其の二

『流行り病の特効薬、あります 金一万ギャラッド也』


 そうデカデカと書かれた垂れ幕が、ラファール医院の正面玄関に貼られていた。あまりにも自信満々な字体。州一番の大病院がこれほどまでに言うのだからもしかしたら…と道行く人は思ったが、さすがにこの一週間なんの進展も見られなかった病気の研究が昨日の今日で成されたとはにわかには考え難く、大半は眉唾扱いであった。


 しかしとある古物商の男が藁にも縋る思いで大枚叩いて薬を買い、飲んで一晩寝るだけで治したとの報が流れると評価は一転した。命に別状は無い病気といえど、治るに越したことはない。一万ギャラッドという高値も、希少性を鑑みれば飲まざるを得ないだろう。そんなわけで、翌日からラファール医院の玄関には薬を求める患者関係者で黒山の人だかりが出来ていた。


 そして列をなすのは薬を求めるものだけではなかった。州に蔓延る謎の熱病から民衆を救った英雄、その者からの一言を求め、新聞記者たちもまたラファール医院に押しかける。しばらくすると、裏手の門から出てきた「特効薬の製作者」が人々の前に念願の姿を現す。それを確認するや、取材陣がわっと彼の元に押し寄せた。


「この度は世紀の新薬開発、おめでとうございます!」

「あ…ああ、ありがとう。」

「今のお気持ちを一言でいいのでお願いできますか?ジャニス・ラファールさん!」

「いや…その…着実な研究が実を結んだ結果であって、これが特別なこととは考えてません…」


 新薬の開発者と呼ばれるラファール医院の若き御曹司ジャニスは、特に感情的な表情を見せぬまま、ただ淡々と質問に答える。あるいは、彼と親しき人間が見れば、今の彼が何かしらの後ろめたい隠し事を抱えていることがその表情から読み取れたのかもしれない―――





すべてはあの夕べのことだった。


「そう、この男だからこそ特効薬が作れるのだ…いや、この男でなければ作れないと言った方が正しいか…ククク…」

「それは…一体どういうことで?」


 薄笑いを浮かべる父とニーギスの会話に、ジャニスが疑問を抱くのは当然であった。特に引っかかるのは「この男でなければ」という言い草。身なりからしてとても優秀な薬師には見えない、そんな男が国内随一の医療技実を誇るこの州のどの医者でも作れぬ薬を作れるとはとてもとても。あるいは、「でなければ」という限定に何か裏があるのではなかろうか。


そしてその勘は正しかった。


「そりゃそうですぜ若様。手前で作ったモンの性質なんて、手前が一番よく知ってるのは当然でさぁ。」

「どういうことだ?いまいち話が見えてこないんだが。」

「どういうこともそういうこともありやせん――」



「――今この州に蔓延している熱病、その病原菌を作ったのがあっしって事ですよ。」



 信じられぬ言葉だった。意図的に病原菌を作り出すという事がまずもって眉唾である。よしんばそれが可能としても、つまり今の病気の流行はそれを市井にばら撒いたということであり、人道的に見て正気を疑うところだ。二重の意味で信じられない。


 しかし、ジャニスの驚愕をよそに、ジャックスとニーギスは淡々とその意味を説明しだした。


「実はこのニーギスという者、先程薬師と紹介したばかりだが実は錬金術師でな。ギルドから仕事を求めて出向してきたところを儂が雇ってやったのだ。積年の計を実現するためにな。」

「へえ、大旦那様には感謝してもし尽くせぬ思いです…錬金術の極致は無より命を作り出すこと、人ひとりは流石に無理ですが、あっし程度の錬金術師でも菌ぐらいなら作り出せまさぁ。そしてそのおかげで大旦那様のお役にも立てた。」

「父上、ところでその計画とは?」

「うむ、今回のように病原菌をばら撒き、同時にその特効薬を用意することで富を得る、という計だ。」


 再び頭をハンマーで殴られたような衝撃がジャニスを襲った。


「未知の病気が流行り、不安が蔓延したところで特効薬を売れば皆多少高値でもそれを手に入れようと躍起になるだろう?」

「さすがに致死性の病原菌は作りませんがね。」

「ふざけないで頂きたい!!」


 ジャニスは激昂した。普段このような態度を父に取ることは稀である。父の言う事には従順すぎるきらいがある男ではあるが、彼の言う計画はさすがに医者として、人としての倫理を逸脱しすぎていた。


