其の二
初夏6月。教会の裏手の林も、ここに至りてよりいっそうその緑を深めている。長い冬を終え、またひとつ年輪を重ねた木々はどっしりと大地に根を下ろす。しかし突如、その中でも特に幹の太い大木が静寂を裂き、どさり、と倒れた。幹を両断されたのだが、鋸や斧で切り倒したという風情でもない。加えてその断面は、まるでやすりがけでもしたかのように滑らかであった。
それは、マシュー・ベルモンドの振るったサムライソードの斬撃が成した技。
人が滅多に立ち入らないこの林は、WORKMANたちが己の殺し技を磨く修練の場として都合がいい。とりわけマシューは足しげくこの場に立ち入り剣を振る。「修練を一日でも欠かした瞬間、腕は衰え始める。剣の道とはそういうものだ。」とは師の言葉だったか。休日、仕事中を問わずわずかでも時間を見つけて鍛錬をしていた。彼のサボり癖は全部が全部無精のせいというわけでもないのだ。
しかし、この日は様子が違っていた。普段なら素振りのみ、打ち込みをするにしても真剣は用いず棒切れで木を打つのが常である。そこにきて今日はサムライソードを木に当てて切り倒した。まるで何かの手ごたえを求めるかのように。さりとて彼の表情は、これだけの技を以てしてもまるで満足に至らぬかのようなしかめ面であった。
「無駄な伐採は控えてもらいたいものですがね。」
木々の間からマシューをたしなめる声。しかめ面のままマシューが振り向くとこの林の所有者、教会の神父がいた。
「まあこれは焚き木にでも使うとしましょう。それよりも、何かお悩みのようですが?」
「ああ、まあな。少し剣のことで…」
「志摩神刀流異伝・因果の太刀―――のことですか?」
その言葉にマシューは目を丸くした。例によって、かの者の慧眼は目の前の若き剣士の悩みを看破していたのだ。こいつはかなわん、とマシューは額をぴしゃりと叩く。
「そもそも時逆石のあるジャノベアから帰ってきたということは、その時に『あの時代』に転移していたと推察は付いていましたが。」
「何でェ、何もかもお見通しってか。」
「ええ。『あの剣』を振るう様子も覗いておりました。今でも鮮明に思い出せます。私の生涯でもあれほどの剣は他に類を見ない程でしたから。」
300年生きる得体の知れぬ男が、その生涯でも一番の太鼓判を押す技。そう思えば誇らしくも思えるところではあるが、だからといって今の気分が晴れる訳でも無かった。むしろその絶技にこそ今の悩みがあるのだから。
「褒めてもらったとこ悪ィがよ、もう一度アレを繰り出せる気はしねェぜ?こうやって練習しちゃいるが、どうにもしっくりこねえんだわ。」
過去の世界で放ったあの技、その手ごたえをもう一度求めるが故の腐心と苦悩。到達点ともいえる絶技を一度味わってしまったばかりに、二度もそこに辿り着けぬという歯がゆさ。こと剣の道においては向上心旺盛なマシューにとっては、あの日の一閃が呪いのように押しかかっていた。
「まあそう易々と二度三度も出せるものではないでしょうね。あれは混じり気無しの純粋な殺意が必須。平穏の中では中々その境地に至ることもできないでしょう。」
「まあ、だろうな。ただ頭じゃわかっちゃいるんだが…」
「それに、私個人の意見ですが、あの剣はWORKMANとして好ましくありません。」
神父の否定の言葉と同時に、季節外れの大風が木々を揺らした。葉がはためき、ざわざわと音を立てる。
「あれは無心無空より放たれる忘我の一撃。言い換えれば心を捨てねば出せぬ技。翻ってこの稼業、人の心を捨ててしまってはただの殺戮者に堕ちるのみ。頼み人の哀しみ、己の背負う業を忘れては―――」
