2055年 2月21日(日)

第137話

 優姫の容態は日に日に悪くなっていった。

 目が見えないということだけではない。突然意識が飛び数日目を覚まさないなどと言うことが相次いで起きていたのだ。

 目覚める時はいつも夢から覚めたかのように何気なく起き出す。だが意識を失う直前の記憶が欠如していたり、しばらくの間朦朧としていたりすることが幾度となくあり。

 そして何より彼女の肢体に様々な不全が発症するようにもなっていた。

 ベッドの上で食事をとっていた彼女が、突然スプーンを落とし指の感覚がないと言い出したのである。その日から彼女は右手首から先を一寸たりとも動かすことが出来なくなった。


「和馬くん、私、ここの外へ出たい」


 優姫がそんなことを言い出した時どうしたものかと悩んだ。

 日を追う毎に自由の効かなくなっていく彼女の体をおもんばかれば、病棟の外という不慣れな環境で体を痛めることは望ましくない。

 それよりも病室で点滴による薬物の投与をしている方がいいにきまっている。


「レッドシェルターの外に出たいって言ってるわけじゃないの。外の空気が吸いたいって言うかな……」

「ってもな」

「わがままを言ってるのは解ってる。お医者さんがダメって言ったら、素直にあきらめるから」


 医者は渋い顔をするだろう。その表情は瞼の裏にありありと浮かぶ。

 優姫を外に連れ出したい。光のない環境でつらい現実に直面しながらもわがままを言ってこなかった優姫に少しでも答えたかった。


「そういうことなら、私の方から許可を取ってあげようじゃないか」


 医者に会いに行く前に別の女に遭遇した。というか部屋の内部にいつの間にかいたらしい。入口の壁に門番のように立ちふさがる赤髪の女。


「妃夢路……? あんたは医者じゃないだろ?」

「まあね、でも私はそこの葛城優姫の様子を見る役目を与えられていてね。葛城優姫の体調が現状優れていることは見て取るようにわかるのさ」

「アンタ、前に機械を弄るのは得意だけど、人体の方は苦手だとかどうとか言っていたじゃねーか」

「人体の観察は、医療や化学の面以外にも、多様の観点から見ることが出来るということだねぇ」


 意味深な言葉を紡いでほくそ笑む。彼女がその許可を下ろしたことに自体にはそれほどの衝撃はなかった。

 防衛省は死去した葛城家の莫大な財産をリミテッドの運営に回すために優姫の覚醒を促していた。その優姫が目覚めた以上はもう用済みということなのだろう。

 あからさまに彼女の治療を中止したりはしないものの、防衛省の中での優姫の存在は大きく変わってしまったわけだ。こうして外出して体調を崩そうがどうでもいいということだろう。


「本当にテメエらは……正真正銘のクズ野郎どもだよ畜生が」


 優姫にそのことを悟られぬよう穏便に包む、などということには頭が回らなかった。


「君はレッドシェルターの人間すべてが、金のためだけに動いていると思っているのだろうね」


 その憤慨に妃夢路は至極冷静な面持ちで応じる。


「実際違わないだろ」

「そうかもね。だがそれでも中にはその実情を変えたいと考えている人間もまた、少なからずいるんじゃないかな?」

 

 勝手なことを言う。これだから為政者というやつは信用がならないんだ。


「ささ、関係者に見つかる前にさっさと出ていきな」

「本当にいいの?」

「まあこのレッドシェルター内部じゃ、見て回って面白い場所なんてないけどねぇ」


 彼女はその言葉を残して病室から出ていく。

 扉が閉まる寸前、懐から電子タバコを引き抜く姿がうかがえた。妃夢路の奴、今度は優姫のことを慮っていたのだろうか。

 


 ◇



 レッドシェルターはリミテッドに必要な施設を包括した高層建造物密集群だ。ある種の貫禄さえ感じさせる高層の建造物たち。滑らかな暖かい風が緩やかに吹く道には白いタイルが敷かれている。

