第94話


「これにて今回の会合は終了にする」


 皆が各々の目的のために散っていくがその場に和馬や真那たちは残っていた。


「任務はいいのか?」

「探索は、ソリッドグラフィで何かしらの反応があった時に行うように言われたわ。無作為に手当たり次第探索しても仕方がないし」

「シグレだけオフだなんてずるいのだ、リオンもオフにしてほしいのだ」


 妬むようにぷくぅと頬を膨らませ見上げてくる凛音。彼女も彼女でここしばらく気苦労が絶えなかったことだろう。

 唯奈の一件でも彼女はその他のメンバーのことを気遣って快活な自分を演じていた。精神的にも肉体的にも疲労がたまっているはず。


「どうせ反応がなければ私たちは待機しているだけ。それなら凛音、羽を伸ばして来るといいわ」

「お外に遊びに行ってもよいのか?」

「拠点内部にいるよう言われたろ。結果的に外に出ることにはなるが」

「よく解らぬが、リオンも同行するのだ」

「真那はどうする」

「私はいいわ。探査係の手伝いをする」


 誘ってはみるがそっけなく返される。最近ようやく受け入れられているように錯覚していたが、やはり錯覚にすぎないようだ。

 真那は時雨になど関心がないのか、見慣れない隊員たちとともにソリッドグラフィを覗き込んでいる。


「烏川さん、こんばんは」

「東か」


 呼びかけられて振り返ると酒匂を従えた昴が傍に佇んでいた。彼は凛音のことを一瞥し微笑ましい表情を浮かべる。

 この二人の間に一歳分しか年齢の差がないことに違和感を隠せない。昴が歳不相応なほどにしっかりしているのが大きな理由だが。


「烏川さん、少しばかり、お時間頂いてもよろしいでしょうか」

「ああ、どうかしたのか?」

「あまり烏川殿方の御時間は取りますまい。少々昴様が懸念していることがあるとのことでしてな」

「懸念、というほどのことでもないのですが……アイドレーターに関することです」


 先ほどの会合では話していなかったことだろうか。とはいえそれならば時雨個人ではなく全体に話すべきではないのか。


「心中お察しします。アイドレーターの問題は、もう個人間における問題ではありません。レジスタンスという集合体に限った話でも。リミテッド全域の命運のかかった状況ですから。とはいえ、これは個人的に烏川さんに話すべきだと考え、先ほどは話題に挙げませんでした」

 

 そう言って彼はビジュアライザーを展開する。そうして何やら表示させたファイルを時雨の端末へと移行してきた。

 それを開くと何やら顔写真のついた履歴書のようなものが現れる。顔写真。その枠内にて片眼鏡を掛けた人物は、気が狂ったような不敵な笑みを浮かべていた。


禍殃かおう、か……」


 脱色したような灰色の手入れがされていないのか長さの整っていない髪の男。否が応にも見覚えがあった。紛れもなく倉嶋禍殃である。


「まず、この人物についてからです。倉嶋禍殃は2052年時、ノヴァ侵攻騒動があった時を境に、姿をくらましていました」

「元陸上自衛隊階級もち、将補と言えど、彼の役職は化学開発部門ナノゲノミクス局長でもありましたからな。その倉嶋禍殃が、アイドレーターを創設したきっかけは分かりかねますが。であるが、これまでアイドレーターなどという偶像崇拝組織が認知されてこなかったのは、倉嶋禍殃の観測が絶たれていたからですぞ」

