第4話

 かおるに突き落とされる形で突入したわけだが、敵の潜伏先に乗り込む前に、時雨の生命の灯は呆気なくも吹き散らされそうになっていた。

 迫る地面。吹き付ける風圧。顔面の皮膚が剥がれてしまうのではないかという圧力に、声を上げることすらできない。

 パラシュートも持たずに落下したため、現状自由落下に身を任せている状況だ。呼吸などまともにできず、酸素が足りずに思考がまともに紡げなくなっていることを自覚していた。

 そんな中で、一つだけはっきりと認識できることがある。このままでは、マッハに限りなく近い速度で地上に叩き付けられ、市街地に赤い絨毯を敷くことになるということ。


「さて、このままでは時雨様、冗談抜きで木端微塵になりそうですね」


 大丈夫だとか言っていたのはどこのどいつだ。と睨みを効かせる余裕も時雨にはない。

対してビジュアライザー上に展開されているネオンホログラムのネイは快適そうに寝そべっている。


「そもそも先ほどの理論では、大脳さえ損傷していなければ治癒できる、という前提が必要となるわけですが。考えてみれば、そんな事実はないんですよね」


 腕を組み考える人工知能。現在進行形で死の淵に突っ込もうとしているのに、このAIは何故そんなにも冷静でいられるのか。

そんなことは考えるまでもない。時雨が死んだところで、彼女が死ぬわけではないためである。


「統計的に見て、時雨様が生存できる可能性は……0.0000000002パーセントくらいですかね」

「他人事みたいに――ッ」

「他人事ですから」


 凄まじいGに牽引されながら無理矢理口を開いて抗議する。だが彼女は肩を竦め、素知らぬ顔をするばかりだ。このままでは確実の時雨の命は吹き散らされた枯れ葉と化す。

 すでに1500メートルほども落下し地上は目前に迫っていた。あと数秒とせずにアスファルトに叩き付けられる。無意識的にきつく瞼を閉じていた。


「――てめえマジで何も対策立ててなかったのかよ」


 時雨のすぐ傍から薫の声が風に乗って聞こえてくる。落下に伴ってその声は掠れて聞こえたが、確かに彼の声だ。インカムから聞こえてきた声ではない。はっとして目を見開く。


「が――――ッ!」


その途端、右わき腹に尋常ではない激痛が走りぬけた。肋骨が数本逝く感覚と、自身の落下軌道が無理矢理捻じ曲げられる体感。ともに落下していた薫に蹴撃を食らわされたのだ。

 強風にあおられる枯れ枝のように、時雨は抵抗することもできずに吹っ飛ばされ背中から何かに叩き付けられた。

 状況を正確に認識するよりも早く、背中にぶち当たったその何かに亀裂が走る。そして間髪入れず粉砕した。ガラスである。

 どうやら建造物の巨大なガラスに背中から突っ込んだようで、地面に叩き付けられるはずがシトラシアの内部に転がり込んでいた。

 全身を激しく殴打しながら、高級そうな貴金属の並べられたウィンドウを蹴散らし撥ね転がる。地面に接触する度に骨が軋むのが解る。激痛を中和できるまもなく時雨はフロアの壁に叩き付けられた。


「ッ、かは――――っ」


 弾かれたように口内から吹き散らされる赤い鮮血。口に限らず体中の至る所から血が噴き出していた。


「骨が7か所骨折。4か所粉砕。内臓がいくつか負傷しています。これは死にますね」


 頭の中がくらくらするような形容できないほどの激痛に苛まされながら、時雨は服の中に震える手を突っ込む。そうして指先に冷たい感触が触れるのを知覚するとそれを掴みだす。

 筒状の金属体。片方の末端を親指で押しこむと反対側から鋭利な針が飛び出た。リジェネレート・ドラッグだ。


「ッ――!」


 場所を選ぶ余裕もなく時雨はそれを自身の首に突き立てた。すぐに冷たい物が全身の血管内部を駆け巡り始めるのを感じる。

 先ほどまでの痛みなど比べようもないほどの重苦が全身に突き刺さった。折れた骨が無理矢理接着し、引きちぎれた筋肉が強引に結合する痛み。裂傷していた皮膚は早送りでもしているかのように急速に回復していく。


