其の三
それは、シルカが街を去る一日前の事。
丘の上の教会、懺悔室。
神の御前において自らの胸にしまいこんだ罪を告白し悔い改めることで赦しを請うための施設である。まあ実際にその告白を聞くのはその教会の神父であり、実際神がそれを聞いてくれるのか、赦してくれるのか、そもそも神は実在するのかという曖昧さを考えればある種の自己満足のための施設であることは否定出来ないかもしれない。
しかしその性質上、その電話ボックス程度の大きさの個室は教会の宗主たる教皇にすら介入できぬほどの秘匿性を持つ完全なる密室である。神父がその気さえあれば公にできぬような契約・商談もあるいは可能なのかもしれない。
そんな場所に、心身ともにやつれきったシルカの姿があった。
「私の夫は敬虔なガリア教徒でした。教義を守り、勤勉で、不正とは無縁の生活を送ってきたと、ともに生活した私からも自信を持って言える男です。そんな彼が先日、勤め先の金を盗んだカドで居合わせた近衛師団に斬り殺されたと聞いた時は我が耳を疑いました。暴れた結果斬るしか無かったと説明されましたが、あの人が屈強な騎士の捕縛を諦めさせるほどに大立ち回りができたとは思えませんし、何より泥棒をしたということがまず信じられません。
私は諦めきれず各所を回り説明を求めました。しかしオヴァン商会からは長年勤めた男に対するそれとは思えぬほどの罵声を浴び、第三近衛師団には聞く耳持たずで門前払い、ならば州衛士にと屯所にも参りましたがあちらの問題には介入できぬと帰されました。おそらく州議会に直訴しても結果は見えているでしょう。
だからこそ噂話に藁をも掴む思いでここに来ました。私は今からこの街を経ちますが、事の真相を救命していただけませんでしょうか?そしてもしその真相が何者かの悪意ある陰謀だった時は―――
―――夫の無念とこの恨み、どうか晴らしてくださいまし…」
シルカはそう言い残し、小さな巾着袋を置いて足早に退室していった。
ザカール州に実しやかに囁かれる噂。「丘の上の教会の懺悔室で恨み言と金子を残していけば、何者かがその恨みを晴らしてくれる」という物騒な話であり、実際に神父はいい迷惑だと公言していた。しかし懺悔室の秘匿性上、試してみて嘘だったとしても誰に咎められるわけでもない。それ故かつて馬鹿な学生たちがでっちあげた嘘でスパルタ教師に仕返しをさせようとこの噂を試してみたが、びっくりするくらい何も起こらなかったという。
結果、彼らの口伝いにより噂は眉唾だという風評が広まり、遊び半分で試す者はすっかりいなくなった。しかしそれでも八方塞がった者は未だにこの噂に一縷の望みを託すのだ。
(やはり人間が人間である以上、需要は尽きないのでしょうか…)
壁一枚向こうで話の一部始終を聞いていた男は、巾着袋を手に取り遠い目をしていた。
「WORKMAN」と呼ばれ招集の報を受けたのは二人。
ザカール州衛士 マシュー・ベルモンド
アクセサリ職人 ギリィ・ジョー
それに当のメッセンジャーたる修道女・リュキアを加えた三人は深夜の教会の地下室にいた。
普段は霊安室として使われ血なまぐさい香りが染み付き、大人はおろか好奇心旺盛な子供でさえ気味悪がって近づこうともしない。本人たちが耐えられるならば密談にはもってこいの場所であろう。事実この三人はかような呪わしい場所であってもまるで意に介さず各々佇んでいた。ふと、ゴゴゴ、と天井の石扉が開く音がした。三人の視線がその出入口の方へと向く。入ってきたのは大小の包みをひとつずつ持った神父だった。
「こうやってまた集めたってェことは『仕事』か?」
「ええ、お察しの通り。」
「で、頼み人は?」
「シルカ夫人。」
「これまたお察しの通りってか…」
マシューと神父の会話にギリィも頷いた。街の皆が忘れかけているとはいえ、彼女とその死んだ夫についてはこの三人にとっても縁浅からぬ事件である。それにそもそも、近日中のあの街にあってかの懺悔室に頼みを持ちこむ者など彼女以外に連想できまい。