「捜索がなされていたのにも関わらず、居場所を特定できなかったために死亡したと考えられていたのですが……」

「突然アイドレーターとして現れたわけか」


 何がきっかけだったのだろうか。彼が防衛省から抜けた後、彼の局を継いだのは佐伯・J・ロバートソンだった。

 防衛省の指針に反旗を翻し自主的に抜けたのか。もしくは何かしらの原因で佐伯・J・ロバートソンに失脚へと追いやられたのか。謎は深まるばかりである。


「それに気になることは、倉嶋禍殃がナノマシンの技術を用いていることです。烏川さんが目撃した倉嶋禍殃の能力は、間違いなくナノテクノロジーだったんですね?」

「ああ。多分な。あんな現象他には見たこともない」


 それは間違いないかと思われます。とネイは間を置かずして肯定する。


「実際に遠距離からU.I.F.を殺害した時、確かにナノマシンの反応がありました。ただ、あんな技術は初めて見ましたね」


 プロトタイプである時雨を筆頭とした改造人間の数々。

 月瑠は少々特殊だが大抵は飛躍的な身体能力の上昇。超越的な回復力。そう言った効果があるだけだ。

 禍殃のように、あたかも超能力のように殺戮をなせる個体は初めて現れたわけだ。


「だがネイ、リオンは尻尾が生えるのだぞ?」

「凛音様は特別なのです。時雨様たちはナノマシン抗体ウィルスを体内に取り込んだだけの、いわばワクチン接種状態ですが……凛音様はナノマシン自体を取り込んだイレギュラー、すなわち実験体アナライトですから」

「なんだかよく解らぬのだが、リオンは特別ということなのだな」


 なぜか自慢げに彼女は陽気な笑みを浮かべる。この場合に限っては、特別であることがよいことだとはお世辞にも言えないのだが。

 何と言ってもナノマシンそのものを摂取しているということは、彼女は誰よりもノヴァに近しい存在であるといえるのだから。

 

「しかし気になることは、そもそも確認されている被研体は、プロトタイプの烏川さんを筆頭としたTRINITY。それから海外におけるラグノス計画の研究によって生み出されてしまった人物くらいのものでしょう」

「ちょっと待て、海外? ラグノス計画は国内だけの物じゃないのか?」


 そう考えられる理由も解りますがなと酒匂が何やらデータを時雨の端末に送りながら訂正してくる。そこにも複数人の情報と顔写真が綴られている。


「確かに日本政府、正確には防衛省は、ナノテクノロジーを運用して海外諸国を事実上の傘下に収めていますが。とはいえその海外諸国自体にも、ラグノス計画の支部があったという情報は、防衛省内部から流れてきた事実ですぞ」

「海外での実験って……その素体になったのは誰なんだ?」

「それに関しては、烏川さんもつい先日体験しているはずです。デルタボルトで。頂上的なナノテクの変質作用。倉嶋禍殃とまではいわねども、時雨さんや立華薫・紫苑のような身体強化にとどまらず、ナノマシンを微量ながら操ることのできる存在――」


 昴はそう言って。時雨の瞳をまっすぐに見据える。


「まさか――あの黒づくめか?」

「はい、おそらくこれは疑いようのない事実です。黒づくめ、すなわち……いえ、ここで名前をあげるのは伏せましょう。烏川さん方も何かしらの理由からか伏せているようですが故。ここでは対象Kと命名しましょうか。対象Kは、紛れもない改造人間です」


 ただ時雨や立華兄妹とは少々異なった研究方法なのか、ナノマシン抗体因子が彼女に及ぼしている影響もまた異なっていた。

 それこそナノマシンを操れるという点においてだ。


「詳しいことは理解していませんが、対象Kは肉体の大部分がナノマシン化しているようです」

「ナノマシン化……感染しているということか」

「それは少々語弊がありますね。通常、感染した人間は細胞が壊死し、肉体の結合分子たちが乖離していきます。肉体そのものが消失する現象ですね」


 それに関してはこの目で何度も見てきた。紲の弟である智也もその一例であり、発症したことを示すように半身がすでに消滅していた。


「対象Kの肉体はとても奇妙な状態で維持されています。凛音さんのように完全にナノマシンと複合しているわけでもなく、細胞そのものがナノマシンと結びついている。血中のナノマシン濃度はおそらく鉄分濃度よりも高いといえるでしょう。体中の細胞はすでに機械になりかけている」