「またそれかァ、耳にタコができらァ。」
「ベルモンドさん!?」
「まあアレだ、多少の手練れには今の剣でも後れを取る気は無ェからな。『あの剣』が必要になるほどの相手が現れねェことを祈っててくれ。」
説教もそこそこに、マシューは神父の言葉を遮り背を向け帰って行く。その表情は未だ割り切りきれぬ、憮然としたものだった。
同刻、ロンバルディア海運社長用個室。
「ほれマーカー、あーんせい。あーん。」
「あむ…むぐ…」
「どうじゃ?美味いか?」
「うん、おいしいよママ!」
そこでは一組の男女が遅い昼食をとっていた。女は男に餌付けよろしくスプーンを差し出し、男はそれを食べ女を母親と呼びながら微笑む。口で説明するぶんにはままある親子の食事風景だが、実際のところ実に奇妙なものだった。
男のほうは齢にして10代の半ばほどの人間。のど仏も出来始め声にも少年らしさが薄れ始める時期、かような幼い口調など似合う由もない。女のほうは見た目10代に満たぬ狐のクオータービーストめいた少女。口調こそ大人びている、というか妙に古めかしいが、年上の男から母親と呼ばれるにふさわしいかと言えばそんなはずも無い。
「ママー、全部のこさずたべたよー!」
「おお、嫌いなニンジンもちゃんと食べたか。偉いのうマーカー。」
「えへへ…」
(こんな姿、あいつらには見せられんのう…)
少年の頭を撫でながら、何でも屋の少女カーヤはここが衆人の目の届かない場所であることを感謝していた。ベビーシッターを得手とした彼女は、ここロンバルディア海運にて訳アリの若社長の養母役として雇われた。多額の依頼金も魅力だが、両親を失い心を壊した少年を気にかけて承諾した依頼ではあったが、実際にやってみると後悔の念も湧く。何せ年上にしか見えぬ男を赤子のようにあやすのだ、客観的に見たら意味不明、さもなくばいかがわしいプレイにも見えかねない状況だ。気恥ずかしさもひとしおであった。
「へえ、あの若様がニンジンを食べられるなんて。」
「そう意外がるということは、あやつはニンジンが嫌いだったということか?」
「ええ。ああなられて以来、すっかり子供舌に戻られて。」
「ふぅむ…」
食事を終え、マーカーを寝かしつけたカーヤ。手伝いに来たメイドと食器を片付けながら話をしていた。よく教育されているのか、見た目少女のベビーシッターにも養母として敬語を使って話している。カーヤは多少こそばゆい気を感じながら、共に食器をカートに載せ廊下に出て行った。
「しかし私どもが食べさせようとしてもあれだけ嫌っていたニンジンも、易々と食べさせられるなんてやっぱりプロは違いますねー。」
「ああ、まあ、そうじゃろう…」
道中、メイドがカーヤの手腕を褒めた。実際にはベビーシッターが専門職と言うわけではないが。だからというわけでもないのだが、折角の賛辞にも関わらずカーヤの表情は浮かない。以前の彼女ならば鼻高々になっていたところだろうが、WORKMANとして経験を積んだカーヤには手放しでは喜べない懸念が多すぎたのだ。
確かにマーカーは自分の言うことだけはよく聞く。使用人たちもあの聞かん坊が随分大人しくなったものだと言っていたが、果たしてそれはマーカーが本心から慕っている証なのかと言われれば大いに疑問だ。子供をあやすのがいくら上手いとて赤の他人。彼の母親の肖像画も見せてもらったことがあるが、自分の顔に似ないどころか面影すら見いだせない。そんな母の面影を持たぬ女、しかも見た目小娘に心を開くというのも不自然だ。
―――あるいはマーカーは狂ってなどおらず、何かしらの目的があって自分を利用しているのではないのか?