「っ、はぁ……はぁ……助かった……」

「時雨様、そこはかとなくヤク中患者みたいですよ」


 空になった注射器を手放し脱力する時雨を見て、どこか引いたようにネイは顔を引きつらせる。この薬物を投与したことは初めてではないため彼女も本当に引いているわけではないが、労わるつもりは一切無いようである。


「時雨様、肉体が再構築される痛みに快感を覚えるのもいいですが」

「快感を覚えた記憶はないんだが」

「伏せた方が身のためです」


 ネイの忠告、その一瞬次。背を凭れかけさせていた壁、時雨の頭の直ぐ脇が破裂した。

 反射的にその場から飛び出しウィンドウの影に身を潜める。そんな時雨を追従するように数珠を繋ぐような銃声が追いかけてきた。


「捕捉されています」

「もっと早く――言え!」


 フルオート銃を用いているのか絶え間なく弾丸が連射されている。銃声からして敵は一人か。

ガラスのウィンドウなど弾幕の前には遮蔽物の意味を成さず。瞬く間にガラスは粉々に粉砕した。


「クソ……っ」


 右側に身を転がして時雨は腰からマグナム――アナライザーを抜銃する。

 そうして別のガラスウィンドウに身を隠すと、シリンダーに装填されている弾丸が通常弾であることを視認。

敵がマガジンの再装填をしている隙を狙い身を乗り出した。トリガーを振り絞り敵の右大腿部を撃ちぬく。


「ぐぁ……ッ!」


 敵が体勢を崩し照準が逸れる。その隙を見逃さず時雨はその場から飛び出し対象に急接近をしかけた。対象が接近に気が付くよりも早く肉薄し、その顎下に手刀を叩きこむ。敵は脳震盪に陥りその場に昏倒する。


「今の銃声で位置を特定されているでしょう。直ちにこの場から離脱してください」


 指示されるまでもなく昏倒した敵のライフルを手にその場から駆け出した。薫のことは心配だが他人の心配をしている状況でもない。

 どうやらこのシトラシアと呼ばれる大型商業施設は、ショッピングモールとは言ってもそれ以外のテナントを内部に収めているようで、不時着(?)したフロアはどうやら一般的なカンパニーの類であるらしい。

 時雨は周囲に気を配りながら廊下を駆け身を隠せる場所を探す。すぐに施錠された堅牢な扉を見つけた。


「開けられるか?」

「この扉は物理鍵ではないようですね。セキュリティレベルは3、余裕です――が、解析している時間的余裕はなさそうです」


 ネイのその言葉を耳に時雨ははっとして意識を研ぎ澄ます。数人分の足音が迫ってきていた。このゲートのセキュリティを解除している余裕はない。


「困りましたね。このまま後退しても、先の貴金属販売エリアに戻されるだけです」

「ここで応戦する」


 退路が絶たれるのは問題だ。危険を冒してでも敵の包囲網を突破した方が望みはある。壁から突き出た支柱に身を潜めアナライザーを抜銃する。


「ネイ」

「完了しています。インターフィアを起動します」


 ネイの出力コマンドと同時に視界にさまざまなホログラムオブジェクトが出現する。網膜に貼り付けられている軍用ARコンタクトを介し視覚情報を操作しているのだ。

 視界に映り込む情報全てが解析を始める。壁越しに生体反応が七つこの場所に駆けて来ているのが伺えた。


「コンタクト、11時、アサルト……数は八ですね。この状況、憂慮している余裕はありません。殺すつもりで応戦した方が身のためです」

「――くそ」


 極力手を下したくはなかったがこの際やむをえまい。力の出し惜しみをして時雨が殺されては元も子もないのだ。

 アナライザーのシリンダーを展開し内部に装填されていた弾丸と空の薬莢を排出する。そうして通常弾とは色の異なる特殊弾を取り出した。

 薬莢と弾頭の接合部にデバイスが埋め込まれており特殊マイクロ波を放出する――指向性マイクロ特殊弾。それを五つシリンダーに押し込んだ。


「来ます」


 視界に映し出される敵たち。それらは曲がり角を右折し時雨の隠れ潜んでいる通路に躍り出た。

 中装備だが明らかに軍人ではない。それはその立ち居振る舞いから推察できる。先ほど昏倒させた人間もそうだが銃の構え方、歩き方、注意の配り方、そう言ったものから素人くささが滲みだしていた。

