其の二

 時計は11時を回った。夜はふけ酒場ですらもう店じまいを始める時間にあってカイルは未だオヴァン商会本社に残っていた。昼休憩を終え妻と別れたあと仕事に戻ったのだが、どうしても会計上の数字が合わないことに気がついた。生真面目な男である、どうしても原因を突き止めたいからと仲間たちが帰って行くのをよそに過去の会計書類を掘り起こしていたらもうこんな時間になってしまっていた。そして今、書類を片手に会長の自室の前に居る。部屋から漏れる明かりを見て在室を確認すると、沈痛な面持ちでノックをした。


「夜分遅くすみません会長。今お時間よろしかったでしょうか?」

「その声はカイルか。残業しておるとはにわかに聞いていたがこんな時間までどうした?まあ中に入れ。」

「失礼します。」


 扉を開け一礼して入室。目の前には高級そうな椅子に腰掛け酒をくゆらせる初老の男が腰掛けていた。ロッカ・オヴァン、現オヴァン商会会長にして昨今の躍進の立役者である。


「どうした?そう怖い顔をして。お前も呑むか?」

「いいえ結構です。それよりも会長、これを…」


 手に持った書類を机の上に投げ置く。それはカイルが日がな一日探しまわっていた会計書類、しかし通常の業務で使うものとは異なっていた。数百万、数千万という金額に州の名士の名前が並ぶ、いわゆるヤミ献金の帳簿。しかしそんな喉元に匕首を突き付けられたような状況にあって、ロッカの表情にゆらぎは見られない。


「折角会計を任されたのだからしっかり完遂すべきと思い、前月前々月の帳簿もチェックしていたんです。そしたら微妙に計算が合わなくて…おかしいと思ってどんどん昔の帳簿も調べたらどんどんズレが大きくなって…躍起になって事務所じゅうを探したら出てきたのがこれです。」

「なるほど、几帳面な男とは思っていたがまさかこれほどとはな。手が少ないからと会計に回したのは儂のミスだったか。」


 帳簿を手に取りひと通り見回し、投げ捨てる。


「で、いくら欲しいんだ?聞くところによればもうじき結婚記念日だとか。何かと物いりだろうて。」


 主のこの言葉聞いた瞬間、カイルの顔が真っ赤になった。机をバンっと叩き、立場の差など弁えずに怒号を上げる。


「ふざけないでください!!僕はただ会長にちゃんと罪を償ってほしいと言いたいだけです!!これはれっきとした罪、その上それを隠蔽しようなどという罪を重ねたら我らが神はどう思われるか!?因果が巡り会長自身が傷つくことになるんですよ!」


 カイルは信心深い男である。

 主に神の御下において罪を精算して欲しい、主人が罪を重ねることで神に断ぜられるのを防ぎたい、余計な御節介とはいえそんなただの親切心からの告発であった。しかしそんな彼の熱意も、目の前の信心も薄い唯物論者にはさほどの効果もなかったようだ。


「どうしても償う気がないならもういいです。私は今からこれを持って州衛士のところに駆け込み―――」

「州衛士がどうかしたのかね?」


 奥の部屋から声がしたと思うと、会長の背後側の扉が開き、第三近衛師団長ゲックスが現れた。そうだ、今ここには近衛師団が駐留しているのだ、わざわざ州衛士の屯所まで足を運ばずとも彼らに言えばいいだけではないか。急いで床に落ちた帳簿を拾い集めるカイル。


 しかしふと疑問がよぎる。よく考えれば彼らが駐留しているのは離れの別邸だ。にもかかわらず何故会長の部屋にいるのだろうか?懇意の間柄だから二人で話していた?だとすればこんな時間まで何を話していたのか?そもそも今の会話が聞こえていたなら何故すぐに出てこなかったのか?