事実、そんな疑念の可能性も見え隠れしている。己を幹部連中に紹介したあの朝ふと見せた殺気の視線。あの一瞬の表情が、カーヤの心に大きなしこりを残していた。
(まあ、貰うもんも貰ったわけだし詮索しても仕方ないがのう。)
カーヤはひとまず思い浮かぶ疑念を脇に置いた。その裏に何があったからと言って自分に何かができるわけでもないのだから。そう、裏の「仕事」に通じるような事情でも無い限りは。気を取り直し、道すがら通りがかった中年の社員に挨拶をする。
「こんにちは。良い天気じゃのう。」
「………」
男は黙して応えなかった。それどころかカーヤを眺める視線が痛い。憎しみ、とまではいかないが、何やら厄介者を疎むような眼で睨まれる。何か悪いことをした心当たりはないのだが、思わず目を伏して身を竦めてしまうのだった。
「おい、なんじゃ。感じ悪…じゃなくて随分と冷たいものじゃのう。よもやこれが社風と言うわけでもなるまい?」
社員が通り過ぎた後、カーヤは思わず隣のメイドに助けを求める。
「うーん。それはさすがにないですけど…でも業務に携わる方々がカーヤ様を快く思っていないって事情は理解できますが。」
「なぬっ!?」
「ここロンバルディア海運は社長の一族が強いワンマン傾向ですからねー。いくら心をやつされた若社長といえど発言の影響力はまだまだありますし。そこにきてご寵愛を受ける養母の登場となると気が気でないんでしょう。」
「つまり、どういうことじゃ?」
「あの若様が『全財産ママに譲る』なんて言い出した日には冗談じゃ済まなくなりかねないってことです、特に旦那様、つまり前の社長が亡くなって事実上のトップを狙っている幹部連中にしてみたら、横から資産をかっ攫われるんじゃないかと戦々恐々してるんですよ。」
「は、ははぁ…」
メイドは「社員たちが気が気でない」内情を笑顔で語ったが、本当に気が気でないのはカーヤの方であった。先の懸念も含め、厄介なお家騒動に巻き込まれたのかもしれぬということを思い知らされたカーヤは、家に隠した500万ギャラッドを返却しようかという選択肢さえ頭に思い浮かぶのだった。
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「何だあの小娘は!?ぬけぬけとママだと!?遺産狙いか?そうに決まっておる!」
「落ち着いてください。あんないかにも下民の子供が我社のお家事情を知るはずもありません。」
「これが落ち着いていられるか!このままでは折角うまくいっていた計画が…」
「それに彼女は『あの』幼児退行された若様の推挙。裏を疑うほうが無駄というものでしょう?」
「し、しかしだな…」
「まあ戸惑う気持ちもわかります。何せ『母親』代わりですからね。
―――彼の親である社長夫婦を、事故に見せかけて始末したばかりで親代わりと言われれば、ギクリとなるのも仕方ないですよ。
しかしそれこそ杞憂と言うもの。逆にここで焦ってボロを出してはそれこそロンバルディア海運乗っ取り計画が水の泡ですからね。」
「うむ、そうだな。平常心を心がけねば。」
「そう、何も焦ることはないんですよ…」
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「まあカーヤ様。シーツの取り換えくらい私どもでやりますのに。」
「なあに。このくらいの仕事自分でやらんと働いた気にならんのでな。何せ大金を貰っとるんだからのう。」
時計は午後の三時を迎え、そろそろ寝かしつけていた坊やを起こす頃合いである。一時はいらぬ騒動に巻き込まれたと気を萎えさせていたカーヤではあるが、生来の馬鹿正直な気質ゆえ受けた仕事を途中で投げ出すような真似は許さなかった。やる気も充填し、小さな体に真白なシーツを抱えマーカーの部屋へと向かう。
「おーいマーカー、そろそろ起きろよー。楽しみにしとったオヤツの時間じゃぞー。」
部屋の戸をノックしながらカーヤが呼びかけるが返事は無い。まだ夢の中かと思い起こしに行こうとドアノブに手をかけた瞬間、彼女の耳に奇妙な「声」が聞こえた。