「あの事件の真相を突き止め、もしもの時は…とのご依頼です。」
「ん?その頼み方で俺らまで集められたって事は、やっぱりカイルさんは盗みなんか働いてなくて、誰か裏で笑ってる奴が居たってことなのか?」
「それについては本人に聞いたほうが良いでしょう。」
ギリィの問いかけに答えるべく、神父は大きい方の包みを開く。中から現れたのは成人男性のそれと思しき大きさの骸骨。しかも長き時を経て風化し乾いたそれではなくほんのりと湿り気を帯びており、まだ肉のついていたものから剥きとったということを否が応でも連想させるものであった。
「うへぇ、結局それかよ。俺未だに慣れないんだよなぁ。倫理的にも生理的にも…」
「仕方無いでしょう。我々のような立場の人間が事の真相を知るにはこれしか方法が無いのですから。それに実際剥くほうはもっと慣れませんよ。」
骸骨を何かしらの文字が描かれた台の上に乗せ、その四方に設置した蝋燭に火を灯す。揺らめく炎が眼鏡に反射する中、神父は右手を骸骨の上に置き瞳を閉じながら呪文を唱える。そのまま左手を差し出すと、彼に近寄った三人は各々彼の手に触れた。瞬間、目の前には明らかに地下室とは違う光景が流れこむ。美しい装飾が立ち並ぶ部屋、眼前には二人の初老の男、背後には熊のような大男―――それはまさに骸骨の主、即ちカイルの今わの際の光景であった。
―――現在ラグナント王国においては、魔法は一部階級・職業のみが治癒魔法・移動魔法を使うこと以外を禁じている。かつての戦乱の時代には大いに役立った戦のための魔法・術法の数々も、太平の世にあっては新たな戦禍にしかなり得ない。世の流れには逆らえず多くの魔法研究家たちが廃業、ないし裏の世界へと潜っていった。そんな昨今にあって、このような明らかに黒魔術の技法を用いるこの神父たちがいかにイリーガルな存在か計り知れよう。
カイルの見た最後の風景と同時に彼の心象までもが流れこんできた。憤怒・絶望・失望・無念…そして背後から斬り殺され意識が切れたことで目の前の風景が元に戻る。凄絶なまでの負の感情と死の直前までを追体験した者の様相はみな蒼白で滝のような汗をかいていた。
「以上です。みなさん、今回の『的』はわかりましたね?」
「ああ、第三近衛師団長、ゲックス・リード。」
「………オヴァン商会会長、ロッカ・オヴァン。」
「そして元殺し屋の近衛師団員、ゴリアテか。」
「ご名答。手っ取り早くて助かります。私も墓荒らしをした甲斐があるというものですよ。」
各々にカイルを殺した犯人の名を口にする三人。神父はげんなりとした笑顔で答えた。
「カウベル兄弟の時の『仕事』から10日ちょっとか、案外間が空いてねぇな。」
「そもそも第三近衛師団の野郎共が出張ってきた口実がまさにその件だしな。奴さんらの警戒も推して知るべしだ。ちょっとでも油断したら、まあ、俺ら仲良く磔刑台の上だァな。」
「………それだけは勘弁。」
「ではキャンセルしますか?」
「冗談言うな神父さんよォ。世の中の晴らせぬ恨みを晴らし、許せぬひとでなしを殺す、それが『WORKMAN』の存在意義って教えたのは他ならぬアンタだろうが。頼み人が見知った仲でなくとも、こんな外道のさばらせておく道理はねェよ。」
「殺す」という言葉を明確に発すると共に、マシューの瞳に意志が宿る。かつて近衛師団に手向かった時よりもなお暗く鈍い輝き、殺気である。そしてその言葉を聞いた二人―――陽気な若者然としたギリィの爛々とした瞳にも、人形のようなリュキアの真黒い瞳にも同様に殺意が宿っていた。もはや市井での彼らの雰囲気は無い。悪辣な金貸しを惨殺し、カイル殺害の犯人をまさに葬らんとする、そういうことを生業とする者の佇まいだった。
「ですが血気にはやって今から仕掛けてうまくいくような相手でもないでしょう。特にあのゴリアテという男、元殺し屋ギルドの人間となれば尚更でしょう。」
「ああ。奴さんは手強いだろうな。何度も間近で見た俺が言うんだから間違いねェや。」