 ―――急に落ち着いた彼が書類に目をやると、そこには「第三近衛師団長 ゲックス・リード」の名が


 カイルは踵を返し外に出ようと脱兎の如く駈け出したが脱出には至らなかった。入った扉に手をかけると、その正面には噂の大剣士・ゴリアテが既に待ち構えていたからだ。


「危ないねぇお二人さん。俺がこうやって張ってなかったらどうなってたことか。」

「おお、本当にすまぬなゴリアテ殿。」


 前後を挟まれ、しかも出口側には猛獣を一刀で屠る剣士。5階の高さからイチかバチかで飛び降りようにも外と通じる窓も無し。まさに八方塞がり。この後に待ち受ける運命を思い絶望で肩を落とすが、それでも神の僕として罪を放っておくことはできなかった。心の折れるギリギリで立ち止まり今度はゲックスを追及する。


「騎士団長殿はそれでもいいんですか?罪を取り締まり民を守るべき立場の人間が悪事に手を染めるなんて…!」

「我らが第三近衛師団を大きくするにも州衛士制度を撤廃の為の根回しをするにも何かと金が要るからな。しかし奴らに成り代わって我らが直々に街の治安を守る立場となれば今よりも民の生活の安全を保証できることだろう。つまりひいては善行に繋がる。それでも悪というなら必要悪と言ってもらうべきだろうな。」

「儂もまたそのお手伝いをしとるわけだよ。まあその暁には彼らの関わる公共事業をすべて儂ら商会に回してもらうくらいの甘い汁は吸わせてもらうがのう。それもまたお前たち従業員を食わせてやるためと思えばお前にとっても悪い話ではあるまい?」


 彼らの口調からは全く悪びれる様子がない。価値観が違う、己が信条であり国民ならかくあるべきと思っていた国教の教義がまるで馬耳東風。しかもそんな人間が州を守る近衛騎士団長と自身の雇い主という事実はアイデンティティを揺るがせ、カイルの最後に残った心の糸を断ち切るに十分な衝撃だった。


「ちなみにな、このゴリアテも儂が幾度となく世話になった殺し屋ギルドの人間でのう。このまま裏仕事だけで人生を終わらせるには忍びないという慈悲の心でゲックス殿に推挙したのだよ。」

「殺し屋と聞いた時は訝しんだものだが、会ってみたらこのようにおよそ太平な今の世においてありえぬほどの腕の持ち主でな、こりゃ我が近衛師団にとっても有用な人材になると直感したものよ。そして実際着任そうそう州衛士との格の違いを見せつけ民衆にアピールをしてくれたわけで、紹介してくれたロッカ殿には感謝してもしきれぬほどよ。」

「力が名声を呼び、名声が権威を高め、権威が金を生む。三方得とはまさにこのことだとは思わんかカイル?」


 得意げに入り口を塞ぐ大男のことを話し始めたが、カイルに背後を見る程度のリアクションすら見受けられない。むしろ無念でいっぱいの彼に話が聞こえていたかどうかすら怪しいくらいである。そんな彼の心境も知らず、ロッカは彼の肩に手を当て話し続けた。


「カイル、何故儂がすべてを明かしたのか分かるな?それだけお前を信用しとるということだ。お前の勤勉さは買っておる。ここで消すには惜しい働き者だと思っておる。もし良ければ、今夜のことはすべて胸の中に仕舞いこんでまた明日から何事もなかったように働いてはくれぬか?」

「………はい」


 そこに彼の意識が本当に存在していたのかわからないほどに弱々しく抑揚のない返事。おれでもロッカはそれで受け入れられたと思ったのか、満足気に椅子の方へと戻っていった。



 ―――その瞬間、背後の大男が背中に負った剣を立ち尽くすカイルめがけて振り下ろした



 いつぞやの猛獣同様の右袈裟斬り。2メートルの熊めいた生き物を両断するほどの一撃である、普通の人間が受ければどうなるか。右肩から左脇腹にかけての部位がミンチ状にすり潰されたかのようにべちゃりと溢れ、胴体とのジョイント部分を失った右腕が剣圧を受けあらぬ方向にすっ飛んでいった。一呼吸の後斜めの上半身が崩れ落ち、続いて下半身も膝をつき倒れる。あまりの衝撃かつ急な出来事に、ゲックスとロッカも驚きを隠せないでいた。


「よう、危ないところだったな会長さんよ。」

「い…一体どうしたというのかねゴリアテ!?まさか刃物でも隠し持って…」

「いや、そういう隠し武器で狙っていたなんてことはねえよ。ただあのまま帰していたらきっと州衛士か、最悪州議会にタレこまれてたぜ。」

「馬鹿な!さっきの『はい』の言葉が聞こえなかったのか!?やたらと信心深いこいつにウソを付くなどという真似が―――」

「俺が今まで殺してきた中での経験則だがね、極まって信心深いやつってのは追い詰められると逆にウソが付けちまうもんなんだよ。神のため善行のための一時しのぎのウソがな。」


