなんだからね」


 妃夢路はやはり不敵な笑みを携えたまま和馬が座っていた椅子に腰を下ろす。

 そして煙の出なくなっていた電子タバコを不満そうに睨んでからカートリッジらしきものを装填する。彼女が口にくわえると再び副流煙が撒き散らされた。


「おい何吸ってんだ」

「そうかっかしなさんな、和馬翔陽。確かにリミテッドでは、タバコなどの嗜好品を始めとする薬物などの服用は禁止されているけどね。これは電子タバコだ。リーガルの範囲内さ」

「そういう意味じゃねえよ。ここは病室だ」

「おおっとそうだったね。こういう時の言い逃れは……ああ違うさ和馬翔陽、これはタバコじゃなくてシガレットチョコさ」

「アンタ騙す気すらねーだろ」


 煙でてるし。

 妃夢路はため息をついた和馬を不思議そうに眺めてから、タバコを堪能するように長く煙を吐き出す。

 どうやら優姫のことをおもんばかってタバコをしまうつもりはないようである。


「でアンタ、何の用だ? 優姫の知り合いなのか? それとも葛城家関係か?」

「そのどちらでもないさね。私は君たちの様子を見に来たのさ」

「俺が職務を怠慢してないかってか? 悪いが、職務内容が曖昧すぎて怠慢も何もないな」

「残念ながらそういうわけではないねえ。どちらかと言えば、君よりも葛城優姫の容態だね。まあ見たところ、良くも悪くも変化はなさそうだけどね」

「どうせ優姫が目を覚めたってあんたらの思惑は解ってる。そこまで金が必要なのかよ。優姫を利用してまで」


 なんとなくこの妃夢路恋華という人間に対しては隙を見せてはいけない気がした。何を考えているのかがまるで解らない。

 

「もちろん、その通りだよ」

「否定はしねえのか」

「する必要はないからねえ。なんといっても資金は貴重さ。今のリミテッドは金の上に成り立っていると言っても過言ではないからね」

「あんたらの政策なんてクソくらえだ。俺はこの職務云々関係なく優姫に会いに来てる。俺に用があるならさっさと済ませてくれ」

「……さっきから私を厄介払いしようとしているのは、もしやあれかい? 誰もいなくなった個室で、意識のない葛城優姫の看病という名目で生着替えを無理やりするという」

「そんなよこしまなこと考えてねえよ」

「ならどうして、そんなに葛城優姫に寄り添い続けるんだい?」


 そんなのアンタには関係ないじゃないか。そう返そうとして言い淀んだ。彼女の言葉を聞いて自分自身その答えに行きついていないことに気が付いたからである。

 贖罪のつもりなのか。結局は職務だからか。本当にそうか。何故優姫に付き添っているのだろう。

 本当は理由なんて最初から分かっていた。光が閉ざされた今その答えはやはり暗闇に閉ざされたままだが。その感情を白昼の下にさらけ出せる光は袂にはなさそうだった。


「今君にできることは、葛城優姫の傍にいてやることだけさ」

「…………」

「時間は持て余すほどにある。その時間を有効的に使うといいよ。自分の中に蟠ってる感情に名前を付けるといいさ。きっとわかる」

「なにを知ったようなことを」

「そうさ、所詮知ったような発言さ。私はもう二十八でね、そういう年若い考え方が出来るのが羨ましいくらいさ」


 そういって彼女は立ち上がる。大きく煙を吐き出し踵を返し扉の前にまで歩み寄った。音もなく扉が開くのに合わせて妃夢路は振り向くこともなく付け加える。


「悩みなよ少年。そういう風に悩めるのは今だけ。私みたいになれば、アルコールとニコチンで全部忘れてしまう。積もる話は酒に任せてしまうのさ。悩むことすら省かれるようになるからね」


 意味深な言葉を残して真っ赤な後ろ髪は扉の奥に消えた。

 彼女の消えた場所をしばらく見つめていたが静かに椅子に腰を下ろし視線をベッドに戻す。

 横たわる優姫はあいも変わらず作り物のような綺麗さだった。純白のシーツに広がる金色の髪は木漏れ日を反射して幻想的に煌めいている。なだらかな胸が規則的に揺れるのは、彼女の容態が一向に変化していないことを物語っていて。


「悩め、か……」


 独房にぶち込まれている間散々悩んできた。

 自問自答し自責し。あの時こうしていれば。あの時こうしなければ。そんな意味のない哀惜と後悔ばかりを胸の内側で燻ぶらせ続けて。これ以上、何を悩めというのだ。


「……優姫」


 瞼が閉じられたままの優姫を見つめる。その手を取って両の手のひらで包み込む。とくんとくんと優姫の命の音が聞こえるようだ。

 目を閉じる。途端に脳裏にぶり返してきたものは優姫との思い出ばかりで。隣で笑っている彼女はいつも楽しそうだった。和馬のために涙を流す彼女は自分に重ねるように本気で悲しんで。