それは普通の人間の耳では聞き取れない僅かな音声。狐の如く大きな耳を持つカーヤだからこそ聞き取れたそれは、中年男性の話し声だった。ドアの向こうの更に壁ひとつ向こうとも思えるほどのくぐもった小さな声、しかし部屋の中にはマーカー一人の筈。何やら不気味というか、嫌な予感がカーヤによぎった。
「入るぞ!マーカー!」
意を決し、バンッ、と大きな音を立てて戸を開ける。瞬間、ベッドの中身がびくんと跳ねたように見えた。そして、おっかなびっくりにマーカーが顔を出す。カーヤは周囲を見回したが、話し声を立てていたような人物の姿は見受けられなかった。
「ど…どうしたのママ?」
「い、いや。じきにオヤツの時間じゃから呼びに来ただけじゃよ。びっくりさせてすまんな。」
疑惑の種は尽きないが、恐れ震えるマーカーを見てカーヤはひとまず追及を避けた。オヤツと聞いたマーカーは喜び勇んで食堂へと駆け出す。そして無人となったベッドで、持ってきたシーツを取り換えにかかった。ざっと掛け布団をめくる。
「ん?」
そのままカーヤの手が止まった。敷き布団の上にぽつんと置かれていたのは、みかんほどの大きさの水晶球。普通に考えれば、きらきらしたものを好む幼児の遊具の類と思うところだろう。マーカーがこれを寝る時も後生大事に抱えていたとしてもおかしな話ではない。しかしカーヤには、この水晶球に見覚えがあった。
「確かこれは、神父のところで見たような…」
魔族ゆえか水晶球からわずかな魔力を感じる。そうだ、これは遠隔地との通信に用いるマジックアイテムだ。禁じられた魔法の力を使うので余程の事でない限り使うことはないが、確かに神父からWORKMANのいろはを学ぶ際に見せてもらったことがあるものだった。
となると、ひとまず脇に置いていた疑問が再びカーヤの頭をもたげる。何故マーカーがこのようなものを持っているのか。部屋から聞こえた話し声はこれで誰かと喋っていたからなのか。そもそも、心をやつした男がこのようなご禁制の品を持ち使いこなせるものなのか。
カーヤはシーツを取り換えると、子供の待つ食堂へは向かわず厨房へと入って行くのだった。
「―――なるほどの。貴重な情報をありがとうの。これは礼じゃ。」
マーカーとのおやつの時間を終えて2時間後、再びカーヤは厨房に入りその片隅でイエネズミの話を聞いていた。先だって能力を使いこの家に隠れ住むネズミを呼び、同じ水晶球を探させていたのだ。勝手知ったる他人の家、仕舞っていたチーズを削り取り、ネズミたちに報酬として与える。
そしてそこから得られた情報。同じ水晶を「持っている」ものは見つからなかった。しかし、同じ水晶が「隠し置かれている」部屋はいくつもあったという。それも会社幹部のプライベートスペースに限って、だ。カーヤは推察する。これは盗聴だと。
なるほど通信にしか使い道がないと思われた道具をこう使うとは、思わず舌を巻く。と同時に、これ程の発想力を持つ人間が狂っているはずが無いと確信した。となれば幼児退行は演技、そして自分への養母依頼も別の目的があってこそ。その目的までは皆目見当がつかないが、何か嫌な予感がしてたまらない。詮索は不要とわかっていながらもその答えを求めてしまうのは好奇心ゆえか、それとも。外は既に夜の闇に包まれようとしていた。
日が暮れれば仕事が終わる。ロンバルディア海運本社の建物からも、家人である社長とお付きの使用人を除く従業員はそぞろに我が家へと帰って行く。同社専務のアルーギル、専務のドイラーも連れ立って帰りの準備にとりかかる。業務が長引いたのか、彼らが一番最後に退社することになった。
人気も無く、灯りも落ち薄暗いエントランス。二人は気味の悪いここを抜け入口に待たせた馬車へと急ぐ。ドイラーは恰幅が良すぎるせいか、急ぎ足では足元がおぼついていない。
入口に差し掛かる瞬間、柱の陰から何者かが飛び出した。わずかな光を照り返すぎらりとした何かを握った何者かの襲撃。確実に命を狙った奇襲。二人そろって中年男である、かような突然の出来事に即座に対応は出来なかったが、ドイラーが慌て足をもつれらせて倒れたことで運よくかすり傷で済んだ。一撃を躱され、襲撃者は舌打ちをする。
「なっ、何奴!?」