「よく解らないが……実験体アナライトよりもノヴァに近くないか?」

「ノヴァの定義が何たるか、それがはっきりしていない以上何とも言えませぬがな。少なくとも烏川殿、貴殿よりはナノマシンに近しい存在だといえるでしょうぞ」


 それほどまでに、彼女はラグノス計画の神髄にのめり込んでいるということ。

 Reconstruction and AUGmentatioN of HOmo Sapiens――通称RAUGNHOSラグノス

 人類種の再構築・拡張計画というネーミングを鑑みる限り、対象Kの肉体は極限までナノテクノロジーに支配されているのだ。


「まあ、話を戻しましょう。とにかく倉嶋禍殃がナノテクノロジーの実験に素体として関与したという情報はどこにもありませんでした。ここから考察するに、倉嶋禍殃の存在はレジスタンス以上に防衛省にとってはイレギュラーだといえます。もしくは……倉嶋禍殃、いえアイドレーターその物が、防衛省の手の内の組織である可能性も」


 そんなこと考えもしなかった。

 目的も指針も定かではないアイドレーター。その主導者たる倉嶋禍殃の考え方は甚だ理解しがたい。その線は全くないとは言い切れないだろう。

 ノヴァをフォルスト、すなわち神の遣いとしてあがめるアイドレーター。それは誰の目から見ても防衛省の敵である。

 それを人為的に生み出すことによって、防衛省のかりそめの正当性を示そうという策謀の可能性だってある。現状では何とも判断しがたいのが実情だったが。


「それにしても、どうしてそれを俺個人に?」


 こういう話題ならば皆のいる会合の場でもよかったのではないか。

 

「昴様にはそれをなせぬ理由があるのです」

「理由とはなんなのだ?」

「それに関しては、あくまでもまだ考察段階ですので今は伏せておきます」


 レジスタンスにはだいぶ秘密主義者が多いようだ。


「申し訳ありません。ただ、それでも留意は必要なのです。ただそうですね、いえることがあるとすれば……それは烏川さんがラグノス計画に魅入られた人間だからです。いえどちらかといえばEDENエデンに、というべきでしょうか」

「は?」

「話が脱線しましたね。次はこちらのファイルになります」


 意味深なことをつぶやいた昴。その真意を問う間もなく彼は新しいファイルを送信してきた。

 ラグノス計画に魅入られた? EDENに? 一体何を言っているのか。そもそもEDENとは何だ。

 すでにファイルは着信していたため聞ける雰囲気でもなくそのファイルを開く。開かれたものは先ほどの物と同じ履歴書的な物。


「風間、泉澄」


 先と同じような配置で張り付けられた顔写真、そして綴られている名前。

 顔写真に写っている人物は、簡素な白を基調とした病人服のようなものを纏ったショートヘアの少女。

 見紛うことない、時雨が脱獄に加担してしまった反逆者である少女であった。


「風間の情報……まさか、風間も防衛省の人間だったのか?」

「いえ、そういうわけではありません。それはあくまでも防衛省が重要観察対象としてリストアップしているだけの記録なので。倉嶋禍殃と彼女との関係に疑問点があったので、妃夢路さんの助力を得て風間泉澄について少々調べてみました。烏川さん、その記録を見て何かお気づきになられることはありませんか?」

「何かって……」


 促されるようにしてその資料に目をむける。

 所属団体欄には、『idolator』の文字。年齢、体重、身長。そして出生。それらを流し読みしようとして思わず出生の欄で息を止めてしまった。


 出生地 : 不明(養成地:救済自衛寮)


「救済自衛寮、だと……」


 あまりの驚愕に目を反らせない。まさか彼女もそうなのか。

 

