第19話

 ガラス壁の向こう側には無数の黒い影が佇んでいる。見上げるほどに大きな何か。

 人間の身長ほどの長さもある鈍色に光を反射する無機質な四肢。角ばった装甲で覆われた四肢の先端には鋭利な金属が煌めき、一抱え程もある頭部には鼻も口もなく、高射砲のようなものが埋め込まれている。

 見た目の全長は四、五メートルほどもあるそびえ立つような狼。ノヴァだ。


「冗談じゃないぞおい」


 蜘蛛型のアラクネとは別種、狼型のフェンリル。それも災害級ハザードレベルのサイズ。危険指数Aレートに分類される、一個中隊をも下手すれば壊滅させられかねない災害。

 息が詰まる。目の前で今起きた現象を正確に認識することが出来ずにいた。

 ゆっくりと上体を起こした巨大な金属の獣。血色の眼球をグルグルと回転させ、やがて時雨たちに焦点を定める。


「時雨様、私の索敵デバイスでは検出しえない数値が出ました。未知の攻撃に備えてください」


 ネイが何かを言っているが冷静に判断を下すことができない。

 視線の先で巨大な狼が前傾姿勢をとる。瞬間、空間を引き裂くような鋭い咆哮が轟いた。

 否咆哮ではない。この巨大な金属の獣には口や声帯という概念は存在しない。その肉体を構成する金属粒子が超高速で反発し合い激烈な超振動を起こしているのだ。

 あまりの衝撃と振動に機材がひしゃげ頭の割るような音波に思わず時雨はその場に崩れ落ちた。


「ッ! 逃げるぞ」


 だがその衝撃が硬直しかけていた意識に鞭打ち我を取り戻させる。踵を返し脇目も振らず駆け出した。

 背を向けたところで、すぐ脇の地面が爆音とともに吹き飛び一瞬にして消失する。砲塔から放射されたナノマシン弾によるものだろう。合金の床はあっけなく陥没する。

 まともに戦ったとしてあんな相手に敵うはずがない。荒れ狂った巨大な獣は獲物を求め、機材を蹴散らしながら突進してきた。


「回避しろっ!」


 凛音のフードを掴んで思い切り左に投げ飛ばし、真那を突き飛ばして床を跳ね転がる。

 凄まじい衝撃と爆音を撒き散らし壁に頭から突っ込んだフェンリル。爪がガスタンクに突き刺さり、穿たれた穴から急激にメタンガスが漏れ出していた。


「逃げるぞっ!」


 この好機を逃す理由はない。ノヴァが壁から頭を引っこ抜くのを悠長に待ってやる理由もだ。

 グレネードを引っ掴みセイフティピンを抜き取り力任せに投擲した。そのままエレベーターへと向けて一気に駆け出す。

 部屋の中をグレネードがバウンドする乾いた音。鋭く甲高い音が空を切り裂きひしめくような光が迸った。

 核弾頭でも爆発したかのような激甚な爆裂。電力制御室に充満していたメタンガスにグレネードの火花が引火したのだ。建物全体を揺るがす激烈な衝撃に、時雨は思わずその場に転倒する。

 次々と数珠を繋ぐような爆裂。制御室が瞬間的に炎に呑まれ災害級ハザードフェンリルの大絶叫が迸った。通路を無数の瓦礫が飛び交う。


「が……っ!」


 開いたエレベーターの扉の中へ吹き飛ばされた。


「エレベーターのドアを閉めろ!」


 痛む全身に鞭を打ち立ち上がる。通路にはメタンガスは充満していなかったはずだが、この場所まで炎は到達してしまうことだろう。凛音と真那が力任せに開いていた扉を閉める。


「上から逃げるぞ!」


 床を蹴り付け飛び上がり天井救出口からエレベーターの上に乗りあがる。真那、凛音の順で引っ張りあげ、頭上高くにまで続くエレベーターシャフトを見上げた。


「急がないと、爆風がここまで来るわっ」


 ワイヤーロープに手を掛けされど一向に登り始めない時雨に痺れを切らしたように真那が苛立った声をあげた。爆音は限りなく近い。これだけの高さを登っている時間はなさそうだった。