 あくまでも彼らは一般市民であるのだ。武器を持っていても軍役がないことに変わりはない。そんな彼らを時雨は抹消しなければならない。


「銃撃はこの先で起きていた」

「この通路以外に経路は?」

「ないな。非常階段も俺たちの後方にある。U.I.F.の人間がいるとすれば、この先に間違いはない」


 退路が絶たれていることは気づかれている。時雨は支柱越しに彼らの様子を伺う。彼らは足を止めたまま状況を伺っている。


「困りましたね……彼らが大人しく時雨様に気が付かず素通りしてくれたのならば、離脱することも出来たでしょうが」


 ネイが思案顔でそう呟く。彼女は軍用の網膜操作レベル3以上のARコンタクトでしか視認できない。同時に、それによって聴覚を操作されている人間にしか声を聞くことが出来ない。故に蜂起軍の連中に感知された様子はなかった。


「あの場に留まられては、こちらも動くに動けません……やはり、強行突破するしかないでしょうか」


 ネイの言葉を耳に時雨はシリンダーの特殊弾を見下ろした。

極力この弾丸を対人で扱いたくはない。これが着弾すれば確実に対象は絶命する。それも着弾地点から半径50センチほどの空間を消失させて。それがこの指向性マイクロ特殊弾の効果だ。

 着弾と同時に内蔵されたデバイスからマイク波が球状に投射され空間を抉る。いかなる物質でも瞬く間に粉塵と帰すわけだ。

それを複数の敵対象に用いれば当然何人かの人間は体の一部だけ消失することとなる。あまりにも残酷すぎるその効能故に、対人では扱いたくないのだ。しかし四の五の言っていられない状況だと言えよう。

 時雨はゆっくりと息を吐き出し逸る鼓動を抑え込む。そうして支柱から飛び出すべく体勢を整えた。


「おい! 侵入者だ!」


 だがその直前声が響いた。時雨は殆ど他動的に踏み出しかけていた足を抑え身体を静止させる。

 

「どこからだ?」

「屋上からだ!」


 屋上――U.I.F.の兵士たちが乗り込む予定になっていた。着地した彼らが突入を開始したのだ。


「防衛省の連中かっ?」

「U.I.F.だ!」

「くそ……きやがったか――!」

「それから、地上から侵入している奴もいるらしい」


 エアボーン作戦において、地上からの突入は予定されていなかったはずだが。もしかすれば、着陸に成功した薫の単独潜入なのかもしれない。


「もう半数近くがやられちまった」

「半数って……っ、バケモノかよ……!」

「あながち間違ってねえな、敵は『鉄のような無人軍隊』だしよ」


 そう呟く男の声はどこか恐慌に満ちている。蜂起という行動に出ながらも彼はその脅威性に戦慄を隠しきれないのだろう。


「上の連中だけじゃ手におえないらしい。お前たちも向ってくれ」

「だがこの先に侵入者がいる可能性が……」

「馬鹿か。あんな派手な突入するわけないだろうが。あれは俺たちの目を晦ますための陽動作戦だ。俺たちの主力をこのフロアに集めて、上下から制圧しようという魂胆だろうが。もし本当にあれが突入のつもりなら、相当の自信家かバカだろう。今構う程の相手でもない」

「バカですって。なかなか蜂起軍の皆様も正鶴を射ていますね」


 クスクス笑うネイを無視して、時雨は物陰から蜂起軍の会話を盗み聞き続けることに専念する。


「人質を収容しているフロアに到達されるわけにはいかない。すでに十数人下に向かわせている。お前たちは俺と一緒に屋上を目指すぞ」

「了解した」


 彼らはすぐさま踵を返す。通路を抜けて非常階段へと向かっていった。時雨は全身から緊張が抜けていくのを感じながら、ゆっくりと張りつめていた息を吐き出した。


「時雨様が相当の自信家でバカであったのが幸いしましたね」


 それを強いたのはこの無責任なAIであるわけだが。


「――おい、聞こえるか」


 数秒の砂嵐音の後、インカムから薫の声が響いた。


「生きていたのか」

「てめえの命救った相手に対する第一声がそれかよ」

「死にかけた理由は立華兄にあるわけだからな」


 しかしあの状況でどうやって生き延びたのか。それを言及しようとしたがやめる。今はそのようなことを確かめている時でもない。


「地上から突入したのはお前か?」

「あ? ちげえな。俺はてめえが窓割って豪快に敵の目を引いているうちに、グラップルガンで壁を伝って屋上から突入したぞ」


 先ほど蜂起軍が話していた下からの侵入者は薫ではないようだ。統制化されているようなU.I.F.の兵士がそのような独断に出るとも思えないし……謎は深まるばかりである。