「風間が救済自衛寮の……孤児だと?」

「申し訳ありませんが、烏川さんについても少し調べさせていただきました」


 そう言って昴は一つのファイルを見せてくる。

 泉澄や禍殃のものと同じ情報書。その写真欄に映っている物は紛れもない時雨自身の顔だ。その出生に関する情報には救済自衛寮の五文字が浮かんでいる。


「烏川さんも、この施設の入院者だったようですね。救済自衛寮。孤児院として名目上は経営されていましたが、実際問題、児童福祉法41条の定める児童養護施設の定義とは相違点があった」


 41条の定める定義は『児童養護施設は、保護者のない児童、虐待されている児童など、環境上養護を要する児童を入所させて、これを養護し、あわせて退所した者に対する相談その他の自立のための援助を行うことを目的とする施設』となっている。


「救済自衛寮は身寄りのない子供を集めては確かに養護していました。ですが、根本的な問題としてとある定義を守ってしませんでした。すなわち、『退所した者に対する相談その他の自立のための援助を行う』という施設としての役割」

「…………」

「救済自衛寮から、退所した孤児はひとりとしていません」


 核心に迫る発言。そう救済自衛寮は孤児院などではなかった。

 今ならばわかる、孤児院という名目で身寄りのない子供を集めては、何かしらの実験に素体として使う企画。実験というのはむろんラグノス計画である。

 

「通常、孤児にも等しく人権は存在します。ですが救済自衛寮はそうではありません。入所した児童は、その時点で国民リストから抹消され人権を剥奪される。それが出来るのは、それらの児童たちが等しく孤児であるからです。身寄りのないいなくなっても誰にも気づかれることすらない、そんな……」

「……そんな、盗まれた世代だ」


 言いよどんだ昴の言葉を代弁する。

 時雨が所属していた孤児院、救済自衛寮はそう言った見境も人道も何もない孤児院だった。

 

「いや孤児院なんかじゃない。あそこは監獄だ。完全に外との接点を遮断され世界から隔離された、軍事監獄アルカトラズ

「隔離、ですか」

「見上げるような壁に囲われ内部にはタレットまで仕掛けられていた。もし施設から脱出しようとした孤児がいたら、その場で射殺される。目の前で蜂の巣にされた孤児も見たことがある」


 何より性質が悪いのはその場で一息に殺さないこと。他の孤児たちへの見せしめだ。苦しむ脱走者を捨て置くのである。


「あの孤児は、まだ十歳くらいの子だった」

「それは……壮絶ですね」

「孤児たちは定期的に数が減っていく。月に数人、姿を見なくなる。表向きでは失踪したと曖昧に報道されていたが……実際は防衛省の人間が、実験に使うために回収しただけだろうな」


 思い出すだけでも胸糞が悪い。

 時雨がその孤児たちと同じように拉致られ、結果的に死に至らしめられなかったのは、ひとえに運が良かったからだ。

 救済自衛寮を経営していた自衛官である聖玄真。その娘である真那と知り合い気に入られた。それだけの偶然が孤児としての時雨をあくまでも孤児として繋ぎ止めたのだ。

 まあ今改造人間になっていることを考えれば、もしかしたら例外ではなかったのかもしれないが。自分がこんな体になってしまったときの記憶なんて残っていないから。


「凄惨な記憶を掘り起こすようなことを申し上げて、申し訳ありません」

「別にあえて話していなかっただけのことだ。それにしてもあの救済自衛寮に風間がな……」

「そのことに関してなのですが、風間泉澄は倉嶋禍殃のことを父親と呼んでいたのですね?」


 逆もまた然りだ。禍殃は何度も風間を娘と呼んでいた。


「その事実があったため、てっきり風間の姓は第三統合学院に潜入するための偽名だと思っていましたが、本名であったようですね」

「孤児であることを考えても、禍殃の実の娘ではないということか」

「そうでしょうね。そこで烏川さんに質問なのですが……烏川さんは、救済自衛寮に入所していたころから、倉嶋禍殃と面識がありましたか?」

「ああ。禍殃は真那の父親と何かしらの契約でもしていたんだろうな。孤児を人体実験に使うために、出向いていた。失踪した孤児を拉致っていたのも、禍殃だろう」

「そのことなのですが、その当時、倉嶋禍殃以外に、定期的に救済自衛寮に姿を見せていた人物はいませんでしたかな?」

「他に? いや、特にいなかったように思うが……いや待ってくれ」


 そう言いかけて何かが頭の片隅でうずくのを感じた。

 本当にそうか。何かを見落としている気がする。記憶にもやがかかったように何かが欠落している。自分の内側にある記憶の一部にぽっかりと穴が空いてしまっているような。そんな違和感があった。