「当然ほかに階上に繋がっている経路はありません。エレベーターの基本構造として、各階ごとに設けられている滑車のストッパーを外すことで、かご室を急速に上昇することが可能です」

「そんなことをすれば全員潰れちまわないか。それにストッパーって、俺たちの向かう階は数十メートルも上方にある。こんな暗闇の中で、どうやってそのストッパーを外す?」


 矢継ぎ早に疑念をぶつける。現実的に不可能と考えていい。

 激しい爆音が響きエレベーターのドアが半壊した。ぶっ飛んできた瓦礫が突き刺さり、貫通したそれはかご室内部に落下する。突貫された穴からは超高熱の爆風が侵入してきていた。


「考えている暇はないわ、私がストッパーを狙撃する。あなたはエレベーターを止めて」


 ピストルの銃口を遥か上方の暗闇の中に向ける真那。

 垂直に掲げられた銃口が火薬臭さと共に火を吹いた。飛び出した弾丸は一瞬にして暗闇の中に飲み込まれる。次いでガキンッという金属をねじ曲げるような衝撃音がエレベーター通路に響きわたった。ギリギリ射程圏内だったようである。

 これまでで最大級の衝撃が工場全体を揺らす。足場であるかご室が衝撃に耐えかねガタガタと震えていた。

 刹那、大音響とともに完全にエレベーターの扉がぶっ飛んだ。炎がまるで濁流のようにかご室内部に溢れ込み、行き場を失いやがて救出口へと矛先を向ける。


「皆様どこかに捕まってください。エレベーターが急上昇します」


 全身に凄絶なGがかかった。神速で上昇を始めたエレベーターのあまりの速度に耐えきれず天井に皆が転倒する。

 凄まじい風圧に全身を押さえ付けられながらも、上体を力任せに引き起こした。


「止まる、のだっ」


 自身の力だけで天井に立ち上がり、超スピードで上昇を続けるエレベーターから凛音は跳び上がる。上昇速度を超えた跳躍は人体の限界を超えたその超人的なもの。

 かご室に落下して割れた注射器インジェクターから、リジェネレート・ドラッグを使用したことが解った。彼女は後ろ回転蹴りを滑車ストッパーにお見舞いする。

 凛音のブーツがストッパーを叩き降ろした瞬間、エレベーターの急上昇が突然停止した。上昇の速度を殺せるはずもなく、勢いを乗せたまま上方にまで弾き上げられる。出口であるエレベーターホールはすぐ真上だった。

 凛音が身軽にホールに着地するのを見計らって、短い悲鳴を上げた真那の手首を引っ掴みそのまま自身もホールに降り立つ。

 

「……!」


 時雨に抱えられながら真那は構えたハンドガンのトリガーを振り絞る。吐き出された弾丸はシャフト内のワイヤーに着弾し、跳弾した。

 再度発砲音が響き、ワイヤーの引きちぎれるつんざくような破砕音についで、エレベーターが重力にひかれるがままに落下する金属音が迸った。火花を吹きちらしながら急降下していく。


「扉を閉めろッ」


 開いていた扉を力任せに掴み反対側を凛音が掴む。荒れ狂う業火はホールに侵入しようとし、直前に扉を閉める。


「おいおい大丈夫かよ?」


 駆け寄ってきた和馬。


「まずい状況になったわ。急いで皆を救出して」

「何があった?」

「ノヴァに遭遇した、フェンリル……しかも災害級ハザードだ」


 地下であったことを端的に伝える。


「なぜエリア・リミテッド内部にノヴァが……まあいい、そのノヴァは死んだのか?」

「わからない、爆発の渦中にはいたが……エレベーターで押し潰せたのかも定かじゃないし、可能性は薄い」

「時雨様、微弱ではありますが、先のノヴァの反応がまだあります」


 ネイが展開させたこの工場内部の立体観測情報。廊下の先、つまりエレベーターホールに巨大な因子の反応があった。大きな赤い表示はホールからエレベーター通路に入り込んでくる。