「そのような行い、医者として恥ずかしいと思わないのですか父上!?」

「いや逆だよジャニス。この行いは儂らの医者としての尊厳を守るためでもある。」


 珍しく掴みかかるほどに食って掛かる息子を目の前にしても、ジャックスに動揺は見られない。手を優しく振りほどき、諭すように話し始めた。


「その昔、輝世暦初め頃のザカールは本当にひどいものだったそうだ。魔王の侵攻の爪痕が未だ残り復旧ままならぬ市民の生活水準、一山当てることを夢見て遠く遠くへと旅立った船乗り達が持ち込んだ僻地の病気…それらの条件が重なり3年に一度は百単位の死者…医者はそれに抗うべく研究を重ね、その様を見た市民たちは彼らを尊敬してくれた…その名残は儂が医者として働き出す頃までは続いていたよ。」

「…………」

「しかしだ、翻って今は生活水準も安定し先人の残した技術により未知の病気もさほど怖いものでは無くなった。と同時に、人々は医者に対する敬意を失せた。まるで輝世暦直後に戦場を失いあぶれた傭兵たちのような除け者扱いだ。じき隠居する儂のことはいい、しかしザカールの医学界を背負って立つお前が人々から軽んじられるのだけは勘弁ならんのだ!」


 詭弁といえば詭弁である。いつの世にあっても人が医者を頼みにしないことなどはありえない。ただ、往時より扱いが良くないことへの単純な不満でしかないのだろう。しかし、尊敬する父に、自分の為と言われては、息子としても無碍に否定することは出来なかった。


「此度の流行り病を解決したとなれば、金と同時に人々の憧憬を集めるのは間違いないだろう。故にジャニスよ、この特効薬を開発したのは自分だと喧伝するが良い。」

「ええっ!?」

「あっしが若様の右腕になるべき男と呼ばれたのはその為。定期的に病原菌をばら撒き、特効薬を用意し若様の手柄とする。これを繰り返すことで若様の将来を盤石のものになる…これが大旦那さまの計の真意、いや親心でさぁ…」


 ジャニスの心に迷いが生じた。無論、倫理性を欠いたその行いを諸手上げて賛同するわけにはいかない。しかし親心と言われてしまうと弱い男でもあった。そしてなにより、これによって今まで一度も勝つことのできなかったライバル・ロディに一泡吹かせられる――愛しのリュキアにいいところを見せられる――そんな対抗心が今になって頭をもたげてきたのだ。


 熟考の末、ジャニスは首を縦に振った。そして翌朝その足で教会に向かい先んじて特効薬をリュキアに渡し、病院に戻り特効薬の所在を宣伝、そして今に至るのである。





 今こうして新聞の取材を受け、人々の憧憬を集めるジャニスに後ろめたさがないのかと言えば嘘になるだろう、しかし―――


「ありがとうジャニス、これでみんな救われるよ。にしても、州じゅうの医者が見つけられなかった治療法を見つけるなんて…やっぱり凄い奴だよ君は。」


お祝いに来たライバルからのこの言葉を耳にしたとき、彼の心は偽りといえど言いようのない征服感で満たされていた。





 さて、当のそのライバルはというと今日も問診を続けていた。薬が買えなかった患者へのケアは勿論、もう治った人間からの事後報告も受けなければならない。至っていつも通りであった。同期に先を越されたという焦りも悔恨もまるでない。そもそもそういう感情はジャニスのほうの勝手な思い込みでしかない、というのが正解なのだが。そのようなわけで、ロディはそのまま何軒か回った後、丘を登り教会を目指していた。


「それで、経過のほうはどうですか?」

「………平行線。」


 リュキアは未だ病床に臥していた。病原菌の製作者ニーギスの言う通り、死ぬほどではないが治りもしないというラインを行き来している状態。しかし考えてみれば、これは不自然な光景でもあった。


