第25話


「烏川、テメェこんなとこで何やっ……なるほどな、そいつらと仲良くよろしくやってたわけかよ」


 時雨の顔を見て一瞬驚いたように眉を寄せた薫であったが、凛音の姿を見てその表情を一変させる。事情を把握し彼は不気味に表情をゆがめた。


「敵に回るってことが、どういうことかは解ってんだよな」


 コンバットナイフを抜刀し彼はそれを逆手に持つ。もう片手に時雨の物の上位互換モデルのアナライザーを持ち、品定めするように抜かりのない鋭利な視線を注いできた。

 鋭い眼光が時雨の目を射抜く。抜け目のない殺戮者の目だ。

 最悪の状況だ。立華兄妹が今作戦に参戦するという事前情報があったからこのパージ作戦に出たというのに、そのどちらもレジスタンスの前に立ちふさがっている。

 さりげなく視線を上方に向けると後方のビル屋上が粉砕するのが見えた。しかし瓦礫が生ずることはなくその部分だけ抉り去られたように抹消する。紫苑の放った特殊弾の影響だ。

 現状唯奈が紫苑の牽制に出てはいるが、紫苑と相対して唯奈の勝利は万に一つもない。サイボーグである紫苑と彼女の基礎身体能力の違いもあるが、それ以前に使っている武器のスペックに差異がありすぎる。

 紫苑が使っているBullet(S22)にはネイのような人工知能が存在しているわけではない。故にインターフィアのような技能があるわけではないが、本来の銃としての機能だけ上げれば完全に時雨のアナライザーの上位互換なのである。対物ライフルモデルなだけあって長射程、さらに用いている特殊弾は時雨の物とは違い大口径。

 対し通常のスナイパーライフル・中口径のライフルを使っている唯奈は絶対的に分が悪い。有効射程も火力もすべての面で紫苑のアナライザーに軍配が上がる。

 そもそも唯奈が紫苑の肉体に弾丸を着弾させたとしても、当たり所によっては紫苑はリジェネレート・ドラッグで全快してしまうのだ。もし紫苑を殺害しようものならば、その脳幹を打ち砕くくらいしか手段は存在しえない。持久戦に持ち込まれては唯奈の死亡確率は飛躍的に上がる。


「TRINITYに逆らったこと後悔させてやる」

「凛音……離れてろ」


 この男を前に予備知識なく戦闘をすることは得策ではない。凛音に距離を取らせ時雨はアナライザーの照準を合わせた。


「マイクロ特殊弾を――――ッ、インター」

「おせぇ」


 弾薬の装填が間に合わずネイがインターフィアを発動する。肉眼でこの男とやり合ったら反応速度が追い付かずものの数秒で殺害されることだろう。

 インターフィアを駆使してなお目で追えない速度で投擲されたコンバットナイフ。それはアナライザーに着弾し時雨の手の中から弾き飛ばす。

 反射的にその場から飛び退り右側への回避行動に出た。瞬間、今までいた地点の空間が新たに握られた薫のナイフによって薙ぎ払われる。


「相変わらずの瞬足ですね。それに対して時雨様は……まさに豚足」

「感心してる場合か……ッ、反撃するッ」


 腰だめに右こぶしをを振り絞りインターフィアで予測された薫の次なる軌道を読んだ。薫のナイフが振り下ろされた瞬間エッジ目がけて拳を繰り出す。

 軌道が狂ったのかブレード部が僅かに皮膚に食い込んだがナイフに亀裂が走った。掌底の衝撃もあってナイフの軌道は大幅にずれる。首元すれすれの位置を刃が通過したのを見計らって、ナイフを握る彼の手首に手刀を繰り出す。


「ちっ……」


 だが薫はそこで猛攻をやめない。思わずナイフを手放した彼であったが、引くことを知らず逆腕の裏拳を叩き込んできた。

 それを反射的に屈みこむことで回避に成功するが、間髪入れずその回転を活かした蹴りが脇腹に叩きこまれる。衝撃を殺すことが出来ずに突き飛ばされビルの瓦礫に背中から突っ込んだ。

 

