其の三
がつんっ
深夜の教会地下霊安室に鈍い音が響く。それはただの打撲音なのだが、外の清閑さと、音の籠りやすい石室造りが相まってことさらにはっきりと聞こえた。中に目を向ければ、WORKMANの会合真っ只中。拳を握るマシュー・ベルモンド、涙目で頬を押さえるカーヤ・ヴェステンブルフト、そしてその様子を眺める他三人、といった様相である。
「馬鹿野郎!外で勝手に『仕事』受けてくる奴があるか!!」
「じゃ、じゃが…」
「ジャガもオサツもねえ!まったく、お人好しは死ぬまで治んねェにしても危機感ぐらいは持てって毎度言ってんだろうが!」
この日、カーヤはマーカーとの最後の面会で、彼の両親の仇討ちを約束してしまっていた。そして夜になってからこの場で事後承諾を求めたのだが、待っていたのはマシューの鉄拳制裁だった。先日「いつかグーで殴る」と愚痴っていたが、まさか実現する羽目になるとは彼自身思ってもみなかっただろう。大の大人が見た目少女相手に大人げないと思うかもしれないが、実際のところ純粋な腕力では彼は実働メンバーでも一番劣っている。これでもむしろ有情なほうだったりするのだ。
「人の入らない地下牢っつってもな、万が一誰かに聞かれたらどうすんだよ!?何のためのここの懺悔室だ!?」
「しかし、地下に繋がれたマーカーでは懺悔室には行けぬ…」
「だからって出張サービスってか!?俺らァの稼業は慈善事業じゃねェんだぞ!」
「そうですね。頼み人を担いで懺悔室までおぶさってくるくらいの配慮は欲しかったところですね。」
唐突に割って入った神父の一言に、マシューの説教がぴたりと止まり表情が凍り付いた。ゆっくりと振り向くと、神父はいつも以上に貼り付いたような笑顔でこちらを見つめ佇んでいる。そんな彼に、マシューは無言で苦笑いで返した。
マシュー・ベルモンド。彼もまた行きずりの老婆の恨みを晴らさせようと、瀕死の彼女を教会まで連れて行ったことがある。一年以上も前の事ではあるが、お人好しや軽率さを他人に注意できた義理はない。暗にそう釘を刺されているようで、マシューも返す言葉が思い浮かばないでいた。
「まあそれを言い出せば、私含めここにいる全員が一度はお節介で『仕事』を受けたことのある身。そう考えれば、そんなにがなり立てるものじゃありませんよ、ベルモンドさん。」
「いや、まあ確かにそうだけどよォ…だからってこのガキを甘やかすのも…」
「ん?おぶって来いと言われても牢に繋がれているのだからそれは土台無理な―――」
「その話を引っ張ろうとするんじゃねェよこの野郎!」
マシューは顔を真っ赤にしながら、今度は平手でカーヤの頭を叩いた。先の鉄拳については、自分の独断専行にも非があると自覚していた。それゆえに半ば制裁を受け入れていたのだが、この平手は違う。先達の理不尽な恥隠しの暴力に、彼女はまんじりとしない表情を浮かべていた。
「………それで、こいつらのコントはいいとして、受けるの?」
先の平手を発端に、子供のような口喧嘩を始めたマシューとカーヤを尻目に、リュキアは神父に尋ねた。彼女としてはもう少し眺めていても面白いかと思っていたのだが、このまま夜を明かすのも時間の無駄というものだ。一方の神父は、眼鏡に手を当てながらニヤニヤとしているだけであった。
「さあ、どうしたものでしょうか?飛び込みの依頼などは原則的には受け付けてはいませんが、皆さんはどう思われますか?」
意地の悪い男、とリュキアは思った。慇懃無礼な態度が目立つ男ではあるが、こと「仕事」においては殊更にきっちりとしている。そんな人間がこのような思わせぶりな態度を取る時というのは、こちらの反応を楽しんでいる証拠。
そしてリュキア自身、どう思うかと聞かれればその胸算用は決まっている。会社の乗っ取りを目論み、人を二人も殺した上その息子を苛む悪党相手に抱く感情はひとつ。恐らく目の前で口論をするあの男も、黙して座っているハーフリングの男も気持ちは同じだろう。
「でだ、受けるにして頼み料はどうしたよ?」