「何だよクソ衛士。今まで散々っぱら恥かかされてきたってのに随分落ち着いてんじゃねえか。」
マシューの冷静な分析にギリィが野次を飛ばす。彼とゴリアテの浅からぬ因縁は街の人間にとってももはや周知のものであった。猛獣退治の件はもちろんのこと、左頬の傷についてもそれとなく風評が流れていた。ならばそのような輩と対峙するにあたってもっと感情的になってもいいのでは?と思うのもまた当然のことだろう。
「馬鹿野郎それはそれこれはこれだ。奴さんには色々腹わた煮えくり返る思いだがよ、その気のままで突っ込んだら素っ首すっ飛ばされんのは手前ェのほうになっちまわァ。そういうお前こそ前みたいに油断こいてると手ェ怪我するだけじゃ済まねェぞ?」
「何度も何度もネチネチと、性格悪いなお前…っと、すっかり忘れるところだったが、頼み料の方はどうなってんだ神父さんよ?」
神父がもう一つの小さい方の包みを開いた。そこにはかつて勇者アランのパーティーに参加したという戦士ゴードンの肖像があしらわれた大銀貨が4枚。丁度これだけあれば一人暮らしが一年つつがなく生きていけるという金額である。となればシルカはこれから一年の生活と引き換えにこの「仕事」を頼んだということだ。いや、働き頭を失い、濡れ衣のせいで労災も見舞金も出なかったひとりの女性にとっては一年どころの価値ではないだろう。あるいは街から姿を消した今、これから生きていく気すらなかったとも―――
「…こいつァしくじれねェ『仕事』だな。」
「………」
四人は順にそれを一枚ずつ手にとった。彼らの「仕事」にとって金額の多寡は問題ではない。恨みで人を殺すという性質上その深さこそが何よりも重要であり、頼み料はそれを示すバロメーターでしかない。明日と、さもなくば命と引き換えも同然の銀貨を手に、各々が彼女の恨みの大きさを察しなんとしても完遂せんと心に誓うのだった。
そして翌日。
「まあ~。今日も夜勤ですか~?」
「しかも夜回りだなんて、心配かけさせるなと言ったそばからこれですか…」
「仕方ないだろ第三近衛師団に負けまいと隊長が張り切っちゃてるんだから。みんなが仕事増やされてる中私だけが断ったらそれこそ近衛師団に乗っ取られる前に一足早く免職よ。」
時は夜8時。日中の仕事を終え家に帰ったマシューは夕食を終えたそばからまた出勤のための準備をしていた。文句を垂れながらも革鎧を身に纏い、腰にブロードソードを下げ、朝の出掛けと異なる装備としてマントを用意させる。まだ夜は寒いので羽織るものが欲しいということだ。首元はおろか口元まで覆い隠せそうな大きさの黒いマント、マシューのお気に入りということだがお世辞にも彼のゆるい風貌には似合っているとは言い難いものだった。
「危なくなったら無理せずに逃げてくださいね。」
「くれぐれも無茶はダメですよ~。生きて帰ってこそ、ですから~。」
玄関まで見送りに来たメイドの姉妹が至極心配そうな顔をする。ここ数日は微妙に風当たりが弱くなっていたが、ここにきて実に真剣に気遣ってきた。マシューは気恥ずかしさと申し訳無さでうつむき気味に気味に顔を赤くする。
「まあ無茶はしたくてもできそうに無いから、安心して待ってておくれ。」
照れ隠しに左頬のガーゼをぴしゃりと叩きはにかむ。そして玄関を閉めるとそのまま街道には出ず、庭の一本樹に向かった。そして右手を樹に当てなにやらぶつぶつと唱えると、なんとそのまま右手が樹の中にずぶずぶと侵入していったのだ。普段庭の手入れをするメイド達にこのような怪奇現象は起こらない、おそらくマシューのみが触れることが出来る何かしらの結界魔法が施されているのだろう。そのまま樹の中にあった何かを掴み、引っこ抜く。
その手に握られていたものは細身の剣。マシューはそれを腰に下げると、代わりに先ほどまで付けていたブロードソードを樹の中に仕舞った。
(生きて帰ればこそ、か…)