 ゴリアテの言う理屈が正しいのか、放心状態だったカイルにそのような判断ができたのか、今となっては知る由もない。しかし信頼厚い男がそれらしいことを言っているとなれば、信じてしまうというのが人の心の構造というものであろう。途端に騙された気がしてきたロッカは、先程まで勤勉さを褒めていた男の死体を憎々しげに足蹴にしていた。


「この痴れ者め!身寄りもない貴様を拾ってやった恩人に!このっ!このっ!」

「それで、派手に殺っちまったわけだがこの死体はどうしたもんかね。夜の深いうちに町外れにでも埋めちまおうか?」


 剣についた血を拭きながら問いかけるゴリアテに、ゲックスは笑いながら答えた。


「はっはっは、どうもまだ殺し屋の頃の習慣が抜けぬようですなゴリアテ殿。あなたは今やそのような無策な処理など必要のない立場なのですよ?よろしい、では後学のために、警察権力の使い方というものを私がご教授致そう。」





 翌朝、近衛師団は数日ぶりに州衛士の屯所を訪れていた。麻袋に詰められたカイルの遺体と共に。


「―――で、何故に我々がこの遺体の処理をせねばならんのですか?」

「じきに成り代わられるとはいえ、コソ泥の対処はまだ貴殿らの仕事の範疇の筈であろう?我々の停泊地で起きた狼藉ゆえこちらで処断したが、今の仕事に誇りを持っているというのならば、一から十まで我々任せになど出来ぬと思うが。」

「いやぁ、その…」


 建物の外を野次馬が囲む中、例によって組織の長同士の問答が繰り広げられている。


 ゲックスが語る事の仔細はこうだ。オヴァン商会の下働きの青年カイルは残業と偽って深夜まで会社に残り、隙を見て会社の金を奪って逃げるつもりだった。しかしたまたま見廻りをしていたゴリアテがこれを発見、当初は捕縛するつもりだったが予想外の抵抗を受けたためやむなく手打ちにした、という。


 つまりはカイルに犯罪者の汚名を着せて処理することであの夜の出来事を闇に葬らんとしているわけだが、よもやそのような裏があることなど州衛士も野次馬たちも知る由も無い。ベアもただ、両断された惨殺死体の処理という嫌がらせめいた要求を前にただただ頭を抱えるだけであった。



「あなた!?あなたなの!?」



 突如、人混みを割いてひとりの女性が屯所に押し入ってきた。そのまま一目散に麻袋めがけてカッ飛び素手でそれを破いて中を確認しようとしている。無論素手で破れるようなものではないが、その形相からはそのような冷静な判断ができそうにないということが伺い知れる。突然のことに周囲は呆気にとられたが、程なくして州衛士と近衛師団の手によって女は取り押さえられた。


「だ、誰ですかこの女は!?」

「すっ、すいませぇ~ん!はあ、やっと追いついた。えーっと、この方が身元引取人、つまりこの遺体の男の妻です。はあ…はあ…私の話の半分も聞かないうちに飛び出してきちゃって…あー疲れた…」


 後から駆け足でやってきた州衛士のひとりが説明する。そう彼女はカイルの妻シルカ、しかしつい昨日までの優しげな奥さんといった雰囲気とはまるで違っていた。一晩夫が帰らない不安と突然の訃報に心を蝕まれ、それが表情にも出ているかのようなやつれっぷり。彼女を取り押さえた衛士たちは数回深呼吸をさせ落ち着かせたあと、身元確認のため麻袋を開いて遺体の顔を見せる。幸か不幸か肩から下の惨状からは考えられないほど顔は原型を取り留めており、容易に自分の夫であると認識させることができた。


「ああ…カイル…本当にカイル…あなたなのね…」


 人目も憚らず、シルカは彼の上半身を抱きかかえ、声にならないような嗚咽を漏らした。どろりとした血が服や顔に付くにもかかわらず、である。その表情はみるみるうちに涙と血でまみれていった。


「近衛師団長様!?なんでうちの人がこんな目に…?」

「それはだな奥方殿、この者がオヴァン商会の金を盗み出そうとしていたところを見つけてな。我々も穏便に捕縛するつもりだったのだが予想外に抵抗さえたのでこう手打ちにせざるを得なかったのだよ。」


