第61話
「頼む、まってくれ」
「…………」
「やめろ、いくな真那、どこにも行くなよッ!!」
「……アンタ、いい加減うっさ」
「何でこんな……いかないでくれよ……」
「…………」
「真那ぁッッッ!!!」
「だぁぁああああっっ! うっさいわね! いい加減起きなさいよ女々っしいわねぇッ!」
「ぐふぉッ」
顔面に食い込んだ強烈な固い感触に時雨は思わず覚醒する。
覚醒しても何も見えず、顔面に食い込んでいる物を手探りで掴み引きはがした。唯奈のローファーの裏側であるようだ。
「……離してほしいんだけど」
いつかの明智みたいに悪魔の一撃必殺は食らいたくないため手を離す。どうやら時雨はベッドではなく床に横たわっているようだ。
「柊、起こしてくれたのはありがたいが、何もベッドから蹴り落とさなくても」
「知んないわよアンタが自分で落ちたんでしょ」
「俺はそんなに寝相悪くないぞ」
「だから知らないわよ。女々しい夢見てのたうち回ってたんじゃないの?」
「かれこれ、五分近く真那様の名前を連呼されてましたね」
上体を起こし立ち上がりながら頭を摩る。
まったくいやな夢を見てしまった。これまであの頃の真那の夢なんて見たことなかったのに。原因は十中八九、先日の講演会場で彼女の幻覚を見たことだろう。
「で、何の用だ?」
「しれっとしてるわね……情けない姿を他人に見られといてからに」
「いや、寝てるところに乱入するほど大事な用なのかとな」
「まあ大事っちゃあだいじね。失踪事件に関する情報が入ったわ」
首の骨を鳴らしながら伸びをしてベッドに腰かける。クレアと凛音はまだ熟睡しているようだ。相当騒いでいたようだがそれでも起きないとはなかなか眠りが深そうだ。
「ちょっと、何犯罪的な目で私のモフモフたちを見てんのよ」
「べつに柊の物じゃないと思うが。それで情報ってのは?」
「それについて話すつもりだけど、だらしないから服着替えてよ……」
頬をひくつかせる唯奈に指示され彼女が部屋の外に出ているうちに着替える。
しかし失踪事件に関する情報か。織寧重工での一件から二日間、何の情報も入ってきていなかった。何か進展があったということか。
「よ、あんまいい夢見なかったみてぇだな」
唯奈と共に和馬も室内に入ってくる。どうやら羞恥的な寝言というか寝発狂は隣室にまで響いていたらしい。
「これ、見覚えあるでしょ」
唯奈が差し出してきたものは、鈍色のインジェクター。
「確か、和馬が持ってきた」
「ああ。今キャンパス内で出回ってる薬物だ。名称はスタビライザー」
「確か人体に悪影響がないって、科学部の人間が判断を出したことで、学生たちが使ってるってあれだよな。もしかして出所が解ったのか?」
「残念ながら、それはまだ」
「これがどう失踪事件にかかわってくるんだ? まさか、これを使った学生が溶けて消えた、とか言うわけじゃないだろ」
「当たり前でしょ、水酸化ナトリウムでも使わないと、簡単に人体なんか溶けないわよ」
まあその通りである。半ば冗談で言ったわけで当然違うとはわかっていたが。それならば一体どう失踪に関係してくるのか。
「人体に有害じゃないって聞いてたから、気にしなくてもいいって思ってたんだけど……これ、レジスタンスの化学物質解析班に回したでしょ? それで和馬翔陽のだけじゃ足りなかったから、学生たちからいくつか押収したのよ。それを検査したらとある成分が見つかった。それも、とんでもないものがね」
「とんでもないもの……?」
「ベンゾジアゼピン系の睡眠作用のある薬物。それだけならいいんだけど、問題なのは、それを摂取すると持続的に半覚せい状態に陥る薬品だってこと。ほんとならそんな副作用ないはずなんだけど……」
「正確な症状は、半覚せい状態で意識のない行動に走っちまうってことだ。意識はないが、命じられれば、簡単な指示ならば従順になっちまう。脳の出す信号が単調になるみてぇだ」
科学部部長がそれを見つけられなかったのは何故だ。まさか、その部長が開発者なのか。
「それはない。その成分自体は酷く薄くて、精密検査でもしないと分からないほどだったみたい。それに成分自体はあくまでも睡眠作用があるだけだから……」