フィアナの発した何気ない一言を心の中で反芻すると、その表情は一変して昨夜の会合の時のそれへと変貌していた。形相を悟られぬようマントで鼻の頭までを隠し、夜の街へと消えていくマシュー。そんな彼の真横を、二つの黒い風が吹き抜けていった。
時計は夜9時を回る。オヴァン商会本社。日中は人の出入りの多いこの建物も、夜もふけった今となっては二人しか残っていない。会長ロッカ・オヴァンと第三近衛師団長ゲックス・リード。一蓮托生の仲である彼らは今、かつて惨劇があったところの会長の自室で酒を酌み交わしていた。
「しかし歯がゆいものだな。これほどまでに州衛士との差を見せつけているにも関わらず、結局はカウベル兄弟殺害の下手人を挙げねば奴らの撤廃はままならんのだからな。」
コップに注いだ濃い色の酒を一気に飲み干し、ゲックスが吐き出すように呟く。市井の信頼を得たものの、カウベル兄弟殺しの情報は依然として0。どうしても最後のひと押しが成せないとあって彼のイライラは募る一方であった。
「しかしながら団長様、奴らは嫌われ者の悪徳高利貸し。そんな連中を殺した犯人を捕まえても民の心象にとってはむしろ逆効果かもしれませんぞ。」
空になったコップを見るや気を利かせて酌をするロッカが忠信する。
「それよりもこちらの有能さを示すよりもあちらの無能さを晒したほうが早い。既に州議会には儂から鼻薬をたっぷり効かせております。州衛士隊がとんでもないヘマをしでかせば、世論も議会も一気にこちら側に傾くというものですよ。」
「ふむ、成程…ではゴリアテ殿に絡んだあのちびすけ州衛士にその取り返しのつかぬ失態を押し付けることとしようかのう。」
などと次の悪巧みを匂わせ、ゲラゲラと笑い声を上げる二人。ちびすけ州衛士とはもちろんマシューのことであろう。
「そういえばゴリアテはどうなされましたか?朝のうちにこの席にも誘った筈ですが?」
「ああ、ゴリアテ殿なら所用が入ったらしい。昼に伝令が来てな、どうしても外せない用事がこんな夜更けにできたそうだ。」
この後も次の一手の事や将来的な利益の話をする。更に一時間ほど経ったあたりで、さすがにこれ以上は明日の仕事に支障が出るということで、彼らの酒宴はお開きとなった。
「では私は別邸の寝室に戻る。明日は手はず通り頼むぞロッカ。」
「ええ勿論ですともゲックス殿。」
客人を送り出しロッカは扉に鍵をかける。この自室兼会長室は外に面しておらず窓もないこの部屋で人が出入りできるところはこの扉だけである。その扉に鍵をしてしまえばそこはもう四方から入り込む余地のない完全な密室。いかな暗殺者でも狙えぬと自負していた。だからこそ今夜もいつものように安心して灯りを落としベッドへと向かう。
―――しかし四方ではなく、六方ならどうであろうか
ここ5階と6階の間、屋根裏の隙間に何者かが潜んでいた。黒き肌を黒のなめし革の装束で包んだ何者かが。50センチの高さも無かろうという隙間にしなやかな肢体を伏せるその姿は、茂みに隠れ獲物を狙うネコ科の猛獣を連想させる。同階の空室から潜入したこの者は、更に驚くべきことにこの姿勢のまま一時間、目下の酒宴が終わるのを待っていたのだ。途中幾度と無く虫やネズミが通り過ぎるも、路傍の石か捨てられた人形かの如くぴくりとも動かずに、である。
そして一人になり暗室となったこの瞬間、天井の戸板を外し部屋へと降り立った。長い黒髪は後ろで結わえ、修道服とは真逆の露出も多く体に張り付くような黒皮の衣装。普段の格好とはまるで結びつかないような姿ではあるが、その長耳と漆黒の瞳は間違いなく丘の上の教会の修道女、リュキアである。
わずかな物音に気付いたロッカが背後を見るが、闇の中ではその黒さゆえすぐに認識するには至らなかった。その一瞬を突き。リュキアは右手のスナップを効かせ「何か」を飛ばす。