 見渡せばどこにも摩天楼が連なるこの空間の中で、ひときわ目を引く建造物があった。


「帝城、か」

「興味があるの?」


 車いすに座っている優姫が目は見えないだろうに和馬の方に振り向きながら問いかけてくる。はっとして留めていた足を動かした。

 舗装されたタイルの隙間に車いすが重なるたびに優姫の髪が揺らぐ。彼女は久々の風に当たったためか、心地よさそうに新鮮な空気を吸い込んでいる。


「まあ、興味がないと言えば嘘になるな」

「リミテッドを運営している施設だもんね」

「考えてみりゃ俺たちが経験してきた一連の出来事も、ここの連中の政策に左右されてきたわけだよな」


 原宿の隔離政策や一掃計画その他諸々、和馬たちの生活は帝城の政策を基盤に成り立っている。足元が不安定な以上いつ崩れてしまうか不安になった。

 それにしても人という人がいない。レッドシェルターは確かに重要人材の居住しか認められてはいないが、それでも一万人以上の人口はあったはずなのだが。


「静か、だね」


 凪いだ風が優姫のブロンド髪をさらい彼女はそれを反射的に手で押さえ込む。その姿は以前までの彼女そのままで。だがその顔に眼帯は付けられていない。

 それは全盲になったことが原因だ。そのせいであまり強い光を浴びるのは好ましくない。今は日差しが出ていないからいいが太陽が照ってきたらどこかに入る必要があるだろう。


「どこに行きたい? まあ、レッドシェルター内部に、遊べる場所なんかないが」

「んとね……一つ行きたい場所があるんだ」


 目的地は教えてくれなかった。彼女に示されるがままに高層建造物の合間を抜けていく。

 ここまで建物が密集していると日陰も多くて助かる。ましてや今年はさっぱり雪が降らないものだから。

 

「なるほど、な」


 目的地に到着して優姫がここに赴きたいといった理由を理解した。

 Citrusia。建物の壁にはそう刻まれている。しかしその外観は知っている物とはだいぶ違っていた。

 渋谷や港区で見たものは巨大なデパートメント施設であったのに対しここはどちらかと言えば巨大な工場だ。しかもその規模は港区の物の軽く三倍ほどがある。


「なんか印象違うな」

「ここはね、スファナルージュ・コーポレーションの本社なの」


 優姫の言う通りシトラシアの表記の上には、さらに巨大な字体でスファナルージュ・コーポレーションと英語で記されている。

 

「本社がレッドシェルター内部にあんのかよ」

「今はもうリミテッドに欠かせない要素になっているからね……」

「ええ。それと同時に、この施設では各世帯に配給される携帯非常食レーションが製造されているのです。それ故に内部にあるんです」


 優姫の言葉に返したのは和馬ではなかった。はっとして振り返るとブロンド髪の女が佇んでいる。

 和馬の着色に失敗したようなそれとは別の絹のようななめらかなブランドと透き通る蒼穹を思わせる碧眼。それをみれば少女が純正の外人であることはうかがい知れた。


「アンタ、誰だ?」

「失礼、申し遅れました。私はシエナと申します。それからこっちが兄のルーナスです」


 端正な顔立ちの中に凛々しさを醸しながら彼女はそう言って、一歩後ろに控えていた男の袖を引っ張る。

 男の方は不審そうな目で和馬と優姫のことを睨んでいた。シエナと名乗った少女と瓜二つな外観だが、その面持ちは切れ長でどこか威圧的だ。シエナの柔らかなブランドと対照的に長髪は鋭利な刃物のようで。


「ルーナスだ。一応言っておくが、私は和馬翔陽、貴様の経歴は聞いている。罪の血潮に穢れたその手でシエナ様に触れてみろ。その手は貴様自身の血で染まることになるぞ」

「は?」

「もう……お兄様。初対面の相手に毎度そうやって目くじらを立てるのはやめてください。和馬様には和馬様なりの理由があって、そのような行動に及んだのでしょう。私たちが判断し和馬様を排斥していい理由にはなりませんよ」


 むっとしたようなそれでいてどこか呆れたような顔でシエナがルーナスを叱責する。

 