「ラファール医院で特効薬のほうはまだ手にしてないのですか?巷であれだけ騒がれてるのですから、お耳にも入っていると思っていたのですが…」

「………もう持っている。」

「えっ!?」

「………発売した日にラファール医院の若旦那さんが何故かくれた。」


 そう言いながら、リュキアは枕元に置いてあった薬袋を差し出す。そうである。先日、ジャニスが直々に教会にやって来て件の特効薬を彼女に手渡していたのだ。なのに今手元にそれが残っており、かつ未だ病気が治っていないということは、リュキアはこの薬を飲んでいなかったのだ。


「はあ、ジャニスが直接…どうしたことでしょうね?」

「………わからない。でも皆が高い金を払って手に入れるものを自分だけタダで貰うのは性に合わないから。」


 ロディは訳も分からず素っ頓狂な顔をしている。彼にはジャニスの心の奥に秘めたどろどろとした感情にまるで気付いていない。先程の挨拶の時も、彼が味わっていた優越感に思いが巡ることは無かったし、ここでもリュキアに先んじて薬を渡すという行動が、嫉妬心から来る焦りが根源だとは露ほども知らなかった。


 そしてジャニスもまた、リュキアという女のことを知らなかった。用心深く、そして変に義理堅い性格のせいで薬を飲んでいないとはよもや思わぬことだろう。


「しかしだからと言って今はこれを飲む以外に病気を治す方法が…あっそうだ!じゃあ僕にその薬を譲ってくれませんか?」

「………貰ってどうするの?」

「家に持ち帰って成分分析してみるんですよ。それで万一安価で代用できるものが見つかれば安値で同等の薬も作れる。そうしたら改めてうちでその薬を買ってもらえればいいんですよ!」


 これならばジャニスの厚意も無駄にはならず、市民に安く薬を供給できる可能性も広がり、リュキアも高額のものをタダで貰ったという後ろめたさを感じずに済む。ロディの提案はまさに三方良しと言えるものであった。あえて判断を誤った点を指すのなら、ジャニスの感情は「厚意」ではなく「好意」であったということだろう。


「………なるほど。じゃあこれ。」

「かしこまりました!でも、あまり期待しないでくださいね?あの大病院が独占精製する薬ですから、うちみたいな中小の診療所に再現できるかなんて…」

「………ん、じゃあ期待しないで待ってる。」


 薬を受け取り、ロディは意気揚々と帰って行った。これですべて丸く収まる、そう思いながら。彼は人の悪意というものに疎すぎた。まさかこれが悲劇の引き金になるとは、この時微塵も思いもしなかったことだろう…





「はーい皆さん注目―!例の病気の特効薬、手に入れてきましたよー!」


 夕方の州衛士屯所に、隊長ベアの声が響く。すっかり帰り支度をしている隊員たちも手を止め振り返った。隊長の懐には薬袋が抱え込まれている。


 州衛士とて市井の人間である。直接間接問わず、件の熱病の影響を受ける者も勿論多数いる。しかし薄給の彼らにとって一万ギャラッドの出費は決して少なくない。そこでベア隊長はカンパを提案、隊員たち全員でいくらか出し合いながら金を用意、そして今しがたその結晶が到着したのだ。


「では名前を呼ばれた方は取りに来てください。カーナさん!奥方様、良くなるといいですね。次は、ファレルさん!息子さんの元気な姿、また見せてくださいね…で、残りの一つは私が帰りに病床のボッシュさんに届けてきますので。本日は以上!」

「ちょっ、ちょっと待ってください!?」


 呼び止める声を上げたのはマシュー・ベルモンド。いつもなら殊更に定時に帰りたがる男が、この帰り際に口を挟んだのだ。ベアも多少の驚きを以てこれに応じた。


「どうしましたベルモンドさん。いつもなら真っ先に黙って帰る貴方が珍しい。」

「いやいや、そりゃ口を出しますって!特効薬、たったのそれだけですか!?」

「カンパで集まった金額は三万、お薬は一万。子供でも分かる計算ですよ?」

「えぇ…その程度…」


 思いの外金が集まらなかったのか、それとも買い物が高すぎるのか―――どちらにせよ薬が三つしか用意できなかったのは紛れも無い事実である。しかし、だからと言って聞き入れるわけにはいかない理由がマシューにはあった。なおのこと食い下がる。