その黙して座るハーフリングの男、ギリィ・ジョーがようやく口を開いた。悪党に対する気持ちはひとつとて、マシューが言うようにこの稼業は慈善事業ではない。この「仕事」の存在意義の為、そして明日の飯の為、金が無ければ始まらないのだ。その言葉を耳にしたカーヤはマシューとの口論をいったん遮り、持っていた鞄から頼み料を取り出した。
そして、ごとり、と重々しい音と共に中央に備えた机に置かれたのは、大小含めた大量の金貨だった。
「大会社の社長という手前、相応の大金は用意しようとマーカーは言っておったが、さすがに現状では自由にできる金も限りがある。許可を得てあいつの部屋から金になりそうなものを運び出して売ったが120万ギャラッドいくかどうかといったとこじゃった…」
「いやそれで充分じゃねえかな…」
所詮あのカーヤが飛び込みで得た「仕事」、そこそこの小銭で受ける羽目になるのが関の山と思っていた皆の予想はいい意味で裏切られた。目の前に置かれた滅多に縁のない大金を目の前に、ギリィはおろか鉄面皮のリュキア、神父も驚きを隠せない。それとは対照的に、カーヤは実に悔しそうな表情で続けた。
「しかしこれだけではあいつの面子が立たん。陰謀含みとはいえ母と呼んでくれた息子のためじゃ!以前に受け取った前金500万ギャラッド、これも今回の頼み料に付け足してやるわい!!」
カーヤは机を叩きながら啖呵を切った。本来ならもっと気前よく出せて然る筈、そんな州一番の老舗海運会社社長としての面子を鑑みての行動。しかし話を聞く限りそこまで義理立てがいる相手かという疑問も湧く。お人好しもここまでくれば国宝級だ。
ともかく、一人頭の取り分124万ほど。過去最高額の頼み料であろう。
「おいカーヤ、さっきは二度もぶって悪かったなァ。痛みは残ってねェか?冷やすもん持って来ようか?」
マシューに至っては、先程まで口論していた相手に露骨に媚を売っていた。
「ともかく決まりのようですね。的はロンバルディア海運専務アルーギル、同じく常務ドイラー、そしてその配下の用心棒チェンフェン。くれぐれも手抜かりの無いように。」
やがて神父の口から正式に「仕事」の令が下った。机の上の金貨を小袋に詰め、折々に霊安室を出て行く。最後まで残っていたのは滅多にお目にかかれぬ大金を手にし、ひとりごちるマシューだ。と、そこに踵を返し戻ってきたカーヤが声をかけた。
「おいマシューや。浮かれとるところ悪いが今回の『仕事』、あまり舐めてかからぬ方が良いぞ。」
「どういうこってェ?」
「専務常務はともかく用心棒のチェンフェンとかいう男、あれは相当の手練れのようじゃからのう。」
素人相手とはいえ、闇の中で存在を感取られることも無く、大の男をひとり宙に舞わせる一撃を放った、あのエルフの事である。
「そんなに凄ェのか?」
「儂が直接見たわけではないが、何やら得体の知れぬ拳法を使うらしい。用心に越したことはないぞ。」
「そうか、そいつァ面白れェ…!」
そう言ってマシューが見せた表情に、カーヤは背筋が凍り付くかのようなものを感じた。過去の世において会心の一閃により堕ちた英雄を屠って以来、剣と死闘に飢える男マシュー・ベルモンド。その笑顔は、先程までの大金を眺めていた時よりもいっそう嬉しそうであった。
「いや今日は目出度い日だ!ついに我が宿願が叶ったのだからな!」
「ええ、おめでとうございます。専務殿。」
深夜にもかかわらず、アルーギル邸には一室明かりが灯っていた。そこにいるのはロンバルディア海運専務アルーギルと常務ドイラーが酒を酌み交わしていた。使用人たちも寝たであろう時間だが、主人は構わず大声で高笑いをし、客人は高そうな酒をどんどん開け酌をする。明日が休みというわけでもないのに随分な馬鹿騒ぎであった。
それもそのはず、今日という日は彼らがザカール一の老舗海運会社を事実上掌握したも同然の日だからだ。これまでは幼児退行したとはいえ(演技だったが)経営者一族直系の若社長がトップに君臨しており、彼を神輿にした一族のシンパの発言力も無視できなかった。しかしその若社長マーカーを昨晩、刃傷沙汰を理由に地下座敷牢に繋いだのだ。程なくして後ろ盾を無くした反対派閥も瓦解、そしてロンバルディア海運も己の手に納まるだろう。そんな輝かしい未来への第一歩を祝っていたのだ。