そんな思考を脳内で展開しつつ、時雨は進行を再開すべくアナライザーをホルスターに再収納した。


「てめえ今どこにいる」

「まだあのフロアにいる。階層は……」

「13階ですね」


 すでに地形観測を済ませていたのか、ネイが端的に言葉を継いだ。


「俺はU.I.F.を率いて、今蜂起軍の連中を制圧中だ」


 彼の言うように無線越しに銃声やら悲鳴やらが聞こえてくる。U.I.F.はもし着弾しても悲鳴など上げないため全て敵陣営のものだ。


「だが無駄に数が多い。アメーバみてえに増殖してやがる」

「兄さん、敵はプランクトンじゃない」


 大型ヘリに待機しているはずの紫苑が茶々を入れる。


「黙ってろ。いいか烏川。この連中を制圧するのにはまだしばらく時間が掛かりそうだ。てめえは単独でレジスタンスが人質を捕らえている場所を見つけろ」

「正確な場所が解らない」

「こっちで尋問してえ所だが、連中、死ぬ気で応戦してきやがる。とっ捕まえる前に自決しそうなもんだぜ……にしても、なんか変だな」

「どうしたのですか?」

「この連中、まるで戦闘初心者だ。件のレジスタンスの連中だとは思えねえ」


 それは時雨も感じた違和感である。革命軍自体はいくらでも存在している。それらの殆どは破壊工作や爆破テロなどを起こすだけの近視眼的な改革しか考えていない、無能な連中ばかりであった。

 しかし唯一防衛省が問題視している革命軍がある。それがレジスタンスだ。単なる武力蜂起には走らず、サイバーテロやハッキングなど痕跡を残さない方法で改革を行おうとする団体が存在する。

 今回の暴動を引き起こした蜂起軍は武装しているということで、そのレジスタンスによる陽動作戦ではないかと踏んでいたのだ。だがそれにしては構成員があまりにも素人すぎる。


「まあそれは全て終わったらわかることだな。てめえはさっさと捜索に向かえ」


 致し方なく移動を開始する。先ほど蜂起軍の人間は、人質を収容しているフロアに到達させるわけにはいかないと言っていた。つまり上下から進行を進められている現状でなお、まだ到達はしていないということだ。

 そして上と下に同量の兵力を送ったということを考えると、収容しているフロアは中心に近いということになる。とりあえずは下に向かうべきだろう。


「時雨様、あそこを」


 隅々まで捜索しながら数階ほど下の階層へと歩を進めた頃。不意にネイは押し殺したような声を上げた。

 彼女が示す先はこのフロアの中央に位置する大きなホール状の空間だ。インターフィアによって明瞭化した視界の中、そのホール内部に八十人ほどの人体反応を観測する。

 そのホールの外には武装した人間が二人待機していた。そこに人質が収容されていると考えて間違いはない。


「人質の収容フロアを観測した。立華妹、聞こえるか」

「聞こえてる。どのフロア?」

「9階。中層階だ」

「解った。ブラックホークを移動させる」


 時雨は窓際により上方を仰ぐ。すぐに汎用ヘリが降下してくるのが見えた。ヘリは時雨が身を乗り出す巨大なガラスの高さで停止し、それと同時ドアがスライド開閉する。


「準備はいい?」


 紫苑は対物ライフル――アナライザーBullet(S22)を杖のようにして、強風に煽られながらも身を乗り出す。標高何十メートルというこの位置ではかなりの風を全身に受けているのだろう。

