第5話
六月半ばであるというのに暑い日が続いていた。初夏のような青嵐が街路樹の枝を揺らし、シャツの胸元をはためかす。
ㅤ秋から冬にかけて曇天しか見せない空もいまは力強く晴れ渡り、直射日光を舗道やビルに注いでいる。
孤児院・救済自衛寮の重厚な外壁に背を付けながら時雨は空を仰いでいた。空と言っても頭上にはこんもりと茂った木々が葉を天井のように広げていて、時雨を日差しから守っている。
色とりどりな花で飾られた広い庭には蝶が飛び交い、花壇の土にできた溝で土遊びをしている雀がいた。チュンチュンと子気味いいハーモニーを奏で、まるでこの庭には害あるものなど何もないとでもいわんばかりの呑気さだ。
庭の外周には分厚い無機質な壁が聳えている。どこかの施設を思わせる背の高い壁だ。
ㅤ時雨の位置からでは確認することが出来ないが、あの塀の内側には厳重な赤外線センサーと逃亡者を即座に射殺するためのタレットが配備されている。
ㅤあたかもその内側と外界を分離しこの空間を隔絶しているかのように。
「ただいま」
セキュリティ認証を解除し鉄門を押し開け、ひとりの少女が敷地内に足を踏み入れてくる。そのまま塗装の剥がれかけた壁に背を付けた時雨の傍にまでやって来た。
凪いだ生ぬるい風が黒い髪をさらい、木漏れ日を反射してオレンジ色に染まる。
ㅤ少し汗をかいているのか暑そうに手のひらで首筋を仰いでは、垂れる黒髪を指で押さえ時雨の顔を見下ろしてきた。
「真那、どこに行っていたんだ」
真那は何度か目を瞬かせ時雨のことを見据え返す。
「お父さんに会ってきていたの、今日はしばらくかかるそうよ」
「そうか、大変だなおっさんも……自衛隊だから、特に今は」
返答を耳にしても真那は特になんの反応も見せず、ただ微かに俯いたまま何かを考え込むように無言を貫く。
ㅤその反応をみて、時雨は明確な失言を数秒前の自分に感じ得ずにはいられない。この話題は真那にとっては最大のタブーであるからだ。
「おっさんは自衛隊だ。未知の金属生命体だかなんだか知らないが、そんな連中に殺されたりはしない」
「……」
「そんなことより、あのマッドサイエンティスト二人組を見かけていないか? 救済自衛寮にいないんだが」
「知らないわ。知りたくもないわね」
真那は保身を第一に考えるかのように自身の華奢な肢体をその腕で抱きすくめる。
ㅤそんな反応をするのも致し方ないと時雨も共感を胸に肩をすくめる。この話題も真那とっては大分タブーであった。
とはいえ件のマッドサイエンティストは又聞きした話では、真那の父親同様陸上自衛隊の階級持ちであるとのこと。
ㅤこの救済自衛寮で生活している以上、近いうちに彼らに再び相まみえるのも時間の問題だ。
「ねえ」
小さく頭をあげ時雨のことを上目遣いに見つめる真那。ゆっくりと歩み寄ってきては彼の胸元に額を押しあてる。寂しがるかのように腹部あたりの服を掴んだ。
ㅤ触れた胸元に掛かる重量はあたかも彼女の抱えている重責その物だ。
「何だ」
突拍子のない挙動に当惑し、同時に全身の血流が沸騰し始めるのを感じる。だが時雨は至極冷静を装った。
ㅤもうすぐ齢十八にもなるというのに、どうして真那はこう時雨が意識してしまうという結論に至らないのかとため息が漏れだす。
「怖いわ。いつあのノヴァとか言う奴らがエリア・リミテッドに攻めてくるかもわからないもの」
「それは……」
何もいえず言いよどむ。
2052年現代。東京都、更に狭めて言えば東京23区は激的な技術・産業、そして軍事改革がなされた。
ㅤ23区の外周を囲うようにイモーバブルゲートと呼ばれる強固な壁が築かれ、それは外界から完全に23区が隔絶されていることを示しており、実際に電力や食自治といったライフラインも全て壁の内側で賄われている。
そしてこの空間は、いつしか、エリア・リミテッドと呼ばれるようになった。
「ノヴァが日本に上陸してから何もかもがおかしくなっちゃった。私たちは壁の外がどうなっているのかも知らない」
彼女が言うように、日本は今年2052年の5月26日にノヴァと呼ばれる未知なる金属生命体の侵攻を受けた。だが何の前兆もなかったわけではない。その僅か数週間前からこの金属生命体は世界全土を脅かしていた。
軍事的な観点で弱小な国はすでに壊滅するか、国家官僚が他国に亡命していたりという始末。世界の秩序や安寧、その歯車は確実に狂い始めていた。
「時雨は、どこにもいかないよね」
「この孤児院以外に行くところなんてないな」
そう答えつつも胸中にはこんな生活はいつまで続くのだろうかと、絶え間ない疑念が浮き上がっては消えていく。
ㅤ真那はいつも感情希薄で何事にも無頓着ではあるが、いつも父親の安否を心配している。今の日本があっさりと消滅しかねない危機的状況に見舞われている証拠だ。
だが今時雨たちは安全な環境下にある。彼女はここにいて自身もまたここにいる。
ㅤ尻目に伺った救済自衛寮の堅牢な包囲壁。あれは時雨を外界から隔絶し拘禁しているものだ。しかし逆に言えばあれがある限り外界からの脅威に脅かされることは無いということ。
ㅤこの穏やかな生活を脅かすものなどここには何一つ存在していない。
時雨はその事実を噛み締めるように真那の手首を握ろうとし――その時なにか奇妙な臭いが鼻先をかすめた。
錆び付いた鉄と硝煙の臭い。鼻腔をツンとつくような刺激臭。はっと伸ばしかけていた手を引き戻し体を少し離す。真那はそんな時雨のことをじっと見つめ、そしてゆっくりと唇に切れ込みを入れた。
「――――いつまで、そんな夢を見ているの?」
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