「シグレっ、前だ!」


 アナライザーの銃口が視界に収まった。間一髪で回避するものの肉薄してきた薫に殴り飛ばされアスファルトに叩きつけられる。

 時雨の頭部をアスファルトに押し付ける形で踏みにじり顔面を蹴っ飛ばしてくる。

 この男は危険すぎる。人を殺害することに躊躇などを覚えることなく、あまつさえそれにある種の快感まで見出している。こんな男に勝てるはずなどない。


「シグレを離せっ」


 接近した凛音が薫の頭側面目がけて回転蹴りを繰り出す。だが彼は片腕でいなし難なくそれを回避した。

 

「そんなノロマな攻撃、食らうかってん……ッ!?」


 旋回した凛音の鋭利な尾が薫の顔面に迫る。反射的にそれを避けた薫だったが切っ先が彼の頬に小さな傷をつける。


「っ、クソ犬がッ!」


 凛音が地面に着地したときすでにその場所にまで薫は迫っていた。踵を返した凛音の腹部に強烈な蹴撃を叩き込む。

 

「ぬぁ……っ!」

実験体アナライト風情が、俺の顔に傷をつけやがって」


 力任せに蹴り上げられた凛音。瞬間的に彼女の上方に迫った薫は、中空でその首を鷲掴みそのまま落下の勢いを乗せて凛音をアスファルトに叩き付ける。

 アスファルトに強烈な亀裂が走り、吹き散らされる真っ赤な血潮。


「クソ……っ」

「時雨様、危険です」


 ネイの制止も聞かず時雨は止めを刺そうと振り上げられた薫の右腕に掴みかかる。

 ナイフのブレードに接触し左腕が抉れたが腱の切断される痛みに耐え力任せにその腕を捻じ曲げる。この男ならば何の躊躇すらなく凛音を殺害してしまうだろうから。

 

「だから、うぜえんだよそういうの」

「がっ……!」

「烏川、てめえ何やってんだ? レジスタンスなんかで仲良しごっこか?」


 左手で首を鷲掴まれ逆刃で胸元を切り裂かれる。すさまじい激痛と共に血潮が吹き散らされ、そのまま投げ飛ばされ外壁に叩きつけられた。


「時雨様、自己修復不能な損傷です。治療を……」


 胸の傷はかなり深い。呼吸がままならないことを鑑みても肺を傷つけられたかもしれない。すぐに治療しなければ確実に死ぬだろう。

 感覚のなくなり始めている手を戦闘衣に突き入れると、指先に冷たい感触が走り抜ける。それを鷲掴み先端にはめ込まれているボタンを円筒の中に突き込んだ。逆先端から太い針が飛び出す。

 リジェネレート・ドラッグ――この即効性医療キットを打ち込めば、肉体細胞の構成配列を修復することで傷の修復をすることが出来る。


「ッッ!!??」


 胸に針を突き刺そうとしたタイミングでいつの間にか目の前にまで迫っていた薫が時雨の胸を踏み下した。その勢いでリジェネレート・ドラッグは針だけには飽き足らず、注射器インジェクターの半分ほどまでが胸部に突き込まれる。

 肋骨か数本逝く音がした。確実に心臓に突き刺さっている。形容しがたいほどの激痛。言葉にならない悲鳴が木霊した。脳みそが溶け落ちてしまったような、脊髄が引きずり出されるような焼けるような痛みだ。


「あ、がぁ……」


 徐々に感覚が薄れていく。思考は朦朧とし、視界はすでに赤く滲んでいる。体のどこも動かすことが出来ない絶体絶命の状況で。


「死んどけ」


 胸を踏みつけた体勢のまま薫は時雨の額にアナライザーの銃口を押し付けた。一瞬の躊躇もない殺戮衝動。彼の瞳の中にはそれがある。時雨は死を覚悟した。


「諦め、屈服すること。それは罪を犯すことに他ならない。つまり――――ギルティ」


 視界の中で白刃の光が迸った。


「――――ッ!?」


 脊髄反射的に掲げられた薫の上腕。そこに叩きつけられたものは、爆発的な破壊力を秘めた掌底。掌底の叩き込まれた薫の右腕が瞬間粉砕した。


「ッ……かッ!」


 血飛沫がアスファルトに飛散し彼の腕はあらぬ方向へとねじ曲がる。裂けた皮膚と筋肉の間から惨たらしくもへし折れた骨が突き出していた。


「そして貴様はラグノスの生み出したギルティ、そのものだ」


 時雨の前に躍り出た男が身に纏っている白衣が翻り、逆手の掌底が薫の胸部に襲い掛かった。生物本能的にそれを食らえば死に至ると判ったのか、薫は胸前に機能している腕を掲げつつ飛び退る。

