第5話 15センチの勇気

 学校に着いたのはホームルームが終わる直前だった。

 俺が忘れ物を取りに言えに戻って為に遅刻した事にして、先生からはちょっと注意されただけで済み、この日はなんとか乗り切る事が出来た。この時は、翌日岩橋さんが思い切った行動に出るとは夢にも思わずなかった。


 翌朝、いつもの様にマンションのエントランスで待つ岩橋さんが遠目に見える。何か雰囲気が違う。少し近付くとすぐにわかった。彼女は前髪を上げ、目も額も隠していなかったのだ。もちろん彼女を苦しめている古傷も。

 いやあ岩橋さん、凄いかわいいよ。その大きくて綺麗な目を隠していたなんて、なんてもったいない! 俺の正直な感想だった。今は前髪を完全にアップにしてるから傷が目立つけど、眉にかかるぐらいの前髪にすれば傷は隠せると思うんだけどな。

 いつもの様に二人で並んで歩く。しばらくすると彼女が口を開いた。


「加藤君、恥ずかしく無いの? こんな傷が顔にある女の子と一緒で」


 やはり岩橋さんは俺を試すつもりなのだろうか? いや、彼女の目はそうは言っていない。彼女の目は不安に怯えている様な気がする。


「全然。でも、前髪がある方が好みかな」


 しまった、つい要らん事まで言ってしまった。おでこ萌という言葉はあるが、俺は圧倒的に前髪派なのだ。


「そうなんだ……」


 岩橋さんが少し笑った様な気がした。

 教室に入ると和彦と由美ちゃんが俺達に気付いた。


「あれっ、岩橋さんよね? 髪の毛上げちゃって。やっぱかわいいじゃない」


 由美ちゃんは言った後、岩橋さんの額の傷に気付いた。


「あらっ、どうしたのその傷……あっ、それで昨日……ごめんね、知らなかったから」


 昨日、岩橋さんの傷を見てしまったのは俺だけだった様だ。彼女が前髪に触れられるのを嫌がった理由を理解し、由美ちゃんは素直に謝ると、鞄から剃刀と櫛を取り出した。


「本当の自分を見せようと思ったのよね。でも、そこまでしなくっても良いんだよ」


 由美ちゃんは、岩橋さんの髪を下ろすと剃刀で彼女の前髪を削ぐ様に整え始めた。少し切ってはバランスを見て、最後に櫛を入れると、仕上がりに満足したらしい。


「岩橋さん、すっごいかわいい!」


 目に少しかかるぐらいのところで整えられた前髪。それでいて、古傷は完璧に隠されている。俺の好みにどストライクだ。しかも由美ちゃんの声で他の女子も集まってきた。


「あっつ、ホント!」

「岩橋さん、かわいい!」

「もしかして、隠してた?」


 野郎共も、遠巻きに見ながらコソコソ言っているのが聞こえる。


「岩橋さんって、あんな美少女だったんだ」

「暗いだけの女と思ってたのに……」


 男連中のウケも良いみたいだ。由美ちゃんが笑顔で言った。


「これできっかけは出来たわね。あとはあなた次第よ」


 大勢の女子に囲まれてわたわたする岩橋さんだったが、由美ちゃんの言葉を聞くと、前髪に手をやって、おでこを出した。露わになる額の傷跡。


「私、この傷のせいで小学生の頃虐められてたから……人と上手く話す事が出来なくなって……でも、やっぱり寂しいのは嫌だから……」


 一所懸命訴える岩橋さん。そして、遂に口に出した。この数ヶ月、一番言いたくて、言えなかった事を。


「私、大勢だと上手く話せないけど、みんなに仲良くして欲しいです」


 一瞬教室は静まり返ったが、その静けさはすぐにかき消された。


「なーんだ、そうだったんだ」

「話しかけても会話が続かないから、こっちが嫌われてるのかと思ったわよ」

「一人で本読んでるから、孤高を気取ってるのかと思ってたわ」


 女子が口々に言い出した。どうやらクラスの女子の、彼女に対する誤解は解けた様だ。て事は、これで岩橋さんにも友達が出来るのかな……?