「で、ですがシエナ様。このような下賤なものに声をかけられるなど……し、シエナ様、耳はっ」

「ああもう、お兄様は黙っていてください。無礼が過ぎます」


 シエナとの間に躍り出ようとしていたルーナスの耳を掴んでシエナはため息をついた。

 シエナに耳を引っ張られたことがよほど堪えたのだろうか。ルーナスは大した痛みではないだろうに捨てられた仔犬のようにしゅんとなる。


「な、なんなんだ」

「見苦しい姿をお見せして失礼いたしました。兄はその、私に対して過保護なだけで、和馬様を罵ろうとしているわけではないのです」

「ま、まあそういうことなら……」

「貴様、シエナ様を前にして何をニヤニヤしている。まさか邪なことを考えているのでは……!」

「本当に罵るつもりがないのか? あいつ」

「お、おそらく……」


 今にも冷や汗を垂らしそうな顔でシエナがルーナスの向う脛を蹴り飛ばす。

 馬みたいな声を上げて横転したルーナスのことはさておいて、突然登場した二人のブロンド兄妹の素性を探ろうとする。


「あの、シエナさん、失礼ですけど」


 出鼻をくじいたのは優姫だった。しばらくだんまりを決め込んでいた彼女は様子を窺うような顔を浮かべて。


「私のことはシエナで構いませんよ。私も優姫様と呼ばせていただきますので」

「シエナ。少し気になったんだけど、お兄さんのルーナスっていう名前もシエナっていう名前も、私の記憶違いじゃなければ……」

「はい、優姫様が存じ上げられております通り私たちはスファナルージュの人間です」


 初耳だった。少しばかり驚く。リミテッドを支えている最も巨大な資産家と聞いていたからなおさらである。よもや二十代半ばほどの人物だったとは。


「シエナ様は、スファナルージュ・コーポレーションの当主であられるお方だ。それを理解した上での立ち居振る舞いをしろ」

「もうお兄様ったら。そういう上下関係は私は嫌いです」

「シエナ様がそう仰られるのならば……和馬翔陽、葛城優姫、貴様たちは今後シエナ様に対しへりくだるような、上下関係を醸し出すような態度はとるな」

「手のひら返し早えな……なんか躾のなってないドーベルマンみたいだな」

「ふふっ、シエナが飼い主みたいだね」


 本人には聞こえぬよう優姫に耳打ちすると彼女は久々に笑って見せる。やっぱり外に連れ出してよかったのかもしれない。


「それにしてもちょうどよかったです。実はあなたたちを探していたのです」

「私たちを? どうして?」

「優姫様がスファナルージュ・コーポレーションのマスコットが大のお気に入りと聞きまして……療養中ということもあったので少しでも元気の源になればとこれを」


 シエナのアイコンタクトを受け取ってルーナスが何やら荷台を押してくる。荷台には大きな段ボールが六つほど積まれていた。


「……C.C.Rionか?」


 見たところ段ボールにはC.C.Rion二リットルと書かれている。少なく見積もっても百本は有りそうだ。

 こんなに飲めるわけないだろ。病人をさらに糖尿病にさせるつもりか。


「本当? うれしいな、ありがとねシエナ」


 その数を目にしていない優姫は破顔して素直に喜んでいる。

 

「いえいえ、これは後から病室に送らせていただきますね」

「それよりも貴様らこんなところで何をしている。葛城優姫は絶対安静下に置かれていたはずだ」

「妃夢路のばぁさんが特別に出してくれたんだよ」

「妃夢路様が……?」


 シエナとルーナスは意味深に顔を見合わせる。何やら思い当たる節があるのだろうか。

 ルーナスは一瞬眉をひそめしかしすぐに表情を常のものに改めて目の前にまで近寄ってくる。


「それならば話は別だ。工場内の案内をしよう」

「突然親切になったな」

「黙ってついてくるんだ。葛城優姫は興味があるのだろう」


 彼らに招き入れられ施設内を回った。

 C.C.Rionの原液を果実から抽出、不要となった果実の皮をすり潰しレーションにするまでの工程、様々な商品の製造過程など。

 優姫はそれを視認できるはずもなかったがどうやら楽しめているようである。

 中でも彼女のテンションが最高潮に達するのは、スファナルージュ・コーポレーションのマスコットにあるようだった。リオンのぬいぐるみやエプロン、様々な商品に触れている間の優姫は本当に楽しそうで。