 それでも掌底は彼の肉体を貫いた。背中から衝撃波と血飛沫が吹き散らされ呆気なくぶっ飛ばされる。そしてそのまま炎上している装甲車両に背中から突っ込んだ。


「逃がしはしないさギルティ。なぜなら私は――――」


 かすむ視界の中で男は薫に肉薄しようとし、だがその場で身を翻す。そうして回転からの掌底をあらぬ方向へと突き込んだ。数瞬の後、前方のアスファルトが球状に大きく抉り去られる。

 おそらく薫の援護で紫苑が狙撃したのだ。その特殊弾を、どういうことかこの男は生身で弾き飛ばした。ただの掌底で弾丸を跳弾させたのである。通常ならばあり得ない攻防。だが確かにこの男は――――。


「ああ、まだ、この世界のルールから外れてしまった、罪の果実があったか」


 踵を返しこちらへと向かってきた男。だが彼は時雨のことなど見てはいなかった。紫苑がいるであろう地点を見て感慨深そうに哀愁を漂わす。

 時雨は視界の中び映り込んだ男の顔を凝視する。嘘だ、そんなありえない。

 様々な疑問や衝動が回らない頭の中を巡っている。乱れた灰の頭髪に悪趣味な片眼鏡。ああ間違えようもない、この男は――――。


「ルールから外れ、地に落ちた果実など、所詮何もできない役立たず……はみ出しものに過ぎない。いずれは腐って消えていくだろう」


 意味の分からないことを呟き離れていくその男の無防備な背中。時雨はそこから目を逸らすことが出来なかった。

 心臓が早鐘のように脈打ち噴出する血液量が倍増する。だがそれでも目を離せない。なぜお前が、倉嶋禍殃くらしまかおうが――――ここにいるんだ?


「だが……腐った果実は摘み取らないと、だ。そうだろう?」

「その通りです、お父様」


 誰かが瓦礫に背を付けている時雨の脇で応じる。ほとんど機能しなくなっている脳では、その声の性別すら判別できない。発声源を確認しようにも首が動かなかった。


「だが、今お前がすべきことは、地に落ちたギルティを裁くことではない。腐ったギルティに蝕まれ、腐食させられたもう一つの果実に命の水を与えることだ」

「解りました」


 朦朧とする思考力ではまともに理解しえない発言に対し、もう一人の人物は静かに応じる。そうしてその人物は時雨の脇に屈みこむ。


「ぐ――ッッッ!!??」


 その瞬間、突き刺すような激痛が再び胸部に走り抜けた。続いて、その部分から体内に氷のように冷たい物が雪崩れ込んでくる。それは血管を縦横無尽に走り回り全身に浸透していく。

 再度の激痛と共に体内から異物感が消え去る。肋骨をへし折り心臓に突き刺さっていたリジェネレート・ドラッグの注射器インジェクターが引き抜かれたのだ。

 徐々に肉体の感覚が取り戻されていく。同時に全身の鈍痛もまたぶり返し視覚もまた鋭敏化し始めた。歪んでいた世界が一挙に明瞭化し、遮断されていたインターフィアが再接続される。だがそこにはすでに何の生体反応もない。


「何が――――」

「薫様は予期せぬ第三者の介入に際し、逃亡を図ったようですね」


 胸元を抑えながら立ち上がる。既に傷は塞がり、先までの耐えられないほどの激痛は和らいでいる。折れた肋骨は完全にくっついていないだろうが応急処置としては十分だ。


「あの白衣の男の介入の後、スナイパーもすぐに姿をくらましたわ」

「柊も無事か」


 無線から彼女の生存を確認し安堵の息を漏らす。あの紫苑とやり合っていたわけだから、最悪既に死亡している可能性を考慮に入れていたのだ。

 アスファルトに穿たれた陥没。そこに凛音は沈み込んでいた。薫に叩きつけられた際に後頭部を打ち付けたのか出血し意識を失っているが致命傷は負っていなさそうだ。『獣化』の際に投与したリジェネレート・ドラッグの効能かすでに傷も塞がっているようである。