 誰かが、禍殃とともに出向いていた気がする。


「誰かが、いた」

「その人物について思い出せますかな?」

「いやすまない、思い出せそうにないな……」


 記憶の中、靄はその人物に関する場所にだけかかっているような気もする。

 

「そうですか……酒匂さん、やはり」

「昴様の読みはあながち間違っていないかもしれませんな」

「?」

「ああ、少し懸念事項がほかにもありまして。まだ確信は持てていませんが……」

「烏川殿、その時に出向いていた人物はもしや山本一成殿ではありませんでしたかな?」

「山本、一成……」


 言われてみて考えてみる。あの男と初めて対面したのは防衛省に所属した後だったはずだ。

 そもそもあの男と出会っていたとならば、忘れているなどとは到底思えない。

 

「確信がないから何とも言えないな……」

「そうですか……ありがとうございます」

「よく解らないが、役に立てなくて悪いな」

「いえ。それからぼくなりの解釈ですが、烏川さん、一概にも倉嶋禍殃の人格は限りなく非人道であると、そうは言いきれないかと思います」

「どういう意味だ? 孤児を回収して実験に使ってる奴が人道的だというのか?」

「人道的だとは言っていません。ただ、そもそももしそのような研究に孤児を使っているような人間なのだとしたら、」


 そこで言葉をいったん切る。


「何故、実験などされた様子もない生身の人間である、それも元孤児である風間泉澄を娘として扱っているのでしょうか」


 意味深な昴のその発言。それを聞いて、やはり頭の中のどこかが疼くのを感じていた。

 


 ◇



「どうしたのだ? シグレ」


 酒匂と昴が去った後も黙ったままの様子を見て、凛音が問いかけてくる。


「いや……昔のことを思い出していた」

「昔のこと? あんまり思いつめない方がいいぞ? リオンは過去を振り返らない主義なのだ」

「それは、いつもの峨朗家の習わしか何かか?」

「違うのだ。過去を振り返ると、傷ついてしまう人がいるのだ」


 何を言っているのかと彼女のことを見下ろすと、凛音は何やら感慨にふけるような複雑な表情を浮かべていた。

 快活な印象ばかり強い凛音だが人並み以上に感情の起伏が激しいようにも思える。

 ただその感情を表面には出さず内側に抱え込んでいる。そんな面持ちをしているように思えた。気のせいの可能性もあるが。


「さて、そろそろ行動にでるか」

「シグレ、どこかに出かけるのか?」


 やるべきことをやらないといけない。


「ナツメの言っていたことか?」

「ああ、第三統合学院で起きた事件とか今回の一件とか。色々迷惑かけたり力を借りたりした。そのお礼とか、色々しなければいけない」

「時雨様は生きているだけで人様に迷惑をかけているので……そう考えれば、世界中の生命体すべてに頭を下げて回らないといけませんが」

「俺は大気感染する伝染病か何かか」

「ナノマシン抗体因子を体内に取り込んでいるわけですし、あながち間違っていないかと」


 確かに。


「棗様の言っていた会合は明日です。まだ時間はありますが、全員回るのは難しいかもしれません。時雨様がまず真っ先に出向くべきだと判断した相手の場所に行かれるのが得策かと」