 その時くらいはこのつらい現実を忘れられていたのだろうか。それとも和馬ことを気遣っての演技に過ぎなかったのか。

 どちらにしてもこの時の和馬の理解に及ばなかった。優姫が考えていたものも抱えていたものも。そして事の重大さも。なにも解っていなかったのだから。

 


 ◇



「次、どうすっか」


 スファナルージュ・コーポレーション本社から病棟へと戻ってきていた。病棟の入り口、その柱に寄りかかりながら沈む夕日を眺める。


「うーん、ここでいいかな。ここから降ろしてくれる?」


 指示されるがまま優姫の華奢な体を抱きかかえ車椅子から降ろす。

 持ち上げた優姫の身体は驚くほどに軽くて。背筋を冷たい感触が撫でた。

 彼女の身体にできるだけ負担をかけないように支柱に寄りかからせる形で座らせる。自身もまたその隣に腰を下ろした。


「本当はね、私、和馬くんとまたあのボロ部屋に行きたかったんだ」

「ボロ部屋って……原宿のシトラシアか?」

「うん、けど、そんなわがままは言えないし、それにどうせ目が見えないし、どこに行っても仕方ないもん。私はね、あの窮屈で牢獄みたいな病室から出て、和馬くんと外でお話したかっただけだもん」


 病人用の薄手の服の上にカーディガンを羽織った彼女。心無しか和馬の方に近寄り袖に肩を密着させるようにしてしばらく考え込んだ末に答えた。

 それでいいのかと思いつつも確かに彼女の言う通りだ。どこへ行ったって閉鎖されたリミテッド内にいる限り束縛から解かれることはない。

 それに和馬としては。いつ監獄にぶち込まれるか解らない以上、優姫と二人でいられる残り少ない一分一秒が惜しかった。


「ちょっと、寒いね」

「そんな薄着で出てくっからだろ。ほらもう中に」

「そうじゃなくて……そのほら、だからね」

「なんだ? ああ、なんか持って来いってことか、それならそうと」

「違う。だから……ああ、なんで解らないかなぁ」


 しびれを切らしたように優姫は和馬の手の甲に触れる。

 普段から看病の都合上、その手には触れ慣れているはずなのに。感じたことのない感覚が込み上げてくるようだった。


「あー、これでいいか?」

「……うん」


 彼女の小さな肩に片腕を回しぐっと引き寄せる。感覚のなくなっている優姫の右腕には出来るだけ触れないようにした。


「あったかいなぁ和馬くん」

「低体温症だぞ」

「……もう、ムードがないなぁ。そんなの関係ないの」


 優姫はむっとしたようにそっぽを向いたがすぐに和馬の胸に頭側面を埋める。可能な限り密着した優姫の鼓動が直に伝わってくるような気がした。

 心地よくそれでいてどこかむずがゆい。一歩を踏み出す勇気が自分には欠如している。彼女という存在に踏み込む覚悟が、か。


「ねえ和馬くん」


 しばらくして優姫は静かに名前を呼んだ。


「私たちが生きるリミテッド。この区画は今後どうなっていくと思う?」

「どうって、どういうことだ?」


 意味を図りかねて問いかけると、彼女はどこを見つめるわけでもなくだだっ広い摩天楼を眺めていた。

 なにか思いつめることでもあるかのように。消え入りそうな、それでもどこか確信に満ちた声を絞り出す。


「私はね、和馬くん。今のこのリミテッドの状況が誰かの策略によって導かれた結果だと思っているの」

「……策略、だと?」


 思いがけない彼女の発言を耳にして思わず復唱する。

 彼女はそれにしばらく応じず視線をさ迷わせて帝城のある方向を見やった。

 見えていないはずだが。まるで帝城に何らかの牽引力で無意識的に引き寄せられているかのように。


「どういうことだ? 現状最大の世界の脅威はノヴァだぞ。それがなんで策略って」

「……それは」


 問い詰める和馬に彼女は言い淀む。袖を掴む手にかかる力が強まったのは何かを決心したからなのだろうか。

 重大な何かが知らされるのだと直感的に理解した。


「ラグノス計画って、知ってる?」


 知らない言葉だった。語感的にはなんとなくロシア語のようにも思える。目線でその言葉の意味を問いかけた。

 