「時雨」


 瓦礫の合間から真那が姿を現す。彼女に次いで幸正や和馬、船坂たちも姿を見せる。今作戦決行に伴って、警備アンドロイドの介入が入らぬよう外部で備えていた地上遊撃部隊の者たちだ。


「遊撃部隊班! 急いでA.A.の確保に回れ!」


 船坂の指揮の下、瓦礫が退かされ始める。装甲車両の一部は大破炎上していたが二台の車両は潰されずに残っていた。生存していた運転手はレジスタンスに取り押さえられ拘束される。


「何があった?」


 和馬は時雨がまだ傷の完全修復をできていないことを見計らったのか、時雨の抱えていた凛音を代わりに抱きかかえる。


「立華妹の方は最初から狙撃ポイントに潜んでいた。B2ビルの18階だ」

「敵がスナイパーであることを考えれば、その可能性に行きつくべきだったな……やっぱりこの場所で仕掛けると推測されてたか」

「立華に関しては……全く歯がたたなかった」

「それより、TRINITYは撤退したの?」


 付近に彼らの姿がないことを不審に思ったのか真那が問いかけてくる。第三勢力が介入してきたことを伝える。


「話から察するに、その男は時雨に味方したの?」

「ああ、もう一人の人物が俺にリジェネレート・ドラッグを打ち込んだ。助けられてなければ……今頃死んでたはずだ」

「レジスタンス以外に防衛省に刃向かう第三勢力が……これは調査が必要そうだな」 

「調査、か」

「どうかしたのか?」

「いや、」


 和馬の発言を耳に脳裏にぶり返す白衣の男の顔。見紛うことないよく見知った男の顔だった。

 倉嶋禍殃――――。このことは、役に立つ情報になるかは定かではないが話しておいた方がいいだろう。そう判断し時雨は副指令である船坂の元に向かおうと踵を返す。


「!? 全員、離れ――――!」


 視界の中で、凄まじい爆発が生じた。

 腕で目元を隠しながら爆源を辿る。そこには爆炎を噴く装甲車両の残骸があった。爆発によって車体全体が破損し廃車と化している。さらに爆発が連鎖し炎に呑まれ数人のレジスタンス隊員が宙に巻き上げられた。


「総員退避せよ! 他の車両にも爆弾が仕掛けられている可能性がある!」


 爆弾? 耳を疑いほかの車両に視線を注ぐ。すると船坂の読み通り瓦礫に押し潰されていた車両まで一斉に爆破された。退避は完了していたため、今度は誰も巻き込まれていないようだが……。


「なるほどな、誤爆がないように、東京都都市化、エリア・リミテッド展開以降、車両にはほとんど化石燃料が使われなくなってた。爆弾が使われてなきゃ、あの規模の爆発は考えられねえ。さすがの洞察力だな船坂の兄貴は」

「感心してる場合じゃないだろ、被害はどうなってる」

「死傷者はいないみたい」


 爆風に巻き込まれた者たちも致命傷は回避していたようだ。この瓦礫群の中にまだ爆弾が残っている可能性を考慮して皆が距離を取る。


「爆弾を仕掛けたのは……第三勢力かしら」

「普通に考えたらそうだろうな。そうなると、連中は俺たちの味方ってわけじゃなさそうだな」

「味方じゃ、ない」

「…………」


 複雑な感情に心を揺すぶられている時雨をネイが意味深な目で見つめてきていた。どうやらこのAIには考えていることなどお見通しのようである。


「こちら機体番号A143、ブラックホーク、応答願う」


 メイン周波数から雑音交じりのノイズが響く。男の声だ。それと同時に空気を掻きむしるような風切り音が聞こえてきた。空を仰ぐと数十メートル地点に数機のブラックホークが滞空している。

 

