2-3.凍える少女と性なき人間
少女は震えていた。
よほど寒いのだろう。
手をすり合わせ、小さな体を温めながらマッチを購入してくれる人を探して国道二四六号線を行ったり来たりしている。
少女はマッチを売らなければいけなかった。マッチを売ってお金を持って帰らなければ、父親にぶたれてしまうのだ。
少女は悲しい表情をしていた。
眠そうにとろんとした瞳で、辺りをキョロキョロと見渡す。真冬でもなく雪が降っているわけでもない人間が存在しないこの街を、マッチを売るために駆け回る。
少女の持つ籠には盛り上がるほどマッチ箱が入っている。小さな足が地面に着地するたびに、マッチ箱も小さく音を立て籠から飛び出しそうなほど跳ね上がる。
国道二四六号線は広く、左右には店舗がギュウギュウと隙間なく羅列されている。見たことのない光景。どこに行けば人に会えるんだろう、どこに行けばマッチを買ってくる人と出会えるんだろう。
そんなことを考えながら走っていると、足元にあった石ころを踏んでしまい、バランスを崩して転倒した。
前のめりに勢いよく倒れた少女は、籠をひっくり返し大量のマッチが外に飛び出す。
それと同時に、少し大きめだったムートンブーツは脱げ、冷たいアスファルトへ転がる。
服は汚れ、膝や腕を擦りむき、裸足で立ち上がる少女。目の前に散らばるマッチ、後ろに転がっているブーツ。
「……」
少女はぐしゃっと顔をしかめ、泣きそうな表情をしながら現状を見つめた。
自分は何のためにマッチを売っているのだろう。
父親に殴られないため?
裕福な生活を手に入れるため?
やりたくてやっているわけではない。父親に強要され、嫌々引き受けたマッチ売り。
やらないと怒られる。
頑張って売ろうとしているのに、お金持ちに指をさされ馬鹿にされる日々。
「マッチ……、買ってください」
少女は、小さな声でそう呟いた。
それは少女の心の悲痛の叫びを声に乗せた悲しいトーンだった。
「――俺が買おうか?」
そんな少女の背中から声が聞こえる。
声だけだと低めで落ち着きのある優しい声。
少女は後ろを振り向いた。
そこに立っていたのは、見ただけでは男性か女性か分からない中性的な成年。
服装は男性的な着こなしをしているが、その顔立ちはどこかの国のお姫様を連想させるとても美しいものだった。
成年は、少女に向かってお日様のように微笑みながら近付いてきた。
内またで膝をつけ、両手を胸の前で組みながらびくびくしている少女。
成年は少女が履いていた靴を拾うと、手に持ったブーツを回転させながら何かを確認している。
少女はブーツを触られていることに対し、少し抵抗しているような動揺を見せた。
少女が履いていたブーツ、それは亡くなった母親が小さい頃履いていたもの。母が病気で亡くなるのと同時に形見としてそれを貰い、晴れの日も、雨の日も、雪の日も、母の事を思い毎日毎日履いたブーツ。
「あ……っ」と少女は手を伸ばし、取り返そうとする。
まだ少女の足のサイズに合わないそれは、何度も道でうっかり脱げてしまったことも何度かあった。しかし拾ってくれた人にその都度、『汚いブーツだ』『みすぼらしい』『不衛生な子供だな』と野次を飛ばされたことしかない。
繰り返される父親の暴力、金持ちから浴びせられる暴言の数々に人として扱われていない存在感。
こうして少女は、心を失った。
人を信じることをやめた。
(私が信じられるのは、お母さんが残してくれたこのブーツだけ)
ただ無心にマッチを売った。
売れば父親にぶたれないから。
金持ちからの暴言も、これといって何も感じなくなってきた。
だって、言われ慣れちゃったから。
でも――そのブーツだけは返して。
少女は、成年からブーツを取り返そうと手を伸ばす。
「あらら。ここ、破れちゃってるね」
すると、成年がブーツの底をとんとんっと叩き、少女にそう伝えた。
「よく見ると、結構ボロボロだね。こんなになるまで使っていたなんて、よほど大事なものなんだね」
少女は一瞬、何を言われているのか分からなかった。
普段言われ続けられた言葉とはまったく違う言葉を言われたからだ。
ただそれが悪口や暴言でないことは確かだった。
少女は伸ばしていた手をおろす。
「ずっと、大事にしてたの」
少女は、今初めて「マッチ」以外の言葉を口にした。
「そうか。そんな気がするよ。このブーツには、いろんな思いが詰まっている。なんていうか、あったかい感じって言えばいいのかな。君を見守っているオーラが出ている。魂が宿っているみたいにさ」