「じゃ…じゃあ何でそのお三方に回して私には回ってこないんですか!?」

「ベルモンドさん、都合によっては全員に回るわけでもない、後回しになることもあるかもしれないとはお金を集めるとき説明しましたよね?今回、必要なのに回ってこなかった方は貴方だけではありません。でも皆それを承知しているから口を出さないんですよ、貴方のようにね。」


 その言葉にはっとし、マシューが周りを見回した。自分と同じ革鎧を着た集団の中に、がっくりと肩を落としうなだれる者や、聞き分けの無い男だと彼に嫌悪の視線を浴びせる者が確認できた。恐らく彼らも同様に薬を欲しながら、手に入れることが出来なかった者なのだろう。マシューは己の行動を恥じた。


「心苦しくも薬を配る優先順位を決めたのはこの私です。多少の贔屓目はあったかもしれませんが、まず本人、そして肉親が病魔に侵されている者から先に選びました。そこいくと貴方が薬を与えたい相手は、ただの使用人じゃないですか?」

「………」

「何も何時ものように意地悪で言っているんじゃありませんが、残念ながらベルモンドさんに薬が回る優先順位は低く付けざるを得ないというのが私の判断になります。どうかご容赦を…」


 ベアの声のトーンは落ち着いていた。確かに何時ものヒステリックな八つ当たりではないのは確かであるし、頭では十分納得できる。しかし、ただの使用人と呼ばれた少女は彼にとって肉親も同然なのだ、その飲み込み切れぬ悔しさに、マシューはただ唇を噛んで耐えるだけであった。



 家に帰り、事の仔細をフィアナに話す。妹の大事だというのに、彼女は主に気を遣い優しい言葉をかけるだけであった。それが逆にマシューには辛かった。そして、彼の前にはもっと辛い試練が待ち構えている。フィアラ本人への報告だ。カンパの件はちゃんと話しており、彼女もそれに期待していた。だからこそ余計に気が重くもなろう。


「フィアラ、入るぞ。」


 ドアを軽くノックしてから使用人の自室に入る。主に心配をかけまいとする使用人の心配りなのか、フィアラは精一杯の作り笑いでこれを迎えた。


「あっ…主様、どうでしたかお仕事のほうは?」

「いや…そのことなんだがな、その…あの…何だ…」


 マシューはそこから一分ほど歯切れの悪い返事を繰り返し、ようやく結果を口にした。



「薬、貰えなかったよ…」



 しばしの間のあと、フィアラがぷっと吹きだした。


「あはは、やっぱりダメでしたか。まあ主様がやたらに口ごもってた地点で朗報ではないことはわかってましたけどねー。」

「…すまん。」

「すまないと思うならもう少しお仕事真面目にやってくださいよ?どうせ日頃の態度が悪いから後回しにされたんでしょ?」

「ちょっ…フィアラお前…!」

「まあ、主様と同様に私も今こうやってサボりを満喫させていただいてるわけで―――」


 いつものように精一杯の憎まれ口をたたくフィアラ。しかしそれが無理をしていることはマシューには一目瞭然であった。兄妹同然に育った仲だからこそ知っている、彼女は不安になると鼻がひくひくと動くという事を。精一杯の作り笑顔をしても、その鼻の微動は隠せなかった。


(そりゃ、三日も寝込んでりゃ不安にならねェ訳も無ェわな…)


 マシューはふうっ、と息を吐くと、フィアラが横たわるベッドに近づいた。そして布団の中に手を突っ込んで、彼女の手を取った。


「じゃあ、薬の代わりと言っちゃあ何だが、今晩はお前が眠るまでずっと手を握っててやるよ。」


 瞬間、ただでさえ高熱に苛まれる体温が更にわっ、と上がるような感覚がフィアラの全身に走った。


「なっ…なな、何してんですか主様!?そ…そそそ…そんなムーディーなことを…」

「別に他意は無いよ。ほら、私も体が弱いから子供の頃は一度風邪ひくと4日5日は寝込んでいただろう?で、布団の中で不安になってるといつも母上が看病がてらこうやって手を握っててくれたんだよ。私を安心させるために。」