「レジスタンスの機体か?」

「ええ、機体番号から察するに、シエナたちの援護ね」

「ランディングゾーンへの到着を確認、そのまま降下せよ」


 幸正のランディング指示に従いヒビだらけのアスファルトに着陸した汎用ヘリ。皆が乗り込んだところで機体は再び上昇を始めた。


「予想外の状況ですね」

「ああ、まさか第三勢力の介入があるとは……」


 船坂と会話している人物には見覚えがあった。M&C社のコンボイを救援した際にブラックホークを操縦していたシエナという少女である。

 柔らかそうな、それでいて絹のようになめらかなブロンドが特徴的で、西欧人を思わせる海色の瞳がひときわ目を引く。

 副操縦席では前回と同じく彼女と同じ色の髪の男が操縦桿を握っている。シエナと同じくらいに長い髪を乱しながら地上の様子を窺っている。地上からの奇襲がないか確認しているのだろう。ブラックホークなどこんな目立った物で離脱をすれば追跡されかねない。


「軍用A.A.の奪取には失敗したが、レッドシェルターにおける補充を補えなくしただけ、よかったと考えるべきだろう」

「それに、死傷者が出なかったことが何よりです」

「あの二人が、シエナとルーナスよ」


 ブロンド髪の少女と青年に目を釘付けにされていたからか、真那が小声で説明をしてくれる。シエナとルーナス。確か作戦決行前に幸正に聞かされた今作戦離脱時の援護部隊隊長とその補佐だ。


「あなたが烏川時雨様ですか?」


 じっと見つめていると少女のほうが歩み寄ってくる。


「噂はかねがね伺っております。今作戦の要として、皆さんのために戦ってくださったのですね」

「あ、ああ」

「あ、失礼しました。申し遅れましたね。私は航空管轄局の指揮を任されているシエナと申します。それから、あそこにいるのが補佐のルーナスです」


 手を胸の前に掲げての至極丁寧なお辞儀。高貴な見た目からも感じられるような気品の漂う仕草だ。


「ご丁寧にどうも、シエナ……さん」

「シエナで構いません。私も時雨様とお呼びさせていただきます」

「ならシエナ、大丈夫なのか? こんな真昼間にブラックホークで離脱して」

「探査ドローンに探知されないか否か、ということでしょうか? それなら問題はありません。機体は現状ドローンの達する限界高度の上を航行していますので。ステルス迷彩も施してあります。肉眼で視認される可能性もありますが……本日は幸いの悪天候なので雨雲に隠れながらであれば大丈夫です」


 彼女のその言葉が言い終わる前に雨粒が機体に弾ける音が鳴り始める。どうやら気象情報などを網羅したうえでの救援なのだろう。操縦桿を握っていたルーナスは操縦を幸正に任せシエナの元へ歩み寄ってくる。


「シエナ様、あまり下賤の者と会話をなされるのは」

「お兄様、失礼ですよ、改めなさい」

「別にかまわないぞ、シエナ」

「!? 貴様!」


 肩をポンポンと叩こうとして、その寸前に横から伸ばされた手に弾かれる。ルーナスの面持ちは歪み金髪の隙間から覗く眼光は鋭く。あたかも有害因子でも前にしているかのように時雨のことを睨みつけていた。


「貴様! シエナ様のことを呼び捨てにするだけでは飽き足らず、その汚い手でシエナ様に――! 貴様のような厄害がシエナ様に触れていいと思っているのか、身の程をしれ烏川時雨! この方が、公爵家スファナルージュの当主たるお方と知っての狼藉か!」

「待ってくださいお兄様。烏川様はレジスタンスの大切な仲間です。お兄様も知っているでしょう?」


 今にも時雨に殴りかかろうとする彼の手に手のひらを重ねて降ろさせたシエナ。


「知っているからこそこうして除菌しているのですシエナ様。貴女様のような高貴なお方に、このような雑菌が触れるなど、考えるだけでもおこがましい」


 二人の会話から察するに、この男はシエナの補佐役に当たる人物でありさらに彼女の兄であるのか。並び立つ二人の姿はまるで御伽話にでも出てくるのではないかと錯覚するほどで。