「しかし昨晩襲われたときはどうなることかと思ったが、正に災い転じて福と為す。逆にあの若造をやり込めることになるとはな。」
「何やら計画を練っていたようですが、所詮子供の浅知恵。我々大人の思慮の深さには敵わないということでしょうな。」
「おや常務、その若造に切りつけられておいてよく言うわい。」
「ハハハ、これは手厳しい。」
加害者が被害者を嘲り笑う。胸糞悪い光景ではあるが、しかしマーカーが軽率だったのもまた事実である。身の安全を確保し油断を誘うべく幼児退行を一年も装い続けるという忍耐を持ちながら、いざ下手人を割り出したとなると自分の手で殺すべくすぐさま飛び出し返り討ちに遭った。連中に用心棒がついていることも、その思慮の深さならば想像もできた筈であろうに。
―――つまりは餅は餅屋、殺しは殺し屋に任せるべきだった。
そして程なくして、その選択の正しさが証明されることとなる。
こんこん
ドアをノックする音が、浮かれ気分のアルーギルの耳に届いた。さて、馬鹿騒ぎをし過ぎて誰か起こしてしまったか。しかし館の主人は自分、下の者にとやかく言われる筋合いは無いと傲慢にも無視を決め込む。そんな態度だからか、戸を叩いた者は勝手に中へと入って行く。
「夜分遅く失礼するぞ、専務殿、常務殿。」
「…!?お、お前はマーカーの養母の…」
「お見知りおき感謝する。確かに儂はカーヤ・ヴェステンブルフト。浮かれ気分のところ悪いが、ちと相談しておきたいことがあってのう。」
厚かましくも正面から進入したクオータービーストめいた見た目の童女は、酒盛りの真っただ中に割って入った。もう友玄関も閉め切った館に闖入者が出たというだけでも驚きだというのに、それが件のマーカーのベビーシッターなのだから彼らの肝の冷やしようたるや。本来なら使用人を叩き起こしつまみ出して然る不法侵入者ではあるが、何やら薄気味悪いものを感じたアルーギルのとドイラーはついつい彼女の言葉に耳を貸していた。
「相談というのは、まあ、金の話じゃよ。前金は頂いてはおるが、数日程度だが実際に働いたのじゃ。その分の日当を貰いに来た。」
「何故ワシにそれをせびる?」
「現社長のマーカーがああなってしまった以上、次期社長に請求するのが筋というものであろう?」
凡そ予測はついていたが、やはり金の話であった。薄汚い下民の娘らしい、とアルーギルも毒づく。しかしこのような夜更けに、わざわざ不法侵入を冒してまでする話でもない。その裏にある「何か」を探りカマをかけた。
「そんな金は出さぬと言ったら?」
「ぬしらの所業、すべてバラす。儂も何も知らぬ部外者というわけでもないからのう。」
酒宴特有の弛緩した空気が、カーヤの一言で張りつめた。無意識のうちに、アルーギルとドイラーは机に置かれたアイスピックを手に取る。
「お前のような子供の戯言を州衛士が信じると思うか?」
「州衛士はダメじゃろうな。そもそもおぬしらの圧力でどうとでも転ぶような連中じゃ。しかしおぬしらの権力でも市民の口に戸は立てられまい?特に儂が住んでる下町連中の噂の伝達速度たるや、のう。」
「下民共の噂話でロンバルディア海運の屋台骨が揺らぐとでも?」
「商売人は信用が命じゃろうが。折角乗っ取った新社長体制、悪い噂に尾ひれがついて逆境からスタートしたくはあるまい?」
カーヤは精一杯の悪い笑顔で凄んだ。元の顔がおぼこいので迫力には欠けるが、言っていることは真に迫っている。無視できぬ案件。アルーギルとドイラーの殺意が徐々に、行動に移すに足るまで膨らんでいく。不法侵入した下民の子供、殺したとていくらでも処理のしようはある。殺意は弾け、そして瞬間、アルーギルが椅子から立ち上がり手にした鋭い錐を少女に突き刺そうとした。