「べべべべ、別に私は不安なんか…!」

「そんな強がり、私に見抜けないと思ったか?幼少から一緒に過ごしてきた私に。」

「………」


 返事は無かった。しかし少なくとも拒否ではないようだ。そのままフィアラの右手を両手で包み込むように握る。38・9度の温もりがマシューの掌内に広がった。逆にフィアラにとってその手はひんやりとして気持ちがよく、しかして心には温もりを与えるものだった。程なくして鼻の微動は止まり、30分経った後にはフィアラはぐっすりと眠っていた。マシューはその寝顔に、少しばかりの安堵を覚える。


(でも、このままって訳にもいかねェよなァ…)





 二日後、街外れのバー。明日が休日明けということもあり飲みに来る客も少なく、しかも22時を回っているということで実に閑散としている。そんな中、カウンターの端に一人、ロディが佇んでいた。目の前に置かれた酒はあまり減っていない。飲みに来たというよりは人を待っているといった感じである。


 店を閉める30分前ぐらいだろうか、ようやく待ち人がやってきた。


「すまんなロディ、遅れてしまって。でも僕がそうそう暇を空けられない立場なのは君でもわかっているだろう?」


 やってきたジャニスは特に悪びれる様子も無く、ロディの横につけた。そしてそのままバーテンに酒を注文する。と同時に、ロディのほうからも内密の話があるから離れていてくれないかとの注文がバーテンに送られた。言葉通りに、バーテンはジャニスの酒を用意すると、そのままカウンターの反対端へとはける。


「で、話ってのは何だい?明日も早いし手短にお願いできないかな?」

「ああ、じゃあ早速本題に入るよ。」


 そう言うとロディは懐から一枚の紙を取り出した。書かれているのは何かしらの専門的な用語であり、素人が見てもピンとくるものではない。しかし専門家であるジャニスにはそれが何であるかははっきりわかった。


「この調合図は?」

「君が作った例の新薬の調合図さ。悪いけど個人的に調べさせてもらった。」


 どきり、とジャニスの胸が高鳴った。あの薬については後ろめたいことしかない。それを調べられたとなれば今の地位より引きずり降ろされるようなことになるかもしれない。思わず護身用の刃物を隠した脇腹に右手が伸びる。


「カルニスの樹皮20㎎、メチルゾン結晶20㎎、赤サンゴ15㎎、そして黒ヤモリの尾少々…これだけの組み合わせであの病気の特効薬になるとは、さすがに盲点だったよ。街の医者たちが気付けなかったのも無理は無い。」

「だ、だからどうしたというんだ!?」

「確かに多少珍しい原料を使っているのはわかる。でもこれで一万ギャラッドを取るのは暴利が過ぎるんじゃないのかい?」


 実のところ、この調合図はジャニスにとって初耳であった。本当の製作者であるニーギスからは何も聞いていない。しかし書かれた物の意味や価値は重々承知しており、確かに一万も出して買うようなものでないことははっきり認識できた。


「確かにこの調合にたどり着いたのは君だけだ。独占商売として値に色を付けるのもしょうがないだろう。それでもこれなら三千ギャラッドまでが限度だとは思わないのかい!?」

(そんなこと…僕だって知らなかったんだ!僕に言っても仕方ないだろう!)


 ジャニスは、ロディからの追求に理不尽さを覚えていた。しかし、父とニーギスのお膳立てを鵜呑みにし、手柄だけ譲ってもらっただけの立場である。これも自業自得であろう。無論、そんなことを打ち明けられることは彼のプライドが許さなかったが。それでいて、この後行われるであろう追及を思うと、胃が痛い思いをするところであった。


「そ、それで、僕にそれを言ってどうしてほしいというんだ?」

「価格を適正値に戻す。そうすればこの調合図は僕の胸の内にしまっておくよ。さもなくばこれは世間に公表する。」

「……それだけ?」

「ああ、それ以上に何を求めることがあると?」


 ジャニスは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。最悪強請りまであると覚悟していた。しかしロディの要求は価格の是正のみ。驚くのも無理はない。