成年は、少女の元へ歩いていき、穴の開いている箇所を見せてきた。
「ここ。これじゃあ雨とか雪の日に足がびしょびしょになっちゃうよ。修理した方がいいかもしれないね」
少女はブーツを受け取りまじまじと見る。確かに靴底に穴が開いている。長年履いていたこともあり、擦り切れてしまったようだ。他にも汚れも目立ち、靴底がぺろんと剝がれて大きく口を開けたようになっていたりと、靴としてほとんど機能していないように見える。
少女はしょんぼりした表情でブーツを抱え俯いた。大事に使っていたはずのブーツがここまで壊れてしまっていたことに気付いていなかったようだった。
「どこかに直しに行く?」
成年は少女の目線の高さに腰を落とす。
そして優しく微笑み、手を差し伸べた。
少女は全体的に表情は変わらないものの、どこか明るく笑っているように見受けられた。「うん」とブーツを力いっぱい抱きしめ、その成年の顔を正面で見る少女。
成年はその意思を受け取ると、一緒に散らばったマッチをすべて拾って籠の中へ納めていく。そして「さぁ行こうか」と言うと少女をお姫様抱っこで抱きかかえ、国道二四六号線を駆け抜けた。
▽
成年が少女を連れて到着したのは、さっきの場所からさほど遠くないホームセンター。
「ここね、さっきも来たんだけどすごいでしょ。修理に使えそうなものがあるかなーと思って来てみたんだけど」
少女は瞳を輝かせ、ホームセンター内をキョロキョロと見渡した。少女の知っている家の広さの何十倍も広いこの店舗に、少女は少なからず興奮しているように見える。
電気は点いていないが不思議と真っ暗ではなくお互いの表情や身近な範囲であれば難なく確認できる。
見える範囲だけでもかなりの種類の商品が羅列されている。色とりどりのもの、形が愉快なもの、まるで不思議な国に迷い込んだかのような楽しい気持ちになる少女。
二人は店内を回りながらたくさんの現代の商品に手を触れた。柔軟剤の香りを嗅ぎ、ふかふかの布団にダイブし、大きめのソファで寛ぎ、照明の灯りを楽しんだ。少女にとってはどれも初めての経験。また初めて出会った人間にここまで心を開き、信頼を寄せたこともこれまでなかった。
「んーと、これどうやって使うのかな?」
成年はホームセンターにある接着剤や裁縫セットを駆使し、ブーツの修理を始めた。
タイミングよく特集として組まれた修理に関する商品や部品が並んだ棚をホームセンターの中央で発見した成年は、その中でも使い方が描かれているイラストをある商品をセンス良く選んだ。月の光が差し込む一番明るい場所で、あぐらきながら集中しているその表情を、ブーツと交互に見る少女。
そしてうまく穴を縫い合わせ、接着剤で靴底をくっ付けたブーツを少女を手渡した。あまりにも穴が大きく縫い合わせることが難しい場所には可愛らしいウサギのアップリケが縫い付けてあり、ついでにウェットティッシュで汚れが綺麗に拭き取られていた。
「ふいー。俺の全力はここまでー。ごめん、こんなんでいいかな?」
成年はブーツを少女に渡した後、両手を広げ後ろに倒れ込んだ。
「ごめん」と言うほど雑な仕上がりではない。むしろウサギが付いていてより年齢に見合った可愛いブーツが完成した。
そんなウサギのついたブーツを目をキラキラさせながら見る少女。
「あ……」
少女は何かを言いかける。
ブーツを握りしめ、心の底から感じた思いを言葉に変えた。
「……ありが、とう」
笑顔はない。
しかし、少女から出た素直な言葉なのだと成年も汲み取った。
「どういたしまして」
少女はブーツをいそいそと履く。これまで裸足で冷たかっただろう足をブーツが包み込んだ。
「その擦り傷も消毒しようか」
成年は立ち上がると、「んー」と考えながらいったん棚の間に姿を消す。そしてしばらくするとティッシュペーパーや消毒液を手に持ち現れた。
成年は少女の擦り傷を消毒し始める。消毒液がとても傷にしみるのか、少女の表情は苦痛の表情を浮かべていた。
「はい、終わり」
消毒を終え、ばい菌が入らないよう大きめの子供用のイラストが描かれた絆創膏で傷口を塞ぐ。
やっと痛みから解放された少女は、ホッと胸を撫でおろす。
「よく頑張ったね。えらいえらい」
少女の頭を撫でる成年。
こんな風に撫でられたのはいったいいつぶりだろうか、と少女は過去を振り返る。