アルーギルが叫んだ。そしてドイラーの腕を引き、第二弾の攻撃を仕掛けんとする襲撃者から距離を取る。ようやく夜目に慣れた頃、その襲撃者の正体を知ることとなった。
「しゃっ…社長!?」
そこにいたのは、鋭いナイフを握り鬼気迫る表情を見せるマーカーであった。
「だっ、誰かおらぬか!?若社長がついに乱心なされたー!!」
「無駄だ!この時の為に社屋の者を全員出払わせた!呼んでも誰も来ない!!」
助けを呼ぶドイラーを一喝し威嚇するマーカー。そのはっきりとした口調に日頃の幼児めいた雰囲気は見当たらない。
「この日をどれだけ待ち望んだか。父と母を殺した憎き敵を討つこの瞬間を!」
「社長…いやマーカー!それをどこで知った!?いや、それよりも正気に戻ったのか!?」
「馬鹿め、もとよりすべて演技だ!養母を雇い入れたのもすべては仇を燻り出す計画、まんまと尻尾を出したな!」
「貴様、昼の会話を聞いていたか…」
確かに彼らは昼の最中、カーヤの存在に脅威を抱きつい前社長夫婦を殺害したと口に出してしまっていた。どうやってそれを知ったのかはともかくにして、まんまと乗せられ歯噛みをする二人の幹部に向け、若社長が止めを刺すべく駆け出す。
ドンッ
しかし、マーカーの刃は憎き仇に届かなかった。それどころかその身体を宙に舞わせていた。落下の衝撃、そして暴れ馬に撥ねられたかのような衝撃が彼の身体を苛み、血を吐いた。
「ガハッ!」
「やれやれ。もしやと思い見張っていて正解だったな。」
「おお!チェンフェン殿!!」
影より出でてマーカーを突き飛ばしたのは、チェンフェンと呼ばれるエルフの男であった。勢いのよい踏み込みからの肩当身。決して大柄ではないにも関わらずそれだけで十代の男性をああも吹き飛ばしたという事実は驚愕に値することだろう。その達人めいた援軍の登場に、幹部二人はすっかりと安堵を取り戻した。一方のマーカーは全身の痛みで立つこともままならない。形勢逆転、アルーギルは横たわるマーカーに詰め寄り、襟首を掴んで強引に立たせた。
「若造が…!よくもやってくれたな!」
「く…くそっ…あと少しだったのに…」
「どうやって知ったかは存ぜぬが、そう、お前の言う通り前社長夫婦、つまりお前の父母の殺害を画策したのはワシらだよ!」
立場の逆転を悟ったアルーギルは、揚々と自分の悪事を白状した。あるいはここに誰かがいれば言質を取ることもできたのだろうが、これではマーカーの人払いが完全に裏目に出る形となる。今度は逆にマーカーが歯噛みをする番であった。
「すべてはこのロンバルディア海運をワシのものにするため。このチェンフェン殿の力を借りて邪魔な奴らを始末した。お前も一緒に始末しても良かったのだが、経営者一族の威光の強い社風だ、傀儡として飼っていたほうが事も上手く進むと思い生かしておいてやったわ。」
「やはりそういうことか…」
「心を壊したとなれば猶更お飾りにしやすいと思い安心しておったが、まさか裏で復讐を目論んでおったとは…周到な奴め。しかしそれも水泡に帰したなぁっ!!」
アルーギルの勝ち誇った下劣な笑い声がエントランスに響いた。ドイラーも傷口を押さえながらニヤニヤと薄ら笑いを浮かべる。チェンフェンはプロフェッショナルらしく無表情だ。その仇たちの顔を見て、マーカーに耐えようもない悔しさがこみ上げてきた。
「くそっ…いっそ一思いに殺せ…!」
「馬鹿を言うな。ここの全権をまだ掌握しきっていない以上傀儡はまだ必要だ。だが乱心して刃物を振り回したとなれば今まで通りとはいくまい。お前の今夜の行動を伝えれば一生座敷牢だ。光の当たらぬ地下でワシが親の会社を手に入れる様子を指をくわえて見ているがいいわ!」
「自分で復讐など考えず、州衛士でも駆け込むべきでしたなぁ若社長。まあそれでも我々が揉み消すのは容易ですがね。ヒヒヒ…」
ドイラーもつられて高くひきつった笑い声を出す。高低入り混じった下衆な笑いが、とっぷり暮れた夜の闇へと溶けていった。
翌日より、マーカーは地下牢に繋がれていた。今更正気であると主張したとて、実際に常務に手傷を負わせた以上危険であるとみなされるのは明白。連中の悪事を暴露したとて、狼少年めいて今更信じてもらえまい。その諦観からか、彼はすんなりと収監を受け入れていた。