「真っ先に、か……」

「早く決めやがってください優柔不断時雨野郎様」

「紲だな。なんだかんだ言って一番迷惑かけてしまったのは紲だからな」

「それならばリオンは、ここに残るのだ」

「一緒に行かないのか?」

「そうしたいのだが……クレアが忙しそうだからな」


 彼女が見据えているのはソリッドグラフィ。その傍で何やら真那と話しているクレアは、確かに困ったようにあたふたしている。ソリッドグラフィの操作に難航しているのかもしれない。

 行き先を決めたのならばここにとどまる理由はない。展望台からエレベーターを経由して紲のいるであろう宿舎に向かう。

 最下層についてエレベーターから降りようとしたとき、開いたエントランスに紲の姿を見つける。彼女はエレベーターの前で困ったように首をかしげていた。


「あ、時雨くん。会合はもう終わったの?」

「だいぶ前にな。もう皆持ち場に向かったが誰かに用でもあったのか」

「ううん、そういうわけじゃないんだけど……この上に行きたくて」

「上? 展望台か? それならほら乗りな」


 エレベーター内部で彼女のスペースを作るものの彼女はすぐには乗り込んでこない。一体どうしたというのか。


「私、乗っていいのかな?」

「ダメな理由なんかないが。どうした」

「えっと、なんていうか」

「時雨様、それは聞かずに察するのが紳士の対応ですよ」


 紲の言葉を遮るようにしてネイが窘めてくる。


「紲様は唯奈様にも匹敵するほどの、たわわなトリアシルグリセロールの持ち主ですから。エレベーターに乗ることで重量的に定員オーバーのブザーが鳴らないか心配なのです」

「え……? ……っ、ち、違うよっ」


 紲はそれを聞いて、しばらく意味を理解できていなかったように黙っていた。

 意味を理解するなり顔を真っ赤にして否定する。よっぽどネイの方が非紳士的といえるだろう。


「もしそうならこのエレベーターどれだけ貧弱なんだ。女性の身体的特徴に関して詳しくはないが紲は軽い方だろ」

「そ、そうじゃなくて、いやそうじゃなくもないけど……確かに最近ちょっと……」

「?」

「っ、なんでもないよっ」


 わき腹辺りをさすっていた紲は再度真っ赤になって手のひらを振り乱す。

 

「それで、どうなさいました?」

「えっと、このエレベーター使おうとしたんだけど、ボタン押しても反応しなくて」

「ああ……」


 だからエントランスで立ち往生していたのか。


「このエレベーターの作動スクリーン、指紋認証つきだったな」

「指紋認証?」

「その作動ボタン、タッチパネルになってるだろ。もしレジスタンス以外の人間が内部に入ろうとした時の対策で、認証しないと作動しないようになっている」

「紲様はこの拠点の宿舎に籍を置いては居ますし、全くの他人というわけでもありません。いまさら棗様も紲様をこの施設に立ち入らせない、などとは仰らないでしょう。後から申請しておきますね。そうすれば紲様もこのエレベーターを使えるようになるかと」

