【6月新刊】あやかし双子のお医者さん 三 発売記念SS/著:椎名蓮月

富士見L文庫

第1話 エリュシオンの幽霊

 速水莉莉には学校以外にも通う場所があって、そこには先生がいる。先生というより、「師匠」だ。

 その師匠のひとり、桜木晴という名の偏屈な小説家は、見てくれだけはいい。だが、人間は外見だけでは推し量れないことを莉莉はよく知っている。

 もうひとりの師匠は、晴の双子の弟で、嵐という。

 晴と嵐はよく見ないとわからないほどそっくりだったが、莉莉には容易に見分けがつく。それは、嵐が幽霊であるせいだけではなかった。

 とにかく晴はほとんど笑うことがない。反して嵐はいつもにこにこしている。だから晴はいつもこわく見えるし、嵐はやさしそうだ。

 だが、実のところ、晴はたいして怖くもない男で、嵐はまったくやさしくないのを、莉莉はよく知っていた。




 晴の事務所がある十六夜ビルは商店街の一画にあり、一階は喫茶店である。その喫茶店、エリュシオンは、莉莉が通うようになるまでは晴の食事の場だったらしい。

『リリ、あれ』

 十六夜ビルの前まで来ると、影の中からリヒトが注意を促した。ふと莉莉は、窓硝子越しに店内を見る。窓ぎわの席に晴がいた。目をつむって、頬杖をついている。

『何してるんだろうね、桜木さん』

「仕事かしら」

 そうは言ったが、たまに見かけるときのように、テーブルに筆記用具もない。それどころかカップの類いも見当たらないし、灰皿もからっぽだ。

 立ち止まった莉莉に気づいたのか、カウンターの中で店主がこちらを見た。眼鏡をかけた中背の男性は莉莉を見て苦笑し、そっと手招いた。

 手招かれた莉莉が店に入ろうと扉に寄ると、閉店の札が把手にかかっている。戸惑ったが、莉莉はそのまま扉を押し開けた。扉についた鐘が鈍い音を立てる。

「こんにちは、藤木さん」

「いらっしゃい、速水さん」

 店内に入ると、店主の藤木は穏やかに微笑む。その笑顔と店内の暖気が、冷えた空気の中を歩いてきた莉莉をあたためた。

 いろいろあって、藤木にも嵐がみえる力のあることはもう知っている。先月まではせいぜい世間話しかしなかったが、そうした共通点もあって親しみを覚えるようにはなっていた。

「今、嵐くんにちょっとお願いごとで、いてもらっているんです」

「嵐くんに?」

 莉莉は目をしばたたかせて、窓ぎわに座る晴を見た。

 晴の弟、嵐は死んでいるが、幽霊として晴の傍にいる。詳しいことはわからないが、晴が持つ、あやかしを癒す力は、嵐が憑依した状態でないと使えないらしい。また、嵐には退魔の力があるそうだが、死んでしまっているので晴に憑依した状態でないと強い力は出せないという。だから、ふたりは必要なときに融合して力を発揮するのがつねだった。

「どうぞ、かけてください」

 藤木にすすめられ、莉莉はカウンター席に腰掛けた。隣のスツールに鞄を置き、はずしたマフラーも畳んで置く。

「じゃあ、あれは……」

「嵐くんです」

 藤木は少し、困ったような顔になった。「三日ほど前から、この時刻になると通ってくるお客さんがいて……ほかのひとは気づかないようなので、晴くんたちに話をきいてもらおうと思ったんですよ」

 藤木の説明に、莉莉は思わずきょとんとした。

「え、それって」

「もういないひとだと思います。それで、今は閉店にしているんですよ」

 藤木はそう言って、窓のほうを見た。すると、晴が目をあけて、ゆっくりとこちらを見た。

『やあ、莉莉さん』

 晴が口をひらいた。いつも晴は莉莉を速水くんと呼び、嵐は莉莉ちゃんと呼ぶ。だが、こうして重なっているときは何故か莉莉さんと呼ぶ。それにいつも莉莉はどきりとしてしまう。そのかしこまった呼びかたが、まるで見知らぬ他人のような気がするからだ。