「ついでにいや、うちの解析班も最初はその症状に気が付かなかった。だが、新たに押収したインジェクターの針に付着していた学生の血液から、判明したらしい。どうやら、ヘモグロビンだか赤血球だか知らないが、血の中にある特別な成分と結びつくことで、その覚せい作用が出てくるみてぇだ」
たしかにそれならば簡単には解析できなくても仕方ない。しかしそんなものがキャンパス中に出回っていてよく問題にならなかったものだ。
「学生もさすがに人前でこれを使うわけにはいかねえからな。自宅でやってたんだろうよ」
「それに覚せい作用も効いて一時間程度の物らしいし。たぶん、自分がそんな状態になってるだなんて思わずに使ってんでしょうね」
「そんな危ないもの、一体誰が」
「断定はできないけど、アイドレーターが一枚噛んでいる可能性はあるわよね」
失踪事件に絡んでる可能性はどこにもない。睡眠作用はあっても致死作用はないしそれに瀕する症状が誘発したりもしないらしい。
「半覚せい状態というのは?」
「それに関しちゃ一般的なヤクと大して変わんねえ。幻覚、幻聴、過度な勘繰り。それに性欲の過剰な活性化」
「それに、その変な副作用か」
「とりあえず今は、当初の調査内容にこれも加えて調べるしかないわけ」
「そういえば、紲の方はどうなってる?」
「まあ特に取り乱したりする様子はないわね。平常心を装ってるんでしょうけど」
紲は肉体的な怪我などはなかったものの精神的なケアが必要と言うことだった。
一人で生活させればどんなことが起きるかもわからない。今の精神状態では自殺する可能性も否めないということで唯奈と共に生活している。当然二人部屋に移動したわけだが。
学校で見る彼女の様子はいたって普通だが一人になったときに何をしでかすか解らない。
「で、ここまで赴いた理由はもう一つ。シール・リンク、最近の
「学校の生体識別には、未だに葛葉美鈴の記録はあります。すなわち、毎朝六時のサーモセンサーに彼女の反応があったということです」
「そう聞かされて、監視課に彼女の様子を確かめたのよ。そしたらどう? 監視カメラにも盗聴器にも彼女の姿は入っていないっていうのよ」
サーモセンサーの故障か。
監視カメラに関しては時雨が直々に葛葉の部屋に潜入して設置作業を試みた。それに関しての不備はないと断言できる。
「そうだと判断した監視課が、彼女の部屋のサーモセンサーを点検したけど、何の不備もなかったみたいよ」
彼女は部屋に出入りしていないのに、朝の六時、深夜零時にサーモセンサーは彼女の存在を探知している。サーモセンサーに不備はなく故障の線もない。となればどういうことだ。
「何か、重大な見落としをしてるような気がすんのよね。少なくとも葛葉美鈴がアイドレーター局員の最有力候補って考えて間違いないわね」
「もう一度、葛葉の部屋を洗い直した方がいいかもしれないな」
「そうね……今日の放課後、もう一度捜査する。もしかしたら監視カメラの方に細工が施されてるかもしれない」
「つっても、他にも監視の目を外せねえ奴もいんぞ」
「
「まあそれが妥当だな。烏川、前回と同じ組み合わせだが、聖と葛葉の部屋みてきてくれ。そこのちっこいのもつれてったほうがいいな」
和馬は未だに寝息を立てている凛音を顎で指す。
「そいつは鼻が利くしな。いざってときは強行できる戦力が必要だ」
「それもそうだな。とりあえず、この解明が優先事項か……」
◇
放課後、時雨は真那と凛音と共に再び女子寮に赴いていた。
「……特に変わった様子はないわね」
「その変化ないところが、おかしいわけだが」
葛葉美鈴の部屋。この部屋は前訪れた時のままホコリをかぶっている。
誰かが訪れた様子もなく前回の時雨たちの足跡が残っているだけだ。勿論、入り口から部屋の中央にまで何かを引きずった跡は健在だが。
当然、前見た時と同じでこの部屋の間取りは他よりも少し狭い。一番端の部屋だからかクローゼットの位置が寮の端側に面する壁に位置していることが原因だ。
「サーモセンサーはちゃんと作動してるな」
「監視用機材の調子を確認してみましょう」
真那に促され前回しかけた機材の確認をしていく。考えられるのはこれらの故障だったがその様子もない。しっかりと作動していた。
「どう思う」
「解らないわ……考えられるとしたら、クローゼットの不自然な配置くらい」