「いいの? 私レジスタンスの人間じゃないし……」


 レジスタンスの管制下にいる以上、立ち入り禁止されている場所があるのも不便だろうに。


「誰も紲が情報漏洩に加担するなんて疑わない。来たいときには来ればいい」

「そ、そう? じゃあお邪魔するね」


 少々遠慮がちにではあるが彼女はエレベーター内部に足を踏み入れる。それを確認して扉を閉めた。


「時雨くん、この階に用があったんじゃないの?」

「いや、用があったのはここじゃなく、紲にだ」

「私?」

「ああ、最近色々有ったろ? だから……」

「?」


 疑問符を浮かべて見つめてくる彼女をしり目に、上階のボタンを押そうとする。そういえば彼女がどの階に用があるのか聞いていない。


「何階だ?」

「えっと……何階なのかな。このタワーの中にあるって柊さんに聞いてきたんだけど。何階か聞くの忘れちゃってた」

「どこに行きたいんだ?」

「えっとね……慰霊碑」


 理由を聞かずとも彼女が慰霊碑に向かおうとする理由は理解できる。なにが目的かは分からないが。

 何が理由で行くのかには、否が応にもおおよその憶測が付いてしまったのだ。

 無言で最上階へとエレベーターを発進させた。静かに上昇していく密閉空間の中で、だがそれよりもしんとした静寂が流れていた。

 意図して作り出した空気ではないが特別気まずさがあるわけではない。なんとなく何かしら話題を切り出しにくい雰囲気を彼女はまとっていた。

 いや違う、それは時雨がそう感じているだけだ。実際の彼女はそんな態度はとっていない。彼女にそういう風に接せられているとそう感じてしまっているだけだった。


「うわぁ……すごい景色だね」


 やがて扉が開く。視界にまず映り込んだものは見渡すような青の色。

 特別展望台の窓から見える下界の光景。防衛省の政策が生み出したディストピア。ドロドロに凝り固まった欺瞞や猜疑に汚れきったリミテッド。

 だがここから一望できるその領域の光景はどこか晴れがましい。そんな事実は存在しないのではないかと錯覚してしまうようなランドスケープ。

 一見して惑わされそうなその光景から無意識的に目を反らしていた。この場所において、少しでも今のリミテッドを受容してしまうような行動は絶対に許されない。

 この場所には、防衛省の表面上の偽善で隠された現実によって、失われていった尊き命が刻まれているのだから。


「これが、慰霊碑かぁ」


 エレベーターに沿うように円筒状に配置された黒曜石。圧巻するような佇まいに気圧されたのか紲は何度も瞬きを繰り返す。

 やがてその表面に手のひらを触れさせると、何かを感じいるかのようにまぶたを閉じた。

 そんな彼女の姿をただ黙って眺める。邪魔してはならない、そんな風に思わせられたからだ。

 

「時雨くん、ありがとね。ここに通してくれたことについてではないよ。ううん、それもなんだけど……」

「智也くんのこと、だろ」

「……うん」


 紲の弟である智也は、レッドシェルターに潜入する直前、時雨が彼の眠っていた隔離病棟に忍び込んだことによって亡くなった。

 A.A.と無数のU.I.F.に追跡され死に物狂いで隠れようとした。結果、智也やその他の感染者たちが収容されているエリアにまで追い込まれ、結果的に彼の命を奪ってしまった。

 予期せぬ事態だったわけだがこうなる可能性は少なからずあったのだ。智也を殺したのは時雨である。こればかりは間違えようのない事実で。

 