 カイルが盗みを働いた、この言葉に彼をよく知る配偶者の顔が瞬時に憤怒に染まった。


「嘘!!嘘よ!!あんなに信仰に厚かったあの人が泥棒なんて、会社のお金に手を出すなんてありえないわ!!」

「なあ奥さんよお、こんなこと言うのも何だが実際に斬った俺がその現場を見てるんだ。認めたくねぇだろうがこれが現実なんだよ。」

「嫌!絶対嘘よ!そんなのありえない!あなたたちが何か隠してるに違いないわ!!」

「こ、この女!言うに事欠いてこの第三近衛師団を疑るというのか!?」


 ゲックス、そしてゴリアテの事実説明(実際は嘘だが)に顔をぐちゃぐちゃにしながら食い下がるシルカ。そんな彼女の必死さとは対称的に野次馬たちの表情は冷淡だった。近衛師団の言い分にまさか裏があるとは思いもしない彼らにとって、その必死さは醜悪に見えたことだろう。「街一番の大剣士さまに対してなんて無礼な」「盗っ人の嫁のくせに猛々しいことこの上ない」そんなひそひそ話が彼女の耳に届かなかったのは幸運だったと言える。


 一方州衛士たちの中には彼女の言い分がわからないでもない者も多数いた。見廻りのときいつも窓口になる青年である、その人となりについてはわかっている。確かにあれほど信心深い人間が泥棒するとは思えない。確かにそうとはわかっていても、ただでさえ険悪な第三近衛師団との間に波風を起こしたくないという気持ちは如何ともし難く、皆一様にくちをつむいでいた。ただ一人を除いては―――


「確かに私にも疑問に思えることが多いっすねェ…」


 州衛士の集団の中の方から、ひときわ小さい男がモジャ毛を掻き毟りながら死体の方に歩み寄ってきた。


「べ、ベルモンドさん!?何やってるんですかあなたは!?」

「ほう、貴殿はいつぞやの…一体それはどういうことかな?」

「いえね、私ァついぞ昨日にこいつから話を聞いてましてね。何でも結婚記念に指輪を作ってもらってるって言うじゃないですか。あ、町外れのハーフリングのアクセサリ屋ですから、嘘と思うんならソイツに確かめて下さいよ。ともかく、そんなもん作る経済的余裕のある人間が今更泥棒なんてしますかねェ?」


 明らかにいつもの職場のマシューの姿ではなかった。言葉の端々には職場の話し方ではない、ギリィや神父と話している時のような荒げた語調が混じる。いつもなら怠惰感を漂わせるタレ目からも、やる気とは違う何かしらの意志力を感じさせる鈍色の輝きを放っていた。これは先日醜態を晒した州衛士と本当に同一人物なのか?そんな得体の知れない雰囲気にさしもの近衛師団も気圧される。


「か、金ならいくらあっても欲しくなるものであろう!その程度の根拠で我々を疑うとは!」

「それに!こいつの死体をもう一遍よく見て下さい。暴れたから手打ちにせざるを得なかったって割には刀傷以外は打撲痕も擦り傷も無くて綺麗過ぎやしませんかねぇ?あと太刀筋、どう見たって後ろから切りつけてる。情況証拠をまとめりゃァ、金庫漁ってるこいつの背後に忍び寄って問答無用で切りつけたってことにしか見えねェんですが―――」



 ゴッ



 左頬に何かしらの巨塊がぶつかりマシューの話は物理的に遮られた。ゴリアテの左裏拳である。その勢いのまま小枝のようなか細い体が宙を舞い、壁にしたたかに叩きつけられた。


「よう兄ちゃん、名推理してるところ悪いんだが、証拠はあんのかよ?」


 吹き飛ばし倒れた男に詰めより、ゴリアテは威圧的な態度で睨みつけた。最早近衛騎士としての体裁を取り繕う気のない、恐らくこれが彼の殺し屋としての姿の片鱗なのだろう。その威圧感に州衛士たちはおろか、同僚の近衛師団やファンであるはずの野次馬たちまでもがたじろぐ。