「わたし、ここにいていいの?」

『そうだね。見ててもいいと思うよ』

 問いかけに答えたのは嵐だった。

「何にしますか」

 藤木に問われて、え、と莉莉は視線をカウンターの中に戻す。

「注文ですか……」

 生憎いまは持ち合わせがない。莉莉はためらった。

「晴くんたちへの対価だから、奢りですよ」

 藤木はそんな莉莉の気持ちを察したのかそう言った。対価が生じるということは、これは正式な依頼なのだろう。

『対価はこの前のプリンのレシピではなかったのですか』

 堅苦しい口調に変わったので、これは晴だろう。

「それだけでは申しわけないので」と、藤木は穏やかに返す。「従弟がお世話にもなりましたしね」

 その件では藤木も迷惑を被ったはずだが、彼は気にも留めていないようだ。

『だったら好きなものを頼むといい』

 晴がそう言うので、莉莉はちょっと笑った。

「じゃあ、チャイをお願いします」

「少しかかりますが、いいですか」

 藤木の言葉に、莉莉はうなずいた。

 寒くなってから、晴に連れられて店に来たとき、晴が頼んだチャイがとてもおいしそうだったのを莉莉は思い出したのだ。カウンターの中が見えるので、チャイをどのように作るかを一部始終眺めてしまった。メニューにはない、常連専用の裏メニューだと聞いて、いつか頼みたいと思っていたのだ。

 藤木はカップに湯を入れて調理台に置いた。それから小ぶりな平底のフライパンを火にかけ、そこに冷蔵庫から取り出した牛乳を注ぎ、茶葉と香辛料を入れる。強火で平底なのであっという間に牛乳は煮立ち始めた。それを藤木は木べらで炒めるようにかき回す。

 何度も牛乳が沸き上がり、そのたびに藤木はフライパンを火から遠ざけた。それを何度か繰り返すと、牛乳は茶葉の色に染まっていく。

「甘くしたほうがいいですか?」

「はい」

 問われて莉莉はうなずいた。すると藤木は、片手でフライパンの柄を持ったまま、砂糖入れをあけて、山盛りの砂糖を牛乳に溶かし込んだ。それから二、三度牛乳を炒めると火を止め、湯を捨てたカップにフライパンの中身を茶こしで漉して注ぎ入れる。見事な手ぎわだった。

「はい、どうぞ」

 前に置かれたカップからは湯気が立ち上っている。それでもあっという間に表面に濃い茶葉色の膜が生じていた。莉莉はそれをスプーンでかき混ぜる。

『おいしそうだね』

 リヒトが影の中から言った。藤木は穏やかな表情で莉莉を見ている。彼はリヒトが猫又として姿を見せない限り見えず、その言葉も聞こえないらしい。藤木の従弟は藤木には幽霊が見えると言っていたが、どうやら彼には幽霊しか見えないようだ。幽霊もあやかしの一種だと双子が考えているため感化された莉莉にしてみれば不思議に思える。