「時雨くんがこの慰霊碑に智也の名前を刻むように皇さんに申請してくれなかったら……智也はきっと、今も報われないでどこかをさまよっていたと思う」

「よもや感染者からは人権が剥奪されるなどとは、思ってもみなかったですからね」


 これは唯奈を奪還した後に知ったことだが、防衛省は発症した人間の発症後の免責を一切負わないという。

 それは単純に感染に対する賠償などの話というわけではない。そもそも感染の原因が防衛省にあるということなど一般市民は知らないわけで。

 ここにおいて、感染者には通常の臣民に適用される権利と平等の人権が与えられないということ。

 あの隔離病棟以外には一切医療機関での診療ができない他、IDも剥奪され死後の弔いなども一切無干渉となる。

 それすなわち墓が与えられないということ。感染し死んだ者はもはや人間としてすら扱われないのだ。

 それ故に時雨が取り計らい棗に頼んだ。織寧智也の名前をこの慰霊碑に刻んでくれと。


「智也くんはレジスタンスの人間じゃないから、交渉は難航すると思ったが」

「あっさり棗様は承認してくださいましたね。あんなに物分りのいい人間でしたかね」

「確かに、融通の利かない奴ではあったよな」


 唯奈奪還に乗り出したことといい、あれ以来少々性格が変わったようにも思える。


「皇さんが優しい一面を見せてくれた、っていう理由もあると思うけど……こうしてこの慰霊碑に智也の名前が残ったのは、ひとえに時雨君のおかげだよ。ありがとうね」

「葬式は無理だったが」

「それは仕方ないよ。葬式をするためには、区営の鑑識に通さなきゃいけないし……」


 リミテッドの条規には、葬式を行う際、死者が住民であることを示さなければいけないと記されている。

 何かしらの方法で偽造される可能性もあるため区営の鑑識課に遺体を通す必要があった。

 当然感染者である智也は葬式の開式を受理されるはずもない。致し方なく葬式は断念したのだ。

 もちろん彼の遺体は一連の騒動ののちに隔離病棟から回収させしっかりと弔った。


「それに……智也くんを殺したのは俺だ。その命に見合った代償なんて存在しない。それでも出来ることはしたいんだ」

「時雨くん……」


 紲はそんな時雨のことをどこか悲しげな目で見つめている。

 時雨が悪いのではないとは言わない。そんなことを言われても時雨の中の罪の意識が緩和するわけではないと解っているからだ。

 そして彼女自身、少なからず感じてしまっているからだろう。智也の死には時雨の行動が大きく影響してしまっているのだと。


「私は、今もう、十分なくらい時雨くんによくしてもらってるよ」

「それだけじゃダメだ。俺には紲の生きてる環境を全部ぶち壊した罪がある」

「時雨くんが何もしなくても、きっと私はこうなってた。だってお父さんは防衛省の悪行に加担してたんだもん。こうなるのはきっと決まっていたことなんだよ」

「違う、そうじゃない」


 織寧社長がもし悪事に加担していたんだとしても、命を奪っていい理由にはならない。

 少なくとも時雨には織寧社長の処遇について採決を見定める権利などなかった。


「それに智也くんは何も悪いことをしていなかった。ただ巻き込まれただけだ。その智也くんの命を俺は奪った」

「……時雨くん」


 やはり紲は悲哀に満ちた表情を浮かべていた。何を言っても意味はないと理解している。それでも何か気の利いた言葉を模索している。

 そんな彼女の気遣いがありがたくて同時に心が痛かった。

 彼女は時雨たちを気負わせないように平静を装い続けている。ずっと一度も弱みを見せることもなく。

 それだけ彼女の内側には負の念情が凝り固まっていくのだ。どこにも吐き出せず、ただの感情に過ぎないそれらはいつしか彼女の精神をむしばむ呪縛となっていく。

 本当は時雨をののしりたいだろう。お前のせいだ、全部お前の責任なのだと恨んでいるだろう。

 それでも今もなお笑顔を向けてくれているのは、彼女がどうしようもないほどに優しいからだ。その優しさはきっといつか紲を滅ぼすことになる。

 

「時雨くんには、私が苦しんでいるように見える?」

「…………」

「そう見えているなら、そうなのかも。でもそれならそれでいいの。自分にとって大切な人がいなくなっちゃったんだもん。それで悲しめない人間にはなりたくない」

「紲」

「確かに智也は死んじゃった。それには時雨くんの行動が大きく影響していたのかもしれない。それでも……私は時雨くんを恨まない。時雨くんは、智也のために悲しんでくれているもん。智也の死を悼んでくれているもん。それなら私はその時雨くんの誠意を裏切りたくない。私はありのままの私で、今の現実を受け入れたい」


 慈愛に満ちた笑顔だった。


「智也、紹介が遅れちゃったね……この人が、烏川時雨くん。私の大切な友達で、智也をこんな目に合わせた人たちの間違いを、正そうとしてくれてる」


 紲は慰霊碑に向かって語りかけていた。それは形のない取りとめもない偶像的存在に固着している姿ではない。

 しかと失われた現実を受け止め、一歩を踏み出そうとしている強い意志の表れだ。

 一度失われかけた信頼が再び形を成し始めている。それならば繋ぎ止められたその奇跡を、もう失わせるわけにはいかない。

 それは時雨にチャンスを与えたくれた紲に対する唯一の報い方だったから。



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