ロッカの首筋に何かが触れる感覚が走ったかと思うと、それはすぐさま苦痛へと変わる。首を絞められ息もできぬ、助けを呼ぶ声も上げられぬ、という苦痛に。苦しみの中ようやく夜目が慣れてきた男は、自らに苦痛を与える「何か」の正体をおぼろげながら目視した。それは目の前の何者かの指先から伸びる「黒い糸」が首に巻き付いていたのだ。
―――リュキアがかつて住んでいたダークエルフの集落には変わった風習があった。それは死者の髪を撚り紡ぎ一本の糸を作るというものだ。ダークエルフ生来の美しい黒髪が元であるためその色もため息が出るほどの色艶であり、また工程において特殊な油や蝋を染み込ませたその糸は元々髪とも思えぬほどの頑強さを誇る。死者との思い出や縁が永久に切れぬことを示すポジティブな習慣なのだが、リュキアは何人ぶんかと思うほどの長さに撚り紡がれた髪を、よりにもよって殺しの技に使っているのだ。その心の闇と業を感じずにはいられないだろう。
「ッ…!ァ……ッ!!」
リュキアは更に女性とは思えぬ力で黒糸を手繰り寄せる。一歩一歩引き摺られるたびに食い込んだ糸は締め付けを増した。ロッカは逃れようともがくも、初老の男の腕力でこの糸が切れるはずもなく、また指を隙間に入れて気道を確保することもできない。ただただ声にならないうめきを発するだけだった。
とうとう目の前まで引き寄せられた男は背後を向けられ、背中を足蹴にされ、そのまま踏まれた状態で組み伏せられるという無様な姿を晒した。踏みつけたまま握った右手を絞り上げることで糸の張りはいよいよ最高潮となる。馬車に轢き潰されたカエルのようにぴくぴくと足掻く男を一瞥すると、そっと目を閉じそのまま起立した糸を左の指で、まるで竪琴のように爪弾いた。
ビイイィィン
深夜の静寂した一室に奇妙な弦楽器の音が響いた。その衝撃が止めとなったのか、床に伏した男の手足の僅かな震えも完全に止まり最早ピクリとも動かない。リュキアも踏みつけた足と絞り上げる右手の感覚から完全に手応えが消えたことを察知する。そのまま右手をクルクルと回すと、先程まで何かしらかの意志があるのかと思うほどぴっちり張り付いていた黒糸が実に容易に巻き取られていった。
そして得物を回収した彼女は、目の前の死体を鑑みることなく来た道を戻るように会長室を後にしたのだった。
同時刻、ゲックスは酒が入りすぎたのかややおぼつかない足取りで中庭に出ようとしていた。
この中庭を隔てた本社と別邸の間は距離にして正味十数メートル程度。普通に歩いて20秒もかからない。しかし別邸には近衛師団の連中が待機していることを考えれば、もし何者かが彼を暗殺するなら人気のないこの短距離・短時間のうちに仕留めなければ都合が悪いだろう―――中庭に植え込みに隠れながら、ギリィ・ジョーも同じことを考えていた。さほど大きな観葉植物ではないが、ハーフリング特有の背の低さがこの迷彩を可能とする。
彼の服装も普段のものとは異なっていた。綿の作業着ではなく動きやすそうな黒装束、これみよがしについていた自作アクセサリは琥珀色の腕輪以外見当たらない。確かにじゃらじゃらと音を立てそうなものは今の状況には無用であろう。
ゲックスが中庭に足を踏み入れたことを確認すると、右腕を半開きにしながら静かに念じる。するとどうしたことか、琥珀色の腕輪がドロリと溶けまるでスライムのように手首をよじ登り掌に集約したではないか。この腕輪だった何かを軽く握りぶんっと右手を振り下ろすと、親指と人差指の間から半液体状の金属が飛び出しそのまま空中で凝固、長さ30センチほどの長針に変化したのだ。
―――錬金術。魔法ほどではないが戦乱の時代に研究された技術のひとつ。木材を鉄に変え、石粒を金に変え、究極的には無から有を、あるいは命を作り出すことを標榜した夢の技術。しかし当然その究極に達したものは誰一人としておらず、何人かの錬金術士が副産物めいた不思議な金属を残すに留まった。また戦後には人心を惑わす可能性があるとして王国に弾圧・禁止されその技術体系は完全に消滅した。
ギリィの琥珀色の腕輪は、いかな経緯で手に入れたかは知らぬが、その失われし技術の残滓なのである。自在に形を変え証拠を残さない凶器は確かに暗殺において利便のあることだろう。