 昼休み、いつもの様に四人で弁当を食べていると岩橋さんが言い出した。


「加藤君、由美ちゃん、本当にありがとう」


 凄く嬉しそうな顔の彼女。しかし正直な話、俺の心は複雑だった。


――せっかくクラスの女子と仲良くなれそうなんだから、俺達とばかり一緒に居させてはダメだよな


 翌日、マンションのエントランスで俺を待つ岩橋さんは遠目で見てもとてもかわいかった。はっきり言って予想以上だ。しかし、俺の心は重かった。


「昨日、前髪切って帰ったじゃない、お母さん、また私が虐められたんじゃないかって心配して大変だったのよ」


 屈託無く笑う岩橋さん。それ、聞きようによっては結構ヘビーな内容だぞ。まあ、乗り越えた岩橋さんだからこそ、そんな顔で話せるのかな? それにしても本当にかわいいな。でも……


 昼休み、俺は岩橋さんを弁当に誘わなかった。彼女は俺の方を見て、不思議そうな顔をしていたが、俺は目を逸らし、弁当を食べ始めた。しばらくして横目でちらりと見ると、他の女子に誘われて五人で弁当を食べているのでほっとした。帰りも一人、ダッシュで帰った。彼女が誰か友達と帰る事を願いながら。


 翌朝、岩橋さんはマンションのエントランスで俺の事を待っていた。少し寂しそうな顔をしているのは気のせいだろうか?


「加藤君、おはよう」


 やはり声に少し元気が無い。俺が昨日彼女を弁当に誘ったりしなかったせいだろうか? だとしたら正直嬉しいが、それでは彼女の為にならない。


「おはよう、今日も待っててくれたんだね。でも、せっかく友達が出来たんだから、そっちも大事にしないとダメだよ」


 俺が口にしたのは、あくまで良い友達としての言葉。本音はもちろん……


「それで昨日、お弁当に誘ってくれなかったんだ。ありがとう、気を使ってくれて」


 岩橋さんは微笑んだが、その笑顔が少し寂しそうに思えたのは俺の思い上がりなんだろうな。


 そんな日々が続き、岩橋さんはすっかりクラスの女子に馴染み、そのかわいさから三年生に告白されたとかいう噂も耳に入ってきた。


「おい明男、お前このままで良いんかよ?」


 ある日、弁当を食べながら和彦が聞いてきた。もちろん岩橋さんの事だろう。良いわけ無いだろ。でも、しょうがないじゃんかよ。それが彼女の為なんだからよ。

 俺は自分の気持ちを抑える事で彼女が幸せになれるのなら……という中二病患者にありがちな自己犠牲の精神に酔っていたのかもしれない。


「まあ、お前が良いんなら良いんだけどな」


 和彦は事も無げに言うと岩橋さんの方に目をやると、彼女は楽しそうに女子のグループと弁当を食べていた。


 俺と岩橋さんが一緒に弁当を食べる事や帰る事が無くなっても通学だけは一緒だった。彼女が律儀にも俺を待っててくれるからだ。正直なところそれは俺の至福の一時だった。


「学校に行くのがとても楽しくなったわ。これも加藤君のおかげね」


 突然岩橋さんがそんな事を言い出した。これって何かのフラグが立ったのだろうか? 喜んだ俺だったが、彼女はそんな俺をどん底に突き落とす言葉を発したのだ。


「それでね、私、告白されたんだ。三年の先輩に」


 噂は本当だったのだ。思考能力を失った俺は本心とは真逆の事を口走ってしまった。


「そっか。良かったじゃん」


 岩橋さんがどんな顔をしたのかはわからない。彼女の顔なんて見れなかったからな。

その後、学校に着くまでの記憶は全く無い。岩橋さんとの通学時間は俺にとって至福の時間の筈なのに……


「おい明男、何やってんだよ。早く着替えないと文句言われるぞ」


 和彦の声で俺は我に返った。どうやらずっと惚けていた様だ。次は体育の時間なので体操着に着替えるのだが、男子が先に着替え、女子はその後で男子を追い出してから着替える事になっているので、早く着替えないと女子に怒られるというわけだ。さっさと着替えを済ませ、教室を出ると、廊下で岩橋さんと目が合った様な気がした。


 今日の体育は体育館でバスケットボール。バスケとは言っても授業なのでドリブルとかパスとかの練習で、面白くも何とも無い。もっとも試合形式だったとしても俺には活躍の場なんて無いんだけどな。