 先ほどは大型ヘリに乗っていたはずだがこの機体に移動したようだ。

その赤い髪が強風にあおられながらも正すことすらせず、ビジュアライザーを口元にかざす。肉声では強風とヘリのローター音で聴き逃してしまいかねないからだ。


「正確な位置情報は?」

「このフロアの中心部だ。窓に面していない」

「狙撃は不可能?」

「ああ多分な」


 それ故に蜂起軍はこの階層を選んだのだろう。現状のように上下からの侵攻はあっても、シトラシア外部からの狙撃の危険性は排除した。予測していたよりも頭の切れる連中だ。


「なら、私は外部から援護狙撃出来るタイミングを見計らう」

「増援は……期待できなそうだな」


 ブラックホーク内部には紫苑と操縦士しかいない。どうやらすべての兵力を先ほどのエアボーンに投与していたようである。


「ここからはあなたの単独潜入」

「無茶ぶりが過ぎるな」

「兄さんやU.I.F.の突入は、結果的に陽動効果を出してる。地上からの侵入者に関しては不可解だけど……それも結果的には大規模挟撃になってる」

「敵の防衛網が薄くなっている今を逃す手はありませんね」


 要約するところ後は時雨一人で人質を救出しろということ。


「この地点に大型ヘリを待機させておく。ここまで人質を誘導して」


 簡単ではないが致し方あるまい。事は一刻を争う。地上からの侵入という情報が間違いだった場合、彼らはすぐにこの収容フロアにまで戻って来る。そうなれば時雨の単独での救出はほぼ不可能になる。

 時雨はブラックホークに背を向け目的のホールへと向かう。外に待機している兵士は二人だけだ。インターフィアでホール内部の様子を伺った限り内部に蜂起軍の人間はいない。


「近接格闘行けますか」

「幸い相手は生身の人間だ。それも軍役のないな」


 であるならば制圧は容易い。時雨は死角から飛び出し一気に彼らに接近を試みた。


「! 敵しゅ――ッ!?」


 無線機に増援を要請される前に時雨はその人物を昏倒させた。振り向きざまにアサルトライフルのストックでもう一人の下あごを強打する。

それだけでは気絶するに至らなかったようだが、体勢を崩した隙に再度強打する。流石に耐えきれず彼もまたその場に横転した。時雨は蜂起軍の装備を蹴り飛ばしホールの扉を押し開けた。

 インターフィアで確認はしていたものの、万が一に備え肉眼で敵勢力が残存していないことを確認する。


「立華妹、人質の解放準備が出来た。これより指定場所まで誘導する」

「すでに待機できてる」


 人質たちは拘束されている様子もないようだった。老若男女、見た目の年齢にも目立った繋がりがない。あくまでも一般客としてこの施設に出向いていた民間人が人質に取られていたのである。

 混乱している彼らを無理やり立たせ、時雨は彼らを、先ほど紫苑と落ち合った場所にまで誘導する。


「しかし少しばかり気掛かりですね」


 窓に接触するかしないかの位置を滞空している大型ヘリ。先ほどまで時雨たちが搭乗していたそのヘリのハッチに人質が移動していく。時雨は後方に気を配りながらも、不審げな声を上げたネイに問いかける。


「何がだ?」

「人質の収容状況に関してです。人質であるのに、拘束されることもなく、それに、部屋内部には監視する人間すらいませんでした」

「確かに少し杜撰な気もするが……単純に、そこまで頭が回らなかっただけじゃないのか?」

「敵は確かに戦闘初心者ですが、陽動という作戦を考え付く程度には頭が切れます。彼らの目的が定かではありませんが、最も重要な人質の収容をおろそかにするなど、到底正気の沙汰とは思えませんね」


 彼女の発言は正鶴を射ていた。U.I.F.による猛襲があったとはいえ二人しかこのフロアに残さないのは奇怪な話。

 

「これではまるで――人質を拘束するつもりなど最初からなかったように思えます」

「なんだと?」

「いえ、この言葉では語弊がありますね。拘束した人質を拘束し続けるつもりがなかった、というべきでしょうか」


 彼女の言葉の真意を読み取れない。暴動を起こした蜂起軍がこうして人質を取っていたことから考えても、彼らは人質と引き換えに何かしらの要請をするつもりではなかったのか? 思考が時雨の頭の中を巡っては消えていく。