針を握りしめたまま、じっくりとゲックスの動きを凝視する。3メートル、2メートル、1メートル…そして真横を通り過ぎ背後を晒した瞬間、植え込みを飛び越えんばかりに跳ね上がり標的に取り付く。小さい体が幸いし、ちょうど子供を肩車したかのような状態になっていた。
「なっ…!?む、ムグッ…!!」
まず声を上げられぬよう左手で標的の口を塞ぐ。ゲックスは突然の強襲に驚き振り落とさんと暴れまわるが、ギリィは暴れ馬乗りの達人のようにしっかりと肩に足を絡ませ上体を崩さない。そしてそのまま右手で針をクルクルと回し逆手に握り直したかと思えば、それを首筋に振り下ろした。先程までドロドロに溶けていたとは思えないほどしっかりとした金属の針は首の骨を確実に刺し貫き髄に達している。
これだけでも十二分に致命打ではあるがギリィはまだ手を抜かない。右手に力を入れ再び念じる。すると琥珀色の針はゲックスの体内で再び半液体化、そのまま髄を伝い脳へと達しそこで木の枝のように分かたれ広がった。柔らかな脳は針金にかき乱され地面に落とした豆腐のようにグズグズになったことだろう。ゲックスは瞬時に事切れふらりと倒れる。と同時にギリィは肩を蹴りその宙返りし死体から離れ、ついでにその反動で針を引き抜いた。体内で枝分かれしたとは思えないほどピンと真っ直ぐな針は、再び変化し彼の右腕に巻きつき元の腕輪へと戻っていった。
「酒が入ってたとはいえ、うちの州の防衛の長なのにあっさり殺らせすぎだよなぁ…」
仕事は成功したものの微妙にまんじりとしない気分を抱えながら、ギリィは塀を飛び越え夜の街へと消えていくのだった。
所変わり街外れの沼地。鬱蒼とした森に囲まれ、泥が厚すぎて魚も住まない沼のほとりにはシダやコケは生い茂る。あまり良い景観とは言えず、夜中は勿論のこと日中でもあまり人が立ち寄ることのない。そんな人通りのまるでない場所にひとりの男が佇んでいた。マントで口元を隠した小柄痩身の男―――マシュー・ベルモンド。
夜回りというのは全くの嘘であり、メイドたちに怪しまれることなくここに来ることが目的であったのだ。雲で月が見え隠れするのを5度ほど繰り返した頃に、その目的の待ち人が現れた。筋骨隆々の粗野な風貌の剣士―――ゴリアテ。
「ホントに約束通り一人で来てくれるたァな、気ィ使わせて悪かったな。」
「はっ!お前ごときヘボ衛士を相手にするのに手勢を呼んだなんてあったらそれこそ末代までの恥だろうぜ。それよりもお前は約束の『写し』を持ってきてるんだろうな?」
「ああ、ここにあるぜ。中身は決着付いてから確認してくれや。」
マシューはマントの裏から紙封筒をちらっと見せすぐさま仕舞った。その様子を見てゴリアテの眉がぴくりと動く。
「じゃあ始めようか、お待ちかねの果たし合いってヤツをよ。」
事は先にゲックスが酒の席で言っていた昼の伝令に端を発する。マシューからのメッセージを預かったという伝令員が言うにはこういうことだ。
『自分は友人であるカイルが生前残していた闇帳簿の写しを預かっている。州議会にタレ込むことは簡単だが、あんたとはその程度では溜飲が下りないくらいの因縁がある。そこでこの写しと引き換えに果たし合いに応じてはくれないか。』
本来果たし合いなど国の法律で認められるものではない。だからこそ人目につかぬ場所と時間に行うわけで、二人共それを承知で合意の元ここに居るのだ。
「しかし実力の程は痛いほどわかっているだろうに果たし合いとはな。お前いよいよもって狂ったか?」
「そうさねェ。実際州議会にタレ込んでもあんたらが公平に罰せられるか怪しいところだしな、ならいっそ手前ェの気持ちに整理をつける方向で動いたほうがモヤモヤしねェで済むって心境はあるかもな。」
ゴリアテがこの果たし合いに応じた理由はひとつ、負ける要素が無いからだ。