まだ母親が生きていた頃、こうやってよく頭を撫でてくれていた。
何かいいことをすると「えらいね」と。
何か自分の力で成し遂げると「頑張ったね」「すごいね」と。
少女は嬉しさが成年にバレないように下を向いてぷるぷると震える。そして、成年の真正面に座っていた少女は、成年の真隣にちょこんと座り直した。
「あら。俺のこと、信用してくれたの?」
成年の言葉にこくりと小さく頷く少女。
そして、成年は少女にとある質問を投げかける。
「ねぇ、キミは――アンデルセン側の人間かい?」
少女は特に動揺することもなく、成年の問いかけにまたもや素直にこくりと頷く。
「そっか。俺はね、グリム兄弟に召集されてここにいるんだよ」
成年は正直に答えてくれる少女に、自分の身のうちを明かした。
「ということは俺たち、戦わないといけないのかな」
少女はその問いかけには、ぶんぶんと首を振った。
成年とは戦いたくないもしくは戦わない、そんな意思表示なのだろう。
「俺だってね、戦争は嫌いだよ?」
成年は少女に更に近寄り、少女の肩に手を回そうとする。
下を向いていた少女は成年の顔に視線を移した。
成年は笑っていた。最初であった時のようなお日様のような笑顔。一緒にいるだけで暖かくて、楽しい気持ちになれる笑顔。少女は、その笑顔を見るたびに元気をもらっているような気分になっていた。
「――キミだってそうでしょ?」
少女はこの時、気付いていなかった。
少女の後ろから細い首を狙っている鋭く尖った細り針のようなものを。
そしてその針が、成年のパーカーの裾から成年の掌を這うように伸びていることを。
少女は気付くわけもなく、疑いのないまっすぐな瞳で成年を見ている。
成年はそんな少女に応えるかのように、少女から目を離さない。
見つめ合う二人の後ろで、成年が少女の首を貫こうと手首を軽く返した時――
「お姉ちゃん」
成年は真顔になり、動きを止めた。
“お姉ちゃん”という言葉――
成年は動揺する。
「なんで“お姉ちゃん”? 俺って、男か女か分かんないでしょ?」
動揺を悟られないように、笑顔で取り繕う。
しかし目は笑っていなかった。必死に口角を上げ、少女に問う。
「なんで? お姉ちゃんはお姉ちゃんでしょ?」
――どうして?
少女が何をもって“お姉ちゃん”と言っているのか、成年はどうしても聞きたかった。
「なんで……?」
思わず小さな声で吐露する。
成年は性別がない。
否――
性を捨てたのだ。
それをなぜ出会ったばかりの少女が知っているのか。いや、ただ単に女に見えただけなのか。成年は混乱した。
少女はきょとんとし首を傾げている。
「お姉ちゃん、いいんだよ――」
次の瞬間、少女の言葉に成年は言葉を失った。
「――いいんだよ。あたしの前では、嘘をついて自分を着飾らなくてもいいんだよ」
成年は少女の首を狙っていた針を引っ込め、笑いながら髪を掻きむしる。耐えきれない思いが、笑いとなってぽろぽろと溢れ出る。
そして、成年は何も言わずに立ち上がった。
そんな成年を、少女は下から悲し気な表情で見上げる。
「キミは不思議な子だね」
表情が見えないまま話をする成年に、少女は何と反応すればいいのか迷った。しかし成年は続ける。
「キミのような子は初めてだ。――名前を、聞いてもいいかな?」
「名前……」
少女は回答に困った。
「あたし、名前は……」
少女には名前がなかった。
成年の問いに何とか応えようと頭の中の情報を絞り出そうとするが、名前がない分それは難しいことであった。
「キミはマッチを売っていたね」
「……うん」
「マッチはドイツ語で“シュトライヒホルツ”というんだ。そこから名前をとって、“ホルト”というのはどうかな?」
少女は嬉しそうに目をぱちぱちさせる。
――『ホルト』。それは成年だけが呼んでくれる少女の呼び名。
「俺は眠り姫」
「ねむり、ひめ」
眠り姫は、自分の名前を告げるとやっと少女へ視線を向けた。
「できることなら、ホルトとは戦いたくないな」
眠り姫の表情。
最初見せてくれたようなお日様のような笑顔。ただそこに暖かさはなく、どこか悲しい思いを隠し切れずに表面化された憂い表情のように見えた。
そして、少女が瞬きをした瞬間――
眠り姫は姿を消していた。
代わりに少女の持つ籠の中に、綺麗な花が一輪置かれてあった。
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