しかし、その手が少女に届くことは無かった。同時に降りかかった「何か」によって、一切の動きを封じられていたのだ。金縛りめいた状況に目を白黒させ隣のドイラーを見ると、彼も彼で首に巻き付いた髪の毛ほどの糸により天井につられた状態になっていた。
一方のドイラーの瞳には、アルーギルの背にしがみついた子供大の人影が、きっちりと四肢を絡め拘束している様子が映る。
「やはり払う気などは無かったようじゃな。まあ儂らも命以外で払ってもらう気も無かったがの。」
少女は顔に似合わず恐ろしいことを言っているが、アルーギルの耳にはそれは届いていたか定かではない。しかし、それを号令とするかのように彼に絡みついた人影―ギリィ・ジョーは左腕にはめた腕輪を長針に変えくるくると回す。同じく、天井裏にてドイラーの肥満体を吊り上げるリュキアもいっそうの力で締め上げる。
(そうだ…!チェンフェン殿は!チェンフェン殿はいないのか…!?)
混乱するアルーギルの脳内にひとつの望みが灯った。彼らの用心棒兼始末屋のエルフ、チェンフェン。マーカーの凶刃を返り討った時と同様に、この場に現れ現状の打開をと願う。しかし、彼が全幅の信頼を置く男はついぞ現れなかった。いや、現れる筈も無かった。
部屋を出る際に、カーヤは灯りをそっと吹き消す。明るかった酒宴の席は瞬時に夜の闇に飲まれた。と同時に、二つの命の火も消える。こめかみを琥珀色の長針で刺し貫かれた死体と、か細い黒糸で呼吸を奪われ窒息せしめられた死体は、床に転がる数多の酒瓶同様に乱雑に床に放置されるのだった。
時は遡り十数分前。用心棒のチェンフェンは主人の酒盛りを見張っていた。彼が立つのはアルーギル邸の中庭、彼の部屋の窓際である。外から現れる賊を迎え撃ち、中で何かがあれば窓を破りて馳せ参じる、という護衛形態。部屋の中でもよかったのかもしれないが、彼は酒の席の空気を嫌った。結果的にそれは致命的な判断ミスであったことなど今この時では想像もできまいが。
夏に入り外は夜でも暖かい。立っているのに苦労はしないが、チェンフェンはもっと暑いか、もしくは寒いかぐらいの気候をむしろ望んでいた。楽ならぬ状況においてこそ集中力は増し、己を鍛える術となると考えているからだ。
このチェンフェンと言う男、成人期の姿であることが長いエルフの生態ゆえ想像がつき難いが、これでも輝世暦前の生まれである。魔族の侵攻と混迷の中、彼は数多の格闘技術を修めていった。とはいえ勇者アランよろしくこの世界を救うために強くなろうとしたわけではない。ただ、己を律し鍛える、その一点のみであった。酒宴の同席を拒んだのも、その求道者めいた性分故だ。
彼はついに東方大陸に渡り、そこでの格闘技を身に着けた。しかし彼が長い旅路から帰れば魔王バルザークは討たれ太平の時代。鍛え抜いた肉体とて日々の糧は不可欠、戦乱の中ならば闘技でいくらでも稼げたのだが平和な時代ではそれで生活を成せる職も限られている。結果として、ロンバルディア海運専務の懐刀に納まった。警護のみならず殺人などの汚れ仕事も命じられ、それも黙々とこなしてきた。
そのような仕事で日々腹を満たすことはできたわけだが、同時に満たされぬ思いもある。平和な世においてさして力の無いものを縊り殺すことへの疲れ。とはいえ悪事に加担する罪悪感などという正気の感性ではない。ただ自分の修めた技を思うさま全力で振るいたいという、弱者相手では到底解決できぬ飢餓感、そのような欲求が膿のように心の奥底に溜まっていた。
(しかし、
そんな諦めにも似た感情を抱え、この夜も警護を続けていた。言ってしまえばただの警備、己を滾らせる強者どころか金目的の泥棒すら来ないだろう。それでも警戒を怠らず窓際で起立していると、何やら妙な者が目についた。
塀を越え、中庭に降り立ち真っ直ぐこちらに向かう男の姿。月明りの強い夜、遠目でもはっきりとその容貌は確認できた。この時期には暑そうなマントの下には州衛士支給の革鎧。しかし腰から下げる剣は支給品のものでは無い。シルエットは細く小さく、吹けば飛ぶような様子ではあったが、その眼光は明らかに堅気のものでは無かった。
(公僕の手の者ではない、か…?)