最大の誤算はチェンフェンの存在だっただろうか。まさかあれほどの凄腕が奴らの手駒にいるとは思いもしなかった。そんな者がいると知ればもっと慎重に事を運んだだろうに。いや、あの日父母を殺したという奴らの言葉を聞いて、即日で決着を付けようと焦ったたのは自分の沸点の低さゆえか。何にせよ今更悔やんでもどうにもならない。仇も討てず、すべての努力は無駄になった。いっそ舌を噛んで死のうか、そう考えていると、コツ、コツと石畳を往く足音が聞こえた。
「ようマーカー。とんだことになっとるようじゃのう。」
牢の前で立ち止まったのは、見覚えのある狐耳の少女。突然の面会者にマーカーは死にそうな顔から慌てて幼児の演技に戻る。
「えっ…あっ…えーと、ママ!ここらら出して!!」
「演技はもうええわい。儂ももう知っておるからの。そもおぬしがここに繋がれる前に大体察しはついておったが。」
「…何だ、アンタにもバレてるのか。」
マーカーは肩を撫でおろし、石壁にもたれた。その表情からはそこはかとない安堵も伺える。やはり幼児のフリは相当しんどいらしい。そんな苦労を一年も続けてきたと思うと、見てるカーヤもやるかたない気分になる。
「今更何で来た?」
「今日の地点で解雇とはいえ、一応養母として雇われた身じゃからのう。頭を下げて最後の挨拶だけでもさせてくれと頼み込んで来たわい。」
「わざわざ挨拶に来たのか。物好きだな。」
「それは表向きの話じゃ。自分は無事だったとはいえ、巻き込まれた以上何がどうなったのか知る権利ぐらいあるわい。洗いざらい話してもらわんと儂も寝覚めが悪いでのう。」
カーヤは鼻を掻きながらはにかんだ。しかし視線はキッと鋭く目の前の青年を見据えている。マーカー自身も負い目を感じていたのか、やがてゆっくりと口を開いた。
「…両親が事故で死んだと聞いた時、真っ先に思い浮かんだのが内輪の人間の犯行だった。歴代もワンマン傾向の強い会社とはいえ、父はいっそう強引だったからな。内部で恨む人間に殺されてもおかしくないと思ってはいた。それでも厳しいとはいえ俺にとっては良き父親。何よりも無関係な優しい母の命を奪ったことが許せなかった。俺は絶対にこの手で仇を取ると誓ったさ。」
「身の安全を確保するため精神をやつしたふりをする一方で、犯人の尻尾を掴むべく奔走した。裏街道のギルドで情報を探したり、非合法の魔道具屋で通信用の水晶も買って幹部連中の部屋に仕掛け会話を拾おうとした。それでも何一つとして掴めなかったんだからたまったもんじゃない。」
「そんな中思いついたのが、今回の養母作戦さ。母を手にかけた人間なら、新しい母親という言葉にも神経質になってボロを出すんじゃないかという目論見だ。そしてそれはまんまと的中し、俺はついに憎い仇を割り出した。」
「専務のアルーギルと常務のドイラー、じゃな?」
「そ、そこまで知ってるのか…?」
「まあ、一部始終を目撃していた奴からの又聞きの話じゃがのう。」
カーヤは足元に寄り添ってきたネズミの頭を指でそっと撫でた。
「まあ何にせよ俺はアンタを利用していたってことさ。名うてのベビーシッターという伝聞だけでな。事によってはアンタも命が無かったかもしれないってのに、本当にすまない…」
謝辞とともに、マーカーは深々と頭を下げた。しかしカーヤにとっては、利用されたことを許す許さないなど最早問題では無かった。親を殺され、仇を取るべく雌伏を続けながらそれが叶わず、あまつさえこのようなところに繋がれるマーカーの無念。それに対する同情の気持ち―――
―――そしてその無念を晴らす術を話しても良いのかという苦悩、その二つの感情で彼女の胸はいっぱいだった。
そしてカーヤは選択する。
「…のうマーカー。その仇討ち、どうにかなるかもしれんぞ?」
「え?」
「さすがに自分の手でトドメを刺すという希望は叶わんが、奴らの不快な高笑いを止めたいのなら、儂にいい当てがあるということじゃ。」
「アンタ、何言って…?」
「なあに。おぬしが思っておるほど儂は貞淑な母親ではないということじゃよ。」
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