「おいしい」

 チャイをひと口のんだ莉莉は、思わずそう言った。まだ寒い二月に、このチャイはぴったりだ。

『リリ』

 再び莉莉がカップを口に持っていこうとしたとき、ふとリヒトが呼んだ。莉莉は手を止める。

「なあに、リヒト」

 莉莉が問うと、カウンター内の藤木が、少し驚いたように目を瞠った。

『誰か、来た……』

 その声音に何かを感じて、莉莉は思わず振り向いた。

 扉の向こうに、誰かが立っている。

「ああ」と、藤木が呟いた。「いらっしゃいましたね」

 扉の向こうに誰かがいるのはわかる。だが、それは黒々とした影で、姿形ははっきりとはしていない。

 チャイをのんでぽかぽかしていたはずの莉莉の背に、ざわっと寒気がはしる。

 がたん、と音がした。それに目を向けると、晴が立ち上がっていた。その顔には複雑な表情が浮かんでいる。怒っているように見えるが、戸惑っているのだと莉莉は読み取った。

 晴が大股に戸口へ歩み寄り、扉をあけた。

『どうぞ』

 扉の向こうにいた黒いもやのような影に、晴は声をかける。影がゆらりと揺れて、ゆっくりと店内に入ってきた。

 戸口をくぐると同時に、影がはっきりとしたひとの姿に変わった。

『あなた、わたしが見えるの……』

 店内に入ってきたのは女性だった。戸惑った顔で晴を見上げている。

『このところいらしていたようですが、何かこちらの店にご用があったのでしょうか』

 やわらかな問いかけは晴だった。丁寧口調はたいてい晴なのだ。嵐はもっと砕けたしゃべりかたをする。それくらい、莉莉には区別がついた。

『……用……』

 三十代ほどの女性は、困ったように晴を見て、それからカウンターの中を見た。その姿のふちは黒く滲んでいる。

『わからないわ……ここに来たかったんだけど……どうしてだったかしら……』

『何かあたたかいものでも飲みますか』

『そうね……』

『では、こちらへ』

 晴が招くと、女性はふらふらとそれに従ってカウンターにやってきた。

 それから莉莉を見て、あ、という顔をする。正確には、彼女は莉莉の手もとを見ていた。『それ……』

「チャイでよろしいですか」

 藤木が口を開いた。

 次の瞬間、女性がハッとしたように藤木を見た。その頬がほんのりと染まる。

『はい……』

 少女のように目を輝かせて、彼女はうなずいた。

 藤木が再び、フライパンを手にとってチャイを炒め始める。カウンターの角の席に腰掛けた女性は、興味深そうに藤木の手もとを眺めていた。

『前にも、こうして見ていたの』

 彼女はしずかに呟いた。『でも、そのチャイは、常連さんににしか出さないとも聞いて……いつか、いただきたかったのだけど』

『あなたはさまよっているのですね』

 晴が問うと、彼女は首をかしげた。

『さまよって……?』

『ええ。あなたはもう行かなければならないのでしょう』

『……そうなのかしら』

『俺にはそのように見えます』

 彼女はゆっくりと、傍らに立つ晴に顔を向けた。

『わたし……そうだわ。思い出した……』

 彼女は茫然と呟いた。『雨が降ってた……寒くて……痛くて』

『痛かったのですか。でも今は……そうではないのでしょう』

『そうね。でも、ここにもう一度、来たくて』

 そう言うと、彼女は店内を見まわした。『このお店、とても雰囲気がよくて……いつもブレンドを頼んでいたけど、ミルクとお砂糖は要りませんって言っていたら、憶えてくれて』

 そう言うと、彼女は再びカウンターの中に視線を戻した。その視線の先には藤木がいる。

 藤木はチャイをカップに注ぐと、彼女の前に差し出した。

「そうですね。何度も来ていただきました」

 藤木が言うと、彼女はうれしそうに笑った。

『憶えていて、くださったんですね』

「はい」

『うれしい……』

「ですから、常連さんです。このチャイは、常連さんだけのメニューなんですよ」

 藤木が微笑みかけると、彼女はそっとカップに手を伸ばした。だが、その手はカップに添えられただけだ。

『ありがとう……わたし……』

 女性の唇が動く。

 だが、紡いだはずの言葉は声にはならなかった。

 女性の姿は、ゆっくりとかき消えた。




「よく来るんだよね、ああいうお客さん」

 事務所に戻ると、嵐がそう言った。「藤木さん、ハルくんほどじゃないけど、誰にでもやさしいから」

『あれって、亡くなったひとだったの?』

 莉莉の足もとから、するりとリヒトが抜け出る。

「そのようだな」

 やれやれと溜息をつきながら、晴がソファに腰掛けた。それから首を左右に振っている。

「疲れた?」

「おまえに憑かれていた」

 問う嵐に、晴はぶっきらぼうに答える。「俺ほどじゃないとはどういう意味だ」

「えっ、だってそうでしょ。ハルくんだって、わりと誰にでもいい顔するじゃないか」

 嵐の言葉に、晴は不機嫌そうな顔になった。低いテーブルの上に置いたままの煙草の箱を取り上げると、一本出してくわえ、火をつける。

「いい顔、などと言うな。人聞きのわるい」

「客商売だからお客さんには誰にでも愛想よくするものだけど、あのひと、淋しかったんだろうなあ。死んでまで来るんだから」

「死んでまで……あのひと、あのチャイがのみたかったのね」

「それもあるけど、つまり、藤木さんのこと好きで、一介のお客じゃなくて、ひとりの個人として見てもらいたかったんじゃないかな」

「それが思い残しになっていた、か……」

 晴が煙を吐き出した。「これで何人めだったか、ああいうのは」

「そんなに来るの?」

 莉莉は驚いて尋ねた。

「まあ、年にひとりくらいかな?」と、嵐が答える。

 莉莉は少し呆れた。

「藤木さん、もてるのね……」

「見た目はそこそこいいからねえ、あのひと」

 嵐がうなずく。「もと不良少年だったと思えない物腰だし」

「不良少年!」

 思いがけない言葉に、莉莉は思わず反復した。

「そうだよー。本人は濁すけど、相当だったらしいから。だからね、莉莉ちゃん、やさしそうな男だからって、フラフラしたらだめだよ」

 嵐が言うのを聞いて、ぶっと晴がふき出す。

「アラシ……おまえが言うか……」

 晴は呆れたように弟を見た。

『びっくりだなあ』と、リヒトもやや呆れたように呟いた。

「え? どういうこと?」

「嵐くんも、だいぶんやさしそうよ」

 莉莉が言うと、嵐は明るく笑った。

「それは誤解だな。僕はちっともやさしくないよ。ああいうのはほんとだったらバシッと追っ払いたいんだから」

 嵐は兄を見て、ニヤニヤした。「やさしいのはハルくんでしょ。ああいうひともほっとけないんだから」

「放っておいたら、何かよくないこともあるかもしれないからな」

 晴はやや険しい顔になった。だが、怒っているのではなく気恥ずかしいのだと莉莉にはわかる。

 なのでそれは、莉莉には言いわけにしか聞こえなかった。




 無愛想なくせにやさしい兄と、やさしそうに見えてそうでもない弟。

 そんな双子は、いつしか莉莉にとってたいせつな存在になっていた。

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