「当主とはいっても、ノヴァの侵攻のせいで英国も崩壊して、既にスファナルージュ家の爵位は剥奪されたようなものだろ。だからこそこうしてのこのこ、後ろ指を指されながら日本に逃げてきたんだろ?」


 様子を窺っていたのか和馬が火に油を注ぐ様な発言をする。

 

「貴様っ! シエナ様だけでなく、スファナルージュの血統まで侮辱するのか!」

「落ち着きなさいお兄様、実際に翔陽様の仰るとおりです。私たちは既に爵位を失ったも同然、それ故に、レジスタンスとして戦い、生き残っているのですから」

「しかし! このような輩に好き放題言わせておくのは、スファナルージュの未来を担うものとしては」

「くどいですよ、お兄様」


 やはりルーナスは逆上した。宥めるようにシエナが声をかけると彼は叱られた犬のように渋々引き下がる。


「なあ、さっきから言ってるスファナルージュって……」


 彼らの言い争いが一段落着いたところで気になっていたことを問いかける。

 シエナとルーナスの姓スファナルージュ。その名字に関してはひどく聞き覚えがあった。


「時雨、あなたの疑問も当然の物よ」

「はい、時雨様の考えていらっしゃるように、私はスファナルージュの家督を相続するものであり、かつ、このエリア・リミテッドを支える家の持ち主でもあります」


 スファナルージュと言えば、ノヴァ侵攻後エリア・リミテッドを立て直すために尽力した資産家のうちの一つである。

 リミテッドはノヴァの襲撃を受けた後も一切の損害なく運営されていたわけではない。まだ防衛網として確立できていなかったイモーバブル・ゲートを越えて内部に侵入してきた十数体のノヴァ。

 それらの猛攻を受けてエリア・リミテッドは自治体としての機能の実に25パーセントの損失を被った。エリア・リミテッドに指定されている東京23区の総人口数が当時に比べて激減しているのはそれが原因だ。

 エリア・リミテッドの構築に際し、壁の外に引っ越した世帯が無数にあったのも原因の一つだが。


「多大な損失を被ったエリア・リミテッドを立て直したのは、事実上防衛省ではなく、多額の資金援助をした資産家だった。これは有名な話ですね。……って時雨様、何ぽけーと突っ立てるんですか。そのトリ頭は30キロバイト程度の情報しか記憶できないのですから、さっさとメモって下さい。ここ試験に出ます」

「……まあそれで、俺の認識が正しければ、その資産家の中でも最も資金援助、厚生の面でエリア・リミテッドに貢献したのが、スファナルージュだった気がするが」


 これは又聞きした話に過ぎないが、スファナルージュ家は二十三区のうち十区で完全慈善の教育機関を運営しているという話だ。ノヴァの侵攻もあってまともに教育機関の機能していなかったエリア・リミテッドにとっては、かなり助かる援助だっただろう。


「ちなみに大型商業施設のシトラシアの運営も、スファナルージュの管轄内だぜ」

「そんな資産家のお嬢様と長男が、どうしてレジスタンスに加盟してるのか……そんな顔してる、時雨」

「実際疑問だからな」

「別に私たちが支援をしているのは、防衛省に加担をしているからでも、亡命してきた私たちを匿ってくれた東京政府への恩返しでもありません。単純に、苦しんでいる善良なる市民のために動きたいと思っただけなんです」

「レジスタンスの行動指針は、あくまでもエリア・リミテッドの安寧を目的としている。少なくとも利潤のために世界を陥れようとしている防衛省よりかは、その目的は明確だ。となれば、レジスタンスの指針に沿うことには何の異論もないだろう」


 確かに彼女たちの言うとおりである。しかし改めて考えてみるとレジスタンスの勢力はここまでエリア・リミテッドに浸透しているのか。巨大なバック支援などがあると聞いたこともあるし、時雨が考えている以上に規模の大きい組織なのかもしれない。


「もうすぐ地下運搬経路のターミナルに到着します。続きはドローンの包囲網を抜け本拠地に到着してからにいたしましょう」


 そう言ってシエナは時雨の左手を掴み軽い握手をする。ぐぬぬと言葉にせんばかりの鋭い眼光でルーナスに睨み据えられているだろうがために時雨はあえて目を逸らした。


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