脛に傷持つ主のこと、法のメスが入る可能性は十二分にある。しかしどうも目の前の州衛士はそういった件でしょっぴきにきたようではない。むしろその反対、イリーガルな空気を全身に纏わせていた。すわ暗殺者かとチェンフェンは身構える。
「よう、兄ちゃん。アンタを殺しに来た。」
チェンフェンの目の前まで接近した男は気さくに話しかけてきた。チェンフェンは驚いた。男のいやに物騒な言葉にではない。自分がここまで接近を許したことに、だ。5.6メートルほどまで近づけば必殺の間合い、独特の踏み込みから一撃で斃す腹積もりであった。しかし今、手を伸ばせば触れられる距離まで接近を許している。事ここに至るまで、男に隙らしい隙は無かったのだ。
「貴様、何者だ。誰の差し金だ。」
「んー、話すと長くなるが聞きてェか?アンタだってすぐにでも始めたいだろうに。」
「何のことだ。」
「とびっきりの命のやり取り、ってやつさ。アンタも、飢えてるんだろう?」
男の瞳に宿る殺気がさらに深まった。いや、殺気という言葉も不適切かもしれない。命を賭けた闘争を心から望むある種の狂気。しかしチェンフェンはたじろぐこともなかった。恐らく、自分の瞳にも同様の狂気が映っていることは想像に難くなかったからだ。
アルーギル邸の広い中庭、そこで10メートルほど離れ男たちは対峙する。最早暗殺でも何でもないただの決闘が始まろうとしていた。男は腰に下げた細身の剣を抜く。
「ほう、サムライソードか。ワノクニの剣とは珍しい。」
「何でェ、知ってんのか。」
「己も昔は東に渡り券を修めた。尤も、そこまで東には行ってはいないがな。」
「てェ事は、アンタの格闘技はシンノクニ仕込みか。」
シンノクニ、東方大陸の半分を要する大国家。ラグナント王国とは海ひとつを隔てた隣の国だが、その海路の長さを考えればとても馴染みの深い国とは言えない。まだ見ぬ拳闘の技の持ち主を前に、男は心を躍らせた。そして、決闘の合図。
「護帝八卦拳、チェンフェン。参る。」
「志摩神刀流、マシュー・ベルモンド。参る。」
天に煌々と輝く月のみが見守る中、決闘が始まった。仕掛けたのはチェンフェン。護帝八卦拳の特徴であろう独特の踏み込みから一気に間合いを詰める。その足踏みは、地を揺らすかと錯覚させるほどに力強い。そして矢のように右拳を突き出した。
しかしマシューは一足飛びに退きサムライソードを振るう。手首からチェンフェンの右拳が断ち切られた。その痛みを解さぬままに、さらなる踏み込みからの追撃を見舞うチェンフェン。次は左肩をタックルよろしく見舞おうとする。
マシューは後方に跳ねそれを避ける。飛び退りながらサムライソードを横一線に振るったが、これは左肩の皮一枚を裂いただけ。チェンフェンの猛攻を止めるに至らない。次は再び右腕。拳こそ失ったが肘は健在、関節部の固い部分をマシューの鳩尾に叩き込もうとした。
ここでマシューは逆に前に出る。鉄槌に等しき肘を避け、懐に潜り込み逆に剣を相手の腹に刺す。並みの使い手ならここで勝負も決まるが、チェンフェンは並の男ではない。密着状態から再び左肩を見舞う。いや、これは肩というよりもはや背か。肩甲骨のあたりをそのままぶつける。凡そ大陸内の格闘技ではあり得ぬ技、しかしてその威力は目の前にした相手にも喰らえばただでは済まないことを容易に想起させる。
それだけに、そのまま喰らってやるほどマシューは人の良い男ではない。再び後方に飛び退り脇腹を深く切りつける。かなりの深手、この臓腑への二撃はさしものチェンフェンも耐えられぬ。重々しい踏み込みから繰り出される矢継ぎ早の連撃は、四発目にてついに動きを止めるのだった。