普通に今までの様子を分析すれば彼我の実力差は明白、ならば言葉通り自分の気持ちに整理をつけるための衝動に殉じた自殺志願者とまず思うことだろう。望み通り一刀のもとに介錯してやるのも一興だ。
あるいは普段の仕事の中では実力を隠しており、相応の腕と自信を実は持っているのではという可能性も考えられなくもない。しかし猛獣を相手取った際に見たブロードソードも碌に振り回せないひ弱な様子は明らかに演技ではなかった。技術は隠しおおせたとしても腕力だけは偽れまい。仮に多少剣技に覚えがあり軽い得物を用意したとしても、単純な力の差を考えれば己に比肩する実力に達するとはとてもとても。事後の処理にもカイルの時のように、もっともらしい嘘をついておけば誰しもが信じるだろう。リスクは何一つとして無い。ゴリアテは慢心ではなく冷静な判断でこの判断を下していた。
月明かりが再び地上を照らすと、二人は互いに得物を抜く。ゴリアテは彼の象徴とも言える巨大な大剣。対しマシューは腰に据えた細身の剣を抜く。それはこの大陸においておよそ馴染みのない剣だった。柄には菱形を描くように細い紐が巻かれ、鍔はごく小さい円形で装飾が掘られている。刀身は細長く片刃、月の光を受け輝くさまはただの武器とは思えぬ、芸術品にも見た美しさを感じさせるものだった。
―――サムライソード。ここよりはるか東方にある島国・ワノクニの戦士が使うと言われる剣である。
仕事上武具については覚えのあるゴリアテでも噂話でしか聞いたことがなく、実際お目にかかるのは初めてである。何故こんな小役人がそんな貴重な刀剣を所持しているのかも疑問に思うところだ。だからといって今の立ち会いには何ら関係はない。軽い得物を使ってくる可能性は織り込み済み、いかにレアなアイテムであってもそれで劇的に剣技が上がるなどまずあり得ない。もしそうなら世の金持ちは皆剣豪だ。ゴリアテは安心して大剣を振り上げ上段に構えた。
その様子を見たマシューは両手で構えた剣の先を膝のあたりまで下げ刃を上に向ける下段の構え。こちらが振り下ろすよりも早く下から斬り付けようという算段なのだろう。
だが無意味だとゴリアテはほくそ笑んだ。彼は得意の右袈裟斬りに絶対の自信を持っていたのだ。猛獣を屠ったときも、カイルを殺した時も、そして過去数多の殺しの依頼もこの技によって成し遂げてきた。いかに相手が得物の軽さに物を言わせた早い振り抜きを繰り出そうが、それよりも早く相手を両断してみせる。仮に剣閃が交差し打ち合いになったとしても、この剛剣なら向こうのか細い剣など容易に叩き折りながら切り捨てられる。負ける要素は無い、ゴリアテは強気で自分から間合いを詰める。マシューは構えたままぴくりとも動かない。
ゴリアテの大剣は刃渡り140センチほど、対するサムライソードは70センチ程度。このほぼ倍ほどの間合いの差もまた彼の勝算のひとつだった。二人の距離がほぼ3メートルほどまで近づき、月が再び雲に隠れた瞬間、ゴリアテが仕掛けた。
ブゥンッ
大きく一歩を踏み込みながらの右袈裟斬り。マシューの左鎖骨めがけて鉄塊が稲妻の如き早さで振り下ろされた。そして目の前にはいつものように両断された死体が転がっている。
―――筈だった。
彼の大剣はまるで見当違いの、相手の左足元の地面を突き刺していた。斬って落としたはずのマシューは剣を振り上げた格好のまま無傷。何かしらかの影響があったとすれば、剣圧で左頬のガーゼが剥がれたぐらいである。足あとを見るに踏み込んだことは確認できるが横に躱したようには見えない。ならば必殺の右袈裟斬りを外したというのか?この俺が?混乱するゴリアテが自分の手元を見ると
―――柄を握りしめる左手が手首から両断されていた。
ゴリアテは戦慄した。なるほど左手の力添えを失ったことで力が右に寄り狙いを外した、それはわかった。
ならばどうやって左腕が斬られたのか?
まさかあの痩身小柄な対手がやったというのか?
己が絶対の自信を寄せる右袈裟斬りよりも早く正確に下から斬り上げたというのか?