「それにしては収容体勢が杜撰すぎます。あたかも人質を解放してくれと言っているようなものではありませんか」

「……何が言いたい」

「あくまでも可能性の話ではありますが……この陽動作戦、もしかすれば、私たちは根本的に勘違いしていたのかもしれません」


 それに次ぐ言葉を時雨は聞くことが出来なかった。彼女の言葉を遮るように尋常ではない震撼がシトラシアを襲ったからである。

 続いて爆音。連鎖的に轟く破壊の雄叫び。数珠を繋ぐように爆発が連動していた。


「な、何だ……!?」

「ああ、やはりそう言うことですか……」

「だからさっきから一体――!」


 言及するまもなく再び襲い来た激震にその場に横転する。建物そのものが震えるほどの激しい横揺れ。

 はっとして人質たちの様子を伺うがどうやらすでに搭乗は済んでいたようである。


「烏川! 急げ! この状態を保てない!」


 大型ヘリを操縦している自衛隊員が叫ぶ。ぐらぐらと揺れる足元。軋む壁という壁。そして断続的に引き起こされる爆発。

 このままでは最悪シトラシアが全壊しかねない。そうなればヘリは巻き込まれてしまうことだろう。実際にすでに機体は距離を取り始めていた。今すぐ助走して跳躍しなければ届かなくなる距離。


「時雨様、急いでください」


 立っているのもやっとの足場に時雨は膝をついて立ち上がる。今ならまだ間に合う距離。まだ届く。一歩踏み出し跳躍姿勢を整えた。


「――きゃ……ッ!」


 だがその姿勢は崩される。後方から響いた小さな悲鳴によって。

 はっとして振り返る揺れる通路の先、時雨の視点から十メートルほどの位置に少女の姿。

震撼にその長い黒の髪が乱されている。激しい横揺れに翻弄されまともに立つこともできない状況のようだ。


「まだ生存者が――――」

「救出している時間的猶予はありません。爆発はこのフロアでも起きています。すぐに陥落することでしょう」


 あの少女を見捨てろということ。即座に時雨はその真意を読み取る。


「そんなことできるわけ」

「いいですか。ここで顧みれば時雨様も死にかねませんよ」

「どうせ、すでに助かる道は閉ざされてる」


 大型ヘリはもう跳躍しても届かない位置にまで離れていた。


「もう少し考えてから行動を――――ああもう」


 人工にしては非人工的すぎる知能の静止など聞かず、時雨は少女の元まで駆ける。

視線の先、彼女の屈む地点の天井に亀裂が走る。蛍光灯が落下し至る場所に瓦礫が散布する。今にも天井が崩れ少女は押しつぶされてしまうだろう。

 もし自分だけ助かる選択肢が残されていたのだとしても、時雨は少女を見捨てるつもりはなかった。

正義感などを振りかざしての行動でもない。赤の他人の命と自身の命。それを天秤にかけた場合、普段の時雨ならばまず迷うことなく後者を選択するからだ。

 しかれどもこの時、時雨はあの少女を助けねばならないという意識に襲われていた。強迫観念にも似た激しい感情。見捨てることなど許されないというそんな――――。


「っ――――!?」


 落下した瓦礫が少女に襲いかかる直前、時雨はその肢体に接触した。突き飛ばし力任せにその場から飛び出す。

後方で瓦礫が通路を分断し飛来したコンクリ片が背中を殴打した。


「が――――はッ!」


 瓦礫の小さな破片がいくつも背中に突き刺さっている。

 フロア全体に瓦礫が積み重なっていく中、時雨は少女を抱えたまま勢いを殺せずに通路を撥ね転がっていく。

先ほど回復したばかりの肉体。それが再び傷つけられていく激痛。それでも時雨は抱きかかえた少女の身体を離すことはしない。

 やがて通路の末端にある壁に背中から叩き付けられる。打ち所が悪かった。脳震盪でも起こしたように頭の中が激しく震え、後頭部から熱い感触がしたたり落ちる。


「時雨様! 急いで治療を――」


 ネイの言葉が掠れて聞こえない。時雨は朦朧としていく意識の中リジェネレート・ドラッグを掴みだす。そうして針を突き出すべく末端を押し込もうとした。

 その時点で手の感覚がすべて失われる。思考を何も紡げなくなる。リジェネレート・ドラッグを打たねばならぬという使命感に駆り立てられながらも手は思うように動かない。

 そうしているうちに時雨は完全に意識を失っていた。遮断された感覚の中で最後に感じ取ったものは――――


「真、那……?」


 真夏の向日葵のような、どこか香ばしく懐かしい香りだった。


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