「あー…そういえば師匠が言ってたぜ、『剣道三倍段』ってな。素手で剣に挑むにはランクにして3つくらいのハンデがあるってなァ。だから、その、まあ、何だ。」
「ふ…それで慰めのつもりか…嫌味な男だ………」
マシューはやや困ったような表情を見せながら、膝をつき一歩たりとも歩けぬほどに衰弱した眼前の男に対して言葉をかけた。それは、同じ欲求を抱えて生きてきた同類に対する慰めの言葉のつもりだったのだが、やはりというかなんというか、そのようには受け取ってはもらえなかったようだ。しかし、部屋の明かりが消えると同時に果てたチェンフェンの顔は実に清々しくすっきりしていた。それこそマシューが、ある種の羨ましさを抱くほどに。
「すまないねカーヤさん。仇討ちだけじゃなくて地下牢からも出してくれるなんて。」
「まあサービスのようなもんじゃ。それよりも、本当に行くのか?」
一夜明け街外れの街道。小鳥鳴き若草さざめく朝、ザカールを出て西隣の州へと続く路中にカーヤとマーカーはいた。今頃街のほうでは老舗海運会社の役員殺害の報が飛び交い騒がしくなっていた。マシューもほどなくして自分の手で成した殺人事件の調査に駆り出されることだろう。そんな街の喧騒が嘘のように、この路上は静かで人もいない。
「社長に返り咲くこともできように、むざむざその地位を捨てることもなかろう。」
「今更『実は前から正気でした!』なんて公表できるかっての。それに、他人の手を借りたとはいえ父の部下を殺したんだ。いけしゃあしゃあと元の地位には戻れないさ。」
「まあ理屈と言えば理屈だが、寂しいものがあるのう…」
マーカーはこのままザカールを出るつもりだった。彼の語る心情は確かに間違っていない。しかしカーヤが寂しく思うのもまた事実。思えばこの稼業に就いてから、数多の別れを経験した。死に別れは勿論の事、交流を持った者は皆、事情はそれぞれとしてほとんどこのザカールから出て行く。他のメンバーにこのようなことを話せば、当然の話だ、何を寂しがる必要があるかと説教を食らいそうなので毎度胸に秘めているが、人懐っこいカーヤからしたら縁有る者との別れは何度経験しても慣れなかった。
そして、そんなカーヤの寂しげな票所を見て、マーカーはここぞとばかりに口を開いた。
「じゃあさ、カーヤさんも一緒に来るかい?」
「何を言っておる。この期に及んでまだ母親ごっこをやれとでも言う気か?」
「いや、そうじゃない。母親としてじゃなくて、パートナーとして一緒にいてほしいんだ。」
「え?」
予期せぬ発言にカーヤの頬が赤く染まった。言い出したマーカーも真っ赤な顔をしている。世襲が認められる15歳とてまだ初心な少年、かような台詞に照れを持つのも当然だ。しかしそれは同時に、彼の本気度を表していた。
「俺はこれから他所の州で一旗上げるつもりだ。それこそシディアスのご先祖様に負けないくらいの大きな会社を。その時に、貴女に傍にいてほしいんだ。きっと不自由な生活はさせないから―――」
カーヤは人差し指を彼の唇に当て、熱の入ったプロポーズを止めた。そして優しく、照れくさそうな笑みを浮かべながら言う。
「あまり、大人の女性をからかうもんじゃないぞ?」
やがて西の関を越え、マーカーはザカールを出立していった。彼の気持ちは素直に嬉しいと思えた。しかし自分はWORKMANだ。人の恨みを受け金で人を殺す外道の一員。そんな女など前途ある若者の伴侶にはふさわしくない。いくらお人好しの自分とて、この希望にだけは応えてはやれぬと、己の背負う因果の重さを鑑みて心に決めたのだった。
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