真那が見つめているのは前回気になったクローゼットだ。だが改めて開いてみても、衣類の収納されたケースがいくつも積み重ねられラックにはシャツやら何やらがかけられているだけ。
「なんだか、変なにおいがするのだ」
「臭い?」
見れば凛音はクローゼットの向かい側の壁に手をついて匂いを嗅いでいた。
「なんだか鉄臭いのだ。なんだか、この壁の向こうから匂うというかだな……」
「壁の向こう……?」
壁の向こう側は寮の外だろ。そう言おうとして何かが引っ掛かる。
不自然に狭いこの部屋。クローゼットの位置が異なるだけにしては部屋の間取りの狭め方が極端すぎる。
何よりこの床の歪なホコリの跡。これはまさか。
「この向こう側……空間になってる」
真那が手の甲で壁を叩く。鈍い音が響くだけだったが一瞬置いて、僅かにだが音が反響したのが解る。
「隠し扉でもあるのか」
「あり得なくはないかも……」
「だがどうやって開けるんだ? 何かしらの開閉器とかそういうものはなかったはずだ」
「ネイのサイバーダクトで開けられない?」
「無理です。そもそもとして、この扉にはセキュリティそのものが存在しません。私が介入する余地もありません」
電子ロックのかけられているセキュリティゲートならばともかくこの壁には電子錠的なものが一切見受けられない。
「少し強引だがぶち破るか」
「破壊してしまったら、痕跡を残しかねないわ」
「そうだがこの部屋の中からここを開く鍵を探している余裕なんてない。それに葛葉がアイドレーター局員なら、どうせ俺たちは相対しなきゃいけない。レジスタンスとして。それが早まっただけだ」
その言葉に真那は何も返さない。小さく頷いたのを見れば納得したのだろう。
「だがこの壁、どうぶち破るか」
「適量の爆薬を用いるのが最適でしょうが、手間ですね。マイクロ特殊弾を用いましょう」
クイックローダーをアナライザーのシリンダーに装填する。そうして指向性マイクロ特殊弾をはめ込むと、一歩下がり銃口を壁に向けた。
もしこれで葛葉美鈴が無関係だったのならば訴訟ものだが、四の五の言っていられない。
「
金属壁が抉り去られた。空間そのものがかきむしられるように物質そのものが消失する。
巨大な穴がそこに穿たれていた。その穴から伺える壁の向こう側。そこには確かに空間が存在していた。
「……っ!!??」
「ッ、下がれ」
真那を反射的に下がらせる。薄暗いその空間の中は真っ赤に染まりあがっている。
鼻腔を突くツンとした腐臭。体の内側からけたたましい警鐘が鳴り響く。決して見てはならないという危険信号。
「……!」
空間内に余すところなく飛散している真っ赤なペンキ。あまりにも凄惨な光景に思わず言葉を失っていた。
開けた空間の真ん中には、誰かの真っ赤に染まった身体が転がっている。地面に広がった長い黒髪と真っ赤に染まりあがった制服から、女子学生であることが解る。穿ったばかりの穴からブンブンとハエが飛び出してきた。
異常な空間だった。その空間は妙に暑苦しく、だがその暑さすら気にならないほどに全身の血が冷め切っていくのが解る。
瞳を左右に動かし死体以外の気配を伺った。周囲に動くものがいないことを確認する。
「とりあえず、この学生を殺した犯人はいないみたいだが」
部屋の中に一歩足を踏み入れた。地面に無残にも転がっている遺体の傍に屈み込む。
「もう手遅れ……死因はこれね」
真那は腐乱死体の額にぶち空けられている銃痕を見やる。そうして足元に転がっている何かを取り上げた。
「薬莢か」
「額に一発、胸に二発、首筋に一発受けたみたいね」
「出血の仕方からして、何度も何かで突き刺されたみたいです。さぞかし痛かったことでしょう。可哀そうに」
「考えたくもないわ」
真那は自分の着ているブレザーを脱いで少女の顔にかぶせる。
傷口からは既に出血はない。地面に染み込んだ血液もすでに固まり真っ黒に変色している。死んでからかなり時間が経っていることを物語っていた。
「既に死体の腐食が始まっていますね。ウジもかなり湧いています。腐敗水泡が体面に出た痕と……血管網も出現した痕がありますね。死後硬直が緩解しているのを見ても、三日以上は経っています」
「腐り切ってしまう前にこの人物の特定を急がないとなりません」
「葛葉美鈴が殺害した学生、か」
「解らないわ。ただ、これを見て」
真那が指したものは少女の脇腹に突き立っている銀色の筒。インジェクターだ。