「いいか?証拠も力もねえ癖にいっちょ前に主張してんじゃねーよクソが。ああ気分悪い!俺はもう帰りますぜ!」

「お…おう!では我々もこのへんで失礼させていただこうか!ベア殿!遺体の処理は任せたからな!」


 外に出た大男は不機嫌そうに肩を鳴らしながら歩き去っていった。近衛師団達もそれに続く。そんな一団の姿を見送った野次馬たちもぽつぽつと去り始め、後には州衛士とシルカ、そしてカイルの遺体のみが残されていた。そして程なくしてシルカも、呼びに来た衛士に手を引かれ家路につくのだった。


「ベルモンドさん。」


 腫れた左頬を擦りながらなんとか起き上がると、聞き慣れた甲高い声に呼び止められた。恐る恐る声のする方を見やると、ベアがびろうな顔でこちらを見つめている。


「あなたの追及、個人的には溜飲が多少下がりました。その点については感謝します。でもですね、関係が緊張している相手にああいう挑発のほうな発言は組織の長としては見逃せません。明日までに反省文おねがいしますね。それにその左頬も自業自得ですから、よーく覚えておいてくださいね。」

「は、はい…」


 いつもの嫌味と説教。でも思いの外いつものようなトゲはなかった。彼もまた、ただの威張りんぼうなだけの上司ではないのだ。安堵と、ある種の肩透かし感を覚えながら、マシューは先ほどの己の行為を回想する。



(あれしきのことでスイッチ入っちまうようじゃ、俺もまだまだだな…)



 その日家に帰ると脹れた頬を見たメイドたちがてんやわんやでもう一騒動あったのだが、それはまた、別の話―――


「ゴリアテ殿どうかなされたのか?あのような小者に心乱されて。それにあの態度、折角積み上げたイメージが崩れたらどうする。」

「ああ、今後は気をつける…」


 近衛師団とともに帰路につくゴリアテもまた己の行動に違和感を覚えていた。あの程度の相手にムキになりすぎだし、あの裏拳も小枝のような華奢な男に見舞うには明らかに力が入りすぎた。


 おそらくあの目だ。あの目の底知れぬ黒い光が俺を苛立たせたのだ。いや本当に苛立ちだけだったのであろうか―――その答えを知るのはまた後日のことである。





 日を置いて翌日、カイルの葬儀が丘の上の教会で行われた。

 窃盗を働いた仲間を弔う気はない、義理があっても会長の心象悪化を恐れて職場の同僚はほとんど顔を見せていない。州衛士隊もまた第三近衛師団との軋轢を恐れ、既に印象が悪いであろうマシュー一人を代表として送り出すに留まった。結果葬儀に出席したのは妻とその一族数人、ご近所さん、そしてマシューと仕事の以来を受けていたギリィだけという、曇天も相まって故人の人望の割には寂しい葬儀となっていた。


「何があったかは知らねぇけどよぉ…俺の仕事が終わるまで待てなかったのかよぉ…あんなに楽しみにしてくれてたってのによぉ…」


 ギリィは献花の代わりに美しく仕上がった指輪を遺体の上に乗せる。恐らく昨日に訃報を聞いて急ピッチで完成させたのだろう。悲嘆に暮れる彼の表情から徹夜の後が見て取れた。翻りもうひとつの指輪を彼の妻に手渡すも、シルカは死んだ魚のような目でそれを見つめるだけであった。昨日と比べ随分と落ち着いている、いや、最早泣き疲れて頭も働かないのだろう。


 式次第は滞り無く進み、神父の送りの言葉のあと墓穴に土が被せられ、その上に簡素な墓碑が打ち立てられた。かくして彼の御霊は天へと旅立ったということだ。参列者は神父に一礼し、皆足早に帰っていった。およそ全員が去っていったあたりで雨が降り出す。微妙に帰りそびれたマシューは教会で雨宿りをすることになった。


「聞きましたよ。その怪我、近衛師団につっかかって付けられたと。」


 茶器を持った神父が、ぼけーっと腰掛けるマシューに話しかける。茶器をテーブルに置きポットにお湯を注ぐと茶の香りがふわっと広がり、半ば放心状態だったマシューの精神をこちら側に引き戻した。