「ここまで来る気だッ」

「電力供給はなされても俺たちのハッキングシステムでは時間がかかりすぎる。烏川」

「解った、すぐに解除する。ネイ」

「準備はできています」


 ホームレスたちが閉じ込められている格納庫。その前に仁王立ち時雨はアナライザーを抜銃する。


「解析プログラム発動――サイバーダクト」


 ARコンタクト越しに格納庫の電子構造が解析され始める。視界中に無数のウィンドウが出現しては消えてを繰り返す。ネイがセキュリティコードを解除しているのだ。

 サイバーダクトとは、ネイとアナライザーの技能を複合させることによって展開される解析プログラムの総称である。

 解析プログラムとは言っても単純な分析ではない。インターフィアは時雨の視界情報に対象物の構成配列の解析を出力させる。

 対しこのサイバーダクトは、セキュリティレベルの高い対象物に直接ネイがアクセスをかけることで解析を図るためのものだ。だが危険性もある。

 まずネイがインストールされているアナライザーを対象物に向け続けていることが条件となる。直線状にサイバーダクトを出力しないと、対象物とのアクセスコードが途切れてしまうからだ。


「どれくらいかかるの?」

「成功してもしなくても一分以内だ」


 更にもう一つ、このサイバーダクト解析は一分間しか持たないと言うこと。一分以上継続しようとするとネイのデータが対象物に残存したままアナライザーから切り離されてしまう。

 もしそうなれば、おそらく彼女は復活したセキュリティに排除されてしまうことだろう。

 それ故に時間内に解析が出来なくても、いったん解析を遮断する必要があるのだ。


「ノヴァは一分も、待ってはくれぬようだぞ……?」


 凛音がエレベーターホールにて臨戦態勢を保ったまま、低く呟いた。エレベーター扉はなにか凄まじい衝撃にガタガタと振動している。

 ガァン! ガァン! と脳に直接振動を与えられているかのような地響き。ゾクリと悪寒が背筋を撫でた。ノヴァが通路を駆け上がってきているのだ。


「ネイ急いでくれ」

「無理です」


 ネイの発言を激烈な衝撃音がかき消した。エレベーターホールの鉄板のように分厚い扉が、反対側から強烈な衝撃を浴びて無残にもぶち破られたのである。

 中心から開花途中の花弁のように広がった隙間、その闇の中から巨大な金属の腕が伸びだした。

 続く爆砕音。登ってくる際の跳躍の勢いを減衰させぬままに扉に突っ込んだのか、巨大な頭部が突き出てきた。

 咄嗟に格納庫からアナライザーの照準を離す。


「ああもう、あと少しで解除できましたのに」


 ネイの言葉は無視してトリガーを振り絞る。吐き出された弾丸は特殊弾ではなく通常弾。

 飛来した実弾は、這い出そうとしてきている粒子砲の搭載された巨大な顔面に着弾する。顔面が小さく抉れるが瞬く間にその傷跡は修復された。


「破損ダメージが自己修復の速度に追いついていません。あのノヴァ自体が大量の因子の塊です。おそらくは自身の発するナノマシンだけで、自己修復に足る大気感染濃度を確立できるのでしょう」

「そんなの食い止めようがねえだろ」


 完全にエレベーターの扉がぶっ飛んだ。空洞になった穴から鈍色に蛍光灯の光を反射する巨大な狼がホールに降り立つ。人体程もある図太い四肢に、醜く歪んだ砲塔の突き出る顔面。