「このインジェクターを見る限り、失踪事件にスタビライザーが関わっていることは明白ね」
「薬莢から鑑みるに、使われた弾薬は4.6x30mm弾ですね。かなり特殊な弾丸だといえます。リミテッドで確認できるものといえば、警備アンドロイドに搭載されている特殊型MP7A1くらいでしょうか、民間人が持っているものとは考えにくくあります」
「葛葉美鈴は武装しているわけね」
真那はそう言って遺体を残して部屋の中に戻る。床に足を付ける前にしっかり靴の裏に付着した乾いた血を落としてだが。
下手に触らないほうがよさそうだ。手早くレジスタンスの内無線に事情説明し、遺体を運び出す手はずを整えさせた。
「まさか、前回来たときは、同じ部屋の中に死体があるなんて思わなかったわ」
レジスタンス構成員たちが死体を運び出すのを脇で俯瞰しながら、真那が呟いた。遺体など見慣れている様子だが、あの腐乱死体を見た後だ、さすがの真那も気分がよくないように表情を歪めている。
「部屋が狭いと気づいた時点で、ちゃんと調べておくべきだったな」
「過ぎたことを悔やんでも仕方ないわね……それにしても、凛音はどこに行ったのかしら」
「すみません聖さん、室内で峨朗さんを発見したのですが……」
構成員はそう言って何かを抱えてくる。『獣化』した凛音だった。彼女は脱力したように意識を失い、ぴくぴくと大きな耳と指先を痙攣させていた。
「咄嗟にリジェネレート・ドラッグを打ち込んだのでしょうが……それが仇となったようですね」
「どういう意味だ」
「おそらく『獣化』することで感覚が鋭敏化したことが原因でしょう。凛音様の嗅覚は人間の数百倍……それこそ犬なみですので」
「臭いで気絶したということか」
構成員から受け取った凛音は確かに硬直したままだった。まさかこんな弱点があったとは。
「まあいいわ。あなた、あの遺体を解剖する前に、鑑識に通してくれる? もしかしたらそれで身元を特定できるかもしれない」
「了解しました」
「しかし今の死体が失踪した学生の物だとして……他の犠牲者はどこにいるんだろうな。と言うより、どこにある、か」
あえて死体が、とは言わない。
「まだ、他の失踪した学生が殺害されているとは限らないわ」
「どうしてそう言い切れる」
「あの学生の死体が一人だけあの部屋に隠されていたからよ。そして、注射針で何度も死体に突き刺した痕があったわ。殺すことが目的なら、痕跡を残さないためにも、脳髄を突き刺せばそれで即死なのに。それをしなかったということは、あの学生が抵抗して殺害せざるを得なかったという可能性があるわ」
「真那様の仰る通りですね。また、補足で申し上げますと、刺殺痕を見た限り、加害者は殺しの初心者でした。何人も人間を殺しているとは考えにくいです」
そうであることを願いたい。被害者が増えてはならない。これ以上無害な、無実な命が失われるのは御免だ。
「そう……予想外だったわね」
無線で和馬と唯奈に事の詳細を説明する。
「既に死者が出ちまってたか……その凶器に使われたのがスタビライザーとなると、これ以上あの薬物が出回ってるのは看過できねえな」
「ええ。早急に回収する必要があるわ」
「それから葛葉美鈴の部屋だけど、封鎖はしないほうがいいかもね。立ち入り禁止にして学生たちに不審がられるのは好ましくないし。ただえさえ、失踪事件で皆ピリピリしてるわけだし。不安をあおるようなことはしないに限る」
「遺体が運び出されたのを知って葛葉美鈴が動き出す可能性があるわ。これまで以上に厳戒な監視体制を築く必要があるわね」
そこで通信は切れる。唯奈たちも風間泉澄と月瑠の監視を再開するのだろう。
「これからどう動けばいいんだろうな」
「監視体制は崩せないわ。失踪事件自体はなおも継続中なわけだし、それを止めるために奔走する以外に他ならない」
「だが具体的に何ができる。校内の巡回や寮近隣の監視とか。今まで何もそれに反応しなかったことを見ても、それじゃ根本的な解決にならない気がするが」
「そうね……でも私たちが出来ることって、そんなに多くないもの。どんな些細なことでも見繕って、こなしていくしかないわ」
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