「Reconstruction and AUGmentatioN of HOmo Sapiens……通称、Project RAUGNHOSラグノス計画

「……は?」


 囁くような微声で流暢に呟かれたその言葉は英語。意味は良く分からないが、なんとなく嫌な感じがする一文。


「明確な意味はわからない。でもこれを、私、家出する前にお父さんの書斎でデータをみたの」

「優姫の父親って……葛城章のことか?」


 彼女はそれにうなずくことで肯定した。

 葛城章は葛城家の大黒柱であり、同時にリミテッドに数年来に渡って多額の資金援助をしてきた人物でもある。つまり東京23区の都市化計画を推進した人物だ。彼ら国を統べる者たちが何を目論んでいるのかはついぞ分からなかった。

 彼とその妻は先日、何らかの事故により死去したと峨朗に聞かされていたが。もしや優姫はそれについてなにか知っているのだろうか。

 彼女曰く、そのラグノス計画という物についての資料は国会の消印がつけられていたらしい。つまりは国会の議題として提示された何らかの議決案であるということだ。

 

「その資料にはいろんなことが書かれてた。多国語だったから詳しいことまでは解らなかったけど……ナノマシンっていう新型の医療技術についての供述と、それからノヴァについて」

「ノヴァ……」


 優姫が家出をしたのは今から二ヵ月少し前、2054年の十一月頃だ。その時点ですでに世界中にノヴァは蔓延していた。

 だから防衛省関係者や、国会がそれに関する資料を集めていたことに関しては何らおかしなことはない。が何かが引っ掛かる。


「ナノ、マシン……」


 嫌な予感が胸の中を駆け巡る。それがノヴァと関係している可能性。


「うん、詳しいことはわからない。けど何かお父さんたちの……日本政府の目論見のせいで、こんな状況になってしまってるんじゃないかなって思うの」

「つまり防衛省が一枚かんでる可能性、か」

「だからね、お父さんとお母さんが死んじゃったって聞いたとき、そんなに驚かなかったんだ。いずれ、こうなるんじゃないかって思ってた」


 彼女は内面に募る様々な感情を押さえ込む様にそう述べる。

 自分の両親が関与していた可能性。その事実に彼女はどれだけの疑心を抱き続けてきたのだろうか。今思えば、彼女が家出してきた理由だってそこにあるのだろう。

 現状の都市化したリミテッドという隔絶地帯。それに対する疑念や不満からの自由を求めていただけではなかったのかもしれない。


「私も自分の居場所なくしちゃったんだ。家はあるけど、でもあの家は……パパとママがいるあの家はもう自分の家に思えないの。だから家出したんだ」


 初対面で彼女はそう言った。彼女はずっと何かを抱えてきた。和馬の未だ知らない何かを。何か行動を起こしたかったのだ。


「でも……今の状況じゃ、なんも判断できやしないよな」


 考えるだけ野暮だとそう思った。

 現状和馬は既にリミテッドの政府に飼われている都合のいい番犬でしかなくなっているのだ。全てが日本国の策略であろうとなかろうと。自らの生存のために生かされているに過ぎない。

 そんな和馬がこうして政府に対して反感意識や疑念を抱いたところで、何ができるというのか。謀反でも起こせというのか。相手方からしてみれば飼い犬に噛み付かれる程度でしかないわけなのだから。

 