脳内に大量の疑問符が去来する。しかしそれらの疑問も、左手を失った痛みという生の感覚にすぐさま押し流されていった。
「がぁぁぁぁ!!てっ…手が!!俺の左手がっ…!!」
右手で傷口を抑えながら膝をつき、普段の自信にあふれた彼からは想像できないようなうめき声を上げる。血がドクドクと流れ落ちるが、その切り口そのものはまるで鏡の面のように凹凸が無かった。痛みが遅れたのもその斬り方の美しさ故だったのかもしれない。
「やっぱコイツだと手馴染みが違わァな。支給品のブロードソードは重すぎていけねェや。」
「これだけの実力をっ…テメエッ…!?まさか…お前がっ…?与太話だとばかり思ってた…『WORKMAN』!?」
マシューのつぶやきでゴリアテの意識がわずかに戻った。いつぞやの無様な剣技が演技なのか違うのか?得物の重さぐらいでここまで差が出るものなのか?そもそも何故実力を隠してまでケチな州衛士をしているのか?再び湧き上がる疑問が、過去に聞いた僅かな記憶に結びついた。
一切のギルドに属さず
普段は市井に紛れその正体を現すことのない
金でなく依頼人の恨みのために動くという凄腕の殺し屋集団
―――その名を「WORKMAN」
あまりにも未確認なため自分を含むギルドの人間は皆誰もが御伽話か与太話と信じて疑わなかったが、目の前の男は実力、本職、動機すべてが合致していた。まさかと思いマシューの目を見やると何時かのような、いやその時よりももっと深く黒い輝きを湛えている。ああそうか、あの時あの瞳に感じたのは苛立ちではなく、もし本気を出されたら自分が殺されていたかもしれないという恐怖だったのだ。ゴリアテは得心すると同時にその恐怖を反芻していた。
「そう、全部あんたの思った通りだよ。」
そう言い放つと、マシューは返す刃でサムライソードを振り下ろした。狙いは膝をつき己の目線の高さほどまで下りてきた大男の左鎖骨。意趣返しのような右袈裟斬り、しかしその切り口はゴリアテのすり潰すようなそれではなく、定規で線引したかのような真っ直ぐに体を切り分けている。振りぬいて数秒後、事切れた男が白目を剥いたかと思うと斜めの切り口を滑り落ちるように上体がずるりとこぼれた。
マシューは深呼吸ひとつついた後死体を一瞥すると、マントから封筒を取り出し、中に入っていた「白紙」で剣についた血を拭きると帰路につくのだった。
国の防衛を司る近衛師団の団長とエースが、自分たちが追っていた殺人事件と同じ手口で殺された、このようなことが世間に知れたら沽券に関わる。それ故発見された死体は第三近衛師団によって内密に処理され、ゲックス及びゴリアテの死は対外的には病死・事故死だと発表された。彼らと蜜月の仲であったロッカもまた同様に病死として処理され、オヴァン商会では今も経営体制の再編成に追われている。また州衛士制度廃絶の先鋭たる団長がいなくなりやる気が削がれたこと、派手に動いては故人の献金疑惑を追求されるかもしれないことなどを合議した結果、ゲックス亡き後の第三近衛師団は警察機構への介入を中止し本来いるべきザカール城内へと撤退、治安維持は再び州衛士のみに一任されることになった。一連の事態に対し、市民の間でも様々な噂や憶測が飛び交ったが、カイルの時と同様に三日も経ったころには誰しもそんな話を忘れていた。街は再び何もかもが元通りになっていたのだった。
「さあ~主様フィラちゃんご飯ですよ~。主様のお給金が少ないからこんな寂しいスープですけど~」
「おとなりのサマルさんはひったくりを捕まえた報奨金で今夜はステーキだそうですねお姉様。いやーうちはどうしてこうなんですかねー!」
「…君たち、随分と刺々しいね。こないだまではあんなに優しかったのに。」
ベルモンド家の夕食、メイド二人が具の少ないスープを器に取り分けながら愚痴をこぼす。主たるマシューは肩身を狭くしていた。その頬にはもうガーゼは貼り付いていない。
「だって主様、もうお怪我が完治してるじゃないですか~。」
「だから優しくする期間はもう終了。これからは以前のようにだらけた態度は直ちに正していくつもりですのでお覚悟を。」
「いやそれにしても以前より厳しくないかい?前はお給金現状維持でいいから死ぬような真似はするなぐらいの気遣いは…」
困った顔の主をよそに、使用人姉妹は顔を見合わせ意地悪そうな笑顔を浮かべた。
「私達気づいたんですよ~。別に肉体労働じゃなくてもお給金上がるチャンスはいくらでもあるって~。」
「そう。頭を使う仕事なり、上司に気に入られるなりやり口はいくらでもあるじゃないですか。というわけでこれからは頭脳労働とおべんちゃらをこれまで以上に頑張っていただくようビッシビッシと指摘してく所存でございます主様!さしあたって明日はベア隊長様の―――」
世の中そう簡単には変わらないし変えられない。
仮に変わるとしてもこんなことばかりである。
そんな世の無常さに以前とは別の意味で虚しさを感じるマシューであった。
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