「アンタの耳にも入ってたか。いやァ、ザマァねえよな。ギリィの野郎にもっと慎重にやれって言ったそばから手前ェはあんなことでついカッとなっちまうとはなァ…」

「まあ確かに軽率だったと言えるかもしれませんね。」


 神父はカップ2つに茶を注ぐ。片方をマシューに差し出すと、自分はもう一方を手に取り鼻の前でくゆらせながら香りを楽しんでから一口味わった。


「しかしその理不尽に対する怒りは人間としては当然のものです。確かに日陰に徹し目立たず波風立てず生きていくことが私達に大切だということは疑いありません。しかし、いかな『仕事』にあろうともその感情だけは忘れてはならない、私は常々そう思っていますよ。」

「慰めでもそう言ってもらえると助からァ…」


 雨がやんだのは夜半過ぎを回った頃だった。





 あれから更に3日が過ぎた。


「主様~、お口の中もう滲みたりしてませんか~?」

「ああ、もう大丈夫だって。さすがに3日も経ったんだから。」


 朝食と食べるマシューを見つめながらフィアナが心配そうに声をかける。殴られて口の中も切れたとあって、あの日以来食事場ずっとパン粥が続いている。誰にも秘密いしているが、マシューは昔からフィアナの作るパン粥がどんな贅沢な食事よりも大好きだった。取り置きのパンが固くなった時ぐらいしか食べられないので今の状況は災い転じて福となったとも言える。まあさすがにそろそろ噛みごたえのあるものも恋しくなってはいるが。


「あ、待ってくださいな。お勤めの前にガーゼ替えておかないと。」


 食事を終えると今度はフィアラが薬箱を片手にやってきた。頬に一晩張り付いていたガーゼをはがすと、まだ青みがかった患部が現れる。それを確認するとフィアラは腫れ止めの膏薬を手に取り、優しく塗りつけた。


「まったくこんなにして。歯や骨が無事だったのはいいにしても。だから言わんこっちゃないですか、弱いんだから無茶はするもんじゃないって。」

「あーはいはいわかってるって!耳にタコだって!お前らにお給金払わにゃイカンからな、俺もなー!」

「…お金だけの問題じゃないわよ、バカ主。」


 ふと薬を塗る手が止まり、軽くうつむきながらフィアラが搾り出すような小声で呟いた。何かと思いマシューがそちらを振り向くも、先程の言葉も聞こえなかったし俯いたままでは前髪に隠れて表情も窺い知れない。


「あーもう!何でもありません!さあさあ急いだ急いだ!もう出ないと遅刻ですよ!」


 と、次の瞬間フィアラは顔を赤くしながらいそいそとガーゼを貼り付けた。そしてそんなメイドに押し出されるように、マシューは足早に出勤するのだった。




(結局、なにもかも元通りになってるんだよな…)


 午前の見回りをサボり、川の堤に座りぼーっと空を見上げながらマシューは思った。最早街の人で三日前の事件を話題にする者はいない。誰もが今日の仕事がどうだの親がどうだの嫁がどうだのと他愛のない日常の会話をしている。オヴァン商会も何一つ変わることなく今日も今日とて忙しそうに人が出入りしているし、第三近衛師団も偉そうに街を闊歩している。ゴリアテも一時は怪訝な目で見られることもあったが、今では再び街一番の剣士として羨望の的。シルカは最愛の人の死というショックに加え「泥棒の嫁」という風評に耐えかねていつしか街から姿を消していた。無論そのことを気にかける人はもう居ない。変わったことがあるとすれば家のメイドたちの風当たりが少し優しくなった程度だ。


 世の中そう簡単に変わるわけがない。まして木っ端役人である自分の力で変わるなどとてもとでも。そんなことわかりきっていたはずなのに、何故か妙に悔しくて煮え切らない。マシューは深い溜息をつきそのまま寝転んだ。春の風は頬を撫でる。




「………WORKMANの依頼が入った。今夜教会に集合―――」




 ふと、風に乗って声が聞こえた。あるいは聞き逃してしまいそうなごく小さな声。跳ね起きて堤を駆け上がり、川沿いの道を見回す。辺りには一人しか居ない。何事もなかったかのように歩き去る、黒髪耳長のシスターだけ。一瞬血液が逆流するような動悸が走り、それが収まると自分でも恐ろしいまでに心が落ち着いていた。




 ―――世の中は変わらないし変えられない

 自分にできることは、尽きせぬ恨みを晴らすことだけ―――


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