 瞼を開く。


「なんだよ優姫……お前、寝てるとき意外とブサイクだな」


 彼女の顔が、視界が歪んでいた。歪んだ視界の中の優姫は静かに眠っているままで。眉一つ動かさず。ただ規則正しく眠っている。


「……今の俺の方がもっとブサイクだよ、くらい言えよバカ」


 熱い感情が胸をついてあふれ出す。

 やはり無力だった。後悔しても何が変わるわけでもないがそれでもせずにはいられない。

 ああ、なんでもっと早くに俺は……。


 気づけば深い眠りの深奥に飲み込まれようとしていた。自責の念と激しい寂寥感に苛まされながら暗闇に沈んでいく。

 度重なる重責と奪われていく大切な数々の命。暗闇の中で孤独な時間がただ過ぎていく。

 暗闇には光が差し込まない。それゆえの闇なのだ。闇は真っ黒い炭を垂らしたように心に浸透していく。

 つないだ手の温もりも感じた彼女の命も。全てが無機質な黒に染まっていく。

 これが罰なのかもな。ふさわしい結末かもしれない。

 所詮暗闇の住人だ。一度黒く染まった心は簡単には洗い流せない。光に包まれても。その温もりに包まれても。すぐに闇は蔓延するのだ。

 これが罰ならば受け入れよう。自分のあるべき場所に――――。

 

「言ったでしょ、私があなたを照らすよ和馬くん。暗闇が何度あなたを閉ざしても、きっと私が和馬くんを照らし出すから」


 闇に一筋の眩い光が差す。


「だから――――和馬くんも、私の光になってね」


 光に……?


「ほら早く、そこから出てきて。私の手を掴んで。早く……その眠りから目を覚まして」


 はっとした途端、芝居の暗転のように意識が切り替わった。

 視界は一面真っ白だった。一瞬硬直しすぐにそれがベッドのシーツであることに気が付く。きっとベッドに突っ伏して眠っていたのだろう。体勢上の問題もあって首が痛い。

 瞼をこすりながら重たい頭を上げた。


「よかった。私の光、届いたみたいだね」


 呼吸が出来なかった。息が詰まり体の自由が利かなくなる。頭がくらくらと混乱する。

 まさかそんなはずは。ありえない、どうして。そんな無意味な疑問ばかりが脳の中を循環していた。動かない首を無理やり動かして視線を上げる。


「ゆ、き――――?」


 薄暗い部屋のベッドの上。そこには足を崩した少女がぺたんと座っている。

 清潔な白い服からは彼女の健康的な素肌が覗き、色素の薄い瞳は上目使い気味に和馬の顔を見上げていて。

 

「うん、私だよ……和馬くん」

「嘘だろ、まさか本当に……」


 彼女の華奢な腕が掲げられ静かに伸ばされるのを半信半疑で受け止めた。

 指先から伝わる彼女の生の温もり。紛れもない優姫の感触だった。


「優姫……優姫ッ!」

「ひゃ……っ」


 胸の内側に安堵と高揚が満ち満ちていくのを感じながら、半衝動的に彼女の体を抱きしめていた。

 小さく細く。強く抱きしめたら砕け散ってしまいそうに思える程に繊細な彼女の体。それでも優姫の存在は消失することもなく腕に抱かれている。


「い、痛いよ和馬くん……」

「……我慢してくれ」


 彼女が辛そうな声を出すのを耳にしても腕に込める力を緩めることはなかった。

 離してしまったらまた手の届かないところへと離れてしまうのではないかと、そう思わずにはいられなかったから。


「泣いてるの……?」


 震えを感じ取ったのか優姫が小さく問いかけてきた。それに応えることもせず静かに震える嗚咽を漏らした。きつく強く彼女のことを抱きしめて。

 やがて抱き竦めていた彼女の体を離すのを名残惜しく思いつつも離れる。


「久しぶりだな、優姫」

「うん、久しぶりだね……和馬くん」


 何かに感じ入るように互いの名前を噛み締める。久しぶりに耳にした優姫の声だ。

 もう一度抱きしめたくなる衝動に駆られながらも、乱れた彼女の衣服をただしてやる。


「もともとは全く間逆の立ち位置だったのにな」


 そういって小さく笑った。

 優姫はされるがままどこかぼーっとした面持ちで和馬を見上げ────いや彼女は和馬を見てはいない。


「和馬くん」


 じっとこちらの方を見つめてくる優姫の瞳の焦点は定まっていない。

 以前よりもどこか澱んだように見える双眸は微弱な振動を繰り返す。何かを直視しているように見えてまるで何も見えていないかのような────。

 返事がなかったためか優姫が手を掲げ上げる。

 

「和馬、くん……?」


 掴みどころのないものを手中に収めようとしているかのように、伸ばされた優姫の手が空を掻いた。

 

「ど、こ……?」


 言葉を失った。彼女はこちらの存在を認識できていないかのように脇の空間を必死にまさぐる。

 彼女は本当に和馬を認識出来ていないのだ。


「おい、お前まさか……」


 彼女の両の肩を掴み引き寄せる。そして彼女の瞳をじっと見つめた。

 澱んだ瞳の奥には冷ややかな薄暗闇しかない。彼女の優しい光も温もりも鮮やかさも存在しない。

 心を締め付けられるような苦しさと、例えられない絶望感に溺れ沈んでいくかのように。彼女の見える世界は鮮やかな色彩から一変、完全なる灰色に侵食し尽くされていて。

 そして気が付く。暗闇に沈む和馬を照らすたびに優姫の光は失われ続けていたのだ。

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