「どうしたジャニス?そんな顔をして。」

「い、いや別に…というかそもそも何故僕にそのことを言う?黙って適正価格のものを君の病院で売ればうちを出し抜け打だろうに。」

「そんなことをしたら君の病院との諍いが起こるだろう?そうしたら患者にも不安が広がるし、それは医者として望むところじゃない。医者の本分は一人でも多くの患者を救い、安心してもらう事なんだから。」


 ロディの意見はあくまでも高潔だった。手柄でも金でもない、ただ患者のことを愚直なまでに思いやる、ただそれだけ。そんな彼の態度に、嫉妬心と名誉で凝り固まっていたジャニスもすっかり毒気を抜かれていた。なるほど、自分がこの男に勝てなかったのは、すでにこの心掛けの地点で決まっていたことなんだな。そして己を悔い、ジャニスはすっかり晴れやかな表情でこれに応えた。


「わかったよロディ。父上にその旨進言してみよう。しかし一万もする薬を君に預けようなんて考えた人間も欲が無いというかなんというか…一体誰なんだい?」

「ああ、丘の教会のシスター、リュキアさんさ。君に貰った薬を使うのが心苦しいからってことで、僕に渡してくれたんだ。」


 その瞬間、晴れやかになったはずのジャニスの表情が再び負の感情に染まった。ロディにとっては他愛のない説明であったが、それはジャニスを再び闇に堕とすに十分な言葉だった。



―――自分が好意からあげた薬をリュキアは拒絶し

よりにもよってライバルのロディに譲った―――



 ジャニスの脳内で独特の解釈が形成されていく。それは身勝手な思い込みに過ぎないし、ロディにも、勿論リュキアにも他意の無い行為であったのだが、それが彼の逆鱗に触れた。医者としての高潔さに心打たれようともこれは別、人は恋によって狂うものなのだ。


「そうか、そう言ってもらえると助かるよ。じゃあお互い明日は早いみたいだからもう帰ろうか。じゃあ。」


 その闇に気付くことなく、ロディは軽く挨拶をしてから金を払いバーを後にした。ジャニスはそれに反応せず、ピクリとも動かない。やがてバーテンがもう閉店ですよと呼びかけると、何かスイッチが入ったかのように、一目散に見せの外へと飛び出していった。





そしてジャニスは、誰もいない街道にて、手にした刃物でロディを刺した。





 その夜、アクセサリ職人のギリィ・ジョーは外で飲んでいた。大口の得意先に納品を終え、手に入った金で久々にたっぷりと飲む。世間は休日明けの準備に忙しいがこちらは気のまままの自営業、むしろ明日臨時休業するくらいの勢いで酒を楽しんでいたが、飲み屋のほうはそうはいかない。ちょうど早仕舞いで行きつけの飲み屋を追い出されていたところである。


(しゃーない、家に帰って飲み直すか…)


 などと考えながら夜道を歩いていると、夜風に乗って嫌な臭いが鼻についた。「仕事」柄よく嗅ぐ臭い――血の臭いだ。はっと酔いも醒め、臭いの方向へと駆け出す。そこには、脇腹から血を流し道端に横たわる青年の姿があった。


「おっ、おい!アンタ大丈夫か!?」

「い…いや…大丈夫じゃないでしょうね…この傷は…職業柄わかります…」


 見れば肝臓のある右脇腹からのおびただしい出血。たとえ医者じゃなくとも長くないのは一目瞭然であった。


「冗談言ってねえで!おい、誰にやられた!?」

「僕のことは…もういいんです…そ…そんなことより…この紙を…」


 駆け寄ったギリィに、ロディは何かの紙を渡した。多少血にまみれているが、例の調合図である。ギリィには見てもそれが何であるかなどは理解できなかったが。


「こ…これを…父さんに…いや、フランツ医院に届けてもらえませんか…?後生ですから……」



 ここまで言い残し、ロディは大量の血を吐きそのまま息絶えた。そして、不本意にも彼を看取る羽目になってしまったギリィの胸には、何やら「仕事」の予感が渦巻いていた。

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