「…………」


 沈みゆく夕日をぼんやりと眺める。世界が少しずつ暗闇に呑まれていく光景は和馬の心に人知れない不安感を芽生えさせた。

 光を失ったのは優姫だけじゃない。リミテッドそのものが深い闇の深奥へと落ちて行っているのではないか。そんな取り留めもない憶測が胸をついていた。


「私、和馬くんに……まだ話してないことがあるの」


 肩にもたれかかるようにしていた優姫が憂いを孕んだ声で囁いた。

 何のことかと目で問いかける。それと同時に、言わせてはならないという名前の付けられない衝動に駆られた。


「私、ね」


 彼女は尻目に和馬の目を見返す。夕日が優姫の姿の背景で摩天楼に沈み込んだ。

 わずかな光も徐々に薄れていき、やがて――――世界は闇に包まれた。


「あと数日しか、生きられないんだ」


 全く、嫌な予感ばかり的中する。



 ◇



 後天的な出血性ショックによる脳障害。優姫はその症状に陥っていた。

 落下の際、頭部に受けた一撃で脳の一部が致命的な損傷を受け、機能不全に陥ってしまっていたらしい。長期間彼女が昏睡していたのもそれに関係しているらしい。

 目覚めた後少しずつ全身の機能が衰退していっていたのもそれが原因であるようだ。

 まず四肢が動かなくなり最終的には腎不全に陥ってしまうとか。腎不全になれば優姫は確実に助からない。

 そのことは目を覚ました当日から担当医に告げられていたらしい。


「クソ、くらえだ……」


 後ろ手にベッドカーテンを閉める。

 優姫が先まで座っていた車椅子を無性に蹴り飛ばしたくなる。堪えてただ歯を食いしばることしか出来ない。ゆっくりとため息をついた。まずは落ち着くべきだ。

 背中側の遮光カーテンはひんやりと冷たく、まるで和馬と優姫とを隔絶しているようにも思える。


「どうせ先行き長くない、あと数日の人生なら……私は今生きている他の人たちに迷惑をかけないで死にたいの。私が生き永らえるためには、莫大な医療技術を費やさないといけないから。それに、もう和馬くんにこれ以上面倒をかけたくないから。だから私は今から薬の投与を停止してもらうつもり」


 この病室に戻ってきてそう告げた優姫。どうやらもう決心を決めているようだった。

 そもそも優姫は本当に自分の命を投げ打つことに後悔がないというのか。奇跡の成した技か、全盲になってしまったとは言え意識が再覚醒することはほぼないと言われていたのに。その状態から目覚めたと言うのに。

 何より和馬と一緒に過ごしている時間に一切の名残もないというのか。和馬にとって彼女と再び触れ合えることが何よりも嬉しかったのに。


「お前にとって……俺の存在はそんなに小さいもんなのかよ」


 吐き捨てた言葉はやはりどこともなくさまよって暗がりの中に呑まれる。

 優姫はそれに答えない。何かまだ重大な事実を隠しているように思えて仕方がなかった。

 彼女に死を選ばせるだけの重大な何か。彼女が命を投げ打ってでも成し遂げようとしている何か。あるいは────。


「命を投げ打つことでもしないと、成し遂げられない何か……なのか?」


 彼女の事を理解したような気でいて、本質は何も理解出来てなどいないのだ。彼女の上っ面だけ見て解ったような顔をして────。

 それに気づいてしまったからこそ見苦しくもこうして彼女の内面を覗き見ようとしている。


『優姫、お前さ、前にこう言ったよな。お前は俺の居場所になるから、俺が優姫の居場所になれって』

『いろいろ考えたんだけどさ、お断りだそんなの』

『俺はお前が現実を逃避して、逃げ出せる場所になんかならない』


 そう言って隠されたその事実を見て見ぬふりをしてきたというのに。

 彼女が必死に隠し通してきたものを、その固く閉ざされた胸の中に隠れる何かをまさぐろうとしているのだ。そうして今更彼女の居場所になろうだなんて考えている。

 頭を振り乱してその思考を断ち切る。


「そんなの関係ねえ……理由なんて、原因なんて。俺には関係ねえ」


 周りを慮って死ぬなど絶対に認めるものか。

 彼女の生存こそが和馬の生きる意味であり存在理由なのだから。

 


  

  

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る