「解析が間に合わない以上、コイツを仕留めるしかないわっ!」


 唯奈はいつの間にかクレーンの上にまで登り、そこに据え置いたライフルの銃口を金属生命体に向けている。スコープに目を押し当て、いつでも発砲できる態勢を整えていた。


「俺と和馬とでやつの気を引く。装甲は直ぐに再生する。索敵眼球を潰せ」


 防衛役を買って出るように幸正と和馬が躍り出る。アサルトライフルで対象を牽制しつつ、怒涛を荒げて迅速なる指示を飛ばした。

 ノヴァまで距離を詰めた凛音は、突進の勢いを乗せた回転蹴りを横っ面に炸裂する。

 猛烈なインパルス。フェンリルの巨体は数メートルほど吹き飛び、鉄製の床を何度かバウンドしながらぶっ飛んだ。半壊していたクレーンの残骸に衝突し腹部に突き刺さる。

 着地した凛音は、そのまま駆け出して瓦礫の中に突っ込んでいく。


「聖、貴様は上に戻り、ヘリポートにあったブラックホークのエンジンを温めておけ」

「ええ」

「何故あのブラックホークを?」

「離脱するにあたりもっとも有力な選択肢だからだ」

「おい待て、ブラックホークで離脱するだと? 機体は一機程度しかなかった。あれの搭乗数は精々十数人だろ。ここに捕らわれている人間すべてを輸送することは不可能だ」

「その通りだ」


 幸正は時雨に一瞥をくれることすらなく、ただ機械的にアサルトライフルを乱射させる。


「まさか……見殺しにする気か?」


 凛音が強襲をしかけているノヴァがその巨体を持ち上げ始めているのを見ても、こんなことを言及している余裕がないことは解っている。しかし黙って見過ごすことなど出来ようはずもない。


「黙れ」

「峨朗、その意志が誤っているとは思わないが、だが言葉無き命は意志無き命であると勘違いされかねないぞ」


 船坂はアサルトライフルを手放しロケットランチャーの準備を始める。


「烏川、君の意見は本来尊重すべきものだ。だが、幹部の俺たちが全滅するのはまずい。最悪の状況に落ちいった場合、そういう選択が要求されるという話なんだ」


 船坂のその発言は副指令としての意識の高さゆえなのだろう。そう言われては言い返しようもない。

 実際にこの災害級ハザードフェンリルは強大だ。この圧倒的な存在を前に生き残るためには、もしかしたら――――。


「それでも、少しでも可能性があるのなら、それは見過ごすべきではありません」


 少しでも可能性があるのならば命を賭してでも戦うべきだ。果敢に災害級ハザードに立ち向かう凛音のように。


「当然だ。それがレジスタンスだ」


 災害級ハザードの掃討は想像以上にスムーズに完了された。アウターエリアに駐屯地を築くレジスタンスというだけあって、対ノヴァ戦闘に関しては熟練なのかもしれない。

 連携によって生まれたフェンリルのスキをついた唯奈による狙撃。大口径弾はその首元を大きく抉り呆気無くコアが爆散する。時雨の助力などほとんど必要としていないかのように、瞬く間にフェンリルは消失した。


「……すげえな。ただの革命軍とこれだけの差があるのか」

「感心しているところ悪いですが、事は一刻を争います」

 

 ネイの指摘を受けて格納庫へと急ぐ。そうして再度セキュリティ解析を試みながら声を掛けた。

 

「なあ」

「はい、なんですか」


 比較的この格納庫の扉のセキュリティはレベルが低いようで。次々に出現するシステムウィンドウを軽く捌きながらネイは落ち着いた声音で返してくる。


「ノヴァだよな」

「はい、あの個体は紛れもないノヴァです。その場合、ここで問題になるのは」

「どうしてノヴァがリミテッド内部に出現したのか、だ」


 彼女の懸念を遮るようにして時雨は話を継いだ。


「デルタサイトが配置されていたことを考えると、凛音があの電源をオフにしたことで、ノヴァを阻害する電磁波が発せられなくなったということでしょうけど……」

「だがそもそもどうして、ノヴァ、というかナノマシンの侵入できないエリア・リミテッドにそんなもんがあるのか」


 唯奈と和馬が疑問を形にしているうちにサイバーダクトが完了する。セキュリティロックが解除され、ホームレスたちを監禁していた格納庫が解放された。

 だがそれらの誰も率先して中から出てこようとしない。不審に思った唯奈が中に入ってホームレスの様子を窺う。

 

「モルヒネとかの違法薬物を大量投与させられてる……抵抗せずに連行するためね」

「防衛省もひどいことしやがるな……しかし何のためにこんなことを」

「大方、違法な人体実験に使うためでしょ。そのためにいなくなっても認知されないホームレスばかりを拉致した、ってとこ」


 ひどい話であるが、今はまずここからこの者たちを連れだすことを先決とすべきだ。


「緊急指令!」


 ビジュアライザーが震えた。ネイの声ではない、屋上に向かっていた真那からの全体無線だ。


「北西方面から数十機の探査ドローンの接近を確認したわ。至急屋上へ集合して」

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