 やる気も起こらずだらだらやっていると、ぎこちない動きでドリブルをしている岩橋さんの姿が目に入った。体操着からスラリと伸びる彼女の足はとても綺麗だった。


 昼休み、三人で弁当を食べようとすると岩橋さんが近寄ってきた。


「一緒にお弁当、久し振りに良いかな?」


 断る理由など何一つ無い。しかし、あの綺麗な足は三年の先輩の物になっちゃうんだよなぁ。


「そういえば、三年の先輩に告白されたって言ってたよね」


 つい言ってしまった。バカか俺は……


「気になる?」


 岩橋さんは恥ずかしそうに言った。それはもうこの上なく気になるし、聞きたくもあるけど聞きたくもない。きっと俺は凄い顔をしてたと思う。


「断ったよ」


 岩橋さんの言葉で俺の心の闇は吹き飛ばされた。


「だって、あの先輩、私の事何も知らないのに『好き』だなんて。女の子を見た目でしか見てないのね、きっと」


 岩橋さんは憤慨した様に言った。そして少し俯くと、上目遣いで俺を見ながら言った。


「私は彼氏にするなら、ちゃんと私の事を知ってくれた上で好きだって言ってくれる人が良いな」


 これって、俺に告白して欲しいって事なのか? ふと和彦と由美ちゃんを見ると、思いっきりニヤニヤしている。やっぱりそうだよな。しかし、俺の胸には少し複雑だった。


 確かに俺は内気な故に友達がいなかった岩橋さんとひょんな事から友達となり、紆余曲折を経て彼女の友達作りに貢献した。しかしそれは彼女の為にした事だって胸を張って言えるのか? 単に彼女に髪を上げたらかわいいという可能性を見出した俺の下心から起こした行動でしか無いんだろ? 見た目でしか判断しない先輩とやらと同じ穴の狢じゃないか。そんな思いが渦巻いた。それを悟られたく無くて、こんなつまらない事を口走ってしまった。


「体育の時見たけど、岩橋さんって綺麗な足してるよね。制服のスカートで隠してるのはもったいないよ」


 うわっキモい。俺、変質者みたいじゃないか。


「そ、そう? ありがとう」


 岩橋さんは戸惑いながらも律儀にも礼の言葉で応えてくれた。


 それから数日、俺は岩橋さんに告白する勇気も無く、二人の関係が変わる事が無いまま時間だけが過ぎ、梅雨が明けた頃のこと。


「加藤君、おはよう」

 いつもの様に岩橋さんがいつものところで声をかけてきた。しかし、なんだかいつもと雰囲気が違う。


「変じゃ無いかな? 加藤君が足が綺麗だって言ってくれたから……」


 彼女はスカートを折り込み、短くしていたのだ。『変』だなんてとんでもない。マーベラス! と叫びたい気分ですよ。ぼーっと見蕩れている俺に彼女は物凄い事を言い出した。


「加藤君は私の事、興味無いのかな……でも、私はね……加藤君の事……」


 岩橋さんは告白出来ない俺に痺れを切らし、勇気を出して言おうとしてくれたのだ。俺の為にスカートを短くしてまで。こうなったら勇気を出してその気持ちに応えるしか無い。俺は腹を括った。


「岩橋さん、俺は……」


 俺も女の子を見かけでしか判断しない先輩と同じ穴の狢だという事を洗いざらいぶちまけた。でないと俺は彼女と向き合えない気がしたから。それで彼女が俺に愛想を尽かしても仕方が無い。俺の話が終わると岩橋さんは溜息を一つ吐いた。


「そうだったの……」


 終わった。でもこれで良いんだよな。全てを諦めた俺に信じられない言葉がかけられた。


「加藤君はいつも一人で居た無口な私に手を差し伸べてくれたよね。私の事、かわいいかもって思ってくれたんだよね。その期待に応えられるかどうかわからないけど……」


 いや、はっきり言って期待以上です。いやいや、そんな事を言ってる場合じゃ無い。こうまで言ってもらえたなら、これ以上女の子に言わせるわけにはいかない。俺は彼女の言葉を遮った。


「やっぱり私じゃダメなの?」


 しょんぼりする岩橋さんの肩が震えている。でも、俺の足はもっと震えていた。だって、今から一世一代の告白をするんだからな。俺は息を大きく吸い込み、一気に思いの丈を声にした。


「俺は岩橋さんのことが好きです。俺の彼女になってください」


「はいっ!」


 彼女は恥ずかしそうに、そして嬉しそうに笑うと、彼女の勇気の象徴である膝上15センチのスカートが初夏の風に揺れた。

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俺と内気な少女、そして15センチの勇気 すて @steppenwolf

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